最終話 果ての名はとこしえ
千代よ、愛しい我が子よ。
まだ幼いそなたを置いていくことを、許しておくれ。
私は行かなければならない。千年を越える旅に、決着を付けねばならない。
そう、千年。言葉にすれば刹那ではあるけれど、私は途方もなく長い旅をしてきた。
それは、ある一匹の大妖との、終わりのない戦いの旅だった。その妖は妖である私にとってさえ得体の知れない、人の言葉を借りれば、鵺のような妖であった。千年に及ぶ時の流れの中で、私は時にその妖に焦がれ、時に愛し、時に慈しんだこともあった。しかしそれはいつしか、憎悪に変わった。
その妖は貪欲にあらゆる物を飲み込み、大きさは留まることを知らない。同属で肉を食いちぎり、際限なく肥え太っていく。あらゆる妖術、幻術を使い、人を惑わして手先とし、命を奴隷に貶め、美しき森や、川や、空や、海を穢す、最大にして最強、最悪の妖。
我がどれほどに力を付けようと、どれほどに妖の術を極めようと、その妖はさらに強き力を持ち、遥かに高度で新しい妖の術を編み出し、人心を惑わし、その身を捧げさせる。その力には際限がない。その命には寿命がない。殺しても、壊しても、また新たな命を経て蘇る。数千、数万、数億の血を吸い上げ、それでも飽きることなく飢え続けている。その妖がひとたびのたうてば、風邪を引けば、飢えれば、どれほどの命が捧げられることか、いや、どれほどの命がその妖に捧げられてきたことか。それはまさしく、人の悲しみを食らい、怒りを食らい、喜びを食らい、飲み込んで肥え太る餓鬼。
我はその妖と千年を戦ってなお、決着を付けることはできなかった。否、私だけではない。我が母もまた、その妖と千年を越えて戦い続けたのだ。妖の力を極めた母が、なぜ各国の王をたぶらかし、乱を呼び、幾多の国々を滅ぼすことに手を染めたのか。かつては私も分からなかった。しかし己が旅をする中で悟った。母もまた一匹の大妖と戦い続けてきたのだ、と。
母もまた長い生を波乱に生きた大妖であった。その波乱の果てに、その大妖の生み出す幻想こそが、世に地獄を生み、世を破滅に導く邪悪の正体であると悟ったのだ。得体の知れない化け物こそが、小さき生をあざ笑い、蔑み、奴隷に貶めるのだ、と。
我が母は夢に憑かれていた、理想郷という夢に、永遠という夢に…夢に憑かれ、そして最後に、母は変化した。夢そのものに。そう、母は永遠の眠りに付き、この世の夢を見続けている。できることならば、安らかな夢を見ていて欲しい。私は母に安らかな夢を見ていて欲しかった。そのために私は戦い続けてきた。
千代よ、私はその妖と戦う中で、数多の力を手に入れた。九つの尾に、一つずつ異なる力を宿らせていった。八つの尾まで力を宿らせることができたが、最後の一本の尾だけは、数百年の時を経ても、何の力にも目覚めることはなかった。しかしついに、あることをきっかけに、最後の力が私の尾に宿ったのだ。きっかけとは他でもない。千代、そなたを孕んだこと。そなたを孕んだことで、我が尾は神に等しい力に目覚めたのだ。それは、時を越える力。未来視、過去視という力から始まり、やがては精神を跳躍させる時空転生という妖術を編み出すことに成功した。
それだけではない。千代よ、あらゆる変化の術を極めた私が、たった一つ変わることができなかったものがあった。まさか己がそれに変化できるなども思うておらなんだ。しかし千代。私は最後に化けることができたのよ。そなたを孕み、そなたを生み落としたとき、私の変化は越えられなかった壁を越えた。それが何か、そなたに分かるか。私が焦がれ、愛し、時に憎んだ存在。なろうともなれなかった存在に、そなたを宿したことで私は変化することができた。
そう、私は母になったのよ。千年を生き、命尽きかけた私が、新たに千年を生きようというそなたを産み落としたことで。
我は多様な命へ変化することで、世が刹那にして形を変えることを知っていた。そして変化の果てに母に化けたとき、世は再び一変した。全てのものの見え方が変わった。そのとき、私の最後の尾に、最後の力が宿った。未来を視ることさえも可能になったのだ。
しかし千代よ、その未来視の力こそが、千年を生きた私がかつて味わったことのない恐怖を生んだ。私は時を越えて見てしまったのだ。愛しい千代、そなたにとってあまりにもおぞましい未来を。宿敵である大妖によってもたらされる絶望の未来を。
そなたを守るため、私は逃げ出した。妖の姫たる立場も忘れ、誇りも捨て去り、背を向けたのだ。宿敵たる大妖から。そしてまた、大妖を生み出した人という存在から。そう、人こそがその大妖の生みの親に他ならない。
長い旅の中で、私は人を蔑み、愚かだとあざ笑い、その卑小で矮小な命を見下していた。一方では人に焦がれ、人を愛してもいた。その儚さに、その強さに。真に不思議な人という存在は、常に私の心の一角を占めていた。その恐ろしさも、残酷さも知り尽くしていたはずであった。しかし、未来視の能力を得て垣間見た未来は、私の想像など及びも付かない世を見せた。私は恐怖した。まさか人というものが、斯様なまでに狂気を孕み、しかも神にも値する力を得るとは思いもせなんだ。そして人の力が高まれば高まるほどに、人の生み出す大妖も越え太っていくのだ。
かつてその大妖とは、ふるさとのことであった。愛し、慈しみ、守り、誇り、懐かしみ、親から子へ、子から孫へと明日へと繋いでいきたくなるものであった。それが未来では全く異なる存在となっていた。
それはまさしく、悪夢そのものであった。
私は大妖から逃げ出すと、そなたに千年の安住の地を与えようと旅をした。しかし何処へ逃げようとも、未来視の力は私を苛ませた。未来視の力は留まることを知らず、眼前の風景が、突然、遥か先の未来へと切り替わり、おぞましい光景を瞬かせた。その中で憤怒の顔を見せるそなたが見えた。何処にいっても、どこまで逃げても未来は私を苦しめた。
そなたは聞いた。
母様には一体何が見えるの? 私には何も見えないのに。
私は答えられなかった。私は信じたかったのだ。未来はまだ決まってはいない、と。
未来視の力は私の意思に反し、成長を続け、やがて暴走を始めた。現在が、鮮明な未来に侵食され、どちらが現実なのか分からなくなってしまうのだ。未来はますます鮮明になり、私を傷つけ、苦しめた。それに対して、「今」はあまりにも頼りなかった。
私は「今」に自分を繋ぎとめるために、必死にそなたを抱きしめた。時にその強さで、愛しいそなたを押しつぶしそうになってしまうほどに。私が落ち着くところといえば、もはや数箇所しかなかった。それは山神に守られた峻厳な霊山や惑わしの樹海の森、人の入ることの困難な広大な湿原、そういった場所だけであった。
そこで私はお前を育てようとした。そこは清々しい命の坩堝であり、甘美な喜びをもたらす調和の世であった。しかし、そこへさえも絶望の未来はやってくるのだ。八百万の神々の手による美貌の山河さえも、あの未来から逃れることはできないのだ。その美しさが荒廃して醜く爛れ、紛々たる腐臭を放つ未来を視ると、私は虚無と絶望に打ちひしがれてしまう。無数の怨嗟、呻き声、悲鳴が反響した後、残るのは一切の息遣いの絶えた静寂である。川は腐り、土は汚され、風は死を運び、日の光は狂暴となり、あらゆる命を拒む未来。
私も一度は未来と立ち向かおうとした。そなたを案じ、時空を跳び、未来のそなたを探した。おぞましい大妖との戦いで死んでしまったのか、戦い続けているのか、隠れているのか、必死になってそなたを求めた。
私はついにそなたを見つけた。
あの美しかった母譲りの九本の尻尾が、醜く汚れてしまっていた。引き攣れ、爛れ、腐臭を撒き散らしていた。それは変化のなれの果てであった。
私は慟哭した。
己が戦い続けてきた大妖が、愛しい娘の変わり果てた姿だと気付いたのだ。
妖たちを殺しつくし、食いつくして育った妖の姫。美しい名を忘れ、温かかった妖たちを忘れ、強く儚い人たちを忘れ、もはや己を失ってしまった貪欲にして醜いそなたの姿に、私は泣いた。そしてさらに、私はそなたの更なる末路をも見た。
大妖に憑かれ、変化したそなたのなれの果て。それは己を見失ってしまい、一瞬の輝きと引き換えに、数千年、数万年という汚毒を撒き散らし続ける「殺生石」となって全土に散らばるという末路であった。空を飛ぶ鳥さえも、その殺生石の上を飛べば命を奪われてしまう。草も、木も、水も、穢れた死に侵されてしまう。あらゆる命を拒む、禍々しい存在へとそなたは変わり果ててしまっていた。しかもその悪夢のような現実は、この地を覆い尽くし、それでも飽き足らず、海を越えてあらゆる地へと広まっていくのだ。
我は泣き叫んだ。なぜ闇をそれほどに怖がらねばならんのだ。なぜ闇とともに生きていこうとしないのだ。なぜ闇を駆逐しなければならないのだ。太陽になど化けることはできない。太陽でさえ永遠ではいられないというのに、お前が永遠を手にすることができようはずがない。一瞬のまどろみのような輝きに魅せられて、数千年、数万年という絶望を未来へと遺そうというのか。未来を奪おうというのか。
千代よ、そなたを連れて旅をする中で、私がときおり見た未来。それは一瞬の風景ではない。刹那の光景ではないのだ。私が見た未来は、数万年という途方もない厚みを持った、永遠に変わることのない暗渠。呪われた殺生石という化生を中心として広がり、数万年もの間、あらゆる命を、その営みを拒む、真っ暗な虚無であった。
そんな絶望に打ちのめされそうになる中で、千代よ、幼いそなただけが、暗澹とした世を照らす一筋の光のように、温かい存在として感じられた。おぞましい未来を見てしまったにも関わらず、「今」のそなたは私にとって消えることのない希望の光として感じられた。それは私が、そなたを愛しく思っているから。そなたはいまだ、まっさらな白紙の生を持っているから。たとえ、暗澹たる世でも、儚き世でも、そなたが素晴らしい生を生きることを、私は願ってやまない。その願いが、一筋の光となって未来を貫くのだ。
私はそなたの寝顔を見ながら思い出す。長い旅の中で出会った。数多くの哀しみ、喜び、儚きものたちの笑顔を、言葉を。私が千年という時間の中、妖の無数の異能の力で経験し、見て来た世の果て、たどり着いたのは、無数の記憶、想い、過去であった。名もなき人々は、叫び、祈り、喜び、悲しみを繰り返しながら、その一つしかないかけがえのない命を、明日のために、息子や娘のために生きた。人に姿を変えて世を流離ううちに、私の中には、決して消えることのない怒り、悲しみ、喜びが、思い出と共に刻まれていった。私は祈らずにはいられないのだ。そなたにもそのようなよき出会いや、思い出ができることを。悲しみや苦しみに満ちた世で、それでもけなげに咲き誇ろうとする人と、この世の美しさを、そなたが感じられることを。
絶望と向き合い、私は決意した。逃げても追いかけてくるならば、戦うしかない、と。
千代よ、お前をけしょうの森に置き去りにしたのは、この森の美しさを、たくましさを、儚さを、その全てを知って欲しかったからだ。その身を持って、経験して欲しかったからだ。その時間は、お前のこれから生きるであろう千年を支える原風景となるであろうから。
それに、これは私の戦いだった。そなたを巻き込むわけにはいかなかった。そなたには、そなたが戦わねばならない千年があるのだから。
千代よ、けしょうの姫よ。妖狐とは千年をかけて成長する妖。そなたは未熟で、変化すらままならない。だが、聞いておくれ。そなたは私にとって、他のいかなる妖も及ばぬ変化の力を、生まれながらにして持っている。そなたは私の笑顔になり、涙になり、勇気になり、希望になり、夢になり、星になり、太陽になり、月になり…。そう、そなたは夢幻に変化するのだ。私の生きる力に、意思に、想いに。かつて人の感情を糧にして世に君臨してきた私が、そなたを生んだことで、ついに己の内、魂の底から溢れ出る無限の力を手にすることができた。どんなに傷ついても、疲れ果てても、餓えても、もはや私は人の感情を食む必要はない。魂から湧き出る己自身のこの感情を糧にして、私は生きていける。
今こそ、九つの尾の力を集めて、私は最後の変化を行おうと思う。
そなたの幼い九つの尾にも、いつしか力が宿るだろう。そしていつか私のように気付くだろう。千年をかけて宿すことになる九つの尾の力とは、実はその全てが人の持つ可能性であるということに。変化も、憑依も、未来視も、言霊も、全ては人から得たものなのだ。そう、私は千年をかけて、人に焦がれていたのだ。かつては私自身も気付かなかった。小さく、儚く、愚かな命だと見下し、たかだか数十年の生を嘲笑っていた。それが、母になったことで、たった一人の人間にも及ばない存在であったことを、千年の終わりに知った。そう気づいたとき、私は微笑んでいた。千年生きてかつて経験したことのない笑みが零れていたのよ。
私が未来視で視たこの世など、刹那の夢、悪夢に魘されていたに過ぎない。千代よ、お前が生まれたことで、私は母になり、そしてまた娘になることもできた。母の気持ちを知ることで、己の母のことを想うことができた。そのとき私はようやく娘になったのよ。母は私が悪い夢を見ないように、優しく寝かしつけてくれた。悪い夢を見て飛び起きると、抱きしめてくれた。
そなたを生んだことで、私は悪夢から覚めたのよ。千年もの長きにわたって苦しめられた、悪い夢から解き放たれたのよ。
私は今、最後の変化を前にして、思い出している。
それまで出会った儚くも美しい人々を。底知れぬ絶望の暗渠に何処までも落ちていく中で、魂まで凍りつかせる寒さの中で、それまで出会ったものたちとの温かな想い出を思い出している。
そう、私はこれまでも見てきたではないか、絶望に挑むものたちを。
私は懐かしい夜空の下に立っている。大地を踏みしめている。大地は聖なる躯で埋まっている。きらきらと光る想い出が、星々となって闇を照らしている。星座を結び、物語を紡いでいる。
明日はきっとやってくる。千年繰り返したように、千年後も、二千年後も、夜は訪れ、星は輝き、月は煌き、朝日は昇る。
人は変わらない。愚かさも、醜さも、儚さも、変わることはない。だからどれほどのことだというのだ。人の喜びも、美しさも、強さも、きっと変わるはずはないのだ。再び新しい星は上るだろう。違う星座を結ぶだろう。懐かしい物語を紡ぐだろう。
だから千代よ、人の世に出なさい。そして私を探しなさい。人の世には、私が愛したものたちがいる。私が憎んだものたちもいる。決して忘れられない、忘れたくない者たちがいる。千代よ、人の世に生きなさい。人の世に潜む無数の妖と出会いなさい。
私は変化の果てで、そなたのために祈ろう。千年というそなたの旅もまた、掛け替えのない想い出で満ち溢れているように。思い出すだけで愛しさに泣けてくるような、そして明日に継いでいきたいと思うような、そんな記憶で溢れるように。
綺羅と散りばめられた星々を結び、人の感情を呼吸として肺腑に満たし、この輝ける闇夜を舞って欲しい。それこそが、千年を生きるけしょうの姫にふさわしい。
そして叶うことならば、そなたもいつか子を孕んで欲しい。次の千年を生きる新たなけしょうの姫を。そなたのように愛しい子を。
千代よ、私はついにたどり着いた。お前を孕んだことで、お前を生んだことで、お前を想うことで、私はたどり着けた。
そこは、一瞬でもあり、永遠でもあり、未来でもあり、過去でもある。
それは、今。
そう、私は変化の果てに、「今」にたどり着くことができた。
これまで、あらゆる衣を纏い、そして脱ぎ捨ててきた。あらゆる変化を極めつくしてきた。世を万華鏡のように無限に捉えてきた。さあ、今こそ、最後の衣を脱ぎ捨てよう、無数に傷つき、瘡で覆われ、膿み、腐ってしまったこの衣を、脱ぎ捨てるのだ。
千代よ。愛しい娘よ。そなたはこれより千年を生きることになるであろう。妖の行く末を、人の世の行く末を視ることになるであろう。そしてその先の、決してたどり着くことができない更なる未来を視ることにもなるだろう。
永遠の煉獄に身を焦がさぬよう、千年という時を経て、私はそなたに継いでもらわなければならないものがある。私という夢の終わりに、遺しておきたいものがある。変化の果てで、伝えたいことがある。
千代よ、泣いてばかりいないで、母をさがしなさい。この世のどこかで、私はそなたを待っているから。
だから、さあ、私をさがしなさい。かくれんぼよ。
けしょうの千代姫 八咫朗 @8ta
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