伍 部室 DE MEETING(四)

「――ふーっ……今日もいろいろ大変だったなあ……」


 呪術部の皆と別れた後、真奈は一昨日昨日に引き続き、やはり今日も夜の美術室へと足を向けていた。


 これで部活の後に美術室へ行くのも三日目かあ……なんか、こう毎日行ってると、部活の後にもう一つ部活をしてるみたいな感じだな……ま、あたしとしては、むしろこっちの方を正式な部活にしたいんだけどねえ……そう、あんないかがわしい奇人変人の集まりとは違う、あたしの本当の部活はこれから始まるのだあ!


「……エヘ、先輩と二人きりのムフフな部活動がね♪」


 真奈はスキップしながら薄暗い廊下を通り抜けると、いつもの美術室の前へ辿り着く。


 トン、トン…。


「失礼しまーす!」


 そして、ノックの返事を聞くのも待ち切れず、胸を高鳴らせながら美術室の引き戸を勢いよく開いた。


 美術室の中には、今日も変わらずに狩野がいる。だが、今日はそれまでと違い、椅子に座って絵を描いているのではなく、少し離れた所に立って自分の絵を眺めている。


「ああ、宮本さん」


 狩野はガラッと戸の開く聞き慣れた音に、真奈の方を振り返った。


「いいところに来たね。ちょうど今、完成したところなんだ」


「あっ、ついに完成したんですね!」


 その報告に、真奈は目を輝かせて狩野の描いた絵の傍へと歩み寄る。


「はぁ……すごい」


 『山越阿弥陀図』を描いたその油絵は、昨日見た時よりもよりいっそう丁寧に油絵の具が塗り重ねられ、水彩の仏画の雰囲気を見事なまでに油絵の技法で表現していた。


「あっ! ……え、絵の完成、おめでとうございます!」


 思わず見惚れてしまっていた真奈は、慌てて祝いの言葉を述べるとともに畏まって狩野にお辞儀をする。


「ハハ、なんか変な挨拶だな。でもうれしいよ。ありがとう。そういえば、完成してからこの絵を見せるのは宮本さんが第一号だね」


「えっ? あ、あたしが初めてですか?」


 先輩が描き上げた絵を、この世界で一番初めに見られるだなんて……あたしって、なんて幸せ者なんだあ~!


 ……ああ、この身に余る栄誉に賜ったお礼をするにはどうしたら……え? あたし自身をプレゼントに欲しいんですか? ……イヤン。そんなあぁ…いくら先輩の頼みでもぉ、まーな、ハズカシイぃ……。


 それにあたし達、そういうことするにはまだ早いと思うしぃ……でもぉ、先輩がどうしてもって言うんならぁ、あたしもぉ、まだ誰にも見せたことのない自然のままのまーなをぉ、世界で一番初めに見せてあ・げ・る?


「――アアン。そんな焦らないでぇ……やっぱりこんなとこじゃ、ハズカシイぃ?」


 真奈はいつもの如く、妄想の世界にトリップすると一人勝手に盛り上がった。


「あ、あの、宮本さん? どうかしたの……?」


 そんな脳内妄想の世界で浮かれ騒ぐ真奈を、狩野は不気味そうに眺めている。


 ……あっ、でも、絵が完成しちゃったってことは、もう先輩、残って絵を描いていかないってこと? ……もしかして、もう二人きりでは会えないの?


 怯える狩野の視線を他所に、今度は真奈、いきなり独り落ち込む。


「こ、今度はいったいどうしたの?」


 真奈の一人芝居についてはいけず、ノーマルな狩野は大いに狼狽した。


「……あ、あの先輩…」


「あ、はい、な、何でしょう?」


 突然、淋しげな眼を向けて尋ねてくる真奈に、狩野は引きつった顔で後方へと仰け反る。


「……あの……もう、先輩は……部活の後、残って絵を描いていかないんですか?」


 さらに真奈は目をうるうると潤ませて、可憐な乙女の円らな瞳で狩野のことを見つめる。


「………………」


 狩野は、押し黙ったまま答えない。


 ……やっぱり……やっぱりもう、先輩と二人きりの部活はこれで終りなんだ……。


 その悲しい恋の結末の予感に、真奈の潤んだ瞳からは今にも涙が零れ落ちそうになった。


 ……しかし。


「……い、いや、まだ、もうしばらくは残って描いてくつもりだけど……」


「えっ?」


 真奈は涙目をまん丸くして、ポカンと口を開く。


 彼女の推測に反し、狩野はただ、真奈のおかしな雰囲気に飲まれてしまっていただけのようである。


「いや、一応コンクールに応募する作品は完成したけど、まだ応募の締め切りまでには日があるからね。もう一枚、別の絵を描いてみようかと思ってるんだ」


 その思いがけない狩野の言葉に、真奈の顔が一転、パアっと明るくなる。


 ……ハァ! …ってことは、これからも狩野先輩と二人っきりの部活が……。


「じゃ、じゃあ、これからもお邪魔してよろしいんですか?」


 それまでとは打って変わったハイテンションで、狩野の甘いマスクに肉迫するまでの近距離に真奈は詰め寄る。


「……あ、ああ、もちろんだよ」


 やったあぁぁーっ! あたしの恋&青春リタぁ~ンズっ!


 ちょっと引き気味の狩野の目と鼻の先でとびっきりの笑顔を浮かべると、真奈は心の中で小躍りした。頭上ではクス玉が割れ、金銀の紙吹雪も舞っている。


「あっ、そうだ! 先輩、ちょっと待っててくださいね!」


 そして、今度はそう告げるや、彼女は駆け足で美術室を飛び出して行く。


「えっ…?」


 後には、またも真奈の突飛な行動についていけない狩野一人が取り残されたのだったが、あまり間を置かずして、彼が我に返るよりも早く真奈は再び駆け足で戻って来る。


「…ハァ、ハァ……はい! 先輩。コンクール応募作の作成、お疲れさまでした」


 そう言って前に出された真奈の手には、一本の缶ジュースが握られていた。


 真奈は急いで校内にある自販機まで行って、飲み物を買ってまた帰って来たのである。


「ちょっと一息入れましょう!」


「あ、うん……」


 狩野は真奈の手から差し出された缶ジュースを受け取った。


 それから、それをしばらく見つめると、とても穏かな微笑みをその顔に浮かべる。


「あっ! もしかして、炭酸ダメでした?」


 飲まずに缶を見つめたままの狩野に、真奈が心配そうな顔で尋ねる。ちなみに缶ジュースの銘柄は「カフェオレ・ソーダ」という、ちょっとアレなものだ。


「あ、いや! そんなことないよ。ありがとう……そうだね。じゃ一息入れようか」


 そんな予測できない行動をとる真奈に、狩野はよりいっそう、優しげな笑みを浮かべて答えた――。




「――ところで先輩、次はどんな絵を描かれるんですか?」


 こうして真奈は、静かな夜の美術室で狩野と楽しくお茶をすることとなった。


「うーん、そうだねえ……今度は風景画に挑戦してみようかと思って。そうだ! 浮世絵の風景画をやってみたらおもしろいかもね。北斎とか、広重とか」


「え、浮世絵を油絵の具で描くんですか? それはおもしろそうですね!」


「そうでしょう? これは新しい試みになるよ」


「あっ、でも、浮世絵の油彩画って、もうゴッホとかが描いちゃってますよね?」


「あ、そうか! しまったあ~ゴッホに先を越されたか……そうかぁ……せっかくいいアイデアだと思ったんだけどなあ……僕の負けだ」


「クスっ…まあ、ゴッホと張り合っても……」


 真奈は、そんなゴッホと真剣に張り合う狩野をかわいいと思った。


「そ、そうだね、ゴッホが相手じゃ仕方ないか……ハハ…」


「クスっ…ウフフフフ…」


「アハ…アっハハハハ…」


 真奈が吹き出したのにつられ、狩野も思わず笑みを零す。二人は、お互いの笑顔を眺めながら、静かな夜の美術室に楽しげな笑い声を響かせた。


 だが、真奈が憧れの狩野とのそんなイイ感じのトークに花を咲かせていたその時。


 …っ?


 またである。またしても彼女は、背中に誰かの強い視線を感じたのだった。


「ハッ…!」


 真奈はすぐさま後を振り返る……だが、やはりそこには無機質な壁があるだけだ。


 ……何? なんなのいったい?


 一昨日、昨日、今日と、これでもう三度目である。もはや気のせいとは言えまい。


 真奈は念のため、ゆっくりと首を回して周囲も確認してみる……。


 しかし、当然、この部屋には真奈と狩野の2人以外には誰もいるはずがない。


 あるいはデッサン用の石膏像が見ているように感じただけかとも考えたが、今の実感をともなったあの視線は明らかにそんなものとは質が違う。


「どうしたの?」


 きょろきょろと部屋の中を見回す彼女の奇妙な行動に、訝しげな表情で狩野が尋ねた。


「……先輩、今、何か感じませんでしたか?」


 真奈は思い切って、狩野にも訊いてみることにする。


「え、感じる? 何が?」


 だが、今日も狩野はまったく先程の視線に気付いていない様子である。


「地震? いや、僕は別に何も……あ、もしかして、それって幽霊とかのこと? え、ひょっとして宮本さん、霊感とかそういうのあるの?」


 幽霊? ……え、もしかして、さっきの視線は霊のものだったの?


「へぇ~そういう能力があるんだあ。あ、そういえば、呪術部だもんね」


 そうか、先輩は何も感じなかったんだ……って、いかん! このままでは先輩にあたしがオカルト趣味の霊感少女だと思われてしまう。


 しかも幽霊だなんて嫌だし……さらにあの人達と同類だと思われるなんてもっと嫌だし……。


 ……そうだ。先輩も感じなかったんだから、きっと気のせいに違いない。そうだ。誰がなんと言おうと、絶ぇっ対い、気のせいだ!


「い、いえ、なんでもないんです! なんでも!」


 真奈は無理矢理、自分にそう言い聞かせると、両手を前に突き出してプルプルと振って見せる。


「そ、そう……なんだ。宮本さん、霊とか見えるのかと思って期待しちゃった」


「ま、まさかあ、そんな……あ、あたしはぜんぜん、そっち系じゃないですよお……ハ、ハハハ…」


 ……でも、本当に気のせいだったのかな?


 しかし、上辺だけはそう取り繕いつつも、やはり自分の心を騙すことはできず、真奈はなおもちらちらと、狩野に悟られぬよう周囲に目を配るのだった。


「さてと、そろそろ帰るかな。でも、その前にこの絵を美術準備室に運ばなくちゃあな。まだしばらく乾かしとかなきゃいけないからね。これまでは春休みだったし、一々出すの面倒臭いんで置きっ放しにさせてもらってたけど、これからは授業でも頻繁にここ使うだろうし、いい加減、邪魔だって怒られそうだからね」


 そんな彼女の努力が功を奏し、狩野はそれ以上追及することもなく、そう言うと自分の絵に近付いてイーゼルから持ち上げようとする。


「あ! あたし、手伝います」


 それを見て、真奈も視線のことは一旦忘れると、完成したての阿弥陀三尊の油絵をとなりの美術準備室まで一緒に運んで行った。


 油絵の具は乾くのに時間がかかるので、描き上がった後もしばらく置いておかなければならないのだ。


「フー……これでよしと。ごめんね、手伝わせちゃって」


「い、いえ、そんな。ぜんぜん構わないです。むしろ、お手伝いできてうれしいというか、これが後々、二人の初共同作業だったと披露宴で紹介されるのかなというか……」


「ありがとう。それじゃ、途中まで一緒に帰ろうか」


 最早、先程の視線のことなど頭にはなく、狩野との勝手な明るい未来を妄想して世迷い事を口走る真奈だったが、幸いその妄言が聞こえなかったのか? 彼はそれを無視すると意外な言葉を彼女に投げかける。


「え……?」


 その恋するすべての乙女が憧れるような台詞を聞くと、真奈は現実の世界に戻って目をパチクリとさせる。


「あ、そうだ。さっきのジュースのお礼に今度は僕が何か奢るよ。何がいい?」


「ハァ……はい! えっとですねえ…」


 思いもしなかったうれしいお誘いに、真奈はとびっきりの笑顔でそう答えると、狩野とともに帰り支度を始めた。

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