押入れの中の人 [3,478文字]※ホラー

「こう暑くちゃ押入れの中の人が可哀想だねぇ」


 祖母がそう言った。


 確かにここ数日の暑さは異常だ。

 家族の集まるリビングには冷房を入れていたが、それ以外の部屋は基本的に暑いままで。

 電気代が高いとぼやく母親の方針で、しかしリビングは涼しいのだから充分だろうと、そういう事になっていた。


 祖母の言う押入れは、今祖母の寝室として使用している和室にある。

 夜、祖母が就寝する三十分前に窓が閉められ冷房が入れられるが、それ以外の時間はただ窓が開き、カーテンが閉められているだけだった。

 その為、祖母はそんな事を言いだしたのだろう。

 だが、当然押入れに人などいない。


 祖母は最近認知症と診断され、投薬を続けていた。

 また別の世界に行ってしまった。

 そう思った。


 祖母は良く、現実と異なる世界に生きる。

 私たちの見ている世界と全く異なる世界を見ている祖母が、時折怖くなる事も正直、ある。

 今回祖母に見えている世界も、そうだった。

 私が何も答えないからか、祖母はずっと押入れの中の人を心配している。

 今、家には私と祖母しかいない。

 父も母も仕事へ行ってしまって、夏休み中の私だけが祖母の話を聞いていた。


 私は観念し、コップに入れた麦茶に氷を数個落としてそれを祖母に見せた。


「これ、置いてくるから、大丈夫」


 祖母はうんうんと何度も頷いている。

 張り付いたような笑顔をずっと見ている気にはなれなくて、私は足早にリビングを後にした。

 リビングから廊下に続く扉を開けると、それだけで不快な生温い空気が身体を包み込む。

 ねっとりとした空気の壁を感じながら、廊下を進んだ。


 和室は一階の一番奥にある。

 庭に面していて良く虫が入ってくる為に、網戸が厳重に閉められ、虫除け製品がぶら下げられていた。


 和室に入って右手、押入れは閉まっている。

 背中にじわりと汗が浮かぶのを感じながら、押入れを開けた。


 誰も、いない。


 当たり前だ。

 いる訳がない。


 私は押入れの前に麦茶を置いた。


 馬鹿馬鹿しい。

 そう思った。


 祖母の言うことなど無視していればいいのに。

 父も母も、祖母の支離滅裂な発言に対しては無視を決め込んでいた。

 否定することもなかったが、しかし肯定もしなかった。

 ともすれば一番悲しい事かもしれなかった。

 無視をする、というのは。

 そんな風に感じていたから、私自身は祖母を無視出来なかった。


 麦茶も置いた。

 早く冷房の効いたリビングに戻ろう。


 カランカラン、ごくん。


 反射的に身体の動きが止まる。

 先程までとは異なる汗が、一気に吹き出したのを感じた。


 今の音は、なんだ?


 コップを見る。 麦茶が、無くなっている。

 麦茶だけじゃない、氷も。

 空っぽになったコップが床に転がっていた。


 サァッと、血の気が引くのが分かる。倒れそうになりながらコップを手に取った。

 右を見たら、押入れが、開いている。


 何が。

 誰が。

 そこにいるのか。

 見たくない。

 見たくない。

 見たくない。


 押入れの中には、誰も、いなかった。


 当たり前だ。

 当たり前、なのだ、けれど。


 それならこの空っぽになったコップは?

 どうして麦茶も氷も消えたの?


 畳まれて、重なった布団の奥の暗闇から、今にも何かが飛び出してきそうで、私は押入れから目を背けた。

 そして早足で和室を出て、戸を閉める。


 ドンッ


 閉めた戸が、内側から思い切り叩かれた。

 ひゅっと息を呑む。


 次の瞬間には走り出していた。

 叩く音が聞こえたのは一度きりだった。

 けれどそんな事は結果論でしかなくて、頭の中ではその一度きりの音が延々とリフレインしていた。


 リビングの扉を勢いよく開け、もう殆ど転びそうになりながらその扉を閉めた。

 和室の戸は閉まっていた。

 音も、聞こえなかった。


「押入れの中の人は麦茶飲んでくれたかい」


 答えられなかった。

 何も。


 祖母は押入れの中の人が見えているのだろうか。

 私には見えない人を。

 祖母はあの部屋で寝ているのだ、毎晩。

 何かがいるに違いない、あの部屋で。


 無理だ。


 もう、祖母の話す事をまともに聞いていられない。

 祖母に背を向け、ソファに座り、イヤホンを耳に突っ込んで音楽を流す。

 父でも、母でも、どちらでもいいから早く帰ってきてほしいと、祈るように目を閉じた。


 どれほどそうしていただろう。

 お気に入りのバンドの歌がかれこれ10曲は流れただろうか。

 無視する事を決めたとはいえ、やはり祖母の行動は気にしていなくてはならないと、思う。

 何をするか分からない状態ではあるのだから。

 私は祖母の方を振り返りながら、右耳のイヤホンを外した。


「押入れの中の人は麦茶飲んでくれたかい」

「押入れの中の人は麦茶飲んでくれたかい」

「押入れの中の人は麦茶飲んでくれたかい」

「押入れの中の人は麦茶飲んでくれたかい」

「押入れの中の人は麦茶飲んでくれたかい」

「押入れの中の人は麦茶飲んでくれたかい」


 私はリビングから飛び出した。

 耳から抜けたイヤホンと音楽プレーヤーが床に転がる。


 玄関先に置いてある鍵を引っ掴み、サンダルを履いて家を出た。


 両親に怒られようが、もうこれ以上祖母と二人きりでは居られない。

 私は近くのコンビニに入り、母からどこにいるのと電話がかかってくるまでそこにいた。


 帰りたくなかったけれど、帰らない訳にはいかない。


 家に帰ると母から、何故祖母を家に一人きりにしたのかと責められたが、今は私が夏休みだから家にいるだけであって、祖母の面倒を見るために家にいるのではないと、やや強めの言葉で返してしまった。

 祖母が怖い、とは、言えなかった。


 夕食の支度をしている時も、夕食の最中も、そしてその後の団欒の間も、祖母は時折押入れの中の人を気にした。

 父も、母も、相手にしなかった。

 いつもは何かしらの相槌を返す私が無言でいる事に両親とも少し疑問を持ったようだったが、だからといって注意されるような事はなかった。


 私は個人で部屋を貰っていたが、冷房の効いた部屋で眠る為には両親の寝室に行かねばならなかった。

 普段はこの歳になって親と寝る事に不満を抱いていた。

 だが、今は一緒に寝て欲しいと言わずに済んで良かったと、思った。


 一人で寝るのが怖い、なんて。

 幼少の頃にも思った事はなかったのに。

 だが、怖いものは怖い。

 祖母も怖いが、押入れの中にいるらしい何かが恐ろしかった。


 私の部屋も、両親の寝室も、二階にある。

 祖母は二階には上がれなくなっていたから、少し安心した。


 いつもより大分早く、私は眠りに就いた。

 眠れば朝になる。

 夜を、暗闇を、飛び越えてしまいたかったのだ。


 それなのに、私は目覚めてしまった。

 誤魔化しきれない尿意が、私の睡眠を妨げたのだった。

 仕方ない、布団から身体を起こし、父の姿が見えない事に気付く。


 厭な予感がした。

 そしてその予感は的中した。


 父が、二階のお手洗いに入っていたのだ。


 コンコン


「すまん……お腹が痛くて……」


 父の情けない声が返ってきた。

 最悪だ。


 私の尿意は父がお手洗いから出てくるのを待てそうになかった。

 両の脚を交差させながら、何度も足踏みをする。


 少し待ってはみたものの、やはり父は出てこなかった。


 もう一つのお手洗いは、一階にある。

 問題は、階段を降り、お手洗いに向かう時、正面に和室がある事だった。


 だが、戸は閉まっている筈だ。

 冷房を入れているのだから。


 階段の電気を点けて、深呼吸を一つ。二つ。

 三つ目、大きく息を吸い込んで、そのまま止める。

 俯いたまま階段を駆け降りて、お手洗いの電気を点け、戸を開けた。


 何もいない。

 居てたまるものか。


 口から飛び出そうな程に脈打つ心臓を押さえながら、用を足した。

 水を流し、手を洗う。

 まだ心臓は煩かったが、しかし幾分か落ち着いていた。

 用を足せた事で少し気が抜けたのだろ思う。


 私はお手洗いの戸を開けて、そして一瞬、時が止まった。


「麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶麦茶もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと」


 白目を剥いた祖母が、そこにいた。


 私はそこで意識を手放した。

 翌日の早朝、母の慌てた声が、何度も私の名を呼んでいた。

 心配した母に病院へ連れて行かれたが、私の身体には何の問題もなかった。

 仕事を休んだ母と共に家に帰ると、祖母がリビングで麦茶を飲んでいた。


 家から通える距離の大学を受験する予定だった私は進路を変更し、卒業式の次の日には家を出た。

 その頃にはもう祖母はあまり言葉を発さなくなっていたが、それでも度々麦茶を求めた。


 あの日、あの時、麦茶を持って行った事は、間違いだったのかもしれない。

 今でも祖母は、押入れの中の人は、麦茶を飲んでいるのだろうか。


 祖母が亡くなっても、私はあの家には、帰らないと決めている。

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