壱 美術部 NEXT TO THE DOOR(ニ)

「――ふう……落ち着いた。なんかトイレって落ち着くんだよね~」


 その頃、ハンカチで手を拭いながらトイレを出た真奈は、一息吐くと薄暗い廊下の先へと無邪気な視線を向けていた。


「さてと、んじゃ、行きますか」


 そして、気合を入れ直すかのように独り呟くと、再び廊下の奥目指して進んで行ったのであるが、そこで待っているはずの朋絵の姿はなぜかどこにも見当たらない。


「あれ? 朋絵どこ行っちゃったんだろ? 先に部室入っちゃったのかな?」


 見えぬ親友の姿にそう考えた真奈は、各部屋のドアにかかる表札を歩きながら見つめる。


「えっと……確か美術部は廊下の奥だって言ってたよね?」


 今、真奈が立っているのは奥から数えて四番目の部屋の前である。そこから奥へと順番に、歩きながら真奈は表札を確認してゆく。


「科学部……合唱部………術部…お、ここだ!」


 三つ目のドアの前で、真奈は美術部らしき表札を見つけた。


 それはかなりの年代物であり、書かれた部名が擦れて特に一文字目は読みづらくなっているが、確かに「~術部」という名称がそこには見て取れる。


「……よし」


 大きく頷いて覚悟を決めると、真奈はその部屋のドアを勢い勇んでノックした。


 トン、トン…。


「すみませーん!」


「はい。どーぞー」


 すると中からはちょっとやる気なさげだが、非常に耳触りのよい、よく澄んだ女性の声が返ってくる。


「し、失礼しま~す!」


 ギィィィ…。


 その返事を聞いて、真奈は錆びた鉄扉の軋む音を立てながら、おそるおそる、そおっとドアを開ける。


「すみませ~ん。入部希望の者ですが……わぁ…!」


 開いたドアの向こう側は、思いの他に暗かった……昼間だというのに窓のカーテンが閉め切られているのだ。


「……すごい。とっても幻想的……」


 といっても真っ暗闇というわけではない。


 部屋の真ん中には光沢ある紫のテーブルクロスがかけられた円卓があり、卓上には燭台が置かれ、その蝋燭の柔らかな光が室内をぼんやりと照らし出している。


 また、視線を足下に落してみれば、ここはあくまでも神奈備高校のボロっちい学生棟であって、けして華やかなハリウッドのコダック・シアターではないはずなのであるが、まるでアカデミー賞の会場か何かの如く鮮やかなレッドカーペットが床一面に敷かれ、薄暗い照明の中、一種の荘厳さと妖艶さを持って鮮やかに浮かんでいる。


「……部室なのにこのオシャレ度……さすが、高校の美術部は違うなぁ……」


「入部希望の方?」


 そんな部室とは思えない、幽玄の世界に見とれていた真奈が声のした方に視線を向けると、闇に覆われた壁際には椅子が一つ置かれており、その英国アンティーク調の椅子に髪の長い女生徒が一人腰掛けている。


 声からして、さっき返事をくれた人のようである。


「あ、は、はい。そうです」


「では、こちらに」


 その女生徒は椅子から立ち上がると、目をパチクリさせる真奈の方へ音もなくゆっくりと歩いて来る……。


 立ち上がった瞬間、彼女の長い黒髪が微かに揺れる。淡い蝋燭の光を反射して輝くそのカラスの濡れ羽色は、なんとも艶やかでその美しさに思わず目を奪われてしまう。


 それまでは暗がりでよく見えなかったが、ようやく明かりの届く範囲に入って見えたその顔立ちも、涼やかな切れ長の瞳によく通った美しい鼻筋、これまた目を釘付けにされてしまうような造形美である。


 長身の痩せ形ではあるが女性として出るとこはちゃんと出ており、歩く姿はまるでランウェイ上のモデルのようだ……いや、どっかの読モでもほんとにやってるんじゃないだろうか? もしやってなかったとしたら、それは日本のファッション業界にとって大きな損失である。


 どんだけ美人っ?


 あぁ、こんな綺麗な人が部活の先輩になるだなんて、やっぱ、美術部を選んでほんとよかったあ~……。


 でも、こんなに美しすぎる先輩がいつもそばにいたら、あたし、なんだか変な気分になっちゃうかも……あぁ、ダメ、先輩。あたし、まだ、そっちの世界は早すぎるっていうかぁ……。


「こちらに来ていただけますか?」


「……あ、あ、あ! はい!」


 その声に現実へと引き戻され、これからの理想的な学園生活にいきすぎた妄想を膨らましていた真奈は、慌てて円卓の奥に並べられている事務机の方へと向う。


「では、この誓約書にサインをお願いします」


 見ると、机の上には何かの文章が墨で書かれた一枚の和紙に、墨汁の入った硯と筆が添えられている。


 誓約書? ……入部届けじゃないのかな?


 真奈は小首を傾げながら、その和紙に書かれた文章を目で追ってみた。


 照明が蝋燭の明かりだけなので、なかなかに読みづらい。


 え~なになに……誓約書。私は当部に入部し、以後、神奈備高校に在学する限りにおいては当部の部員であり続けることをここに誓います……か。


 なんかやけに仰々しい入部届けだな。それになんだろ? この絵は?


 その紙の真ん中には、小さな鳥のようなものがいっぱい集まって、さらに大きな絵みたいなものを形作っている。


 いったいなんの絵だろうか? 見ようによっては何かの文字を表しているようにも見えなくはない。


「さ、そこに署名をしてください」


 美人の先輩が白く細っそりとした手で硯と筆の方を指し示しながら、落ち着いた声で真奈に署名を促す。


「あ、はい」


 ……ま、いいか。きっとこれもアートなんだ。入部届けにまで美を求めるなんて、さすが高校の美術部は違うなあ……。


 わずかな逡巡の後、心の中でそう判断を下した真奈は、筆に墨をつけると、指定された場所に自身の名前を素直に書き入れる。


「……と。はい、これでいいですか?」


 すると、美人の先輩はその紙を手に取り、蝋燭の明かりにかざして丹念に確認してから真奈に告げた。


「……うん。よいな。あーちなみに言っておくが、これは紀州は熊野大社に伝わる午王宝印ごおうほういんを押した起請文きしょうもんというもので、ここに書いた誓いを破れば血反吐を吐いて死ぬと云われている。ゆめゆめ誓いに背くようなことはしないようにな」


「…………え?」


 なんか今、ものすっごく物騒なこと言ってたような……ああ、そうか! きっと今のはこの先輩独特のブラックなギャグなんだ。


 う~ん…どこがおもしろいんだかぜんぜんわかんないけど、やっぱりこういう時は後輩として、ちゃんとウケてあげなくちゃいけないんだろうなあ……。


「アハハハハハ。先輩、冗談がお上手ですね! アハハハ…」


 考えた末、真奈はそんな認識を勝手にすると、無理にウケて爆笑してみせる。


「いや、冗談ではないのだが……」


「アハハハハハ、先輩おもしろ~い!」


 先輩が何か呟きかけたようだったが、真奈はそれを気にすることもなく、さらにわざとウケ続けた。


 ガタン…。


 と、そんな時、不意に彼女の背後で入口のドアが開く。


「梨莉花さん、やってきたヨ! うちの部費少なくした生徒会のヤツら弱るようニ、議会室ノ周り、風水的呪物ノ配置してキタ」


 開いたドアの向こうからは、なんだか少し奇妙な話し方をする女の子が入って来る。


 小柄で、髪を左右に分けてお団子に結った、ちょっと幼い感じのする少女である。


「うむ。ご苦労だったな」


 そのツインお団子ロリータ少女の方を振り返ると、美人の先輩は満足したようにそんな労いの言葉を彼女にかける。


 年下っぽい見た目だけど、今の遣り取りから察するにどうやらこの人も部の先輩みたいい……ってか、今、なんか聞き捨てならないこと口走ってたよね?


「ん? 梨莉花さん、この人、誰カ?」


 先輩達の会話にそこはかとない不審感を抱く真奈だったが、そんな彼女の存在にロリータ少女がふと気付く。


「ああ、新入部員の方だ。えっと、名前は……宮本まーなさんだ」


 その問いに、美人の先輩は真奈が署名した誓約書に視線を落としてそう答える。言いやすいせいか、やっぱり彼女も〝まーな〟と音便変化させて呼んでいる。


「あ、あの……この部の先輩の方ですよね?」


 自分抜きに話を進められ、真奈は美人の先輩とお団子頭のを交互に見比べながら、おそるおそるどちらにともなく尋ねた。


「ああ、そうか。自己紹介もまだしてなかったな。すまない。私は3年A組の神崎梨々花かんざきりりか。この部の部長をやっている」


「あ! そうだったんですか?」


 そっかあ……この人が部長さんだったんだあ……梨莉花さんっていうのかあ……。


 名前もカワイイな。すっごく美人だし、物腰や言葉遣いも凛々しいし、カリスマ性に富んだ、まさに美術部の部長に相応しいって感じの人だなあ……。


 その絶世の美人が部長と知るや、真奈はうっとりと、彼女の丹精に造形された顔にしばし見惚れる。


「それからこっちは二年の李梅香リメイシャン。台湾人だ。今は親の仕事の都合で日本に住んでいる」


 ああ、なるほど。それでちょっとイントネーションがおもしろかったのか……。


 そして、美人部長の紹介に今度はお団子頭のの方に視線を移すと、納得といった様子でうんうんと頷いてみせた。


「ハジメマシテ。ワタシは李梅香だヨ。どぞ、ヨロシク!」


「あ、ど、どうも。え、えーと、ニーハオ…」


「アハ。大丈夫、日本語、ホトンドわかるから。言葉の心配は要らないヨ」


「あ、はい…ハハハ……」


 ガタン…。


 不意に訪れた慣れぬ中国語圏の外国人(しかも年下に見えるけど先輩という複雑な設定…)とのコミニュケーションにドギマギする真奈であるが、するとそこに、またしてもドアが開き誰かが入ってくる。


「はぁ~疲れた。おい、言われた通り、うちの部費削れなんて提案した会計のバカに調伏の修法すほ施してきたぜ? かなり労力使ったんだからジュースぐらいおごってくれよな」


 今度入ってきたのは口の悪い男子だった。


 まず目に止まったのはその頭である。短く刈り上げた髪を鮮やかな赤色に染め、ツンツンと針鼠のように突き立てている。


 制服もシャツの裾をスラックスから出してブレザーの袖ごと腕捲くりをし、手には数珠みたいなフォークロア調の腕輪を着けるといった自由な風体だ。


 なんか不良っぽいというか、パンクな感じの人物である。


「それが先輩に対する態度か? おまえも梅香を見習って少しは後輩らしくしろ」


 梨莉花部長はその礼儀知らずな言い様に、呆れた表情で男子を見つめて注意する。


「だから、ちゃんと部長の指示通りにしてきたじゃねーかよ。おかげでもうヘトヘトだぜ。な、だからなんか飲ませてくれ。80円のパックのやつでいいからよ。そう、イチゴミルクがいいな」


「ハァ…まあ、おまえの態度の悪さは今に始まったことじゃなし、ちゃんと命令は遂行してきたようだから許してやるか……」


「…ん? 誰だ? そいつ」


 もう諦めたという顔をして、溜息混じりにポケットから財布を取り出す梨莉花だったが、そのパンクな男子も話の途中で今さらながらに真奈の存在に気付く。


「ああ、新入部員の宮本まーなさんだ。宮本さん、こいつは二年の金剛寺相浄こんごうじそうじょうだ。こんななりだが、こいつも一応うちの部の一員だ」


 ……見た目に一般的な美術部員のイメージとはだいぶかけ離れてる人だけど……このパンクな格好からして前衛アートでもやってる人なんだろうか?


 真奈は密かにそんな感想を抱きつつ、ペコリとその相浄なる男子に頭を下げる。


「あ、あの、宮本真奈です。よろしくお願いします」


「ん、ああ。よろしくな………」


 対して相浄は照れ隠しにか、顔も向けずにぶっきらぼうな態度で返事を返した。


「そういえば、清彦きよひこはどうした?」


「清彦なら調べ物がアル言って図書館行たヨ」


 梨莉花が先輩部員二人に尋ねると、梅香の方がちょっとおかしなイントネーションでそれに答える。


「とすると、また何か研究を始めたか。相変わらず研究熱心なやつだ」


 研究? ……図書館で調べ物っていうと、美術史でも研究してる人なのかな?


「あ、それデ思い出したケド、飯綱いいづな先輩ハまだ帰ってきてないノ?」


 今の会話からその新たに登場した人物の人となりを想像する真奈を他所に、今度は梅香が梨莉花に訊き返す。


「ああ、まだ山に行ったままだ。家族の人の話によると、月曜には帰って来ると言い残して行ったようだが」


 山というと、きっと山の絵を描きにでも行ったのだろう。遠くの山だろうか? 富士山か日本アルプスか、それとも、もしかしたら海外?


 長期休みを利用してスケッチ旅行に行くだなんて、なんと本格的な! 


 それに前衛アートの人がいるかと思えば、美術史を研究しているようなインテリ肌の人もいて、おまけにフォーリナーな部員なんかもいたりして、ナビ高の美術部は幅広い分野の活動をしているばかりか、何気に国際色も豊かなアブソルートリーにスゴイとこである!


 なんか、これからの部活がもっともっと楽しみになってきた! ほんと、神奈備高校を選んでよかった~って感じ! ああ、神さま、あたくしめをこんなステキな部に導いてくださったことに感謝します……。


 真奈は希望の光に満ち溢れたこれからの学園生活を再び妄想し、その幸せすぎて怖い未来の光景に酔いしれる。


 斜め上を見つめるその瞳は、まるで古き良き時代の少女漫画のようにキラキラと輝いている。


 そんな陶酔しきった真奈の方を横目で覗っていた相浄が、呆れたようにぽつりと呟いた。


「しっかし、〝うち〟に入りたいなんて、よっぽどの物好きだな――」

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