第4話 毛毬のあだうち志願

 百鬼夜行を束ねる千代姫には無数の手下がいたが、中でも四人の妖が側近として名を知られている。一人は野風。自在に顔を変えることのできる百面相の天狗であり、多才多芸の風流人でもある。一人は雲斎。不定形の雲の妖であり、骨や衣服を纏うことによって姿を変えることができる。変化道を究めんと人の世と妖の世を渡り歩き、壮大な化け学大系を為そうとする学究でもある。一人は紅緒。山姥の血を引く彼の女は、絶世の美貌の持ち主であり、色香によって狂わせた男の精気を糧とする、半人半霊の妖である。

 そして最後の一人、いや一匹は、毛毬という奇妙な名を持つ化け狸である。

 化け狸は世に多いが、自らを千代姫の一の子分だと称するこの化け狸は、変化の流派の中でも特異な技を持ち、その唯一無二とも言える異能の力によって、常に千代姫の傍らにいることを許されたという。

 その希少な変化とは、道具に化ける、というものである。

 人の作った道具が妖となることはままあることである。しかし妖が道具に変化するというのは容易なことではない。人の作り出した道具とは精緻なものであり、その精巧さには際限がないからである。ぞんざいな造りの竹箒や藁ぞうり一つとっても、その細部や質感といったものを変化で表現するのは生半可なことではない。いわんや、職人の手になる様々な素材を加工し、組み合わせた工芸品や装飾品、高貴なものの纏う着物など、本物と見分けが付かないほどの域まで達する変化は殆ど神技に等しいといえる。

 しかしこの毛毬という化け狸はその神技を為すことができた。人の作りし道具への変化に尋常ならざる才を発揮したのである。逆に、他の妖があっさりとこなす他の獣や鳥、人などへの変化は極めて下手であったが、毛毬が千代姫に重用されたのも、その異能の力ゆえである。なぜなら、毛毬は人の着物や履物といったものに瞬時にして変化することができたからである。そのような鮮やかな変化は他のどの妖でもできない。人の世を人の姿に化けて流離う千代姫にとって、人への変化は難しいことではない。しかし肉体を変化によって体現することはできても、着物や装飾品までを一瞬で表現することは難しかった。そのため毛毬は、変化する千代姫に合わせて己の姿を変え、裸の肉体を覆うようにして自身を纏わせるのである。ある時は下駄になり、あるときは髪飾りになり、あるときは着物となり、あるときは刀となって千代姫に纏われることで、毛毬は千代姫の傍にいることを許され、その旅に付き従った。

 道具に特化されたその天与の力は、毛毬が千代姫の母君、可奈様の傍らにあって、長い時をかけて磨かれ、研ぎ澄まされたものらしい。らしい、というのは、この化け狸は言葉を喋ることができないため、可奈様とどのような旅をしたのか本人以外分からないからである。その異彩の変化の技は、可奈様との旅で、他の妖の追随を許さぬ圧倒的な極みにまで到達したのだという。

 悪戯好きであった毛毬に関しては、実に様々な逸話や伝説が旅をした各地で残されている。真偽は定かでないが、曰く着たものに空を舞わせる天女の衣に変化することができた、一日に千里を駆ける疾風の草履に変化することができた、遥か万里を見通す遠眼鏡に変化することができた、百人力を授かる金剛力士の手甲に変化できた、など等である。それらが人里に降りた毛毬の出来心と、気まぐれな変化によって生み出された話であることは間違いない。

 人の世では時とともに新たな道具が生み出され、改良され、そしてまた新たな道具に取って代わることが繰り返された。好奇心旺盛であった毛毬はそういった新しい道具への変化を習得していて、よく千代姫を喜ばせた。なにせ、毛毬が一匹いれば、旅をするのに嵩張る衣装の替えなど持たずともいいし、時と場合に応じ、凍える夜には火鉢になり、太陽が照れば編み笠になり、雨が降れば傘にもなった。また千代姫が退屈しているときには、旅先で見たからくり人形や、珍しい時計、凧などになって千代姫を遊ばせた。毛毬は役に立つ万能の道具であり、また千代姫を楽しませる玩具でもあった。

 また、時を越えることができたという可奈様の旅に同行したことから、未来の道具にさえも変化することできた。数多ある毛毬の変化のレパートリーだが、中でも千代姫のお気に入りは万華鏡という不可思議な道具であった。可奈様との旅で毛毬が習得した未来の道具であり、いまだこの世には存在していないはずのものである。可奈様が形見として千代様に渡したとき、毛毬はその道具の姿であったという。千代姫はときおり毛毬を万華鏡へ変化させた。鏡の中を覗き込んでいるときの千代姫は実に楽しそうであった。くるくると万華鏡を回しては、厭くことなく眺め続けているのである。

 いつからか毛毬は、万華鏡の毛毬という二つ名を持つようになった。覗き込むものによって姿を変え、また世の流行や時代によって姿を変える、千変万化の才を持つ故である。

 そんな毛毬であるが、そもそもは妖でもなんでもなく、普通の狸として生を受けた。それが子狸の頃に可奈様と出会い、妖としての命を授けられ、異能の力に目覚めたのである。今より語るのは、毛毬と可奈様の出会いと、毛毬という奇妙な名に纏わる物語である。


 人里に程近い山野に、狸の一家が棲んでいた。優しい母と寡黙な父には二人の息子がいた。兄は俊敏で力が強いが、向こう見ずな所があり、弟は好奇心旺盛で悪戯好きだが、怖がりで臆病な面を持っていた。

 兄弟は何をするにしても一緒で、二匹で山野を転げまわったり、こっそり人里に降りて悪戯をしたりしながら遊んでいた。兄は両親に叱られるのを知りながら、時々人里に降りては人間の食べ物をつまみ食いしたり、鳥の卵を盗んだりしていた。弟は両親から人間の恐ろしさを聞かされていたため、最初の頃はびくびくしながら付いていったが、やがて人里の面白さに好奇心を刺激され、自ら兄にせがんで連れて行ってもらうようになった。同じ山野に棲む狸達の間では、人里からどれだけ食べ物を取ってこられるのか、人の家から物を盗みだせるのかが自慢の種のように競われていた。兄弟は頭のいい弟が作戦をたて、運動神経のいい兄が実行役をするという息のあった作戦で、様々な道具を盗み出しては蒐集し、他の狸たちに見せびらかしたり、珍しい食べ物をとってきては自慢したりしていた。

 弟狸はしばしば他の狸に馬鹿にされることがあった。歩き方や走り方が他の狸と違っておかしいというのである。自分では普通に歩いているつもりが、傍から見ると滑稽に見えるらしいのだ。それがいやで恥ずかしかったが、自分ではどうおかしいのかが分からなかった。ただ、確かに弟狸は走るのも歩くのもずいぶん遅かったし、何かに躓いたりして転ぶこともよくあった。そこで自分なりに歩き方を変えようとしてみたものの、更にぎこちないものになってしまった。その様子を見ていた他の狸たちは腹を抱えて笑った。さらに緊張して体も心も強張らせてしまった弟狸は、前足と後ろ足の順序さえ覚束なくなってしまい、仕舞いには後ろ足で前足を踏んでしまって転んだり、自分の足同士が絡まって転んでしまう始末であった。焦って試行錯誤するものの、一向に上手くいかないのだ。頭の中で歩き方を考えているうちに、自分がそもそもどのように歩いていたかまで忘れてしまったのである。

 笑われるのが嫌で、弟狸はあまり歩かなくなった。山野の恵みは豊富であり、木の実や果物など食べるものは幾らでもあった。優しい兄が人里から甘いお菓子を持って帰ってくれることもあった。いつの間にか弟狸は丸々と肥え太り、兄よりもずっと重くなった。すると今度は、重たい体を引き摺って歩くのが億劫になり、日がな一日寝転がって過ごすようになった。結果、ますます体は丸く膨れていき、跳ねることさえできなくなった。飛び上がったつもりでも、全く空中に飛び上がらず、そのままぼてりと地面に腹ばいになってしまうだけなのだ。その様子を傍から見ると、あまりに無様であった。

 その状態では他の獣に襲われたり、狩人に狙われたときに逃げることができない。甘やかすばかりであった両親もさすがに怒り、食べるのを止めさせ、運動させようとした。弟狸は、運動をすることも、食べるのを止めることも嫌であった。結果として編み出したのは、その丸くなった体を利用して転がって移動するというものであった。これは団子虫を見ていて思いついたのであるが、いざやって見るとなかなかの結果が得られた。短い足を使って走るよりもずっと早く移動できるのである。兄弟や両親、他の狸達は呆れてしまったが、弟狸はそんな視線など意に介せず、更に己の特技に磨きをかけた。練習を重ねることで体重移動によるスムーズな方向転換を可能にし、体の弾力を上手く利用することによって飛び上がることも可能となった。ただ万有引力の法則に従って、上り、を非常に苦手にしていた。丸まったまま坂を上ろうとしてもすぐに止まってしまい、止まったところから転がり落ちてしまうのである。逆に下りにはなかなかの速さを見せた。何せ弾力のある丸い玉である。転がれば転がるほどに加速する。前を駆け下りる他の狸を抜き去ることさえできた。ころころと太った体で周囲から失笑を買う一方、弟狸本人は、己は下りの専門家だ、というような自信を持つようになっていた。

 家族と共に幸福な日々を送っていた弟狸だったが、ある日のこと、人の仕掛けた罠によって兄弟ともども捕まってしまう。原因は弟狸自身であった。兄の後ろに付き、一列になって歩いていると、踏みしめた大地が突然なくなってしまった。何が起こったのか考える間もなく、体ごとずぼりと落下する瞬間、慌てて前を行く兄の体に手を伸ばした。兄もまた落下しそうになったが、後ろ足をばたばたさせながら、上半身を何とか穴の淵に引っ掛けていた。弟狸はその兄の体を引きずりようにして、落下していった。

 そのままどすんと落下し、一回り小さな体の兄が、ぼよんと弟狸のお腹で跳ねた。そしてようやく、落とし穴に嵌ったのだと気づいた。猪用の大きな落とし穴であり、深さもかなりあった。前を歩いていた兄が落ちず、弟狸が落ちてしまったことから、猪用であるため、ある程度の重さには耐えられるように板で塞がれていたのだ。つまり、弟狸の太った体が災いしたのは明らかだった。それに兄は巻き込まれてしまったのである。

 兄弟は恐慌状態に陥った。駆け上がって何とか這い上がろうとするものの、殆ど直角に掘られた穴は深く、とてもではないが上りきれるものではない。このままでは狩人がやってきてはおしまいだ。弟狸は恐怖に駆られ、声を出して両親を呼ぼうとした。するとそれを兄が止めた。もしかすると他にも落とし穴が仕掛けられているかもしれないし、狩人が隠れて待ち伏せをしているかもしれない。そういって自分たちで何とかしようとした。

 しかし弟狸は恐怖を抑えることができなかった。兄が止めるのも聞かずに大声で叫び、両親を呼んでしまった。両親は声を聞いて駆けつけてきた。狩人がいつ来るか分からない。母も父も、ぐるぐると落とし穴のまわりを回りながら兄弟に落ち着くように言い、姿を消した。しばらくして帰ってきた両親は、長い木の蔦を咥えていた。その一端を穴に投げ入れ、下まで垂れたのを確認すると、まずは兄からその蔦を咥えて体に巻きつけるように言った。兄は弟を優先させようとした。しかし父は、弟は体も重く、兄も一緒に三人で引っ張らなければならないと説明した。兄は泣き出しそうな弟に、すぐに引き上げてやるからと言い置き、蔦を固く咥えて体に巻きつけた。そのまま穴の淵から、両親が二人して蔦を引き、少しずつ兄の体を持ち上げていった。兄は何とか穴から出ることに成功した。次は弟狸の番であった。再び下ろされた蔦を咥え、丸っこい体に巻きつけた。両親と兄が、絶対に咥えた口を離すなといい、それに頷いた。三人がかりで蔦を引き、ゆっくりと弟狸の体は持ち上げられていった。弟狸は蔦に血が滲むほどに歯を固く食いしばった。少しでも気を緩めてしまったら、蔦が歯を滑って落下することは明らかだった。三人が疲れてきたのが、穴の中からでも分かった。少しずつ持ち上げる速度が遅くなり、引き上げられてはずるっと下がってしまうようになった。それでも何とか穴の淵まで引き上げられ、上半身が地上に這い出すところまできた。もう一息であった。しかし丁度そのとき、弟狸の鼻がむずむずし始めた。こらえようと力を入れたとたんに、何とくしゃみが暴発した。咥えていた蔦が外れ、くしゃみをした反動でそのまま弟狸は落下してしまった。落ちながら丸まったため、怪我はしなかったものの、またもう一度やり直さねばならなかった。

 再度、弟狸は両親と兄に引っ張られ、ようやく体を穴の外へ抜け出そうとしていた。落とし穴を仕掛けた狩人がやってきたのはそんな時であった。

狸一家の音や気配に気付いたのか、複数の人間が声を上げて走ってくるのが分かった。両親と兄が力を振り絞り弟狸が穴の上に引っ張り出されたのと、離れた藪から二人の狩人が飛び出してきたのは同時であった。両親と兄は弟狸を引っ張り出した勢いが余ってゴロゴロと転がった。その様子を見た狩人たちは離れた場所から弓を番えて狙いを定めた。

 父の合図で一家は四散しようとした。兄は少し離れた木に登るように言われ、姿を隠した。弟狸も木に登ろうとしたが、体が重くて途中で落ちてしまった。何度か試みたものの、枝に登りきるまでいかず、幹にぶら下がるような形になってしまった。爪を立てて踏ん張るものの、そのままぼてりと落ちてしまった。

もたついていると、両親に走って茂みに逃げ込むように言われた。一旦茂みに飛び込み、方角を変えれば、そう弓が当たることはない。背後から数本の矢が射られたが、まだ距離があり木々が壁となって狙いが定まらないようだった。父と母は弟狸の後ろに付け、弓矢に気を付けながら、ジグザグ走って逃げていた。体の太った弟狸に狙いが定まらぬように、撹乱しながら走っていたのだ。そのままであれば何とか逃げ切れるはずであった。と、弟狸は足がもつれて転んでしまった。

 両親は止まり、ひっくり返ってばたばたしている息子を起き上がらせた。引っ張られて体を起こした弟狸は、母の背中ごしに弓が真っ直ぐこちらに番えられているのを見た。すぐさま母親を横に突き飛ばせばよかった。しかし、自身が貫かれてしまう恐怖が足を竦ませた。一瞬の躊躇の後、息子の目の前で母は己の盾となって体を射抜かれてしまった。

 そこへ更なる矢が放たれた。狙われているのは明らかに体の大きな弟狸だった。狩人の矢の向きを見た父狸は、咄嗟に弟狸を突き飛ばした。矢は父狸の大腿を貫いた。弟狸は恐慌状態に陥っていた。矢に貫かれた母と、足を貫かれた父親に腰を抜かし、立ち上がることもできず、ぶるぶると震えたまま丸まってしまった。父狸は弟狸に、木を背にして走り、目の前の茂みの向こうに逃げるように叫んだ。茂みの向こうは急な下り坂になっていて、そこまで辿りつければ弟狸でも転がって逃げることができる。父は、弟狸が茂みにもぞもぞと潜り込むのを見届けると、自らはその逆の方角へ体を引き摺り始めた。囮になろうとしたのだ。

 しかし弟狸は茂みに隠れながらも、その場から動けなかった。狩人が父の方へ走っていくのが分かった。己を逃がし庇ってくれた父を置いていく事ができなかった。茂みに隠れながら、血を垂らしながら足を引き摺る父と、動かなくなった母を震えながら見ていた。

 狩人たちは血に気付き、遠くを這う父に気付いた。すると二人はその場に立ち止まり、交互に矢を射始めた。一方が撃っては一言二言言葉を交わし、もう一人が撃つのである。体の大きな狩人が、息子であろう少年の弓の構えを見てやり、助言を繰り返していた。

 弟狸は戦慄し、心を凍りつかせた。狩人の親子は、怪我をした父狸を的にして練習をしているのである。怒りと恐怖で体がぶるぶると震え、そのことで茂みが僅かに音を立てた。狩人が振り返り、きょろきょろと首を振った。弟狸は体の震えを必死になって止めた。狩人は唇に指を当て、耳を澄ませている。弟狸は音を立てないように息を潜めた。と、ぐうーと奇妙な音が鳴った。あろうことか、弟狸のお腹の音だった。狩人が音のした方に顔を向けると、弟狸の方を見て笑いだした。二人で顔を見合わせてげらげらと笑っていた。確かに弟狸のいる場所を指差している。

 ばれた、でもどうして。弟狸は、混乱する頭で逃げようとして気付いた。何と尻尾が、恐怖と怒りで興奮して大きく膨らんでいた。それが逆立ちをするようにぴんと上に伸びて、茂みから大きくはみ出ていたのだ。

 再び狩人が弟狸に向かって弓を番えた。茂みの奥に走りこんだとき、後ろ足に激痛が走った。つんのめって前に転がった。見ると、矢が足を掠めて血が流れ出していた。狩人たちは手ごたえを感じたらしく、茂みの向こうから走りよってくる声が聞こえた。あとほんの少し、茂みを上りきれば、後は崖にも近い下り坂だった。そこまで辿りつければ、丸めた体で転がって逃げ切れるはずだった。しかし弟狸にはもはやそんな気力がなかった。両親の死を目の当たりにし、さらに己の足から流れる大量の血に絶望し、何もかもがどうでもよくなっていた。足を引き摺ることもできず、ただぼんやりと死が近寄ってくるのを待っていた。

 そんな弟狸の下に、木の上から何かが飛び降りてきた。兄であった。兄は何も言わず、弟狸の首を咥えると、そのまま引き摺って茂みを登りはじめた。間近まで狩人が迫ってくる音を聞き、兄は首を咥えたまま力を振り絞って弟狸の体を振り回し、下り坂の方角へと放り投げた。信じられない力であった。弟狸は空に舞いあがりながら、一本の矢が兄の胸を貫くのを見た。

 そのまま茂みの向こうに落ちた弟狸は体を丸め、ごろごろと坂道を転がり落ちた。何も考えたくはなかった。ただ落ちるところまで落ちてしまいたい、そんなことを考えていた。転がりながら何度も木にぶつかり、頭への衝撃と足からの出血で、いつしか気を失ってしまったのだった。


 気が付くと、弟狸は崖の一歩手前の柔らかな枯葉の中に倒れていた。体中が痛く、凍えそうなほどに寒かった。足を見ると流れた血で枯葉に血溜りができていた。まだ血は止まりそうな気配はなかった。寒気は増し、一方で痛みは薄れていく。全身の感覚が麻痺したようになっていった。立ち上がる気力もなく、このまま死んでしまうのだ、そう確信した。命の火が消えるのを感じながら、弟狸は泣いた。惨めさで、無念さで、情けなさで。

 太った体が原因で落とし穴に落ち、兄を巻き込んだ。救えたはずの母を臆病さ故に見殺しにし、己を庇おうと命を捨てた父に報いることもできなかった。最後には、逃げ切れていたはずの兄まで死に追いやってしまった。

 体が冷えていく一方で、涙と心だけが熱かった。

 薄れていく意識を引き戻したのは、頭に直接呼びかけるような不思議な声であった。何と言われたかは分からなかったが、はっきりと己の魂に呼びかけられたような気がした。目を開くと、金色に輝く美しい狐が立っていた。数本の長い尾がゆらゆらと揺れていた。

 弟狸は親から聞いたことがあった。妖の王、金色に輝く九尾の狐のことを。目の前に立っているのがその九尾の狐であろうか、それとも夢であろうか、そんなことを薄れ掛けた意識で考えていると、再び声が、今度ははっきりと意味を持って聞き取れた。

 「子狸よ、なぜ泣いておるのだ」

 金色の狐の眼差しは、弟狸の瞳に真っ直ぐに向けられていた。

 弟狸は地に伏せたまま、新たな涙を溢れさせ、

 くやしい、たった一言そう呻いた。

 もう言葉を発することはできなかった。息がヒューヒューと漏れるばかりで、内側から冷えてくるのを感じていた。命の灯火が消え、意識が暗がりの中へと落ちていった。


 妖狐は溢れてくる弟狸の涙を舐めとった。涙から、弟狸の感情が伝わってきた。顔を上げると、空を見上げた。妖狐は涙をこらえていた。弟狸の境遇が、かつての己を思い出させたからだ。己もまた力が足りずに、苦しむ母の手助けをすることができなかった。どれほど力が欲しいと強く願ったことだろう。その時の無念の思いは、妖狐の心の奥底に、消えることない澱として溜まっていた。

 妖狐が血溜まりを見ると、流れ出た血は明らかに致死量であった。弟狸の足の傷を舐め、泥を払った。己の前足首を歯で噛むと、傷から温かな血が滴り落ちた。その血が弟狸の傷へと垂れると、傷口から子狸の体の中へと滲み込んでいった。弟狸は体の内部から温かな源泉が巡ってくるような心地がしていた。じんわりと体が温もっていき、しばらくすると傷口は塞がり、傷跡が微かに残っているだけとなった。

しばらく時が経った。弟狸は全身に温かな血が漲っているのを感じた。一度は途切れた意識が少しずつはっきりしてきた。瞳を開くと、弟狸は死ぬ運命であった己の命が助かったことに気付いた。免れえぬはずの死が、伝説の妖狐によって救われたことを知った。

 立ち上がると、僅かに後ろ足に痺れのようなものが残っているものの、なんなく歩くことができた。そればかりか全身に以前とは異なる力が漲っているのを感じていた。それは体の内から滾々と湧き出る躍動感であり、全身を突き動かす衝動であった。たまらなく喉が渇いていた。水の匂いに気付き、近くの小川に走ると、体を冷やすように小川に入り、頭を突っ込んで貪るように水を飲んだ。水は火照った全身に行き渡っていき、弟狸はその美味しさに体を震わせた。ただ体とは裏腹に、心だけが死んだままであった。家族を失ったことで心は絶望で死んでしまっているのに、水がこんなにも美味く感じる、そのことが我ながら滑稽であった。弟狸は水を飲み終えると、滑稽さにまた涙を流した。

 その様子をじっと見ていた妖狐は、そのまま背を向けて何処かへ去っていこうとした。

 「待ってよ」

 弟狸は妖狐を呼び止めていた。

 己が言葉を喋れるようになったことに驚いていた。

 妖狐は振り返り、弟狸を見た。その目に射すくめられ、また妖狐から溢れ出す圧倒的な妖気に気おされ、弟狸は後ろに倒れそうになった。妖狐は空耳だったかというような仕草をすると、再び去っていこうとした。その背中に弟狸は叫んだ。

 「待ってったら」

 妖狐は再びぴたりと止まり、振り返ると弟狸のところまで歩いてきた。

 「なんじゃ。子狸」

 呼び止めたもの何を言っていいのか分からず、弟狸は口をぱくぱくとさせた。

ようやく出てきたのは「ありがとう」という言葉だった。

 妖狐は鼻を鳴らすと「礼には及ばん」そうぶっきらぼうに答え、また背中を向けた。

 「手を貸しておくれよ」

 妖狐を引きとめようとして咄嗟に出てきた言葉に、子狸自信も驚いていた。

 妖狐はくるりと振り返ると「今、何と言った」と問い返してきた。

 「手を貸しておくれよ。あなたは伝説の九尾の狐なんだろう。あらゆるものに変化することができる、最強の妖なんだろう。おいらの手助けをしてくれよ」

 「手助け。いったい何の手助けをするのじゃ」

 「決まってるだろう。あいつらに復讐するんだ。みんなの仇を討つんだ」

 弟狸は怯みながらもはっきりと言った。それを聞いた妖狐は一瞬きょとんとすると、からからと笑った。

 「やめておけ。そなたのような子狸一匹で、何ができるものか。人はお主が思っているより遥かに強く、賢い」

 「それは分かってる。だから手を貸してくれって頼んでるんだ」

 「なぜ私がお前の敵討ちの手助けなどせねばならん。命が助かっただけでよしとせい」

 去っていこうとする妖狐に弟狸は縋り付いた。

 「だって九尾の狐は山や河の生き物の味方なんだろ。母様がそう言ってた」

 弟狸の言葉に妖狐は目を細め、興味深そうに尋ねた。

 「ほう、母はどのような話をしたのじゃ。妖狐に関して」

 「九尾の狐は人間たちから山や河を守ってくれる霊獣だって」

 弟狸は説明した。新参者の狩人が仕掛けた新しい罠で、多くの獣たちが死んでしまったことを説明した。最近、たくさんの人間たちがやってきて木々を伐採し、山を削り始めたことを話した。人がどれだけ残虐であるかを話して聞かせた。

 「九尾は獣たちやその棲み処を人から守ってくれる守り神なんだろ」

 妖狐は答えた。

 「それはただの噂話、この地方に残る言い伝えであろう。私とは関係がない」

 そういうと、妖狐はまた去っていこうとした。

 「じゃあ、どうしておいらを助けたりしたのさ。頼んでもいないのに」

 「どうして?」

 妖狐は怪訝な顔をすると、ふと考え込んだ。そして悲しげに視線を虚空に彷徨わせた。

 「そなたを助けたのはただの気まぐれよ。後は勝手にするがよい。死のうが生きようが、私にはそもそもどうでもいいこと」

 そう言うと、くるりと一回転して猿に変化した。そして木々の上を渡りながらあっという間に姿を消してしまった。

 後に残され、弟狸は途方に暮れた。両親も、兄も殺されてしまった。これからどうしていいのか分からなかった。とりあえず家族の亡骸を探すことにした。険しい山道を歩きながら、自分の体が以前とは異なったものになったことを感じていた。体が以前のように重くなく、軽くなっていた。かつては少し歩くごとに疲れてしまっていたが、難なく山を駆け上っていけるようになっていた。さらに、両親と兄の亡骸を探すために鼻をひくつかせると、家族の匂いと血の生臭い匂いが目の前のことのように感じられた。香りから傷跡と痛みを想像してしまい、生々しさからその場で吐いてしまった。以前よりずっと嗅覚が鋭くなっているようであった。それに妖狐と複雑な言葉を交わすことができるようになっていた。きっとあの九尾の血を分け与えられたからだ、そう思った。

 兄と両親の亡骸は、もともとの場所にはなかった。あの狩人たちが持って帰ったのは間違いがなかった。辺りには人間の匂いが残されていた。血溜まりに、己の憎悪が燃え上がるのを感じた。狩人は三匹の遺骸を回収すると、そのまま山を降りていったのが分かった。匂いを辿り、弟狸は山を降りた。そして狩人の棲み処を突き止めた。

 狩人は山裾に面した人里の端の方で、掘っ立て小屋を建てて生活していた。三人家族であった。父親と息子が両親と兄を殺した狩人であり、更に小さい娘が一人いた。

 皮を剥がれた三匹の狸の遺体が、血抜きのために吊り下げられていた。父の狩人が、息子にその皮の剥ぎ方、捌き方を教えているところであった。それを見た弟狸は己の血が沸騰するのを感じた。己を抑えることはできなかった。憤怒と悔恨で我を忘れ、二人の狩人に突っかかっていこうと茂みから飛び出した。

何ができるというわけでもなかった。ただ一噛みでもいい、引っかき傷でもいい、ただ遮二無二体ごと飛び込んでいこうとした。弟狸は己はもう生きていても仕方がないと思っていた。死ぬつもりであった。

 一直線に走ってくる小さな狸に親子は気付いた。息子が父に言われ、立てかけていた弓矢を手にとって構えた。

 そのときであった。弟狸はばさりと音を聞いたかと思うと、背中に強い衝撃を受けた。天地がひっくり返った。地面がなくなり、視界が一変した。何が起こったのかわからず、じたばたと消え去った大地をけり続けていた。

 弟狸は空を飛んでいた。己に翼が生えたのか、そう一瞬思った。しかし違った。大鷹に背中を掴まれていた。驚くほど巨大な鷹が、大きな弟狸の体を掴んで空へと舞っていたのだ。

 二人の狩人が空を指差しているのが見えた。息子が二本目の矢を番えようとしたのが見えたが、みるみる地面は遠ざかっていき、射程距離外へと達していた。暴れる弟狸の背をがっしりと掴んだまま、大鷹は空を滑り降りて森の中へと入っていった。地面のやや上空で掴んでいた足を離され、そのまま地面を転がった。木にぶつかって止まり、やっとのことで体を起こすと、大鷹が己を見ていた。

 「お主は阿呆じゃのう」

 妖狐の声であった。

 きょろきょろと辺りを見渡しても妖狐はいなかった。間違いない、大鷹が口を聞いたのだ。大鷹はふわりとその場で舞い上がると、くるりと回転し、妖狐の姿に戻った。弟狸はようやく、妖狐が大鷹に化けて自分を助けたのだと気付いた。

 「あれでは無駄死に、敵討ちが聞いて呆れる」

 弟狸は毛づくろいをする妖狐に食って掛かった。

 「あのまま死なせてくれればよかったのに。どうして、どうしておいらを助けたのさ」

 半狂乱になって叫んだ。

 瞼には家族の無残な光景が焼き付いていた。

 「なに、一つ言い忘れたことがあってな」

 呆れ顔で妖狐は言った。

 「そなたが尋ねたであろう。なぜ助けたのか、と。私は確かに気まぐれでそなたを助けたが、その気まぐれにも理由があったのじゃ」

 ――そなたの兄に頼まれたのよ。

 弟狸は耳を疑った。

 「今際の際で、そなたの兄が私に言うたのよ。弟を助けてやって欲しい、と。そなたの兄は矢が体の内まで深くえぐっておった。私でも助けることができない状態であった。しかしこのままでは死ぬまでに長く苦しむことになる。いっそ楽にしてやろうと思って私は聞いた。楽になりたいか、と。

 そなたの兄は呼吸もままならぬというのに、血を吐き、喘ぎながら言ったのよ。弟ががけ下にいる、助けて欲しい、とな。確かに崖の下には傷を負ったお主がいた。私は兄に頼まれたため、そなたを助けた。再び兄の所に行くと、兄は尋ねた。弟は無事か、と。私がそなたの命を救ったことを伝えると、そなたの兄は満足そうに頷き、そしてそのまま事切れた。兄は、最後まで狩人をお主から遠ざけようと、地を這っていたぞ。そのため長く苦しむことはなかっただろう」

 耳を塞ぎたい思いで、それでも全身で妖狐の話を聞きながら、弟狸は泣いていた。妖狐は続けた。

 「私がそなたを救ったのは、お前の兄や両親の思いを汲んでのこと。お前に生きて欲しいがために、家族は命を投げ出したのじゃ。それがなぜ分からん。やめておけ、人への復讐など。あたら助かった重い命じゃ。また危険にさらす必要などあるまい。ましてや無駄死になど、愚の骨頂であろう」

 弟狸は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら答えた。

 「もしもここであいつらと戦わずに逃げてしまったら、おいらは一生臆病者のままだもの。みんなを殺してしまったのはおいらだから、そのまま背を丸めて小さくなって生きていかなきゃならない。あの狩人たちは憎い、でも、それだけじゃないんだ。とうちゃんやかあちゃん、にいちゃんのために、おいらはもう臆病者じゃないって、勇気があるって、そう見せたやりたいんだ。そうじゃなきゃ、おいらは生きてはいけない。あいつらに復讐できないなら、生きていても仕方がない。生きていたくなんかないんだ」

 「勇気か、勇気にも色々あろう。逃げ出すのも勇気よ。勝算もないのに戦いを挑むのは、勇気でもなんでもない、ただの阿呆じゃ」

 「じゃあ、おいらどうすりゃいいのさ」

 「己で考えるがよい。勇気とは何か。両親や兄の想いに答えるためにはどうすればよいのか。どうすればそなたが一番納得できるのか」

 弟狸はぐずぐずと鼻を啜り上げた。頭の中で、妖狐の言葉がぐるぐる回り続けていた。

 「そうそう、もう一ついい忘れたことがあった。そなたは私の血を受けて命を永らえた。だからもはや普通の狸ではない。半ば妖となっておる。血が馴染むまでにはもう少し時間がかかろうが、やがて妖としての何らかの能力に目覚めるだろう。いや、すでに少しずつ変調が起きているはず。我と言葉を交わせるようになったのも、その一つよ。そなたの力がどのようなものなのか、私にも分からん。その力をどのように使うのかは、そなたの自由じゃ。無駄死にをするのなら今度こそ止めはせん。だが、私と出会ったのも一つの巡りあい。妖となったため、寿命も長かろう。死に急ぐことはあるまい」

 言われてみると、弟狸は己の体の感覚が奇妙に変化していることに気が付いていた。己は半妖になったのだ。だが、それが一体どういうことなのか、よく分からなかった。妖としての力…その九尾の言葉に沸々と湧き上がるものを感じた。

 弟狸は顔を上げると、九尾に言った。

 「おいらを弟子にしておくれよ」

 その言葉に九尾はきょとんとした顔で弟狸を見た。そしてからからと笑った。

 「弟子? いったい何の弟子になろうというのじゃ」

 「伝説の九尾の狐なんだろう。あらゆるものに変化できて、あらゆる妖術を編み出した、最強の妖なんだろう。おいらに変化や妖術を教えてくれよ」

 弟狸は親に聞かされた数多の伝説を思い出していた。霊獣九尾は、その九つの尾に宿した力によって、雷や風など万物に変化でき、時間を越えることすら可能にしたという。

 「もう私を頼るな、子狸。後は自分でなんとかせい」

 呆れたようにそういうと、九尾は今度こそ振り向き、颯爽と駆けていった。

弟狸はそれを追おうとしたが、見る見る離されていった。そこで転がって追いかけようと、体を丸めた。転がりだし、もっと丸く、もっと速く、そう思いながら追いかけた。すると、驚いたことに、弟狸の体は本当にまん丸の玉に変化してしまっていたのだ。いつものように四肢の飛び出た歪な玉ではない。月のようにまん丸で、でこぼこしたところがなく、四肢すら見当たらない玉になっていた。狸の毛皮に玉が包まれているような、奇妙なものに変化していたのだ。

 弟狸は己の体を止めることも、方向転換もできず、地面のでこぼこでぽんぽんと跳ねながら転がっていった。やがて大きな木にぶつかってぽーんと高く跳ね飛ばされた。どさりと落ちた衝撃で体は元に戻った。目が回っていて天地の方角も分からず、身動きもとれなかった。ようやく視界が安定し、己の状況を確認すると、仰向けになって倒れていた。起き上がろうとしたが、肥え太った体が重くてなかなか上手くいかない。まるでひっくり返された亀のように、短い手足をじたばたさせることしかできなかった。

 ため息をついて空を見ると、まだ明るいのに木々の間からうっすらと弓のような月が出ていた。月が滑稽な自分を見て笑っているように見えた。


 その日から子狸の修行が始まった。己が半妖となり、奇妙な能力を得たことを知った子狸は、九尾の言葉に従って、その力を磨くことにした。その力とは、九尾を追いかけるときに咄嗟に発動した、変化の術であった。無論、あの狩人たちに復讐を果たすためであり、今のままでは返り討ちにあうのは目に見えていたからだ。だが修行といっても子狸には何をすれば変化の技が磨かれるのか、どうすれば上達するのかがなど全く分からなかった。そこで噂に聞いた変化の作法を試してみることにした。頭に葉っぱを置いて飛び上がり、その場でくるりと一回転しようとしたものの、半回転もできずにどすんと背中から落ちてしまった。やれやれ、まずは空中で一回転することを目標にしなけりゃな。子狸はとりあえず、妖の血を己の体に馴染ませるため、肥え太った体を痩せさせるために野山を走り回って運動することを始めることにしたのだった。

 ところが変化の術は失敗ばかりでちっとも上達せず、どうしたことか体が痩せることもなかった。それでも子狸は諦めず、あれこれと変化のやり方を試したり、痩せるために新たな運動メニューを増やしては努力を続けた。そんな子狸を隠れてみているものがいた。九尾の可奈である。

 別れた後も、己の血を与えた子狸のことが妙に気になっていた可奈は、時々その修行の様子を眺めに来ていたのだ。可奈から見た子狸の変化の修行方法は、てんでなっちゃいない、でたらめで見当違いのやり方であった。

 そしていざ変化できたと思っても、その短い四肢や、丸い太鼓腹と同様に、どこか寸足らずだったり、どこかが誇張され過ぎていたりと、滑稽な姿にしかなれなかった。

 ところが自分では己の変化が上手くいっているかどうかが分からない子狸は、その能力を試すため、街道の旅人を相手にして驚かせたり、怖がらせたりしようとした。しかしいつも変化はみっともない結果に終わり、怖がらせるどころか、大笑いされたり、馬鹿にされたりしてばかりであった。しかも、本人は上手く化けられたつもりなのだ。変化は明らかにおかしく、間が抜けているのだけれど、本人には自覚がないのである。

 子狸が変化の修行をした街道界隈ではドジな化け狸の話が広まり、語り継がれ、やがて『化け狸の滑稽道中記』なる話が編まれることになるのだが、それはまた別の話しであるため、深くは触れない。

 さて妖狐は、子狸の思わず噴出してしまいそうな変化の修行を、笑いを堪えながら見ていた。いや、時には堪えきれず、慌ててその場から離れ腹を抱えて笑ってしまうこともあった。修行をしている当人はいたって真面目なのだが、その真面目さが滑稽で笑いを誘うのである。そして失敗ばかりの子狸をほっとけなくなり、再びその前に姿を現した。

 「これ、子狸。そなた名をなんと言う」

 子狸が驚いて振り返ると、そこには妖狐が立っていた。

 子狸は自らの名を名乗ると、妖狐はその名を口の中で転がして言った。

 「ふむ、奇妙な名じゃな。言いにくいではないか」

 「九尾様は何ていうの」

 子狸が問いかけると、妖狐は、かな、と名乗った。

 「子狸。お主の変化じゃがな―」

 可奈はそれから、子狸の変化の修行方法がいかに間違っているかを話して聞かせ、初歩的なやり方を教えた。

 喜び、師匠と呼ぼうとする子狸に、

 「弟子入りを認めたのではない。お主の変化が滑稽で面白いのでな。戯れに付き合おうと思っただけよ。遊びじゃな」

 そういいながらも、可奈は時折気まぐれに姿を現しては、子狸の修行に付き合うようになった。そして変化の理、作法、訓練法などを少しずつ教えるようになった。

 曰く、変化は妖によって定められた作法がある。

 曰く、変化には妖によって得意、不得意分野がある。

 曰く、変化とは妖によって異なる論理を持つ。

 そうした理の下に、子狸は変化の術を学んでいった。

 子狸が気になったのは、可奈が己の名を知っていながら、子狸としか呼んでくれないことだった。

 「おいらにも母ちゃんがくれた名があるんだから、それで呼んでおくれよ」

幾らそう言っても、

 「わかったぞよ、子狸」

 と、一向に名を呼んでくれないのであった。

 可奈の助言もあって、子狸は少しずつ、己の変化の傾向を掴んでいった。

 子狸の変化の術は、自身の感情に強く左右されるものであった。変化する対象に対する喜び、怒り、悲しみ、憧れ、興味、嫉み、憎悪…それらの感情が強ければ強いほど、より精度の高い変化を行うことができるのだ。感情の正負は関係なく、いかに対象への執着が強いか、それが変化の出来具合に強く影響を及ぼした。それもどうしたわけか、他の獣や鳥などの動物に変化することはてんで駄目であった。子狸の変化の術は、生き物ではなく、人の作り出した道具に対してのみ発動したのである。

 なぜそのようなことになったのかは子狸自身にも分からない。可奈によれば、子狸は己が狸であるという自我を捨てることができないため、他の動物に変化することができない、のだという。また、複雑でしなやかな肉体の動きを表現する方面の力がなく、石や木などそう形の変わらない、定まった成形の素材に変化することが得意であるのだろう、そう解説した。或いは、皮を剥がされて肉塊と化した両親の遺骸があまりに生々しく、嫌悪感を及ぼすからではないか、とも。

 ただ子狸は、動きが複雑で自由度が高い肉体には変化できないが、材木や道具などの静物や、せいぜい単純な動きしかしない道具に化けることには、時に驚異的な才能を見せることがあった。例えば、人に化けることはできないが、案山子や人形に化けることはできるのである。

 子狸が試行錯誤の末に導き出した結論は、「己は、自ら動くもの、に変化することができない」というものであった。

 ――他力本願で怠け者のお主の心根を反映しておるわ。

 可奈はこういって笑ったものだ。

 子狸にしてみれば笑い事では済まない。家族の復讐を果たすため、子狸は子狸なりに考えていることがあった。変化の力によって猪になり、その鋭い牙で突き殺そうとか、狼に変化して喉仏を噛み切ろうとか、或いは熊になって爪で引き裂いてしまおうとか、そのようなことを考えていた。しかし、そういった人間にも太刀打ちできる他の獣に変化することがどうしてもできなかった。変化できたとしても、せいぜい熊の木彫りの置物とか、狼の毛皮の上着であった。子狸は己の能力に幻滅した。

一方で可奈は驚いていた。人の作り出した道具に化けることは非常に難しく、ましてや衣服などに変化することは変化の中でも至難の術であることを、可奈は知っていた。

 子狸は己の変化の術を磨きながら、狩人への復讐の作戦を練らなければならなかった。己が非力であり、変化の能力も貧弱である以上、いかにして復讐を遂げるか、その方法が重要だった。そのため修行の傍ら、狩人たちに関する情報を集めることにした。家の周囲に隠れて狩人の生活を偵察した。

 両親を殺した狩人は父とその息子であった。そして一人の体の弱い少女がその父親と年の離れた兄と暮らしていた。母親はいないようであった。更に分かったのは、少女は足が悪いということと、それが原因で奇妙な歩き方になるのを、同年代の子供らにからかわれているということであった。

 狩人が多くの獣を取るのは、その少女の医者にかかる治療費を払うためだった。足が悪い少女は家に閉じこもりがちであったが、ある日、父親が無理をして買ってきた毬を与えられると、外で遊ぶようになった。そうして父親は獣の肉を町で売っては、少女のお土産に珍しくて高価な玩具を買って帰ってきた。そしてそれらの玩具を目当てに、少女の周りには同年代の子供たちが群がるようになっていった。それまで引きこもりがちであった少女は、父親の買ってきた玩具によって、他の子供たちの輪に入ることができ、輪の中心になることもあった。そうして己の場所を子供たちの中で見つけた少女は、外で遊ぶようになった。

 子狸は偵察をしながら、そんな家族の様子を目の当たりにする。

 またある日のことである。三人は雨の中、並んで歩いていた。雨脚は強く、傘は一本しかない。娘が雨の降る中、父と兄のために傘を持ってきたのだろう。だが、娘はうっかりしたことに、自分の傘しか持ってこなかったのである。棲まなさそうに謝る娘に、父と兄は優しく笑みを交わした。父親は娘に傘を持たせて肩車した。兄は父親に肩を寄せて傘の下に入り込んだ。傘が揺れるたびに、入りきれなかった兄の肩に雨が滴り落ちた。娘は父と兄の体が濡れないようにひっきりなしに首を回し、あっちが濡れては傘をずらし、あっちから雨が漏れては傘を傾け、懸命に二人が濡れないようにしていた。父も兄も、そんな娘の様子を眺めながらくすくすと笑いあっているのだ。

 それは、母がおらずとも温かい、幸せな一家の光景であった。子狸が永遠に失ってしまった、懐かしいというにはまだ鮮明に過ぎる情景であった。

 修行の辛さに挫けてしまいそうなとき、子狸は憎悪の思いを蘇らせるために、あのときの光景を思い浮かべるようにしていた。あの二度と思い出したくない最悪の記憶、場面を、胸の中で反芻するようにしていた。それは心の傷が癒えてしまわないためである。治りかけた傷をまた抉り出すように、定期的に思い出すようにしていた。どのような方法であの狩人の親子に復讐をするのか、そんなことを考える日々の中で、子狸は己があの弓に変化できることを知る。家族を殺した残酷で恐ろしい弓へ、子狸はトラウマにも似た強烈な執着心を持っていた。そして憎悪を燃え上がらせるほどに、弓に上手に変化できるのだ。

 しかし弓に変化できても、誰かに矢を番えて放ってもらわなければならない。弓が自ら勝手に動くことはできないのである。かといって九尾に頼るわけにもいかない。弓を使った復讐を諦めかけたとき、子狸は己に宿る新たな能力に気付くことになる。

 それは道具へと変化した己を使おうとする人間の体を、一瞬ではあるものの操ることができる、という力であった。例えば、己が鍬に変化したとする。それを振り下ろそうとした男の体を止めたり、或いは違う方向に鍬を振り下ろさせたりすることができるのである。しかしその操作の力は弱弱しく、せいぜい手元を狂わせる程度が精一杯であった。また己を使おうとする人間が抗えば簡単に解けてしまうのだ。隙を付いて一瞬に体の動きを奪い、人間が気付く前に操らなければならない。さらにこの能力には持続力がなく、一瞬の乗っ取りでも、子狸には強烈な集中力が必要であり、力を使った後には極度の疲労感をもたらした。

 不自由な能力ではあったものの、子狸はこの脆弱な力を伸ばそうとした。集中力を研ぎ澄ませ、手元だけではなく、上半身、やがては全身の自由を奪ってしまえるように修練を積んだ。さらに、意志を強固に保つことによって、一瞬ではなくせめて数瞬、一連の動作を手順よく行えるように心を鍛え上げた。

 練習相手には人間が必要であり、子狸は人里の子供や大人たちの中から自ら選び、何らかの道具に変化して練習を繰り返した。そのことによって、界隈の人々の間では子狸を媒体とした不可思議な現象が多発するようになった。といっても気にも止まらない悪戯程度のもので、実害はない他愛無い遊びであった。やがて子狸はいたずら狸として噂されるようになったが、その仕草や失敗が愛らしいため、誰にも咎められることはなかった。

 人里でいたずら狸の噂が微笑ましく語られる一方、子狸が狩人父子への復讐のために立てた作戦は冷酷なものだった。その作戦を思いついたとき、子狸自身が戦慄したほどである。

 考えたのは、狩人の家の弓に化けることであった。狩人が獣に向けて弓を射る瞬間に、弓の方角を変えて矢を別の方角に放つ、というものだ。ではどの方角に向けて矢を射るのか、それは、父、或いは兄に向けて射るのである。そう、子狸の復讐とは、父子に誤ってどちらかを殺させてしまう、というものだった。それはいつも二人一組で猟をし、弓の修練をしていたのを見ていて思いついたことであった。

一人は殺し、そしてもう一人は肉親を殺してしまったという罪悪感に貶める、非情の作戦であった。

 自らの背筋が凍り付きそうな復讐であった。その残酷さに、想像するだけで足が竦むような思いがした。作戦の決行前から罪の意識に苛まされ、眠りは浅くなった。だがそんなとき子狸は、己の家族を無残に殺されたことを思い出し、憎悪の炎を燃え上がらせるようにしていた。自分は臆病者じゃない、勇気を見せるのだ、そんな歪んだ思いが、小狸を修羅の道へと誘っていた。

 そしてついにその機会が訪れる。

 狩りの日の朝、小屋の弓を盗み出して捨て去ると、己の姿をその弓そっくりに変化させた。その弓はいつもは父親が持つものであったが、その日は息子が父親から弓を渡された。父親の助言を受けながら、息子はその弓を射る役目を任されていた。

 ただいつもと勝手が違うのは、その狩りに娘が付いてきていることであった。娘は不自由な足を引き摺り、体を奇妙に揺らしながら一生懸命二人の後を追っていた。

 三人の会話から、娘が狩りに付いてきたのは、一人で家に残されるのが嫌だったからであり、また娘自身も狩りや野草採りの様子を見てみたいとねだったからであった。兄も父も、聞き分けのいい娘がいつもと違って強情を張る理由が分からず、呆れながらも同行を許したのだ。しかし一家の様子を長く観察していた子狸には娘の気持ちが分かった。娘は過保護な父と兄に、不自由な体でも山道を登れることを示したかったのである。かつて引きこもりがちだった娘は、今では驚くほど活発になっていた。自ら木の実や野草を採りに行ったり、畑の手入れをしたり、薪拾いや煮炊きなど、父と兄の手伝いを率先してやるようになっていた。娘は己が二人の足手まといにならないよう、自分なりの居場所を作ろうと努力していたのだ。

 無論、娘の足が悪いため、三人の歩みはゆっくりであった。父と兄は、食べられる野草や、様々な効能を持つ薬草の説明を娘にしながら、狩りというよりものんびりとした山歩きといった体で、道行の緩やかな野を進んでいた。

 途中、父の愛用の弓を誇らしげに背負う息子は、数匹の野鳥をその弓で仕留めた。狩人の父と娘は兄から少し離れたところで、草を摘んで籠に入れていた。兄は獲物を探して常に周囲に気を配っていた。復讐の機会を窺っていた子狸は、兄が矢を番える度に躊躇い、その決心が鈍っているのを感じていた。

 日を改めようかとも思い始めたそのとき、娘がこういった。

 「にいさま、狸を探してよ。前に仕留めた狸の毛皮、すごく高く売れたのでしょう。お肉も美味しかったし」

 弓に化けながらも、子狸は己の血が滾るのを感じていた。

 そのとき唐突に鹿が前方の野を横切った。兄が慌てて矢を番え、狙いを定めようとした。鹿は三人の人間に驚き、どちらに逃げるか迷い、ピタリと足を止めた。首だけがきょろきょろと辺りを見回した。

 子狸が力を発動させたのはその瞬間であった。己の内に渦巻いていた憎悪を、溜め込んでいた憤怒を、何百回と繰り返した想像のままに爆発させた。そのとき、弓はただの弓ではなく、禍々しい形をした妖弓となった。子狸から溢れた妖気が兄の腕に、体に、足に、全身に纏わり付いた。兄の動きを縛り、力を吸い上げ、筋肉をぎりぎりと締め上げた。

 子狸は己の体もぎりぎりと絞られるような痛みを感じていた。弓が撓り、かつてない強烈な反動が溜め込まれているのを感じていた。一瞬でも気を抜けば、そのまま折れてしまうことは確実だった。弓と化した己の体が折れぬよう、子狸は復讐心を一本の鋼芯のように体に貫いていた。

 混乱していたのは兄である。ただならぬ妖気が全身を包み込んだときには、もはや体の自由を完全に奪われていた。抗おうにも抗えない、禍々しい狂気が全身を強張らせていた。声も出せず、意識が遠のきそうになった。そして自らの意識を押しのけて入り込んだ子狸の意志と想像に戦慄した。

 それは荒れ狂う復讐者の憎悪と憤怒、そして悲しみであった。

 子狸は狩人の体を操り、矢を父親の方へと向けた。

 異様な空気にしゃがみ込んだまま振り向いた父親は、息子がこちらに矢を向けているのを見て驚愕した。息子の苦悶の表情と、その瞳が妖しく赤く煌くのを見て、鮮明な死を思い描いた。

 しかし子狸は、矢を放とうとした瞬間、父親の前に立ちはだかった小さな影を捉えた。

 「とうさま、あぶないっ」

 娘が父親の前に体を入れたのだ。

 動揺が子狸の集中力を乱し、操られる兄の手元を狂わせた。放たれた矢は反れ、娘を突き飛ばした父親の足を掠めた。父親は立ち上がって息子の名を叫んだ。息子には殆ど意識がなく、眠りながら悪夢の中を彷徨っていた。次の矢が番えられるのを見て、父は逃げようとしたが、足の痛みに転んで倒れこんだ。

 娘は再びその父親の前に立ちはだかり、兄を止めようと番えられた弓の対角線上を真っ直ぐに走ってきた。無我夢中で恐怖を感じることもないのか、よたよたとよろけながら子狸に向かってきた。その娘の瞳に子狸は射竦められた。両親を見捨てて逃げ出した己を思い出していた。己の臆病さから救えたはずの家族を失ってしまったことを思い出していた。兄の体を操れば、上手く娘をかわして弓を射ることもできた。しかし、健気に父を守ろうとする娘を前にして、子狸は己を恥じていた。そして、どうしても弓を射ることができなかった。

 弓は空に向けて構えられ、放たれた矢は天空の高くへ消え去った。子狸の行き場を失った猛りは、虚空に吸い込まれていった。

 子狸は作戦が失敗に終わったことを悟った。

 張り詰めていた緊張が途切れ、変化が解けた。子狸は狸の姿に戻り、そのまま地面にぼてりと落ちた。筋肉とともに心も弛緩し、何もすることができなかった。意識を取り戻した兄が呆然とした面持ちで子狸の体を捕まえた。子狸は抵抗する気にもなれず、ぜいぜいと息を切らしていた。

 そこへ己が放った矢がようやく落ちてきて、子狸の頭へこつんと当たった。

 最後まで滑稽でしかなかった自分を呪い、子狸は泣いた。泣きながら、その滑稽さに笑った。所詮自分はみっともない化け狸でしかないのだ。どじで意気地のない、復讐もできない愚かで臆病な狸でしかないのだ。

 足を引き摺る父に娘は木の棒を杖代わりに渡した。そして己も小さな肩を貸した。二人はゆっくりと息子と子狸の所へ近づいた。息子と子狸の元へたどり着くと、恐る恐る子狸を見下ろした。

 息子は父親に己の体が乗っ取られたことを話した。二人は目の前の狸が化け狸であることを悟った。父親が杖にしていた木の棒を振り上げた。子狸は虚ろな瞳で、己の死が振り下ろされようとしているのを、他人事のように見ていた。心を支配する絶望が生きようという本能まで奪い去っていた。ただ、両親と兄に、ごめんなさい、と呟いていた。

 そのときであった。藪の向こうから音がしたかと思うと、狩人たちの体がびくりと跳ね上がった。三人とも同じ方角を向いていた。子狸がその視線の先を追うと、そこにいたのは一匹の大きな猪であった。興奮して息を荒げ、一家を睨み付ける猪は、子狸も初めて見るほどの巨体であった。猪の恐ろしさ、凶暴さを知っている狩人一家は息を呑んだ。足を怪我している父、足の悪い娘、そして一人無傷の兄はそれぞれが己の取るべき動きを判断しようとしていた。

 しかし猪は考える間も持たせず、猛烈な勢いで突進してきた。家族は互いが互いを庇おうとして揉みあい、そのまま三人ともが犠牲になろうとしていた。子狸はこの隙に逃げ出せば、この狩人たちからも猪からも逃げられたはずであった。虚ろな目をしていた子狸の行動は、咄嗟のことであった。自分でも自分の行動の意味が分からないまま、突進して来る猪の前に立ち塞がったのである。

 子狸は瞬間にして全身の血が沸騰するほどに熱くなっていた。ただ、守らなきゃ、という思いだけが反射的に己の体を動かしていた。

 かといって子狸一匹の体で猪の突進を止められるはずがない。猪の突進を止められるような変化など知らなかった。至近距離に迫った猪を前にして、子狸は無意識の内に変化していた。

 それはあの雨の日に見た、一本の傘であった。

 巨大な猪の突進に対して、傘となって、背後の三人を庇おうとしていたのだ。

 子狸は後に何度も思うことになる。

 ――あの瞬間、おいらが守りたかったものはなんだろう。なぜ、おいらはあの時、傘なんかに化けたんだろう、と。

 傘などで猪の突進を止められるはずがない。一家もろとも自分の命は失われるに決まっていた。とんだ茶番劇であった。ただそのとき子狸の脳裏に浮かんでいた光景は、雨の日に三人で傘に入り、寄り添うようにして歩く一家の姿だった。

自分の行動のはっきりとした理由も分からないまま、子狸は全身で衝撃を感じた。鋭い牙が己の体を貫いたような気がしたが、それが死の実感だと思うまもなく、意識は途切れた。

 気がつくと、傍らに可奈が立っていた。子狸はあわてて起き上がり、猪は、あの親子はどうなったのかを尋ねた。可奈は答えた。猪は突然現れた傘に驚き、逃げていった、家族はそのまま何事もなく家に帰った、と。

 子狸は呆然としてその言葉を聞いた。そんなことがあるものだろうか、何が何だか分からなかった。己も家族も助かったという現実にただただ戸惑っていた。

 可奈は脱力して座り込む子狸を尾で優しく撫でて慰めた。

 「あのとき、なぜ傘に化けたのじゃ」

 そう問われても、咄嗟のことであったため、子狸にもよく理由は分からなかった。子狸が正直にそう答えると、

 「見事であったぞ」

 可奈は納得したように満足げに頷き、褒めた。

 子狸もその言葉になぜか救われたような気がして、ほっとした。すると、いまさらながら恐怖で全身ががくがくと震え出した。

 「お前の家族もきっと喜んで、褒めてくれたであろう」

 付け加えられた可奈の言葉に、子狸は泣き出した。父も母も兄も、自分の勇気を見てくれただろうか、許してくれるだろうか。わんわんと泣きながら、全身を震わせていた。

 子狸は後に気付くことになる。あの猪は可奈が化けたものだったのだろう、そして絶望しかけたおいらを救うために、一芝居うったのではないか、と。臆病であることに絶望したおいらは、例え作戦に失敗したまま狩人たちから逃げ出していても、二度と作戦を実行する気にはなれなかっただろうし、自暴自棄になって野垂れ死にするに決まっていた。子狸の推測は可奈と付き合ううちに確信に変わる。あの時、可奈様は、おいらがあの家族を自らの命を賭して守る、勇気とは何かを教えてくれようとしたのではないか。そうしておいらの命を救ってくれたのではないだろうか、と。

 それから子狸は再び可奈に弟子入りを願い出た。弟子とは言わないまでも、可奈の傍らにいて、命を救ってもらった恩返しがしたい、と。

 可奈は少し考えてから言った。

 「そうじゃのう、そなたはなかなか面白い変化の力を持っているようじゃ。それを磨けば何かと便利かもしれぬ。よし、一つ変化の力を試してやろう。それができたら私の傍らに置いてやってもよい。ただし弟子ではないぞ。そうじゃな、玩具…いや、ますこっととして私に仕えよ、それでもいいかや」

 子狸はその可奈の言葉の意味があまりよくわからなかったが、喜んで受け入れた。可奈の側にいられるなら、何でもよかった。

 可奈は少し思案してから告げた。

 「娘が遊んでいたあの綺麗な毬は面白そうじゃった。どうじゃ、子狸、あの毬に化けられるかや」

 子狸は毬を想像して鮮明に思い浮かべた。飛び上がり、くるりと一回転して毬に化けようとした。美しく刺繍の施された毬がその場に現れた。しかし地面に落ちてころりと転がった毬を見て、可奈は噴出してしまった。半分だけは見事に綺麗な毬に変化していたが、もう半分は毛だらけであり、しかも尻尾までぽんと付いていた。

 可奈は笑いながら言った。

 「ふふ、子狸。新しいお主の名を思いついたぞ。妖となったお主はこれから、毛毬と名乗るがよい」

 子狸はその日から、化け狸の毛毬としての生を歩むことになる。その後、毛毬は可奈と旅をし、やがて形見として千代に授けられた。毛毬は千代の傍らで常にを守り、遊ばせ、楽しませたという。


掌――ゆめいろ七変化


 やあ、おいらの名前は毛毬。千代様の一の子分だ。千代姫の懐刀として、信頼の厚い用心棒でもある。おいらはもともと普通の子狸だったけれど、千代様のおっかさんの可奈様に命を救われて、半妖の化け狸になった。おかげ色々なものに変化する能力と、長い寿命を手にすることができた。

 最初の頃はなかなか変化の力に慣れなかった。うまく化けたつもりが、尻尾が出ていたり、前半分しか化けられなかったり、大きさがぜんぜん違ったり、失敗ばかりしていた。毛毬という変わった名は、可奈様が付けてくれた大切な名だけれど、きっかけは、おいらが変化に失敗して毛だらけの毬に化けてしまったことだ。恥ずかしかったけれど、そのときの可奈様の笑顔は、おいらの心にずしんと響いた。おいらは可奈様を笑わせることが好きになった。今では、その娘である千代様を笑わせることがおいらの役目だ。注意しておくけれど、笑われるのではなく、笑わせる、というところが大事だ。その違いが分かっていないやつが多くて、おいらは誇りを傷つけられることがある。

 例えば、他の従者である野風、雲斎、紅緒たちは、よくおいらを馬鹿にする。おいらが変化に失敗をしたり、何かをやろうとしてヘマをするのを見て、笑いものにするのだ。確かに失敗もへまも多いけれど、最初から上手くいくことなんて、世の中にそうあるものじゃない。何事も練習と反復が必要であり、失敗することが大切なんだ。そうすれば大抵のことは成功する。そうだろう。

 おいらは比べて体も小さいし、力だって弱い。足も遅い。そんなことは分かってる。だからこそ、可奈様に置いてけぼりにされないように、可奈様のお邪魔にならないように、必死に変化の修行をした。可奈様は我侭で、無理難題をおいらに押し付けることもあるけれど、その難題に必死に取り組むおいらを見ていてくれていた。失敗を何度も繰り返して時間はかかっても、いや時間がかかるからこそ、成功したときの喜びは格別だ。

 可奈様と別れて、その子供の千代様に仕えるようになってからも、それは変わらない。千代様は可奈様ととてもよく似ている。可奈様は出会ったときにはもう大人の九尾だった。それに比べると千代様はまだ若いから、とても子供っぽい所があって、時々おいらも呆れることがある。

 ただ、千代様がご褒美でくれる甘いお菓子は格別だ。いや、別に甘いお菓子欲しさにがんばっているんじゃない。千代様はご褒美をくれるとき、とても嬉しそうにする。その顔はいつも悲しそうだった可奈様が笑っているように見えて、ほっとする。その嬉しそうな顔が見たくて、おいらは必死に努力するんだ。あの千代様の、甘い餡子のように蕩けそうな笑顔が、おいらにとって何よりのご褒美なのだ。

 餡子という言葉で思い出したけれど、この間もまたへましてしまった。へまにへまを重ねる失敗だった。

 おいらが草履に化けて千代様と町を歩いているときのことだ。おいらは千代様の足を優しく包み、小石や泥から守っていた。千代様の草履になるのは楽しい。その歩く調子は心地いいし、何処へ連れて行ってくれるのかわくわくする。千代様は寄り道もよくするし、気まぐれに行き先を変えたりすることも多くて、予測不可能だ。何かを遠くに見つけて駆け出すときの期待感、何かの秘密にそろそろと忍び足で近寄るときの緊張感、あっちへふらふら、こっちへふらふらと店先をいったりきたりする移り気な好奇心、とぼとぼと力なく歩みを進めるときの悲愴感、千代様の歩みは、その表情のように直接的に心模様を伝えてくれる。そんなとき、おいらは千代様の心に寄り添っているような気がするのだ。喜びや楽しみは一緒に味わうことができるし、悲しみや怒りや憤りは、分かち合って、その痛みを和らげてあげようと思うから。

 千代様の歩みに任せてすたすたと町を進んでいると、どこからかいい匂いが漂ってきた。甘く、温かい餡子に香りだと、すぐに分かった。数軒先の饅頭屋から漂ってきているのがわかった。千代様はその前を足早に通り過ぎようとした。おいらはその前を去りがたくて、ついつい店先で歩みを止めてしまった。当然のごとく、千代様はつんのめった。しまったと思ったときにはもう遅かった。千代様は大きくよろけると転んでしまった。大した傷はなかったけれど、御着物が汚れ、手を擦り剥いてしまった。

 「これ、毛毬。何をしている」

おいらは我に返り、慌てて謝ろうと思うのだけれど、人通りの多い往来だから、変化を解くわけにもいかない。千代様は横にお菓子屋があるのを見て、呆れたように笑うと、

 「またか、まったくお前も仕方がないやつじゃのう」

 そういって温かい出来立てのお饅頭を買ってくれた。

 そうなると、もうおいらはいてもたってもいられない。早く温かいお饅頭が食べたくて、草履の姿のまま千代様を急かしてしまった。心は弾み、足取りも軽やかに千代様の体を引っ張るように小走りになった。

 「これこれ、毛毬。そんなに急いでも、饅頭は逃げやせん」

 そう小声で囁かれるのだけれど、温かいお饅頭が冷えてしまってはもったいない。気が付くと、周囲の人々がこちらを振り返るのに気づいた。

 いつの間にかおいらは信じられない速さで走っていた。周囲に砂埃を巻き起こしながら、驚異の駿足で駆けていた。己がただの草履ではなく、疾風の草履に変化していることに気が付かなかったのである。

 あまり目立つことはするな、そう口うるさい雲斎に厳命されているのに、また注目を集めてしまった。おいらは高い木の上で、葉に隠れて枝に座り、温かい饅頭を千代様と分け合って食べながら、また反省しなければならなかった。しゅんとしながら饅頭を食べていると、

 「気にするな、このことは雲斎たちには言いわせん。お前が悲しそうに饅頭を食べていると、まったく調子が狂う」

 そう千代様は頭を撫でながら慰めてくれたけれど、その手のひらは擦り剥けていて、素足には赤く蚯蚓腫れができていた。おいらはそれを見て落ち込んでしまった。空元気でむしゃむしゃとお饅頭を食べたけれど、さすがにお饅頭もしょっぱい味がした。

 もどかしいのは、おいらが喋れないことだ。千代様や他の従者の言っていることは分かるけど、自分では喋れない。だから言いたい事や伝えたいことがあっても、細かい説明はできないし、せいぜい大雑把にじぇすちゃー(これは可奈様が教えてくれた言葉だ)で表現するしかない。血を与えてもらった可奈様とは言葉を交わすことができたのだけれど、千代様とは言葉が通じ合わないのだ。おいらは、おいらが可奈様と色々な冒険をしたことや、可奈様に纏わるお話をしてあげたいのだけれど、それができないのはとても残念だ。

 さて、おいらのお役目は、色々なものに化けて千代様を楽しませること、また、その身を守ってあげることだ。そう可奈様から頼まれたんだ。だからどんなに雲斎や紅緒に馬鹿にされ、笑われても気にしない(まあ腹は立つけどさ)。千代様は道中や町の道具屋などで面白そうな道具を見つけると、それを買い求めておいらに変化を体得させる。そして気が向いたときに、思い出したようにあれに化けてごらんと命じる。おいらは美しいお着物や、簪や、身に着けるものだけではなく、子供の玩具や唐物の道具に化けることを覚えている。道具に化けるのは面白い。何が面白いかというと、千代様に使ってもらえるのが嬉しいのだ。道具だから、誰かに使ってもらわなければ変化をする意味がない。使い方も人それぞれで、うまく使ってくれる人もいれば、使い方さえ分からない人もいる。

 道具というものは不思議なもので、一人の人が長く使えば使うほどに手になじみ、それまでできなかったことができるようになったり、新しい使い方、楽しみ方を覚えたりできるのだ。一番分かりやすいのは包丁だと思う。あの包丁で、人は色々なおいしい料理を作り出す。年季の入った料理人の包丁捌きは、生半可な変化の術なんて目じゃない。伝統と熟練の技術で、鳥や魚や獣を自由自在に捌き、おいしい料理を生み出すのだ。まあ千代様は料理はしないし、紅緒や野風が作ったものを食べるのが専門だけれど。

 可奈様はおいらが化けた道具をとても上手に使いこなす最高の妖だった。おいらの力と可能性を発揮させてくれた。その子供である千代様も、可奈様に比べて拙いながらもおいらを使って楽しませてくれる。千代様に使われていると、少しずつ千代様の腕前が上がっていくのを身をもって感じることができて嬉しい。まあ、可奈様に比べるとまだまだだけれど。

 変化のれぱーとりぃはいっぱいあるけど、中でもお気に入りってのが幾つもある。例えばさっきの草履とかの履き物もその一つだ。その他には、風車なんてのもいい。千代様の髪に挿してもらうと、千代様が走ったり、歩いたりすることでからからと音を立てて回る。千代様がじっとしても、風が吹けばからからと回る。ただ風のためだけに存在する風車は単純だけれど、いや単純だからこそ、潔くて気持ちがいいのだ。風にも色々な種類があり、匂いがあり、肌触りがあり、季節によって、時刻によって風車の感じ方が変わる。千代様が丘の上で夜風に吹かれているときや、昼の野原で何処までも大地を撫でていく風に頬を当てているとき、日暮れ時、その日一日の火照りを覚ますために夕風に肌を晒しているときや、そよそよとした頼りないそよ風をなるべく全身で受けようと、体を広げて胸を反らせているとき…。そんなときは、千代様と同じように風を感じられているようで、とても快いのだ。時には大立ち回りをすることもあるし、馬に乗って荒々しく揺さぶられながら疾駆することもあるけれど、それはそれでわくわくすることだ。

 同じような理由で以前は凧も好きだった。鳥に変化することはできないけれど、やっぱり空を飛べるということは羨ましかった。だって、とても自由そうじゃないか。だから凧に変化することを覚えたときは、よく千代様に上げてもらっていたものだ。何処までも高く舞い上がり、風を全身で感じることができた。何より高いところから大地を見下ろすというのは、格別の快感だった。だけどある時、糸が切れてしまって大変な目にあったことがある。それからは怖くて凧に変化することはしていない。

 あと、笛とか太鼓とかの楽器に化けるのも大好きだ。下手な人はいやだけれど、上手な人の手にかかれば、笛や太鼓は美しい音を響かせ、旋律を奏でるすごく面白い道具だ。野風や紅緒はとても上手に色々な楽器を使うことができる。自分が奏でられて流れる旋律で、人々が歌ったり踊ったりするのは、とても痛快なことだ。それだけじゃなくて、旋律は悲しみや喜びとかの感情を表現することもできる。千代様はときに、誰もいない場所で、おいらを笛に変えてつらつらと虚空に向かって奏でることがある。そんなときは胸を締め付けられるような、たまらない気持ちになる。それは千代様との大切な思い出だ。

 辛かったのは、おいらがとっさに刀に変化したときだ。千代様がある事件に巻き込まれて(首を突っ込んで)、大立ち回りの最中だった。千代様は傘に化けたおいらを振り回して五人の盗賊を昏倒させていた。すると盗賊の頭目が仕込み刀を抜き、千代様に切りかかった。千代様は傘で己を守ることもできたのだけれど、傘と刀じゃ勝ち目はない。それに幾ら変化していても、傘を真っ二つに割られてしまえば、おいらは死んでしまう。千代様は紙一重でかわそうとしたけれど、おいらを庇おうとした分反応が送れ、右手に浅い傷を負ってしまった。真っ赤な血が流れるのを見て、おいらはかっとなってしまった。千代様を殺そうとした盗賊に、憎悪が燃え上がった。千代様はかわし様に、おいらが変化した傘で盗賊の喉を潰そうとした。みね打ちしようとしたのだ。

 千代様がはっとしたときには、傘ではなくて刀が盗賊の喉を貫いていた。憎悪にかられたおいらは、千代様の手の中で刀に姿を変えていたんだ。

 頭目は即死だった。あのときの感触は、今でも覚えてる。忘れようと思っても、忘れられない。千代様の手からは驚きと後悔が伝わってきたし、柔らかな肉と骨を削る感触が鈍く刃に伝わってきた。頭目の血が刃を伝って滴り落ちてきた。その生臭い匂いは、しばらくは鼻先に漂っているような気がした。気持ちが悪くて、数日はなかなか眠れなかった

 何より辛かったのは、千代様がおいらに付いた血を袖で拭いながら、

 「すまんのう、私が油断したばっかりに」

 そういって涙を零したことだ。

 そのときの千代様の悲しげな、申し訳なさそうな顔は、今でも心に焼き付いている。怒りにかられて刀に変化したのはおいらなのに、千代様はおいらに泣きながら謝った。どうして千代様が泣いているのか、よく分からなかった。けど、おいらは何も言えず、ただ血を拭われるままにまかせることしかできなかった。

 もう二度と、あんな想いはしたくない。

 それから千代様は、刀に化けることを禁じさせた。でも、それじゃあいざという時に千代様を守れないかもしれない。だからおいらは鉄の傘に化けることを練習したものだ。

 おいらにお気に入りの道具があるように、千代様にも好みがある。ときどき変化させられるのが、万華鏡という道具だ。玩具みたいだけれど、穴を覗き込む度に光景を変える、実に不思議な道具だ。色々な種類があって、装飾や構造に凝っている。

 それは可奈様が時を越えて持ってきたもので、おいらに変化を習得するように命じたものだ。造りが複雑で、変化するのがとても難しかった。完璧に変化するのにずいぶん時間がかかった。だけど化けられたときは、可奈様は大喜びしてくれた。しばらくは飽きることなくずっと万華鏡になったおいらの中を覗き込んでばかりいた。

そのときは、万華鏡がどうしてそんなに面白いのか分からなかった。中を覗き込んでも鏡の中で複雑に模様が変わるぐらいで、おいらならすぐに飽きてしまう。まだ遠眼鏡の方が面白いのに、そう思っていた。

 千代様が万華鏡を眺めている姿は、可奈様とそっくりだ。飽きることなく、実に楽しそうにくるくると回し続けている。それを見ながら、おいらは気づいたんだ。千代様は万華鏡を覗き込みながら、おいらとはまったく異なるものを見ていることに。万華鏡という閉ざされた世界を覗きながら、実はその外に広がる無限の世を、万華鏡から透過して見ているのだ。同じ場所に立っていても、同じことをしていても、千代様とおいらはまったく違うことを考え、思っている。ときにそれは重なり合うこともあるけれど、千代様のそれまでの背景や、未来へ馳せる想いは、おいらとは全く違うのだ。そして、それは可奈様にも言えることなのだ。同じ道具であっても、手にした人によってその道具から広がる世界が全く異なっているように。

 千代様はかつての可奈様のように、おいらを色々な道具に変化させ、それを上手に使うことで、おいらに新しい世への扉を開き、見たことのない風景を見せてくれる。それは、可奈様とはまた異なった景色だ。可奈様のいなくなった今、千代様は道具に化けたおいらを、誰よりも上手に使ってくれる大切なご主人様だ。だから、これからも千代様のお側を離れないようにしようと思う。いつまでもお側においてもらえるように、もっと変化の術を磨いて千代様を楽しませようと思う。どんなに失敗を繰り返しても、無様だと馬鹿にされても、それで千代様が笑ってくれるのなら満足だ。千代様はおいらががんばっているのを見てくれているのだから。

 もう二度と千代様が泣き出してしまわないように、おいらは滑稽な一人芝居を続けていこう。千代様を笑わせ、喜ばせ、楽しませ、そうして守ろう。それが、絶望から救ってくれた可奈様へ、千代様を託されたおいらができる、たった一つの恩返しだから。

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