母 [1,374文字]

 母は、死んでいる。


 正確には母ではない。

 誰なのかも知らない。

 私が手を叩くと現れ、私の用事が済むと消えてしまう。


 母は物を浮かせる事が出来た。

 私にも出来るのだと思っていた時期もあった。

 どこからか調達してきた水と食料で、私は問題なく成長している。


 学校には行っていない。

 私はこの誰もいないアパートの一室から、出る事が出来ない。

 恐らく母が何らかの影響を与えているのだと思う。

 何度かこのアパートに人間が来た事があったが、私の事を見付けた人間はいない。


 私の知識はもっぱら、部屋の中に放られた本から得た物だ。

 昔はひらがなの本が殆どだったが徐々に漢字混じりの本に変わり、今では内容まで難解な物になっているから、母が選別して置いているのだろう。


 母との意思疎通はあまり出来ない。

 母は喋らないからだ。


 表情も分からない。

 というより母の身体はよく人型を保っていられるなと思う程に崩れかけている。


 最初に母の姿を認識した時は今ほど酷い外見はしていなかったように思うのだが、徐々に崩れ、あるときその崩壊が止まった。

 顎の骨がカチカチと音を立てているように感じる事はあるし、時折首を縦に振ったり横に振ったりする事はあるため、私に何かを伝える気があるのだな、という事は分かる。

 母の伝えたい何かが、私に理解出来たと確信する事は殆どないのだが。


 ある時、机の上に一冊の本が置いてあった。

 今までは本はただ部屋に散らばっているだけだったので、きっと何か特別な意味があるのだろうと思っていつになく真剣に読んだ。


 その本は、母親だと思っていた女が実は母親ではなく、本当の母親が別に居るのだと分かった主人公の話だった。


 読み終わって、私は母に尋ねた。

 貴方は、私の本当のお母さんですか、と。


 その頃には自分と母親のあまりに多くの相違点について考えるようになっていたから、母が小さく首を振ったのを見て納得したものだった。

 不思議と、本当の母親を捜したいという気持ちにはならなかったが。


 私は物語の主人公にはなれないのだな、と思った。


 母は、季節が一巡する度に壁に傷を付けた。

 そして壁に傷を付ける日には、決まって普段は出ない食べ物が出てきた。


 私はそれを、誕生日だと理解した。

 母が私を祝ってくれているのだと。


 壁の正の字が四つになった日、母は朝ご飯を用意してくれなかった。

 台所へ向かおうと足を進めると、今まで一度も開かれていなかった玄関の扉が開いているのが目に入った。


 私は初めて、外に出た。


 足は自然と階段を上っていた。

 高いところから、周りを見たかったのかもしれない。


 屋上へ繋がる鉄の扉に鍵はかかっていなかった。

 屋上から見える景色は、なんだか本を通して見ているようで、現実味がなかった。

 木がたくさんあって、同じような建物が何個もあって、私の本当の家はどこにあるのだろうとぼんやり考えた。


 ぐるりと周囲を見渡して、大きな貯水槽が目に入った。

 予感がした。

 私は貯水槽に上り、そして大きな蓋を開けた。

 中には見慣れたカーディガンと、長い黒髪。

 母の本当の身体は、ここにあったのだ。

 私はゆっくりと蓋を閉め、そして家に戻った。


 母の姿は無く、呼んでも現れなかった。


 本の散らかった部屋で、また机の上に本が置いてあった。

 机の上の二冊の本は開かれていて、そのページの台詞の中に『ごめんなさい』と『ありがとう』があった。


 私はその二冊の本を手に持って。


 家を、出た。

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