穴の中 [1,963文字]※ホラー

 回る扇風機、生暖かい風。

 蚊取り線香の匂い、ひぐらしの声。


 雨戸も窓も開け放した縁側に寝転んで、水の張ったタライに足を突っ込む。

 既に氷は溶けて、水は生ぬるい。

 それでも濡れた足を風が撫でればそれなりに涼しくて、畳の方へ水を飛ばさないように気を付けながら、左足をぷらぷらと振った。


 ここに帰ってきたのはいつぶりだっただろうか。

 もう身体はこれ以上の成長を望めないくらいに大きくなったのに、こうして寝転んでいると、幼い子供なのではないかと思えてくる。

 

 目を瞑り、チカチカと蚊の飛ぶような光を瞼の裏に見ながら、私の思考は小学生に戻っていった。


 虫かごを肩からぶらさげ、網を持って毎日のように山へ行っていたあの頃。


 脳内にはっきりと浮かび上がる山道を駆け上りながら、木々の間にぽっかりと空いた穴を不思議に思った。

 私の記憶の欠落かと思ったけれど、それにしてはあまりにもはっきりとした穴だったし、さらに言えばその穴は一つではなかった。

 いくつもの黒い丸が浮かぶ山中は、深い緑と差し込む日光に照らされて、どうにもちぐはぐな印象を私に与えた。


「かんちゃーん」


 同級生の、声。

 あれは確か、純太だったか。


「かんちゃーん」

「かんちゃーん」

「かんちゃーん」


 智子の声、六郎の声、文枝の声。

 すぐに顔と名前が浮かぶほどに、その声は鮮明で、私の記憶力もなかなかのものだと。

 そう思って視線を声のする方へ巡らせた瞬間、私の思考は固まった。


 丸の中に、暗闇の中に、八つの眼球が浮かんでいた。


 ぎょろぎょろと周囲を見回す眼球たちの動きはバラバラで、穴の中に四人がいるとも思えぬ動きをしていた。

 それが私のことを呼んでいるということ、私を私と認識しているということ、私の友人であった者たちの存在を利用していること。

 何もかもが恐ろしく、私は目を開けようとした。

 実家の縁側に戻ろうとした。

 それなのに、目を開けた私の目に飛び込んできたのは緑、緑、緑だった。


 どうして、ここに。


 私は山中にいて、周囲には、穴、穴は、一つだけを残して消えていた。


「かんちゃぁぁぁあああぁぁん」


 高音も低音も入り混じった声が私の名前を叫ぶ。

 穴から筋張った皮ばかりの細腕が伸び、私を探しているように左右に揺れた。


「あ、あぁぁ、あっ、ああああ、かっ、かかか、かんちゃ、ちゃあああああんんんん」


 どこに逃げたらいいかも分からなくて、迫ってくる穴から伸びた手が尻餅をついた私の膝に触れて、私は。




---




「あ、気付きました! 先生!」


 白い天井、消毒液の匂い、複数人のざわめき。


 私はいつの間にか、病院へと運ばれていたらしい。

 “先生”が説明するところによれば、山の麓で倒れていた私を、通りがかった村人が発見したらしかった。


「誰ですか? 帰ったらお礼をしないと」


「えーと……誰だったかな。キミ、覚えてる?」


 話を振られた若い看護師は、少し動揺したのち、覚えていませんと小さな声で謝罪した。

 私をここまで運んできたらしい村人の名前は、ついぞ分からなかった。


 私の身体には擦り傷が至るところに出来てはいたものの、それだけだった。

 消毒液の匂いを漂わせながらお金を払い、病院を出る。

 待合室で名前を呼ばれるのを待つ間、どうにも患者たちの視線が痛かった。

 どうしてそんなに私を見るのだろうと思っていたが、入り口のガラスに映った私はあまりにもボロボロで、注目を浴びるのも致し方なしと納得した。


 思ったよりも財布の中身は軽くならなかったので、私はタクシーを呼んだ。

 ここから実家までは、歩くには遠すぎたからだ。

 タクシーを待つ間、私はガラスに映る自分と会話を楽しんだ。


 少ししてタクシーが病院の前に到着する頃にはすっかりもう一人の私と意気投合していた。

 まるで双子のような、生き別れの兄弟のような、私は私だから、それは至極当然のことなのだけれど。


「お客さん、どちらまで」


「××××まで」


「あんなところに何の用です?」


「私の実家なんです」


「あ、はは、そうでしたか……でも、あんなとこに家なんて残ってたかなぁ」


「え?」


「いや、気を悪くされないでくださいよ? あそこ今、廃村になってたと思うんです……」


「廃村?」


「はい。まぁ、でも近くまで行ってみますよ。ここからすぐですし」


「ありがとうございます」


 廃村とはどういうことだろう。

 だって私は、実家にいて、縁側に寝転んでいて、水の張ったタライに足を突っ込んで、扇風機の風を浴びて、それで、それで、それで。


 それは、いつの、話だっけ?


 タクシーの中で視界が揺れる。

 両の目がまるで別物のようにぐるぐるとせわしなく、タクシーの運転手、窓の外の景色、山の中、木々の隙間、あれは、私?


「ぁんちゃーーーーーーーん」

「かんちゃーーーーーーーん」

「こっち」

「こっちだよ」

「ここにきて」

「ここにいて」


 ああ、そうか。

 私は、私の目は、私の腕は、私の魂は。

 もう。


 穴の、中なのか。

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