無限の宇宙と六畳一間 [1,247文字]

 通勤ラッシュの月曜日。私は人の流れに乗って目的のホームまでをただ真っ直ぐに歩く。


 人の流れはもう完全に出来上がっていて、テレビでよく見る渋谷のスクランブル交差点みたいにぐちゃぐちゃじゃあない。

 右と、左。それはまるで兵隊のように。それはまるでベルトコンベアのように。

 私は私という存在を一つの人間パーツとして認識するのだった。


 時々流れに逆らう人が出てきて、肩と肩がぶつかり合っては舌打ちが聞こえる。

 小さくなったのに大きくなった、片手に収まりきらない携帯電話に夢中の人は流れに乗らない。

 流れに敢えて逆らうように両肩を怒らせて進んでくる人もいる。自分からぶつかってきたくせに、こっちに舌打ちしてくる人。


 死ねばいいのに。


 流れに乗れない人間パーツは必要ない。世の中にとって必要のない物だ。


 私は今日も常識ルールに則って電車に乗り込む。

 最近出来た新しい常識ルールの通り身体の前にリュックをぶら下げて、私は。

 かろうじて自由のきく右手で携帯電話を操作する。

 電子書籍のアプリを立ち上げて、昨日買った文庫本を表示した。


 ただの文字情報なのに、人間の想像力とは素晴らしい。

 数個の文字の塊だけで、行ったことも見たこともない場所へと飛べるのだから。


 あぁ、羨ましい、妬ましい。

 私をどこへなりと連れて行ってくれるこの文字列が羨ましい、妬ましい。


 どうして私には、同じことが出来ないのだろう。


 電車の揺れに耐え切れず、私にぶつかる女性がいる。彼女のその申し訳なさそうに寄せられた眉間の皺の間には何が詰まっているのか。


 私は、私には、何もない。

 割られずに周りを囲ったままの殻すらない。卵は産まれた時に割ったのだ、割って尚、これなのだ。

 手のひらの中の無限の宇宙を生み出したいと願いながら、六畳一間の古ぼけたアパートにすらなれない。


 昨日も今日も明日も明後日も、私以外の名前が本屋に並ぶ。私以外の名前がダウンロードされる。私以外の名前が話題に挙がって、私以外の名前が、私以外の名前が。


 聞きたくもない駅名が告げられ、私は電車からも吐き出される。

 私は人間パーツ、私は人間パーツだ。


 真っ直ぐに前を向き、真っ直ぐに灰色のビル群を見つめる人々にながされて私は今日も飲み込まれていく。


 人間パーツ人間パーツたらしめる会社工場に、飲み込まれていく。


 その中にいたって、何をしていたって、私の中の無限の宇宙は今日も膨張を続けているのに、それなのにどうして私は六畳一間から出られずにいるのだろう。


 人間パーツではダメなのだ。人間でないと。


 あぁ、人間になりたい。人間になりたい。


 どうやって人間になればいいのかも分からぬまま、時は過ぎていく。

 砂時計の砂は戻ってはくれない。砂がどれほど残されているかも分からない。


 何もかも分からないことだらけで、唯一分かっていることは私の頭の中の宇宙はこれからもどこまでも膨張を続けるということだけ。


 人間になることを諦めさせてくれない宇宙が、どこまでも膨張を続けるということだけ。


 終業のベルが鳴り響き、眉間に皺すら寄せない人々が帰路に就く。


 私もまた、電車に咀嚼されながら帰るのだ。


 六畳一間へ帰るのだ。

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