第5話 紅緒のはごろも憧憬
一組の奇妙な母娘が、奥深い山野を旅している。奇妙な、というのはまずその風貌についてである。娘はせいぜい七つ八つの年頃の少女あったが、母はといえばこれ以上老いることはできぬほどに老いていた。髪は一本残らず真っ白であり、肌は皺と滲みだらけであった。ただ背筋は凛として真っ直ぐに伸びていた。
母娘というには、明らかに年が離れすぎていた。
それだけではない。奥深い山野を歩む二人は、目の覚めるような鮮やかな美しい着物を纏っていた。
母の名を宮古という。宮古は人ではなかった。いやかつては人であったが、あることがきっかけで、人ではなくなった。宮古は山姥である。では山姥とは何かといえば、山神に仕える山霊である。かつて宮古は、山神によって霊山に仕える山の守人となったのである。山姥になったことで宮古は長大な寿命と不思議な能力を得た。半ば霊的な存在となり、妖としての力を手に入れた。そして長く山野に暮らし、妖の力を伸ばすことによって、宮古は半霊、半妖とも言うべき存在となったのである。
その娘の名を紅緒という。宮古が皺くちゃの醜い婆であるのに対し、この娘は七つ八つの見た目に比して艶のある唇と目をした美しさの持ち主であり、やがて麗しい乙女になることは疑うべくもない童女であった。
紅緒は生まれてからずっと、物心を付いた頃には、宮古とともに山野を旅していた。幼い頃にはその背におぶわれ、歩けるようになっては母の背を追い、やがてすぐに母の手を引くようになった。山姥である母は足腰が弱く、動作は緩慢で、ゆっくりとしか歩むことはできなかった。山野はただでさえ道のない険しい道程である。山姥の宮古とその娘である紅緒は、実にゆったりとした歩みで旅を続けていた。
その旅は、竜脈に連なる神代の森、奥深い霊山を巡るものであった。山の守人である山姥の役目は、神代の森が人によって荒らされていないかを監視することであり、また山野の裾野や谷間にある里の人間たちが、山神を畏れ敬い、恵みをもたらす山野に感謝をしているのかを見守ることであった。
山姥と娘は幾つかの季節ごとに棲み処を移り、その山野にしばらく滞在して季節を堪能すると、新たな地へと旅立っていくのだ。それぞれの山野には神代の森へと続く道に社があり、そこが結界として麻縄で結ばれていた。そこから先は人の入ってはいけない帰らずの樹海である。数万年という時の堆積した霊山、神代の森へ至る道である。その先では狩りをすることも、野草を採ることも禁じられている。たとえ入ったとしても、決して神代の森にはたどり着けない。どんな熟練の狩人や山人であっても、霊木によって惑わされ、方向感覚を狂わされてしまう。たどり着くことは愚か、抜け出すこともできず、永遠に森を彷徨うことになる。
山姥である宮古は帰らずの樹海で迷うことはない。むしろ、その妖力を発揮して周囲の森を帰らずの樹海へと変え、人を惑わすことができる。山姥は、帰らずの樹海を自在に出現させることができるのだ。宮古は時に、里近くの裾野に下り、その力を使って人を迷わせ、怖がらせることがあった。
経験豊富な狩人が己の知り尽くした山を歩いていて、途端に己の場所も、方角も分からなくなるのである。どんなに慌てても、必死に走ろうとも、同じところをぐるぐる回るだけで、抜け出せなくなる。そして恐怖で泣き叫んだところで、宮古は機を見て力を解く。狩人は方向感覚を取り戻し、一目散に里へと帰る。そして己の体験を人里に恐ろしく語るのである。それが宮古の狙いであった。
また憑依の力によって祭りに際に巫女に憑依し、様々な我侭なお告げを下したり、お供え物がまずいだの、着物の柄が気に入らないだの、流行の髪飾りが欲しいだのいうこともあった。そう、山姥と娘が美しい着物を着ているのは、旅先の人里ごとに新たな着物を得ることができるからであった。
人里の者たちは山姥の来る時期には祭祀や祭りを行うようにしていた。その祭祀が疎かであったりすると、山姥は近隣の主である大猪や狼に憑依して作物を荒らしたり、社守の家に突っ込んで壊したりするので、姿の見えない山姥を畏れ敬うようになっていた。
そのような旅をしながら、山姥は山野の恐ろしさ、不思議さ、神秘性を知らしめていた。半ば役目というよりも、退屈しのぎや戯れといった形ではあったが、その戯れが凝っていれば凝っているほどに人にはよく効くのである。
その気まぐれのせいか、点在する人里には里ごとに異なる山姥の逸話、伝説が残され、語り継がれていた。残されているのは山姥の逸話だけではない。山姥の娘である紅緒についても、数多の逸話が語られている。
曰く、山姥に攫われた神隠しの子、曰く、森に縛られ年をとらぬ永遠の少女。
各地の人里では数多くの子供たちがその少女と遊び、そのことを確かな記憶に留めていた。しかしある頃を境に、その少女はどの山郷にも姿を現さなくなる。脈々と語り継がれる山姥の伝説とは異なり、その娘のことを語るものは少なくなり、やがて忘れ去れられることとなる。
なぜ山姥の娘は姿を消したのか。それは紅緒が山姥の元を離れ、山を下りてしまったからに他ならない。これから語るのは、紅緒が母と訣別を果たすまでの物語である。
山姥の娘である紅緒は、幼い頃より山野を駆け回って遊んでいた。母である宮古と二人きりの暮らしであったが、寂しくはなかった。生まれつき山霊の力を備える紅緒は、山の獣や鳥、虫などから親しまれ、草花や木々を愛し、彼らを友として過ごしていた。山姥として数百年を生きる母は、野山のことについて深い知識を持っていて、それらのことを暮らしの中で一つ一つ教えてくれた。また老いて体の不自由な母の代わりに、紅緒は幼くして二人きりの暮らしの様々な手伝いをしなければならなかったし、やるべき仕事も多かった。そのため暇を持て余すことなどなかったし、暮らしの中では遊ぶ時間も限られていたため、退屈することもなかった。紅緒は子供特有の無邪気さと好奇心の強さを発揮し、充実した日々を送っていた。
そんな紅緒を、母である宮古は頼もしげに、しかしはらはらしながら見守っていた。紅緒には、山野の素晴らしさと、そこで生きるものたちの美しさ、強さを、身を持って体験して欲しかった。何より、山野の中で生きることの楽しさを知って欲しかった。そんな願いを込めて、宮古は娘を懸命に育てていた。
一方で、宮古は一抹の不安を抱えていた。紅緒は山姥として授かった初めての娘であり、どのように育てていけばいいのか、そのことが分からなかったからである。しかも紅緒はただの人間の子供ではない。山姥である己の血を引いた、半霊と人との合いの子である。その血が紅緒に如何なる影響を及ぼすことになるのか、宮古には予測できなかった。きっと紅緒は不思議な力を宿すことになるであろう。それがいつ、どのような形で現れるのか、宮古には分からない。
更に先のことを考えるならば、山神との契約のことがあった。宮古は紅緒を孕んだとき、山神と一つの契約を交わしていた。それは紅緒が成長し、初潮を迎えたとき、次代の新たな山姥として捧げるというものであった。というのも、紅緒はそもそも、嫉妬深い山神の目を盗んで孕んだ不義の子である。激怒した山神は幾度も腹の子を流産させようとしたが、宮古は友である妖狐の力を借りて腹の子を守った。そして山神に甘言を弄して契約を交わし、生み育てることを了承させたのである。しかし、我が子を生涯、山野に縛り付けてしまうのは、あまりに不憫であった。
そんな経緯もあり、宮古は紅緒に、父の話も山神との契約の件も話そうとしなかった。ただどこで耳を欹てているかしれない山神の手前、「そなたは山姥の子。いつか私の後を継いで霊山を巡り、山野を守る役目を果たさなければならないのよ」そう幼い頃から言い聞かせていた。
紅緒は母以外の人間を知らず、常識がなかったため父のことなど考えもしなかった。紅緒は母が好きであったし、母の手助けをしながら旅をすることで満ち足りていた。己が山姥になるということも、別段深く考えることもなく、母様の後を継ぐのだ、ぐらいにしか認識していなかった。それにそれは実に自然なことのように思われた。
といっても、紅緒は母が人里に下りて行っている神事の内容など一切知らなかった。宮古は人里に行くとき、紅緒を山の深くに置いて一人で下りていったからだ。「結界の外には出てはいけないよ」宮古は紅緒にそう言い聞かせていた。結界とは、宮古がその力で張り巡らせる境界線であり、その内側は人の入り込めない領域である。入ろうとしても惑わしの森に入り込んでしまい、奥深くへはたどり着くことはできない。宮古は幼い紅緒を可能な限り人里から遠ざけようとしていた。人に会わせようともしなかった。なぜなら、愛する娘が迫害されるのを恐れていたからだ。
宮古は知っていた。山姥に纏わる数多の伝説が、好意的なものばかりではないことに。山姥は山守として畏敬の念をもたれる一方で、自然の災厄を巻き起こす気まぐれで我侭な醜女として憎まれてもいた。紅緒が山姥の娘として異端の目で見られることは必定であった。里山で、異端視されたものが一体どのような目にあうのか、どのような悪意を向けられるのか、長く人里と付き合ってきた山姥は知り尽くしていた。子供たちの無邪気な悪意と、大人たちの確信に満ちた憎悪に晒すには、紅緒はまだ幼すぎた。
また紅緒には不思議な力があり、それを未だ制御することができなかった。宮古の危惧していた山姥の血は、その幼年期より顕著に現れた。
赤子の頃、紅緒はほっておけばいつまでもお乳をねだったし、抱っこをしてもらおうと泣き喚いた。宮古も、いけないと思いながらも、紅緒にお乳を飲ませ続け、いつまでも抱いてやっていた。そんなある日、宮古は紅緒が赤子のまま時を止めて一向に成長しないことに気づいた。どう考えても、もう歩き出していてもいいはずである。しかし紅緒は赤子の姿のままなのだ。紅緒の不思議な生に困惑した宮古は、その育て方を苦慮する。このまま赤子のままいてくれてもいいのではないか、一瞬そんな想いが浮かぶが、すぐにかき消した。お乳以外の食べ物をやろうとし、紅緒が嫌がってお乳を強請っても決して許さなかった。やがて空腹に耐えかねた紅緒は嫌々ながら重湯を飲み込むようになった。それから少しずつ赤子は育ち始めた。抱っこをやめたことで、母を求めてはいはいをし始め、やがて歩けるようになった。宮古は紅緒に自分で山野の食べ物をとって暮らす術を教えようと、野草や果物を採りにいってもらった。無論、監視するために憑依の力を使って見守っていた。宮古は足腰が痛くて動けない振りをしたり、頭が痛いと寝込んだりしては紅緒に何事かを言いつけるのだ。それは嘘、演技であり、したたかな母のやり方であったが、宮古は母を案じて一生懸命に仕事をこなし、言いつけを守ろうとした。母を慕っていた紅緒にとって、母の手助け、手伝いができることは喜びであった。すると紅緒は少しずつ育ち始めた。山野の恵みを自らの力で採って食べるようになった。それまで母の側から離れようとしなかった紅緒が、少しずつ行動範囲を広げ、一人で山野を歩き回るようになった。
どうやら紅緒の体の成長は、精神と深くつながっているようだ、そう宮古は気付いた。不思議なのは成長の速度だけではなかった。
ある日、宮古は紅緒が奇妙な力を持っていることに気づいた。
宮古が花冠の作り方を教えようとしたときのことであった。紅緒が教わったとおりに手を動かし、ようやく完成させると、途端にはらはらと花びらが散ってしまったのである。また宮古が作ってあげた花飾り、花冠を与えても、紅緒が手にしたとたんに、花びらは散り、葉は枯れ落ちてしまうのである。
そう、紅緒の力とは、自らが興味を持ち、愛したものの生気を吸い取ってしまう、というものであった。紅緒が愛情を注ぎ、愛着を抱けば抱くほど、あっという間に枯れ果ててしまうのだ。
幼い紅緒には、その理由がよくわからなかった。己の持っている不思議な力のせいだとは気づかなかった。ただ、母がせっかく作ってくれた美しい花冠が、自分が手にするとすぐに枯れてしまうことが悲しかった。自分が必死に編み上げた草の冠が、出来上がったとたんに萎びて枯れてしまうのが悲しかった。宮古もまた、紅緒の引き起こす不思議な現象に驚き、その悲しい力には衝撃を受けざるを得なかった。宮古は紅緒の力と成長に四苦八苦しながらも、懸命に紅緒を育てた。
紅緒は自らの持つ不思議な力に戸惑いながらも、母の期待に答え、山野の恵みと厳しさの中で健やかに過ごした。山河の生き物、四季、獣たち、木の実、果実、芳醇な山野での暮らしは、人と比べてゆったりとした成長ではあったが、紅緒を逞しく育てた。
そんなある時、紅緒は親を失って怪我をした小鹿を見つけた。宮古は小鹿を苦しませずに殺し、食べてしまおうというが、紅緒は看病しようとした。薬草の投与や献身的な看病で一度は持ち直した。安心した紅緒は子鹿を抱いたまま寝入ってしまった。朝、紅緒が目覚めるたときには、小鹿はもう冷たくなっていた。
その出来事は、紅緒の心に消えない傷痕として残ることとなった。もしかすると、自分のせいで死んでしまったのではないか。自分は死の使いなのではないか。花びらを散らしてしまわずにはいられないように、愛したものの命を奪わずにはいられない、そんな呪われた存在なのではないか、そう思い込んでしまったのだ。
紅緒は八歳で再び成長を止めてしまった。それだけではない。花や獣に執着を持つことそのものが怖くなってしまい、触れることさえ恐れるようになってしまったのである。
それまで口にしていた獣の肉を食べなくなり(臭いのだもの、そう宮古には言い訳をした)、木の実や果実もかつては存分に頬張っていたのに、受けつけなくなる。食べても吐いてしまうのである。そうして紅緒は次第に体を痩せ細らせていった。
憂慮した宮古は、何とか紅緒を諭して食べさせようとする。しかし頑として受けつけない。困った宮古は、命とは何か、食べることとは、この世の無常、無上、無情についてどうやって教えればいいのかと考えた。そこで一計を案じ、旧知の友である一匹の九尾の手助けを借りることにした。九尾の力を持って、紅緒に一つの体験をさせる。それは憑依の力を借りたかけがえのない経験となった。
その一件の後、紅緒は再び食べ物を食べるようになり(といっても植物や果物が中心であり、肉はあまり食べることはないが)、ゆっくりではあるが少しずつ成長をしていくことになる。それだけではない。妖狐の力に触発されたことで、己の内に眠っていた力が目覚めたのか、宮古と同じ憑依の力の片鱗を見せるようになったのである。血が薄いため、その力は宮古に比べて脆弱で幼いものでしかなかったが、それから紅緒は、山野の美しさ、あり方というものに興味を持つようになった。
紅緒は、再び山野を駆け回るようになる。しかし以前とは違い、憑依の力を使えるようになっていた。それは山野に一個の小宇宙のような深みをもたらし、無数に見え方が変化する万華鏡に変えた。紅緒は少しずつ、結界の外の世界への興味を持つようになる。
宮古は成長の遅い紅緒を気に病んでいた。また獣や鳥だけでなく、人間の友がいないことも申し訳なく思っていた。それまでは不安や恐れなど、己の都合で紅緒を守ろうとして隔離して育てていた。しかしそれは己の我侭でしかない、そう気付いたのだ。
紅緒はある日、宮古の張った結界が、時と場所によって綻んでいたりすることに気付いた。紅緒は宮古の言いつけを破り、そこから外に出てしまう。そして森で遊ぶ山郷の子等と出会う。そうして母に隠れて、同年代の子供たちの交流が始まった。
紅緒は母の目を盗んでこっそり山郷に下りたつもりであったが、実は宮古は全てを知っていた。というより、宮古は意図的に結界を綻ばせ、紅緒に外界への道を開いた。まずはわざと綻びを作り、人里から数人の子らを惑わしの森へと誘った。そしてそこで紅緒と出会わせた。そうして紅緒に、山郷の子らと遊び、友達になる切っ掛けを持たせたのである。ある日、言いつけを破り、自ら結界の外に出た紅緒は、山郷の子供たちと出会う。そして山郷の子供たちとの交流が始まる。
といっても紅緒と人里の子等との交流は、決して順調なものではなかった。美しい着物を纏った美貌の少女は、人里の子等には天女のように見えた。また半霊であり、幼い頃より山野を遊び場としていた紅緒は、人の子らには及びも付かない身体能力を得ていた。枝から枝へと跳びはね、飛ぶように崖を駆け上り、疾風のように野を走ることができた。さらに、知識に裏づけされた野山で遊びは、人里の子から尊敬の眼差しを集めるのに充分であった。しかし、その美しい少女が山姥の娘であることを知ると、子供たちは途端に逃げ出したり、もう二度と会おうとしなかったり、怯えてしまったりすることが常であった。それぐらいならまだしも、石を投げつけてきたりする子もいるほどであった。
「山姥の子」
そういって人里の子らは紅緒を怖がり、憎み、遠ざけた。そのことが紅緒にはたまらなく悲しかったし、納得がいかないことでもあった。確かめてみると、子供たちが態度を変えてしまうのは、その両親から山姥の恐ろしい話を聞かされたり、二度と会わないように言われたりしているからであることが分かった。
紅緒は戸惑った。確かに己は山姥の娘である。それが何だというのだろう。山姥とは、山を守り、人里に山の恵みをもたらす大切な役目を負った存在、そう母から教わっていたからだ。なぜ山姥の娘である自分が恐れられ、時には憎まれなければならないのか、そのことが紅緒には分からなかった。
怯える子らを問いただすと、山姥の伝説とは様々であったが、好意的なものは少なかった。人を取って喰う鬼婆のような存在であったり、獣や鳥を使って人里を荒らす山主であったり、雨で洪水を引き起こしたり、嵐で家を吹き飛ばしたりといった、自然災害を引き起こす気紛れで我侭な存在だったりした。確かに自然災害は起こるが、山姥が引き起こすものではない。獣を使って人里を荒らすのは、人が掟を破って霊山を穢したときである。そう紅緒が説明しても、一向に子供たちは分かってくれないのだ。
紅緒は我慢できなくなり、己が子らと隠れて会っていることを母に話した。
「どうしてあの子たちはあんなことを言うの? 山姥とはお母様のことでしょう? なぜお母様が悪く言われなければならないの」
宮古は辛そうに答えた。
「山姥とは山守。怖がられていいのさ。山野とは恐ろしいもの。それでいい。ただ怖がられているだけではない。敬われてもおる。祠や社にはいつも供え物があろう」
諭すように答えながらも、宮古は紅緒に友ができないことを申し訳なく思うのだった。
多くの子らが山姥の娘としての紅緒を恐れ、親の言いつけを守って会うことを拒む一方で、どの土地でも一人か二人は勇気ある子や、不思議なことに首を突っ込みたくなる好奇心の強い子、親の言いつけなど全く意に介さない子はいるものである。彼らは大人からは悪がきと呼ばれる子であり、またガキ大将であり、手の付けられない悪戯小僧だった。数は少なかったが、そういった子らと紅緒は仲よくなることができた。そういった子たちは、不思議な力と身体能力を持つ紅緒に羨望の眼差しを向けていた。紅緒は山野を先頭になって駆けながら、子供たちに山野で遊ぶことの面白さや知識を伝えるのだった。
彼らは紅緒にとってかけがえのない友となったが、紅緒は季節が終わる頃には新たな土地へと移っていかなければならない。そんなとき、紅緒は泣く泣く友と別れなければならなかった。また新たな土地で新しい友ができるか分からなかったし、一から人間関係や信頼関係を築くのは大変であった。それでも紅緒に、宮古に付いて行く以外の選択肢はなかった。別れるとき、紅緒は再会を約束するようにしていた。
二人は季節ごとに旅立ち、新たな地へと移ったが、そこは全く見知らぬ土地ではない。宮古は竜脈に沿って移動をしていたが、それは巡礼のように一巡りするもので、周期的に同じ土地へと帰ってくるのである。宮古の気紛れや、新たな社ができたり、人里が拓かれたりすることで若干のずれはあったものの、数年ごとにまた同じ土地を訪れることになっていた。だから紅緒は、数年前に別れた友に会えることを、楽しみにしていた。
ところが、十の頃の体のまま一向に成長しない紅緒に対し、かつて共に戯れた友は、別人のように成長しているのだ。子供のことであるから、数年ぶりに会えば体は大きくなり、顔は大人びてきている。相手はすぐに紅緒が分かったが、紅緒は名前を聞くまでは誰か分からなかったり、面影から何とか思い出せるぐらいであった。それでも数年ぐらいならまだいい。また数年後には、子供たちはもう子供たちではなくなっている。それぞれに親になり、子を持ち、仕事を、家族を、人生を抱え込んでいる。一方で紅緒はまだ少女の姿のままなのだ。
離れていく友との年齢、距離は、紅緒をこの世に一人ぼっちのような気にさせた。別れるたびに、そしてまた再会する度に、紅緒は何だか自分が置いてけぼりにあったような気がして、たまらなく寂しい思いに駆られるのである。新たな友ができることもあったが、なぜ己の体は成長しないのかと悩むことが増えていった。
そうして紅緒は少女の姿のまま、時が過ぎていった。
ある時、紅緒は一人の少年に出会った。いまだ幼い、六つほどの子であった。少年は山野に迷い込み、足を怪我していた。紅緒はその少年を助け、薬草で治してやった。それがきっかけとなって紅緒は少年に慕われ、仲良くなった。少年は紅緒と比べてもおさおさ見劣りしない美貌を持ち、心根の優しい純粋な子であった。紅緒はその少年を、手のかかる弟のような気持ちで付き合っていた。
数年ごとに会ってその子の成長を見るのが楽しみになっていた。かつて弟のような子が、次に会うときには紅緒と同じぐらいの年になり、更にその次にあったときには、年の頃は十二歳になり、背は紅緒を越え、美しさだけではなく、凛とした少年の気配を漂わせていた。その姿に、紅緒は惚れ惚れするように見蕩れてしまった。
少年は出会った頃から美しい紅緒に淡い恋心を抱いていた。そしていつしか紅緒も、十歳の体にふさわしい幼い恋心を抱くようになっていた。一方で紅緒は恐れてもいた。次第に年が離れていくこともそうだが、かつての小鹿のように、己が執着したものほど、その精気を吸い取って死へと追いやってしまうのではないか、という不安である。
お互いにもどかしい思いを抱えながらも、その幼さゆえにどうしていいのか分からなかった。かつてのように山野を駆け回って遊ぶこともなく、ただ石を川に跳ねさせながら、互いに夕暮れ時まで黙って一緒に過ごす、そんな日が続いた。そんなある日、二人の間にひとりの少女が割って入った。少女は少年の許婚であるという。家柄のよかった少年にはすでに数多の縁談があったが、その座を射止めたのは、一つ山を越えた里の、古い名家の娘であった。娘は少年より三つほど年上であり、すでに大人びた美しさを備えていた。縁談は両親同士の話し合いと、少年に一目ぼれした娘によって一方的に定められたものであった。少年は乗り気ではなかった。少年は紅緒に恋をしていたのだ。しかし、それを両親に言えるはずもない。紅緒は山姥の娘なのだ。年を取らない永遠の少女であり、次代の山姥である。もしも山姥と契るようなことがあれば、山神の怒りは只事ではない、そのことは古くから伝わる、確かな重みを持った掟であった。
じれた許婚の娘は両親を伴って少年の家を訪ね、これを機に婚約を交わそうとした。首を縦に振らない少年に、勝気で我侭な娘は詰め寄った。すると少年はついに白状したのだ。己に他に好いた女がいることを。それが山姥の娘であることを。
その話を聞いた紅緒は幾つかの感情が一気に己の中で爆発したような気がした。少年に許婚がいたという事実に落胆し、さらに少年が己のことが好きだと話したという事実に天にも昇りそうな気がした。
しかし許婚の娘は黙ってはいなかった。
少年の想い人が山姥の娘だと知った娘は、二人の間に押しかけて言い放ったのだ。
「あなたがあの醜く嫉妬深いことで有名な山姥の娘なのね」
そして、あらゆる言葉で山姥のことを罵った。
――醜く汚い山姥は、嫉妬深くて女たちが美しい着物を着ているのを見ると腹を立てるのでしょう。美しい娘を攫って、着物を盗んで殺してしまうのでしょう。そしてその生き血で生を永らえるのでしょう。どうせこの子もすぐに醜くなるに決まっているわ。いえ、この子はあなたの美しさを妬んで騙そうとしているのよ。きっとあなたから精気を吸い、若さを奪い、美しさを盗み出すつもりよ。これまでもそうしてたくさんの命を奪ってきた。だからいつまでも若いままなのよ。
濡れ衣もいい所であった。しかし母のことを醜いと罵られたことが、紅緒に沸騰するような憎悪を抱かせた。怒りに、我を忘れた。
気が付くと、娘の首を絞めていた。腕でではない。己の、しゅるしゅると伸びた真っ黒な長い髪であった。少年は娘の首に巻きついた髪を解こうと必死になり、紅緒に向かって声を上げていた。我に返り、己の髪が起こしている事態に愕然とした。慌てて髪を緩めるように念じると、髪はほどけ、短くなっていった。
少年はぐったりとした娘を抱きかかえ、頬を叩きながら何事かを叫んでいる。娘の蒼白の顔を見て、紅緒は恐怖に駆られた。少年の顔を見ることもできず、犯してしまった過ちにがくがくと体を震わせながら、その場から逃げ出したのだった。
母の元へ飛んで帰り、己がしたことについて泣きながら話した。宮古は憑依の力を使ってすぐに少年と娘の様子を確かめに行った。幸いなことに、娘は無事であった。気を失っていただけで、すぐに息を吹き返したらしかった。ただ、まだ精神的な衝撃から、少年や家族に付き添われ、座敷の奥で臥せっているのだという。
娘が死んでいなかったことを聞き、紅緒はほっとした。しかし己がこれから二人に対してどうしていいのか分からなかった。会いに行くこともできず、悩み続けた。
数日後、紅緒は娘がすっかり回復し、両親とともに里に帰ることになったことを知った。紅緒は自分がしてしまったことを反省していた。母や己を罵倒されたことはまだ胸の奥底で蟠っていたが、それでも、娘が帰る前に、一言謝らなければならないと感じていた。許婚との縁談の件も気になっていたが、それは置いておき、まずは娘に謝ろうと決めた。
娘が帰る前日、謝るための機を窺っていた紅緒は、娘が少年を連れて山歩きに出かけたことを知った。どうやら娘は、この地を去る前に美しい紅葉の景色が見たいと少年に強請ったのだという。紅緒はかつて少年に、自分だけが知る紅葉が美しく見える場所を教えてあげたことがあった。そこではないかと見当を付け、己も向かうことにした。他の人間たちの邪魔もなく、娘と少年の三人だけで話すには好都合だと思った。
紅緒が二人に遅れてその場所にたどり着いたのは、午後の昼下がりであった。
そこで見たのは、麗しい少年とお高く留まった娘ではなかった。服を脱ぎ去った二人の男女が猛々しく絡み合っていた。少年は汗を飛び散らせながら荒々しく律動し、獣のように咆哮していた。娘は喜悦の声を振り絞りながら全身を蛇のようにくねらせていた。そこにいたのは、二匹の獣だった。
醜かった。おぞましかった。たまらない嫌悪感で吐き気を催した。にも拘らず、紅緒はそこから立ち去ることができなかった。いつ終わるとも知れない狂態に、その目を釘付けにされていた。果てても果てても、二匹の獣が体を離すことはなかった。延々と繰り返される獣の交接は、夕暮れに空が染まり始めるまで続いた。
夕日に赤く照らされた若々しい肉体と、玉のように吹き出る汗の煌き、尽きることを知らぬ情熱を目の当たりにして、紅緒は己の内側に、かつて感じたことのない熱が湧き上がっているのを感じていた。
互いの体液を搾り出し、啜りあった二人はやがて疲れ果てて倒れ付した。それでもなお互いを貪りあおうと蠢く二人を残し、紅緒はそこからふらふらと離れた。
その夜、紅緒は眠ることができなかった。一晩中月を見ながら、ほろほろと泣いた。胸の中で少年にさよならを言い、大人になんかなりたくない、なってたまるか、そう思って泣いた。
しかし皮肉にも、その日から紅緒の体は急速に成長を始めることになる。一日一日と背が伸び、体の線が丸みを帯びていった。体の内側から得たいの知れない生き物に生まれ変わるかのように、少女の体から女の姿態へと変わって行くのだ。自身が脱皮しているのではないかと錯覚するほどに、その変化は急激で顕著であった。紅緒は女へと変わっていく己の体が疎ましかった。芳香を放つようになった体毛が、ねっとりと艶めいていく肌が鬱陶しかった。
成長を止めるため、紅緒は再び食を断つようになった。
家に閉じこもり、後は水だけを飲むような日々を続けたが、それでも体の成長は止まることはない。背は伸び、骨格は少しずつ大人の体へと近づいていく。一方で体は肉が削げ落ち、げっそりとやせ細っていくのだ。心配する母の言うことも聞かず、紅緒は食を拒み続けた。
そんなある日のことである。母である宮古は、山姥の集いがあるということで、しばらく家を空けていた。紅緒が家で横たわっていると、どこからか聞いたことのない音が微かに響いてくるのが聞こえた。耳を澄ますと、鳥の鳴き声でもない、猪の足音でもない。
神代の森に程近い山の奥である。通常ならば、人が入ってこられるはずがない。母が遠出をしているときを狙って、結界を越えてきたものがいるのだろうか。あろうことか、音のしてくる方角は、神依りの大樹の鎮座する開けた原である。
気になって起きだし、音のほうへ歩いていくと、音は一つではなかった。幾つもの聞いたことのない音が、絡み合って響いてきていた。音には声のようなものも混じっている。もしや、かつて一度も見たことのない山神様だろうか、成長を拒み、初潮を拒む己を叱りでもするために姿を現したのだろうか。そんなことを考えながら、紅緒は恐る恐る音のする方向へと近づいていった。
やがて音の正体が少しずつ分かり始めた。音は旋律であり、拍子であった。そして声は歌であった。紛れもなく、人が神依りの原に入ってきているのだ。それも何人も。己の守る聖域を侵された怒りにかられながら、そっと原を覗き込んだ。
何十人もの人が原に溢れていた。男も女も麻の服を纏い、見たことのない髪結いをしている。明らかに里の者ではない。その人々は顔を上げ、一点を見つめていた。その視線の先には、神依りの大樹があった。いや、人々が見ているのは大樹ではなかった。大樹の下にいる一人の女であった。
女は踊っていた。
大樹の周囲は張られた根で小山のように盛り上がっている。その周囲に笛や太鼓を持った者たちが配置され、拍子を打ち、音を出している。
その中心で女は舞っていた。
小山を舞台にし、巨樹を背景にし、音を旋律にして、女は舞い踊っていた。
女は半裸である。奇妙な着物を纏っているが、肌が殆ど見えてしまっていた。女の動きに合わせて、全裸に近いほどに肌が露わになる。
紅緒の胸が高鳴っていた。あのとき、二人の交接を覗いたときと同じような高揚を覚えていた。しかし、それは背徳を犯す快楽や欲望に魅せられて引き起こされたものではなかった。
それは舞う女の圧倒的な美であった。
女の一つ一つの動作が紅緒には美しかった。流れるような動きからひと時も目を離す事ができず、瞬きすることさえ惜しかった。全ての瞬間の場面が、時を止めてしまいたいほど完璧に決まっていた。躍動する筋肉が時に弛緩し、時に弓のように弾かれる。その足の運び、手捌きが、なぜこのような動きができるのかと思われ、またなぜこのように魅了されるのかが分からなかった。女は天空へと飛び上がり、地面へと舞い降りていた。瞬時にして眼前へと迫ってきたかと思えば、さらりと後姿を見せて遠ざかっていった。それは錯覚であることは頭では分かっていた。しかしとても錯覚には思えなかった。
女の舞は、生きる喜びに満ち溢れていた。喜怒哀楽をはじめとする無数の感情が昂り、それが波動となって紅緒の鼓動を叩かせ、心の琴線をかき鳴らした。それはあまりにも豊かな命の、肉体の表現。湧き上がってくる衝動に、いつしか自らも動かずにはいられなかった。体が女の動きに合わせてゆらゆらと揺れ始めた。
それは女の周囲にいる者たちも同じであった。女の舞いに合わせて調子をとり始め、少しずつ動きが大きくなってきた。やがて音を鳴らす者たち以外が全員踊り始めた。
踊りもそれぞれが自由気ままで、決まった型などなかった。あるものは誰とも体を交わさずに一人で舞い、あるものは二人で体を絡ませ合い、あるものは数人で相手を交代しながら、それぞれ異なる舞を、半ば忘我の境地で踊り狂っていた。にもかかわらず、舞台の女を中心として、全体が一つの舞となって調和して見えた。
隠れて体を動かして紅緒であったが、もはやいてもたってもいられなかった。己もこの舞の一部となりたい、そんな想いが内側から響いていた。女を追いかけるように舞い踊る人々の群れに、紅緒はよろよろと歩いていき、紛れ込んだ。突然現れた紅緒の姿を目に留めた者たちは、紅緒の前に道を作ると、再びそれぞれの踊りへと没頭していった。
紅緒もまた本能のままに踊りながら、吸い寄せられるように女の踊る舞台へと近づいていった。体力は限界であり、意識は朦朧としていた。ただ体の動きは止まることなく、更に激しくなっていく。五感が研ぎ澄まされ、音も、色も、匂いも、空気も、いつもよりずっと鮮明になっていた。
気が付けば、紅緒は女に手を引かれて舞台に上がっていた。舞のことなど知らない紅緒が、女とともに見事な二人舞踊を演じていた。女の舞が体を導いてくれるようであった。
音とともに大きなうねりが到来し、舞が最高潮を迎えようとしているのが、紅緒にも分かった。うねりは周囲から女へと押し寄せてきて、更に大きくなって周囲へと返っていく。そうして次第に大きく高くなっていく。周囲の者たちは女を天上へと押し上げるように、女は周囲の者たちを天上へと導くように、互いに高めあいながら上り詰めていく。
紅緒を圧倒的な高みに放り出されるような開放感が押し包んだ。肉体も、感情も、精神も、味わったことのない極みに達した。波頭が砕け散るようにして意識は放散し、紅緒は天上の世を舞い踊りながら光の奈落へとどこまでも落ちていった。
目覚めると、紅緒は女の膝枕の上で寝かされていた。周囲では人々が酒宴を開いていて、賑やかに談笑していた。肉の焼ける香ばしい匂いと笑い声が原を満たしていた。
「おはよう。そなたが山姥の娘ね」
上半身を起こした紅緒に、優しい声で女は喋りかけた。あの舞台で舞っていた髪の長い女だった。
互いの名乗りあいも終わらぬうちに、紅緒は差し出された瓢箪の水を一気に呷り、血の滴る猪の肉をほお張っていた。信じられないほどの美味しさで、涙が零れた。肉と貪り、水を飲み干し、果実にむしゃぶりつきながら、初めて空腹に気付いたような気がしていた。全身が心地よく疲れ果てていた。
「あらあら、山の恵みを施す山姥の娘が飢えているなんて、聞いたことがないねえ」
女がそんな冗談をいい、周囲の人々を笑わせた。それに合わせて他の者たちも合いの手を入れて笑いを誘い、新たな冗談を言って笑いあっていた。紅緒はその間も、無我夢中で肉や果実を食べ続けていた。これが山を渡り歩く山人と、紅緒との出会いであった。
女は、あすら、と名乗った。あすら達は山人であるという。
山人とは何か、紅緒は知らなかった。あすらの説明によれば、山人とは山河を渡り歩く遊山民族であるという。山河での狩猟、採集に長け、自然の恵みを享受しながら、季節に寄り添って自由に旅を続けているのだという。山神をはじめとして山河の森羅万象に宿る魂を敬い、零れる恵みに感謝し、過去と未来に祈りを捧げながら今を生きる、流浪の民。それが山人なのだ、そう誇らしげにあすらは話した。
まるで山姥と同じではないか、そう紅緒は思った。母様は山人のことを知らないのだろうか。そんなはずがない。しかしなぜか母様は、山人について話したことはなかった。
温かな宴のなかで、一人一人が紅緒に挨拶をしていった。形式ばったものではなく、実に気軽に、年来の知り合いに挨拶をするように。山姥の娘であることを知りながら怖がることも、恐縮することもなく、一人の友として、一人の大人として扱ってくれる彼らに、紅緒は親しみを抱いた。同世代の者たちも多くいて、山野の暮らしを得意とする子等は屈託がなく、紅緒はすぐにうちとけることができた。
その日から紅緒と山人との交流が始まった。
山人たちは幾つかの季節を神代の森一帯の山野で過ごすことにするという。紅緒が出くわした宴は、神依りの大樹へ捧げられたもので、入山の挨拶だったのだ。紅緒は誘われるままに彼らと寝食を共にすることになった。紅緒も山野で暮らしてきたにも関わらず、山人の山野での暮らしは驚きの連続であった。野草や獣の知識などに関しては紅緒も負けてはいないが、驚くべきはその手わざであり、多様な遊びであった。
手わざに関しては、彼らは人里と深く関わっていた。山人たちは実に器用であり、様々なものを自然のものから加工して作り出すことができた。色々な種類の鉄の道具を持っていて、それを用いて木々を削り、箸やお椀や桶などの日用品を見蕩れるような手捌きで作っていった。女たちは木や竹から櫛や髪飾りなどを削りだし、それに彩色や特殊な処理を施し、見事な光沢の装飾品を作り上げていた。それらを人里に下りて売るのである。また人里でそれらの品々を売り歩きながら、男たちはかつて訪れたときに売った道具の修理を行ったり、その修理の仕方を教えてやったりしていた。手わざは実に多岐にわたり、狩猟の仕掛け、薬草の種類や煎じ方なども伝えたり、遠方で仕入れた新しい作物の種を、育て方の解説付きで配ったりしていた。一方で女たちは人里の女たちを集め、目新しい化粧の作法や美容法、着物の着こなし方などを伝えていた。人里の女たちにとって、山人の女たちは流行の発信源であり、子育ての仕方から旦那の扱い方まで面白おかしく話して聞かせる人々でもあった。野性溢れる山人の女たちから発せられる空気は闊達な自由の風であり、淀んだ日常に吹き込む新鮮な外気であった。
また遊びに関しても、人里のものたちにとって憧憬の対象となった。山人には狩猟も採集も遊びであり、遊びが生きることに直結していた。中でも、歌、舞い、楽器、詩句、語り、言霊、曲芸、幻術、奇術いわば芸能と呼ばれるものは、山人にとってかけがえのない、本気の遊びであった。彼らは商人や職人としての側面だけでなく、それらの芸能の技によって興行をしながら人里を巡っていた。サーカス団のような性格も強かったのである。
一説には天狗の子孫だと言われる山人は、人里に住む者たちと比べ、女たちは総じてみな美しく、男たちは傑出して逞しかった。体も一回りは大きく、頑健でかつしなやかであった。山野での暮らしは幼少の頃からかなりの肉体的負担を強いる。慣れていない人里のものでは、遊びながら野山を駆ける山人の、その後に付いていくことさえできないだろう。山人たちの誰もが傑出した肉体を持つのは、血を選んできたからだという。また、外の優れた血を貪欲に入れてきたからだとも。山人たちは女を崇める女系の一族であり、女たちの闊達さ、自由奔放さは人里の女からは考えられないことであった。そういった点から見ても、山人は独自の社会を作っていた。
彼らとの暮らしの中で、紅緒は山人の生きる哲学というものを少しずつ学んでいく。やがて紅緒は気づいた。彼らが命がけで人生を楽しもうとしているということに。大真面目でこの世を遊ぼうとしていることに。その遊びの哲学の根底にあるものに、一つずつ紅緒は気付かされていく。隣人への愛しさ、他者への優しさ、過去への感謝、未来への憧憬、森羅万象に向けられた敬意……儚い命の周囲に咲き誇る、諸々の美しき概念に。
また、それまで山野に迷い込む子供たちとしか関わっていなかった紅緒が、山人という、集団で旅をする異相の小社会と出会ったのである。そのことが、紅緒に新たな世の見方、視点をもたらした。山人の社会は女系社会であり、人里とは全く異なる風習、人間関係を持っていた。彼らと世の関わり方や、人里との交流を知るにつれ、紅緒は人の世のあり方、人と人の関わり、世と世との交流へと強い興味を抱くようになる。
そればかりではない。「語り」は山人たちの得意とする分野の一つであった。男も女も、語り、という技術に長けていた。そして語るための話を驚くほどに持っていた。それは己が経験したことだけではない。各地で集めた御伽噺や伝奇であったり、流布していた風説や風聞であり、語り継がれてきた神話や伝説であった。また、彼ら一族が旅してきた壮大な叙事詩であり、遠い遠い異国の歴史であった。或いは彼ら一人一人の持つ、血とともに受け継がれてきた先祖の系譜と伝記であった。時も場所も軽く飛び越える彼らの話に、紅緒は夢中になった。虜になったと言ってもいい。紅緒は山人にお話をせがみ、はらはらしたり、どきどきしたり、怒ったり、笑ったり、泣いたりした。
山人にとって面白かったのは、紅緒は話が終わっても、その続きを知りたがったことである。お話の終わった後のこと、その先に広がる世界を想像するのが紅緒は好きであった。山人たちの異国の話は、紅緒に外の世界への関心を呼び覚まし、未来や過去に対する眼差しをもたらした。それはやがて、自由への憧憬へと変わっていくことになる。
まず紅緒は、それまで当たり前だと思っていた己の境遇、山姥の娘である己という存在に、疑問を抱き始めた。
切っ掛けは、紅緒が父親に対して興味を持ったことである。幼い頃から山姥と二人きりであった紅緒は、父親という存在がいることを知らなかった。人里の子らと遊ぶようになってようやく、母と父が夫婦一対となって初めて子を為し、育てるのだと知った。その頃は別段、父が欲しいとか、羨ましいと思ったことはなかった。子供らの父と接することがなかったし、母との暮らしで足りていたからである。しかし、山人たちと暮らすようになると、祖父母、夫婦と子供たちで構成された多くの家族を目の当たりにする。紅緒は家族に歓待され、毎日いずれかの家族と寝食を共にした。そこには己が経験したことのない、温かな家族の生活風景があった。大人数での食事など賑やかな一家団欒は、紅緒にとって新鮮であった。父と息子、母と娘、兄弟姉妹、父と母、友、祖父母と孫、それぞれが異なる役柄、役割を与えられながら繋がっていた。濃密な人間関係があった。騒々しく、賑やかで、ときに鬱陶しいほどではあったが、紅緒はそういった関係を羨ましく感じた。
己を振り返ってみれば、紅緒は母と娘二人きりであり、父のことなど聞いたこともなかった。母である宮古が意図的に紅緒から父という存在を遠ざけようとしているのは明らかであった。紅緒が知らないのは父だけではない。母である宮古のことさえ、何も知らないのである。紅緒が物心付いたときには、すでに老婆の姿であった。紅緒は母がその姿のままずっと山姥として生きてきたのだと思い込んでいた。そんなはずはないのだ。母もまた誰かを母とし、誰かを父として生まれたのだ。赤子であった頃もあったはず、己のように少女であったこともあったはずなのだ。そして紅緒の父となる男と出会い、子を為したという過去があるはずなのだ。
山人の子らは、実に父や母のことを知っていた。というより、彼らには一族の血の系譜について幼少の頃から語られるという風習があった。また、古老が大切な語り部として敬われ、子供たちを前にたくさんの話をしたし、物語を受け継ぐということが重要視され、祭祀にも組み込まれていた。
紅緒は母から母の過去のことなど聞いたことがなかった。母は何処で生まれ、どのような子供時代を過ごしたのか、いつどのようにして紅緒の父と出会ったのか、父は何処へ行ってしまったのか。己が一切を知らないことに、紅緒は愕然とした。
旅から帰ってきた母に、恐る恐る山人のことを尋ねた。山姥である母が、山人に気づかぬはずはない。人が神依りの大樹に近づくことは大罪のはずだった。母が山人に山姥の力を使って災いをもたらすのではないか、紅緒はそんな心配をしていた。
母の反応は意外なものだった。
「あやつらは山守の眷属。山野と寄り添って生きる言祝ぎの民。気にせずともよい」
そういって驚きもしなければ、興味を示そうともしなかった。紅緒は安心し、自分が山人と知り合い、仲良くなったことを話した。山人がいかに豊かに、自由に、世を楽しもうとしているかを興奮して話した。母はそれを止めようとはせず、頷くこともなく、上の空の体であった。心配していたように、山人との関係を咎められることはなく、その後も付き合いを続けることとなった。
ある日、紅緒はついに母に尋ねた。
「ねえ母様、そういえば、私にはなぜ父様がいないの?」
さりげなく問うたつもりでも、声は震えてしまっていた。気まずい沈黙が訪れた。
「父か、そなたの父はとうに死んでしもうたわい」
母はきっぱりと言ったきりで黙り込んだ。動揺した紅緒はしばらく言葉を失い、口を噤んでしまった母に矢継ぎ早に尋ねた。
父様はどのようなお人だったの、母様とはどうやって出会ったの、いつ、どうして死んでしまったの…。
それらの問いかけに、母は一つも答えようとはしなかった。
「遠い昔のことさ、もう忘れてしまったわい」
しつこく紅緒が聞いても、忘れてしまった、そう繰り返した。仕舞いには、
「うるさいっ、忘れたと言っておろう」
母の怒声に、紅緒はびくりと体を振るわせた。涙が僅かに滲んだ。さらに母は吐き捨てるように言った。
「そんなに聞きたいなら教えてやろう。そなたの父はの、私と幼いお前を捨てて山を降りてしまったのさ。山神の怒りを恐れて、逃げ出してしまったんだよ。とうに野垂れ死んでいるはずさ」
明確な悪意を含んだその台詞は、紅緒には母との間に大きな亀裂が走った音に聞こえた。軽い眩暈を感じながら、何も言えずに呆然として立ち尽くした。
それきり紅緒は、父や母のことについて聞くことができなくなった。紅緒は母を心の底から慕っていて、生まれてからずっと母と二人きりだった。だから母に拒絶されることがたまらなく怖かったのである。
紅緒はこう思うようにした。父のことは母にとって触れてはいけないことのようだ。父などいなくとも、これまでも母と十分楽しくやってこられた。ならば最初からいなかったことにしてしまえばいいだけだ、と。
山人の子と父との関係を眺めていると、時にたまらなく羨ましい気持ちになることがあったが、そんなときは己にこう言い聞かせた。
母様は私にいろいろなことを教えてくれた。父親のかわりに、野山での暮らし方、遊び方をたくさん教えてくれた。父親などいなくとも不自由をしたことはない。むしろ山人の父親以上に、山野への多様な眼差しをもたらせてくれた。山姥として憑依の力を持つ母のお陰で、山野の姿が千変万化であることを知った。それは山人の父親でさえ及ばないことだ。私の母親は、母であるとともに、山人の父親以上のことをしてくれた、何を羨ましがることがあろう。
母への敬慕から父親への思いを断ち切った紅緒であったが、ある出来事によって父親の不在を思い知らされることになる。
それは些細なことであった。山人の家族と幼い子供たちを交えて山歩きをしているときのことだ。父親が一人の少年にせがまれて肩車をしてあげた。少年ははしゃぎ、肩の上で体を揺すって興奮している。何が楽しいのかとそれを見ていると、視線に気付いた父が紅緒にも「そなたもしてほしいのか」と微笑んだのだ。「まさか、もうそんなに子供ではありません」紅緒はそう答えながら、顔が真っ赤になっていた。自分が羨ましそうに見ていたのを知られ、恥ずかしかったのだ。
「いいではないか、別に恥ずかしがることもない」
そういうと、巨躯の山人はひょいと紅緒の体を持ち上げると、あたふたする少女など意に介することなく肩車をした。
紅緒は驚いた。予想以上の高さであった。周囲を見渡すと、知り尽くした風景が、山道が、まったく違う風景に見えた。たかだが人一人に担がれたぐらいで、これほどまでに視界は異なる、世の見え方は変化するのだ、そのことは新鮮な驚喜をもたらした。
肩車をされながら、紅緒は涙が零れてくるのを必死に堪えていた。最初はなぜ涙が出そうになるのか分からずに戸惑った。悲しいのでもない、嬉しいのでもない、それなのに、何か熱いものが胸の内から込み上げてくるのだ。やがて紅緒は気付いた。
――これが父親なのだ。
肩車一つで、違う世界を見せてくれる、自分に欠けていた父親という存在なのだ、と。
紅緒はぼろぼろと涙を零した。ばれないように上を向き、しゃくりあげそうになる声を殺し、肩の震えを押さえ込もうとした。その様子に気付いた山人は、何事かと慌てて紅緒を降ろした。目を真っ赤にして涙を堪える紅緒を、その大きな体で抱きしめた。
「どうしたんだい、思ったよりも高くて怖かったのかい」
大きかった、温かかった、その体も、手のひらも、声も。
傍らで心配そうに紅緒を見る少年が、背伸びをして紅緒の頭を撫でてくれた。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。お父ちゃんがしっかり支えてくれているから、落ちたりなんかしないんだよ」
父親そっくりの言い方だった。
紅緒は恥ずかしさも忘れて、山人に全身でしがみ付くと、逞しく広いその胸に顔を押しあて、涙を擦りつけながら、わんわんと泣き出したのだった。
その一件があってから、紅緒は母である宮古に僅かな蟠りを抱くようになる。なぜ母は父親のことも、母自身のことも話してはくれないのか。過去を知ろうとする紅緒をどうしてあからさまに拒むのか。背を向けて口を閉ざすその様子は、まるで何かを隠そうとしているかのようだった。
それまでの紅緒は、母を疑ったことなどなかった。しかし父のことが発端となり、母との関係がぎくしゃくし始めると、疑念を抱くようになった。
母は嘘を付いているのではないか、父について大事な事を隠しているのではないのか。
どんな嘘を付き、何を隠しているのかまでは、紅緒の考えは及ばなかった。予想もできなかった。ところがある日、旅の修験者によって、紅緒には考えも付かない残酷な可能性を、言葉にして突きつけられることになる。
その修験者は、山で倒れ付していたところを偶然、山姥と紅緒によって助けられた。手当てをしてやると、やがてすっかりよくなった。何やら難しいことばかりぶつぶつと言っている修験者であった。紅緒は男から旅の話を聞くうちに仲良くなった。その男が、旅立つ前に山姥から隠れて紅緒を連れ出し、ひそひそと話したのは、紅緒にとって信じられない話であった。
紅緒は山姥の娘などではなく、どこかの人里から攫われた子供だというのである。
「あんな醜い母親から、そなたのような美しい娘が生まれるはずがない。まず年齢が違いすぎる。そなたはあの鬼婆に攫われた神隠しの子に違いない。不自由な体の世話をさせるため、お前を、お前を愛していた二親から奪ったのではないのか」
そう言われた紅緒は男を張り飛ばした。母を醜いと言われたことに強い怒りを覚えた。何より、母がそんなことをするはずがない。怒りに震えながら言い放った。
心は男の言葉を否定しようとしていたが、一方で、母と己の関係に説明が付かない点が多すぎることに紅緒も薄々気付いていた。それを男は言葉にして突きつけたのだ。
「なぜ父親がおらん、聞けば、お前の母は父親の話をしたこともないという。当然だ、攫ってきたお前に父親の話などできるはずがなかろう。父親のことなど知らないのだから。
そなたは時が来れば山姥の後を継がねばならんのだろう。恐らく山姥は、山霊として己の後を継ぐための人身御供として、お前を奪ったのであろう。山の神は美しい女を好むのだから」
そして修験者は人里で語られる山姥の恐ろしい伝説を話して聞かせた。子を攫って食うだの、美しい女を妬んで縊り殺すだのといったものだった。
「そんなの嘘、ただの噂じゃない」
そう一蹴し、半ば実際に蹴飛ばすようにして修験者を見送ったが、心の奥底に吹き込んだ寒々しい疑念に背筋が凍りつくのだった。
紅緒は母親を信じたかった。だが、父や母自身のことを尋ねたときの反応が心に引っかかっていた。確かに母は何かを隠している。それは何か、考えれば考えるほど、修験者の言葉は辻褄のあうものだった。
やがて紅緒は膨れ上がる疑念を無視できなくなる。自分は本当に母の娘ではなく、次代の山姥として攫われた子供なのだろうか。
母を愛し、敬っていた紅緒にはそんなことを聞くことはできなかった。確かめることが怖かった。もしもそうなら、最初から私を生贄として捧げるために育てていたことになる。すなわち母の愛はすべてまがい物だったということだ。それは想像することさえ躊躇われることだった。幼い頃より、紅緒には母しかいなかった。母は全てであったのだ。
母に直接尋ねることができない紅緒は、人里に伝わる、山姥に纏わる伝説や噂を集めるようになる。それまではただの噂だと歯牙にもかけなかったが、修験者が話したように、語り継がれる言い伝えとは、確かな理由や切っ掛け、出来事に基づいて語られるものだ。紅緒はそこから真実を見極めようとしたのだ。
噂は百出した。山姥は善悪すら定かではなく、実体のない多様な姿で語られていた。確かに修験者が語ったような噂も多かった。一方では、山姥とは山野を守り、山野の恵みを人里にもたらす美女だという噂や、かつては豪族の才長けた姫であり、人里に芸能をもたらす巫女として山に仕えるようになったのだ、という言い伝えもあった。ある地方では忌み嫌われ、ある地方では崇められていた。ある人里では災いをもたらす悪鬼として口に出すことさえ恐れられ、ある人里では天から遣わされた美しい天女だと親しまれていた。
言い伝えの一つ一つを集めながら、紅緒はますます山姥という存在が分からなくなった。山姥の娘として次代のお役目を継がねばならぬ己自身に、疑問を抱くようになった。
私とは一体何なのだろう。このまま時が来れば、母から次代の山姥を受け継ぎ、今の母と同じように霊山を巡る御役目を務めなければならないのだろう。一度山姥になってしまえば、地霊として山野に縛り付けられ、もはやそこから出ることはできなくなる。山人とは違い、外の世を知らず、自由を知らず、恋を知らず、ぐるぐると同じ場所を回り続ける。そんな日々を送らねばならなくなるのだ。母のように老いさらばえるまで、ずっと。
そう考えたとき、紅緒はぞっとして思った。
――いやだ。そんなのは。
紅緒はそれから母の言うことをあまり聞かなくなり、反発するようになった。山姥としての修行もそこそこに、外の世界へと憧れながらぼんやりと過ごすようになった。暇があれば山人のところへ出向き、日がな話をせがんだり、踊りを教えてもらったりする日々が続いた。
紅緒はぼんやりと物思いに耽りながら、他愛のない夢を見るようになる。それは、母が隠している己の出自に纏わる妄想である。例えば、自分が実は山姥に攫われた里の子であり、どこかに本当の父と母がいて、自分を探している、という筋書きだったり、或いは、自分はどこかの国の姫君として生まれたが、国を滅ぼされて命からがら母とともに逃げ、辿り付いた山野で詩に瀕した実の母から山姥に託された、という筋書きであった。若干の舞台設定の変更はあるものの、紅緒が妄想する話はいつも、山野に縛られる悲劇の姫君だとか、天上からの迎えを待つ囚われの天女、というものであった。それは山姥の噂話から枠組みを借り、己に都合よく脚色された妄想であった。紅緒は、少しずつ迫ってくる山姥継承の儀という現実から逃避するため、懸命に想像の翼を広げ、いつか自由な空を駆け回ることを夢見ていたのである。
その理想の姿として、紅緒はいつも、あすらの姿を思い浮かべていた。あすらの美は、まさしく天上のもののように思えた。その舞も、歌も、大地から解き放たれて華麗に空を舞うようであった。山人に語られる御伽噺に、天女の羽衣という話がある。その中で、天上の世に住む天女の纏う羽衣は、至上の美であると語られている。紅緒には、あすらが、天女の羽衣を纏っているように見えた。あすらこそ、天から遣わされた伝説の天女なのではないのか、そう本気で思っていた。
紅緒は老いた母に己を重ね合わせることを拒む一方で、山人であるあすらに憧れていった。その躍動する奔放な命に、天女の羽衣を纏ったしなやかな魂に。
以前は、成長していく己の体には違和感があり、醜く変化していくような気がしていた。しかしあすらと出会った事で、それまで嫌悪しか感じなかった体の変化に、燃えるような期待感を抱くようになった。日々、蛹から脱皮していくような、そんな快感があった。それだけではない。山人との日々を通して、紅緒はこう考えるようになる。
大人になるとは体が成長することではない。自分の意思と力で生きていくということ。己の生き方を自ら選び取り、生きていく世を自身の手で造り上げようとすることだ、と。
山姥のお役目への嫌悪と、山人に憧れる自由への渇望と比して、母への疑念は膨れ上がっていった。ある日、ついに紅緒は、決定的ともいえる証拠を掴んだ。それは、社の秘密の部屋に母が隠し持ち、大切に保管していた着物を発見したのだ。その着物はかつて見たどんな着物よりも壮麗であった。鮮やかな色彩と装飾が施されていた。姫君の着物であった。本当に天女の衣なのではないのか、そう思ってしまったほどである。内側には宮古とは全く異なる名が縫い取られていた。即ち、これは母の着物ではない。だとするならば、一体誰のものなのか。母が隠し、大切に保管し続けたこの美しい衣こそ、私の実の母親のものではないのだろうか。
紅緒は数多ある伝説の中から、一つの言い伝えを思い出していた。
山野に舞い降りた天女が、一人の逞しい山人と恋に落ちた。天女は娘を身ごもり、産み落としたが、横恋慕した山神と醜い山姥によって両親ともども殺されてしまう。山姥は天女の羽衣を奪い、山神に言われるまま、美しい天女の赤子を次代の山姥として育てることにする、という話であった。
さすがに紅緒でも、その話がそのまま真実だとは思えなかった。しかし大筋としては間違っていないのではないのか、そう思い込んだのだ。母への疑念は最高潮に達し、かつての敬慕は憎悪へと取って代わろうとしていた。
そんなときであった。紅緒は夢を見た。目覚めるまで夢だとは気付かなかったほどに、鮮明な夢であった。空から降ってくる声で、紅緒は目を覚ました。そして慌てた。そこは見知らぬ野原であった。空から声が降ってきて、こう名乗った。我は山神である、と。
紅緒が山神に語りかけられたのは初めてであった。それまでその存在を疑ったことはなかったが、実際に姿を見たことも、声を聞いたこともなかったのだ。
声はこう告げた。山姥のお役目を拒む愚かな娘よ。そなたの勘違いを正してやろう。そなたは紛れもなく宮古の娘よ。なぜそなたの母があのように醜く老いさらばえているのか、その原因はそなたにこそある。見るがよい、母の真実の姿を。
野原が足元から消え去り、一つの場面が紅緒の周囲で再現された。
山神が見せた真実は驚くべきものであった。かつて絶世の美貌を誇っていた山姥の宮古は、山神との約束を破り、逞しい山人と恋に落ちる。そして一人の子を身ごもる。山神は激怒し、何とか流産させようとするが、宮古は一匹の九尾の助けを借りて子を守る。話し合いの末、宮古は約束を交わす。この子は山姥として育てます、と。山神はひとしきり考えると、こういった。
その娘はそなたに似て美しいであろうから許そう。さらに山神は続けた。
その代わりにお前は醜い老婆の姿になってしまうがいいのか、山姥であるそなたは、永遠に若々しさと美しさを保つことができる。しかし、その子に山姥としての力を分け与えることで、年老いた老婆へと変わってしまうだろう。踊ることは愚か、歩くことさえ覚束ないよぼよぼの老いぼれになる。それも、永遠にだ。
宮古は躊躇うことなく、構わないと答える。
さらに山神は続けた。
一度約束を破ったそなたを信じることはできぬ。もう一つの約束をしてもらう。
娘が年頃になったら、山姥の代替わりの儀を行い、そなたは全ての力を娘に譲るのだ。もしもこの約束を破ったならば、そなたはその眼を失うことになる。それでもいいのか。
宮古は答えた。
「なぜ私が山神様との約束を破りましょう。山神様の温情で助けられた愛し子の命、必ずやこの子は良き山姥にして見せます」
そして宮古は紅緒を生んだ。紅緒は年老い、永遠の老婆となった。
紅緒は真実を知り、慟哭した。母が醜く老いてしまったのは、己を生んでしまったからだったのだ。にも拘らず、己はその醜さを嫌悪し、あまつさえ母を人攫いだと思い込んでいたのである。
山神は更に続けた。
そなたの父は、醜くなった宮古を一目見るなり、幼子のお前もろとも捨てて山を去ってしまったのだ。宮古は生涯一度の恋のつもりで己を捧げ、ともに子を育てる約束を交わしていたにも関わらずな。所詮、人の男など、父親などその程度のものよ。容易く命をかけると言っておきながら、生まれたばかりの娘と醜くなった妻を振り返りもせずに逃げ出したのだからな。
その言葉によって、紅緒は焦がれていた父親像に失望する。醜いからという理由で母を捨て去った父親に強い憎しみを抱いた。
「紅緒よ。そなたが次代の山姥にならなければ、宮古は再び約束を破ることになる。そうなれば宮古は眼を失ってしまい、獣以外の目で世を見る手段を失ってしまうのだ」
山神の最後の言葉が、紅緒にとってとどめの刃となった。
眼を覚ました紅緒は、真相を知ったことを告げ、母に泣いて謝った。己が母をずっと疑っていたことを、洗いざらい話した。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、
「ずっとずっと母様の側にいる。山で暮らす」
そう誓った。宮古は慰めるでもなく、諭すでもなく、黙って紅緒の話を聞くと、困ったような顔で頭を撫でながら頷いた。紅緒は己の感情を溢れさせるので精一杯で、このときの母の途方に暮れた顔と、肩を落として頷いた理由には気が回らなかった。宮古はこのとき、紅緒には思いも付かないことを考えていたのである。
我が子をいつか山から出してやりたい。紅緒が幼い頃からずっと、そう宮古は願っていた。どうすればあの子を人の世へと送り出せるだろう。山野に縛り付けられているあの子を、自由にしてやることができるだろう。それは宮古の悲願であった。
娘が己の奇妙な力の使い方を知るまでは、宮古は見守ってやらなければならなかった。しかし、やがて成長し、自らの力で生きていく意志を宿したときには、己が交わした山神との約束を破り、お役目から自由にしてやろうと考えていたのである。
己に必死で謝る紅緒を見ながら、宮古はその優しさが、健気さが、真っ直ぐな心が嬉しかった。一方で、紅緒を外へと出すまいとする山神の計略に胸の中で舌打ちをしていた。宮古が老いた原因と、新たに交わした契約を知ってしまったことで、紅緒は罪の意識と義務感から、自らの意志で山を降りることはないだろう。
――なぜなら、あの子は優しい子だから。
そう、宮古は精一杯の愛情を注いで我が子を育てながら、いつも思っていた。自分にまっすぐな敬慕を念を示してくれる可愛い娘は、その優しさが邪魔をして、成長をしても山を降りようとはしないだろう。私を案じ、私の側にいようとするだろう。この子には、私を捨ててしまうことなどできるはずがない。私を想う気持ちが、この子を山に、いや私に縛り付けることになるだろう。嬉しさとともに、宮古は複雑な思いに駆られるのだった。
そのために山神の目を盗んで色々な手を打ってきた。山人を遣わして外の世への道筋を示し、自由というものに憧れを抱かせた。あすらという舞い手と引き合わせもした。思惑通りに紅緒は外の世に興味を持ち、自由を求め始めた。しかし、その不穏な空気に気付いたのか、実体を持たぬ山神は幻術という手段で、紅緒に真実を見せたのだ。もし紅緒が山を降りてお役目を拒めば、母である宮古が眼を失ってしまう、という誓いの場面を。さらに父が幼い紅緒と宮古を捨てたという嘘により、紅緒に男を信じられなくさせたのだ。
このままでは、初潮の訪れとともに紅緒は代替わりの儀式を行わなければならなくなる。そうなったらもう二度と自由にはなれない。永遠に霊山に体を縛り付けられてしまう。何とか初潮が来る前に、紅緒を山から解き放ってやらなければならない。山人の一族の出立に紛れ込ませて、何とか紅緒を逃がしてやらなければならない。そう宮古は考えていた。
初潮が始まったのは、紅緒が泣いて謝った日から間もないことで、まさに山人たちの出発の数日前だった。もしかすると、山姥のお役目を継ぐという決意が成長を促し、初潮を早めたのかもしれなかった。
予想以上に早く訪れた初潮に、宮古は歯噛みをした。時よ、もう少しゆっくり流れてくれないだろうか。覚悟はしていたが、娘との別れは心を引き裂かれる想いであった。
紅緒を山から出すために、宮古は一計を案じた。紅緒にすぐに代替わりの儀式を行うと告げた。山野の縛りを宮古から次代の山姥である紅緒に受け継ぐ儀式である。それが終われば、紅緒は二度と山野から出ることはできなくなる。
頷いた紅緒は、決意の炎をその瞳に宿らせていた。
宮古は尋ねた。
「それがどのくらいの時間になるのか、そなたには分かるかい」
紅緒は首を横に振る。百年? 二百年? 想像するだに恐ろしい呪縛の時間がどれぐらいなのか、見当もつかなかった。
宮古はたっぷりと時をとり、さも恐ろしげに答えた。
「途方もない、果てもない、永遠というときを、そなたは山野に彷徨わねばならなくなる。それでもいいのかい?」
娘の決意の炎が怯えで揺らぐのを、宮古は確かにみた。
紅緒はその言葉にぞっとしていた。永遠という終わりのない呪縛。永遠の囚われ人。旅人の言葉を思い出し、心が凍りつくような気がした。それでも紅緒は母のためにその儀式を受けようとした。
「いいわ。私は山姥の娘だもの。獣や鳥たちがいるから寂しくないし、当然でしょ」
透けて見える強がりに、困った宮古は友の妖狐の助けを借り、一芝居打つことにする。
それは代替わりの儀の前夜であり、山人の一族が出立し、紅緒は涙とともに別れを告げて見送った日の夜であった。山人との別れとともに迷いを断ち切り、覚悟を決めたつもりであったが、不安のために眠りは浅かった。紅緒は、奇妙な物音に目を覚まし、傍らで寝ているはずの母がいないことに気付く。厠かしら、そう思ったが、しばらくしても帰ってくる気配はない。外へ出ると、どこにも母はいなかった。山神様と代替わりの儀の話し合いでもしているのだろうか。胸騒ぎを感じた紅緒は、母の後を追うことにした。山神様と会っているとすれば、恐らくあの神依りの大樹の場所に違いない。
静けさの漂う山道を進み、大樹の原へと辿り付いた。こっそりと大樹を窺うと、やはり母はそこにいた。白く輝く神依りの大樹の前に、何かを呟きながら立っている。
実体のない山神が、神依りの大樹に宿り、母と会話をしているのだと分かった。紅緒は神経を集中し、耳を澄ませた。
――もうすぐあの娘が私のものになるのだな。
くぐもった男の声であった。それに、母の声が答えた。
――ええ、あの娘もようやく諦めたようで。山人の出発を涙ながらに見送っておりました。あのときの山神様の見せた幻術が効いたようで、私が老いたのは己のせいだと、すっかり信じ込んでおりました。さすが山神様。
――なんの、そなたこそ。攫ってきた赤子に、そのなりで己を母親と信じさせるとは、たいした芝居上手ではないか。それにあの娘に優しさに付け込んで山に縛り付けるとは、お前の悪知恵も呆れたものだ。
――そりゃ必死に芝居もしますよ。山野での暮らしには飽き飽きですもの。あの子には私の後を継いでもらわなければ。次代の山姥となって、地霊として縛り付けられ、永遠に老いてもらわなければならないのですもの。そうすれば私は、あの子の美しさと若さを奪うことができる。美しい姿のまま、この山から解き放たれて自由に何処へでもいくことができる。そのためなら、どんな芝居だって、演技だってやってのけますよ。
山神と母との会話を聞いた紅緒は、それを現実のものとして受け入れられず、思考を停止させていた。もはや、何を信じてよいのか分からなかった。
ただ、悲しくて、悲しくて仕方がなかった。
その夜、二人の会話を盗み聞きした紅緒は、そのまま家に帰ることはなかった。その足で山人たちの跡を追って旅立ったのだった。
次の日の朝、山神を演じた妖狐が宮古に言った。
「お婆、本当にあれでよかったのかい。あれでは、お前があの子に注いできたすべてが嘘になってしまう。あの子はお前を憎むだろう。愛が信じられなくなるだろう。そのことが、今後あの子にとって本当にいいことだとは私には思えなんだ。お婆が注いだものが本物だった。それを知っていた方が、これからのあの子にどれだけ支えになることか」
「よいのです。あの子がこれから、本当に信じられるものを、大切なものをみつけ出すための励みになればいい」
宮古は去ってしまった愛しい娘との思い出を反芻しながら、
「いまさら解き放たれたとて、私にいいことなどありゃせんわい」
そういうと、皺だらけの顔で泣き笑いする。それはうれし泣きであり、同時に、二度と帰ってこないであろう紅緒の喪失感による悲しみの涙だった。
掌――ふるさと小憩
紅緒が山人を追って山を降りてから時は流れる。宮古はしばらく一人で暮らしていたが、あるとき、友である九尾の可奈から、娘を預かって欲しいと頼まれる。まだ幼く尻尾も生えそろわない妖狐、千代であった。宮古は託された千代と暮らしを共にするようになる。宮古の下で千代は健やかに成長し、その様を見ながら旅立った我が子に思いを馳せる日々であった。もう二度と帰ってくることはないと諦めていたが、それでも安否を気遣い、祈りを捧げない日はなかった。
夢に可奈が現れたのはそんな頃である。可奈は、千代を育ててくれたことを宮古に感謝し、これから究極の変化を試み、最後の戦いを挑むことを告げた。そして、残していかねばならない愛娘を案じ、千代の新たな旅に三人の従者を付ることを依頼した。野風や雲斎は噂に名高い妖であり、千代様を守るのに申し分ないように思えた。だが、紅緒の名を聞いたときには平静ではいられなかった。
「しかし…娘が従者として相応しいでしょうか」
娘の噂も山姥のもとにしばしば入ってきている。好ましく思えないものも多い。
「それはそなたが一番知っておろう。紅緒はお主が育てた娘」
そう可奈は微笑む。
「最初はそなたに従者を頼もうとも思うた。そなたの憑依の術と山野や妖の知識は、きっとあの子の旅を助けてくれるであろうから。しかし山姥は山から離れることができぬのが理。その代わりにそなたの娘を選んだのじゃ。憑依の力はそなたほどではないが、紅緒は市井の事情に通じておる。それに、紅緒の憑依を使えば、山奥にいるそなたとの連絡も可能であろう。紅緒を連絡役として、そなたには旅の先々で助言を与えて欲しいのじゃ。まあお目付け役といったところか。そなたも娘のことや千代のことが気になろう。お目付け役を口実にすれば、堂々と一行の近況を知ることができるではないか」
確かにそれは可能だ。しかし…と宮古は思う。
「あの子がそのようなお役目を受け入れるとは到底思えませぬ」
「なぜじゃ?」
そう可笑しそうに尋ねる可奈に、宮古は怪訝な顔をした。可奈様も一役買っているのだから、そのときの事情は知っている、忘れてしまったのだろうか。
「可奈様もご存知のように、紅緒は私のことを殺したいほどに憎んでいるはず。その証拠に、あの子が出ていってから一度も帰ってきたことはありません。あの子にとって私は、山姥のお役目の身代わりとするため、愛する両親から赤子を攫い、騙して育てた鬼婆。私と連絡を取り合うことなど望むはずがありますまい」
そう寂しそうに言う宮古に、可奈はまた意外な言葉を告げる。
「実は、私もそう思っておった」
「は?」
宮古の表情に、可奈は惚けたような顔をして悪戯っぽく笑った。
「宮古、実はの、そなたの夢に現れる前に、既に紅緒との約束は取り付けておるのよ」
呆けたような顔をしたまま、宮古は可奈の言葉の意味を掴みかねていた。
「そなたの娘は快諾してくれたぞ。我が娘の従者となり、そなたとの連絡役となるお役目を引き受けてくれたのじゃ。我が娘に会うために、もうこちらへ旅立っているはず」
――まさか、そのようなことがあるはずがない。
宮古は静かに胸の中で叫んだ。言葉を失う宮古に、可奈は嬉しそうに微笑を向けた。
「よかろう。紅緒には内緒にするように言われておったが、幻術を使って見せよう。そなたの娘が、なぜ死ぬほど憎んでいたそなたと連絡を取り合う気になったのか。紅緒はこの山を下りてより長い間、そなたのことをどのように思うておったのか…」
可奈が紅緒の夢に現れたのは、宮古に遡ること数日前である。夢の中で可奈は、紅緒が山を下りた日の真実を見せる。宮古に頼まれて山神を演じたこと、宮古自身は己を、攫って育てた紅緒を永遠に山に縛り付けようとする鬼婆に見せかけたこと。そうでもしなければ、優しいお前が山を下りることはないと言われ、宮古と共に一芝居を打ったこと。そのことを幻術によって見せ、包み隠さず話した。
「――すまなかったのう。本当はもっと早く伝えるべきことだった」
可奈がそう謝ると、紅緒から返ってきた言葉は意外なものだった。
「存じておりました。とうの昔から。すべてが母と可奈様のお芝居であったことは」
驚いた可奈は、それならばなぜ――そこまで言葉にして、口を閉ざした。
紅緒の頬に、一筋の涙が流れていた。
「それならばなぜ、母に会いに行かないのか、そうお思いなのでしょう」
悲しそうな目を可奈に向け、紅緒はいった。
「私が母に会いに行かないのは、母を憎んでいるからではありません。母が私を攫った鬼婆などと、そんなお芝居はとうに見抜いておりました。だから本当は、山を下りてからも、会いたくて、会いたくて仕方がなかった」
「では、なぜ…」
「私が母に会いに行けぬのは、罪人だからなのです」
はらはらと涙を零しながら、紅緒は話し始めた。
――山を下りた後、私は山人たちに合流し、彼らと共に人の世を渡り、流離ってきました。私は焦がれていた自由を手にしたのです。しかし旅はそれだけではなかった。旅で味わう人の世の厳しさ、過酷さは、山野の恵みを受けながら獣たちと暮らすことの比ではなかった。自由とは、私が思い描いていた理想とはかけ離れていました。辛いことや悲しいこと、醜いことで溢れていました。そのたびに思い出すのは、母のことでした。母の優しさであり、言葉であり、想い出でした。
母と過ごした長い時間、母から感じていた愛が、あれが演技であったはずがない。あの夜の山神との語らいこそ、演技であったのではないだろうか。私はそう思うようになりました。
母の愛をいったん信じてしまえば、それは自明のことなのです。私が好きだった母なら、きっとそうしただろう。私のために嘘をつき、演じ、私を何とか山野から逃げ出すように仕向けただろう。
そしてある日、私は気が付いてしまったのです。あの夜、私が内心では薄々、母が芝居をしているのだと分かっていたことに。
そう、私は気づいていたのです。心の奥底では気づいていながら、それを気づかぬ振りをしていた。真実に蓋をして、騙された演技をしていた。なぜなら、私はずっと探していたから。山野を下りるきっかけ、母を捨て、霊山を去る口実を。
私はあの頃、自由になりたかった。このままでは山野に縛り付けられたまま一生を過ごさなければならない、そう思って怯えていました。心の表面では、母の世話をし続け、身代わりになることを決めていました。しかし本当はそれが嫌で仕方がなかった。だからといって、母を捨てていくことなどできるはずがない。だから私は本当の気持ちに蓋をして、見て見ぬ振りをしていました。
だからあの夜、私は騙された振りをしたのです。
母が一芝居を打ったように、私も演じていたのです。
攫った子を騙し、人身御供にしようとする鬼婆から逃げ出す、そんな尤もらしい芝居を。だが、母の芝居は私を思いやってのことだったのに比べ、私の芝居は、母を捨て去る罪悪感から逃げ、自分を正当化し、しかも母を貶めるという、自分本位の醜い欲望からきたものでした。
そのことに気づいてから、私は自分の心の醜さを思い知り、ずっと恥じていました。
私が帰れなくなったのは、自分の醜い心を見透かされてしまいそうで怖いからなのです。母の意を汲んでとか、母がそう仕向けたのだからとか、そんな言い訳をして罪悪感をごまかしてきた私の心を知られたくないのです。
母は私の優しさを想って、一芝居を打った。しかし私はその気持ちを踏みにじり、あまつさえ利用して、母を捨てる口実としたのです。私は山を下りてから一度たりと、母を憎んだことなどありません。それどころか、山を下りてから一体何度、母の元へ帰ってその胸に飛び込みたいと思ったことか。どれだけ母に抱きしめられて泣き叫びたいと思ったことか。
しかし、どうしてもできなかった。私はお役目から逃げ、母を捨て去り、愛を欺いた罪人。そんな私が、どうして母と会うことなどできましょう――
そう話しながら、紅緒は静かに泣いた。
可奈はそれをしばらく見守ると、そっと語りかけた。
「お主が罪人だというのなら、その罪はもう許されておる。いや、子が親に迷惑をかけることが罪であり、親が子に迷惑をかけることが罪だというのなら、そのようなものは親子ではない。親は子を負い、子はいつか親を負うもの。そこに功罪など存在せん」
そして愛娘である千代のことを話し始めた。宮古の下へ預けていた千代を置いて、我は旅立たねばならない。千代は私を追って山野を下りることになるだろう。そのお供をしてもらえないだろうか。あやつはまだ幼く、か弱い。世を渡るには手助けが必要じゃ。旅先で宮古の助言も必要になろう。お主には一度故郷に帰って千代と会ってもらいたい。そして宮古との仲介役を引き受けて欲しいのじゃ。
「しかし、いまさら母に会うことなど…」
そう未だ言い淀む紅緒を、可奈は遮った。
「それならこう考えればよい。お主はちょっとの間、家出をしていただけのこと。意地を張っていないで帰ればいいではないか。いやむしろ家出というより、惚れた男を追いかけて家を飛び出した、というのがよいか。振られたからといって恥ずかしがらず、素直に里帰りすればいいではないか」
それが当たり前のようにいった。その言い方があっけらかんとしていたので、紅緒はくすりと笑みを零した。己の悩みが急にちっぽけになったように思えた。
「家出、ですか?」
「そう、お主は罪人などではなく、ただの家出娘、いや出戻り娘じゃ」
ぷっと思わず噴出してしまった。
「帰っても、いいのでしょうか」
俯いて、そう漏らした。
「何を遠慮することがある。霊山はお前の故郷であろう。宮古はお前の母であろう」
その言葉に、何か胸の支えがぽろりと取れたような気がした。母に会ってもよいのだ。母に会えるのだ。そう思うと、抑えてきた想いが込み上げていた。山を下りて以来、強がりで蓋をしてきた望郷の念、母への憧憬が一気に胸の奥底から溢れてきた。
母に会えるのだ、そう思って、紅緒は存分に泣いた。母に会う前に泣いておかなければならなかった。会えばきっと泣いてしまう。しかし母の前で涙を見せるわけにはいかなかった。ならば、会う前に思う存分泣いてしまおう。そう思った。
――ずっと、色々なことを話したかった。聞いて欲しかった。辛かったことも、悲しかったことも。楽しかったことも、嬉しかったことも。つらいときはいつも、母様とのことを思い出したわ、母様の声が、言葉が、心が、私を支えてくれたわ。
そう感謝し、そして一言謝りたかった。母様を捨ててごめん、と。
しかし、それはしてはいけない事だった。母は私に罪悪感を与えないため、子を攫った鬼婆を演じたのだから。
ひとしきり泣くと、紅緒は覚悟を決めた。母の前では決して弱音は吐かないと。自分を犠牲にして私を送り出してくれた母のために。山を捨ててしまった私の幸せを願ってくれている母のために、この世を楽しんでいることを存分に見せ付けてやろう。
演じ続けよう。母の演技に気づかない振りをして、昔と同じように憎まれ口を叩きあっていこう。時々会いに行くだけでいい。辛いことがあったときや、悲しいときあったとき、会いにいこう。空元気でも、強がりのお芝居でもいい、母の前でひとしきり演じて、元気を貰おう。そうすれば、また人の世で生きていく力が湧いてくるから。
そう心に心に誓うと、紅緒は故郷に向かって涙を拭った。
数日後、可奈の力によってその光景を見せられた宮古もまた、光を失った瞳をから溢れた涙で袖を濡らしたのであった。
その後、紅緒は霊山へと里帰りを果たし、そのまま千代の旅へと同行することになる。旅先で憑依の術を使って宮古と連絡を取り合い、千代の旅を報告したり、宮古から紅緒を介して旅先へ助言が与えられることもあった。
年に数回、紅緒はひょっこりと一人で里帰りをすることがある。そんな紅緒を、宮古は「この家出娘が」とか「親不孝ものが」とわざとらしく悪態をついて迎えるのが常だった。そして二日目には、「さっさと山を下りい、この穀潰しが」と罵るのだ。
紅緒は紅緒で、里帰りするときは豪奢な着物を着て化粧をし、珍しいお土産を見せびらかすように持参し、人の世をさも満喫しているという風にはしゃいで見せる。人の世がいかに山での暮らしに比べて華やかで、活気に満ち、楽しいものであるかを聞きもしないのに語って聞かせる。
早く追い出そうとする宮古は、そんな紅緒に、
「は、くさいくさい、何でこんなに臭いんだろうね。都のお化粧だか香り袋だか知らないけど、こんな匂いが染み付いては、獣たちが寄り付かなくなってしまうよ」
紅緒も負けずに、
「何よ、獣たちの獣臭や糞尿の匂いの方がずっとひどいじゃない」
そんな風な憎まれ口を叩くのだった。
紅緒がそのような態度をとるのは、母を喜ばせ、安心させたいからである。例え人の世で辛いことがあっても、そんなそぶりを見せることはない。心配させたくないのである。また宮古の突き放すような言動の裏には、紅緒に母の側にいられないことでの申し訳なさを感じて欲しくないからであり、人の世での幸せを見つけて欲しいからである。
顔を突き合わせば、お互いに邪険に接し、憎まれ口を叩き、罵り合っている。実はそれは、互いが互いのために演じあっているという不思議で複雑な状況なのである。そしてそのことを、当人たちも分かり合っているのである。そんな茶番劇であっても、二人は望んでそれを演じ続けているのであった。
紅緒が久しぶりに、千代と共に霊山に立ち寄ったときのことである。
千代は紅緒に向かって尋ねた。
「のう、紅緒。他の二人は私の従者となるのに条件を付けてきたのに、お主は何もなかったのかや。私の供をするために、それまで暮らしてきた土地と、そこでの生活を捨ててきたのであろう」
「いいのですよ。たいした暮らしをしていたわけではありません。所詮私は旅かける遊女。根無し草ですから」
「そうか、つまらんのう」
千代はそう言って笑った。その様を見た紅緒は、ふと思いついて、楽しそうに頷いた。
「それじゃ、一つだけお願い事をしても宜しいですか」
「願い事、とな。一体何じゃ」
千代は好奇心丸出しで体を乗り出した。紅緒に耳打ちされると、
「なんじゃ、それしきのことか」
拍子抜けしたように千代は言った。
「それに、いったい何のためにそのようなことを?」
不思議そうに問いかける千代に、紅緒は答えた。
「なあに、大したことじゃありません。かつて母が千代様と企てた小芝居のようなもの。今度は私の一人芝居の演出に、ちょっと手を貸して欲しいのです」
そう悪戯っぽく微笑んだ。
その日、紅緒は宮古を誘い、懐かしい場所へ夕暮れを見に行った。
そこは霊山でも美しい夕暮れが見える高原で、二人は暮れていく夕日と赤く染まっていく景色を眺めていた。宮古は飼いならした雌リスを肩に乗せ、そのリスの目で風景を見ていた。宮古が紅緒から少し離れて前に立ち、紅緒はその背後で草に座っていた。すると雄リスが突然現れ、雌リスの前で艶っぽい動きを繰り返した。雌リスは雄リスに誘われ、宮古の肩から飛び降りると、そのまま何処かへいなくなってしまった。突然解けてしまった憑依に、宮古は不思議そうに首を傾げる。
「何じゃ、あやつ。普段はこんなことはないのに。言うことを聞かなくなってしまうとは、憑依の力が弱まったのかのう。せっかく美しい夕暮れが見えるというのに」
「なあに、振られたらすぐに帰ってきますよ」
「ふん、お主のようにか」
宮古は別の獣を呼び寄せるため、指笛を吹こうとした。宮古自身の目は潰れ、憑依の力を使わねば何も見えない。すると紅緒が言った。
「私の目で夕日を見ればいいではないですか」
娘の声色が少し緊張を孕んでいることに宮古は気づいた。しかし気づいたことを悟られぬように装った。
「ふむ、そなたの目が町での暮らしで濁っていないか、確かめてやろう」
そう言って紅緒の目に意識を憑依させた。
宮古は不思議に思った。夕焼けはさっきまで己が見ているものとは本当に違っていた。景色が不自然に滲んでいた。もっとよく見ようと意識を集中させた。紅緒の視界に映っているのは、夕日に染まる山野の広がりだけではなかった。夕日に赤い輪郭を浮かび上がらせているのは、宮古自身であった。宮古は己の姿が夕日で照らされているのを、背後に座る紅緒の視点で見ているのである。紅緒の声が聞こえた。
「綺麗ね…」
紅緒の声が微かに震えていた。宮古は己の、いや娘の視界がにじんでいる理由を悟った。紅緒が綺麗と言ったのは、夕暮れの景色だけを言っているのではない。老いた母の姿のことを言っているのが、宮古にも分かった。
「美しいだろう…」
宮古の声も、景色と同じように滲んでしまっていた。
「ええ、旅先のどんな風景より、色町で見たどんな遊女より、お城で見たどんな姫君より、ずっと美しい」
万感の想いの込められたであろう娘の言葉に、宮古は鼻を啜り上げた。
雌リスを撒いてこっそりと帰ってきた雄リスが、そんな二人を視界に捕らえた。夕暮れに二人して涙ぐむ母娘が、いつまでも不器用に寄り添っていた。
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