第3話 雲斎あやかし行脚考

 雲斎といえば妖の世では名の通った化け物の一匹であり、変化の大家として名高い。彼は長く人と妖の世の境界を流離いながら無数の妖と出会い、彼らに教えを請うて己の変化の術を高めてきた。いわば妖として己の生き方を追求する求道者であり、変化の極みを目指す、妖界の修験者であった。一方、あまり知られてはいないことだが、各地の化け物たちに関する考察、思索を続け、壮大な化け学大系を著そうとする学問の徒でもある。

 雲斎という呼び名は妖達からの尊称であり、かつてはただ「雲」と呼ばれていた。その名の通り、雲斎とは雲に似た妖であったからだ。その体はふわふわもくもくとしており、実体のない煙や雲のようなものでできていて、変幻自在にその形を変えることのできた。雲斎は幼少の頃よりその変化の才能を発揮し、将来を嘱望され、妖界の神童としてもてはやされていた。しかし彼が雲斎と名乗り、化け物たちから先生と呼ばれるまでになるには、長い遍歴を経なければならなかった。

 雲は幼い頃の記憶や、自分が生まれたときのことなど一切を覚えていない。気が付けば色々なものに姿を変えながら、人を驚かせたり、怖がらせたりして生きていた。己の体を思うままに形を変えられるため、森の獣になり、空を飛ぶ鳥になり、川を泳ぐ魚になり、思うがままにゆらゆらと山河を彷徨っていた。その山河の化け物たちは、雲のことをあらゆるものに姿を変えることのできる変化の天才だと褒めたてた。雲は得意になり、様々なものへと変化しては近隣の人里に出没したり、旅人の前に姿を現せては他愛無い悪戯を繰り返していた。

 己の体が定かではない雲にとって、人を驚かすこと、怖がらせることは容易く楽しい遊びであった。人々の驚き、不安、恐怖、そういったもろもろの感情を受けることは快感であり、人が口々に己のことを語るのを聞くのも愉快であった。

 雲は一帯の先達の妖達から、人を驚かせ、不安がらせ、怖がらせる多様な技術を教わった。それは光を放つことであったり、音を立てることであったり、物を動かすことであったり、奇妙なものに姿を変えたりすることであった。そうする中で、雲は人の怪異への畏れ、また恐れという感情を理解するようになった。いかにすれば人をより怖がらせ、畏れさせ、驚かせることができるのか。それは化け物たちの間では様々な技術論、精神論として受け継がれていた。いかにすればより効果的に、より印象深く、恐怖心を植えつけられるのか。それはパフォーマンスの方法論であり、妖界の期待の星として雲はそのエリート教育を受け、様々な技をものにしていった。

 ところが無邪気に姿を変えて戯れていられたのは、幼い時分だけであった。やがて雲は己の存在に疑問を抱くようになる。雲は体を自在に変えることができ、その力で人を驚かせることは簡単だったが、一方で何に化けても変化の元となった生き物からは爪弾きにされ、異端のものとして拒まれてきた。それも当然の話で、確かに己の形を変えることは得意ではあったものの、所詮は実体のないぼやけた雲であり、似せられるのはせいぜい輪郭までであった。その輪郭にしても、頼りない薄ぼんやりとしたものでしかなかった。色艶や毛並みなどの細部まで雲の体で再現できるはずがない。似せられるのは大雑把な外見だけであり、一目瞭然で妖と分かってしまう程度の変化でしかなかった。何より、たとえ姿かたちを真似できたとしても、細かな習性や生態まで真似することはできなかった。似せられるのは影のようにぼんやりした姿かたちまでであり、その中身は伴わないものであった。例えば鹿にその姿を変えようと、鹿のように軽やかに駆けることはできず、動きを真似てもギクシャクとしたものであり、その体の動作に実際の動きが連動していかないのだ。それもそのはずで、雲には他の動物のように重みを持った確固とした肉体というものがなかった。手も、足も、頭も、どこからどこまでが体で、何処からが四肢なのかも定かではなかった。そのため、姿かたちだけを変えたとしても、動きはともなわないのであった。雲はゆらゆらと漂うことはできたし、その気になれば鹿並みの速さで移動することもできた。鳥のように空を流れることもできた。しかし他の動物の動きを真似て駆けたり、跳ねたり、飛んだりすることは不得手であった。せいぜい奇妙な動きにしかならず、右足を出した後に左足、前足を出した後に後ろ足と、一つ一つ動作を確認して順序を覚えなければならず、それは雲にとって退屈で面倒なことでしかなかった。空を飛ぶのも鳥のようではなく、翼はただの飾りであり、ふわふわと漂う程度のものであった。

 人を驚かせることが糧道であり、意図しない存在意義である化け物にとってはそれでよかった。奇妙であることそのものが人に怪異として映るのであるから、むしろ好都合であるといってもいい。しかし雲はただの妖ではなかった。いや、己をただの妖ではないと思い込んでいた。他の化け物たちから誉めそやされ、持ち上げられるうちに、己は他の凡庸な化け物たちとは違う、特別な存在であると思うようになっていた。そして、己は何のために生まれたのか、何を為すために存在するのか、そんなことを考えるようになっていったのだ。

 やがて人を驚かすことに飽いた雲は、他の数多の生き物たちに姿を変えるうちに、ただひたすらに己という存在に関して考えるようになった。そして一つの苦悩を抱くようになった。それは、いかに己が空っぽの存在であるか、ということである。あらゆる形に自在に変化できようとも、それは表面だけのこと、中身はすかすかの空っぽ。実の伴わない所詮まやかしの姿でしかない。何に化けようとも、決して真物にたどり着くことはできない。雲は己が、自分自身でさえ得体のしれない、ふわふわとした、確固とした形の定まらない不確かなもののように思え、不安でたまらなくなった。

 その不安は更に膨らみ、己とはいったい何者なのか、化けるとはどういうことなのか、なぜ妖のような者達がいて、なぜ己のような存在が生まれたのか、己はどう生きていけばいいのか。そのような無数の疑問がぐるぐると己の内側にこだまし始めたのである。

 雲は空っぽの己を埋めるために、「何者か」になりたくなった。

 ふさぎこみ、一日中何事かを考え続けて身じろぎもしないことが十日も続いたかと思えば、何らかの獣に姿を変えて森をひたすらに彷徨い続ける。考えても考えてもどうしていいのか分からず、膨らんだ不安、焦燥が、大きな衝動となって森を彷徨うようになっていた。そんなことを繰り返す雲の様子を、周囲の化け物たちは理解できないというような目で眺めていた。中には雲の呟いた疑問を耳にして、あからさまにあざ笑う化け物さえいた。かつて雲を褒めそやした化け物たちの多くが雲を非難し、蔑むようになった。彼らの言い分はこのようなものである。

 「無意味な思索や放浪などやめて、化け物として真っ当に生きろ。遊んでばかりいるのではなく、もっと人を驚かせ、怖がらせ、恐れさせる技に磨きをかけ、化け物たちの存在を人に知らしめよ」

 雲とて、どのように生きていけばいいのか答えが出たわけではなかったが、ただ一つだけ分かっていることがあった。他の化け物たちが口を揃えて強要するそんな生き方だけは真っ平ごめんである、ということだった。確かに化け物とは人の恐怖などの感情を糧とし、人の感情を食むことによって命を繋いでいく奇妙な存在である。そのため化け物たちは、生きながらえるために人を怖がらせ続け、恐れさせなければならない。多くの化け物たちは雲を諭した。人を怖がらせ、恐れさせることこそが、我ら化け物たちの生きる道である、と。

 多くの化け物たちはその考えに倣い、生きながらえるために人を驚かせることに血道をあげ、後は化け物たちを畏怖する人間の様を見ながら、人はなんて愚かなのだと嘲笑ってばかりいた。雲は決してそんな生き方はしたくなかった。他の化け物たちの生き方は、雲にとって不自由で、不真面目で、単調で、無味乾燥で、退屈なものとしか思えなかった。

 己を空っぽだという苦悩を抱え込んだ雲が、欲してやまないものがあった。それは肉体である。雲にも五感というものはあった。しかしそれは非常に貧弱なものでしかなかった。何しろ確固とした肉体がない雲であるから、痛みもなければ、寒さや熱さも感じることはない。風は体を吹き抜けていったし、陽光は己を透過して影さえ残さない。体の中には空虚だけがあった。

 人を驚かすことのなくなった雲は、やがて人々から忘れ去られ、感情を食むことを止めたことにより次第にやせ細っていった。それでも肉体を持たない雲にとっては、その漠然とした飢餓感だけがこの世と己とを繋げる一本の細い糸のように感じられた。

 そんなあるときのことである。雲は近隣の化け物たちとの化け合戦に招かれた。変化を得意とした雲はしばしばその手の催し物に呼ばれることがあったのである。そこで雲は一匹の妖と出会った。その妖は旅かける妖であり、いつも化け合戦で負けていた隣村の化け物たちが雇った、いわば助っ人であった。

 雲はもはや変化の技になど興味はなかった。ただ人を驚かせるためにもやもやとした形を変えるだけの技に、限界を感じていた。しかしそんな雲の諦念を、その一匹の化け物が覆した。三番勝負の化け合戦で、雲は徹底的に打ちのめされた。その旅かける妖は、雲の知らなかった変化の奥深さ、多様さの一端を示した。

 雲はその妖から、世がいかに広く、様々な妖がいて、変化道が遥かなる道のりを持ったものであるかを聞かされた。雲は己を恥じた。己は変化道の入り口辺りをふらふらしていい気になっていただけだ。道を歩こうともせず、遠くに聳え立つ山も、越えるべき峡谷も、渡るべき大河も知らず、何をも目指そうともしていなかったのだ。

 雲はその妖が己自身で目指すべき場所を見定め、その道を極めんと艱難辛苦の旅をしていることを知って、己の怠惰を思い知らされた思いがした。即座に弟子入りをしようとしたが、その妖は行く先も告げずにふいと姿を消してしまった。後とを追おうとしたが、どの方角にいったかさえ分からずに、雲は途方にくれた。しかし、雲はもう迷いはしなかった。己の棲む故郷を捨て、変化道を極めんとする旅に出る決意をしたのである。

 あの妖に追いつくことはできないかもしれない。しかし、その足跡を辿ることはできるのではないか。たとえ異なる道を選ぼうと、変化道を極めんとする限り、いつかあの化け物の影を踏むことぐらいはできるかもしれない。

雲をその後数百年に及ぶ放浪の旅へと突き動かした衝動、それは強烈な憧憬であった。一度会ったきりの一匹の妖、その圧倒的な姿、衝撃が、その後の雲の生き方を決めることになったのだ。

 空っぽであった己の中に、確かな量感と質感を伴った風が吹き始めたのを、雲は確かに感じ取っていた。

 旅立つ前、故郷の丘に体を横たえ、青空に流れる雲を見ながら雲は思った。風が流れ、それにしたがって雲が流れる。己自身は風を感じることはできなくとも、風に吹かれていこう。変化道を極める旅に。自由を求める旅に。

 千切れた雲が形を変え、風に吹かれていくのを眺めながら、ふと気づいた。

 何だ、己は雲にさえ成りきれていなかったのではないか。天上の雲は気ままに風に吹かれて、心地よさげに形を変え、見知らぬ空に流れていくのだ。己など、うじうじと考え込むばかりで、風を感じることもなく、迷いたくないと恐れては一歩も動こうとはしない、ただの臆病者、怠け者でしかなかったのだ。

 晴れ晴れとした気持ちになって雲は立ち上がった。その眼差しの向こう、流れていく雲を眩しく見上げた。

 あのはぐれた雲を追いかけていこう。追いつけはしないかもしれない、消えてしまうかもしれない。しかし何処へ行こうと、きっと空はそこにある。そして新たな風が吹いている。追いかけていた雲を見失ったならば、再び新たな風に任せて流れていけばいい。そう、己は風を感じることから始めよう。あの、雲のように。


 それから雲は諸国を漫遊し、各地の名高い妖を探して旅を続けた。変わった変化の技を持つものがいれば弟子入りし、その術を学んでいった。世には様々な変化の作法があり、流儀があり、実に多彩な変化の術があった。かつて雲は、妖は己の存在意義など考えないと思っていた。それは間違いであった。各地でそれぞれの妖たちが、無自覚ではあっても確固とした化け物哲学ともいうべきものを持っていることに気付いたのだ。

 それは化けることと密接に関わっていて、化け物の生き方、考え方の根底にある思想であった。しかもその化け物哲学とは土地や種族によってまったく異なるのである。じつに個性的な世界観があることに、雲は強い興味を覚えた。大抵はどの化け物も、存在意義などという言葉も、哲学も、存在という言葉も知らない。そういったことを考えてもいないように見えても、実はしっかりと身に付いているのである。それは生命、土地と密接に関わりあう中で生まれた、生きる哲学とも言うべきものだ。

 旅を続けるうち、雲は己の得た知識を、独自の化け学というものに昇華させていった。やがて、壮大な化け学体系を完成させたいと望むようになるのである。化け学を極めることこそ、我とは何であるかを明かす、暗闇に差した一筋の光のように思われたからだ。

 旅の最中、己とは何者であるのか、その問いが常にあり、雲の中で絶えず反響していた。しかし旅を続け、様々なものに教えを乞い変化の技を磨くうちに、思いもまた変化していった。

 ――己は一体何処に辿り付けるのか。

 変化の術を身に付け、化け学を極めることで、「己は最後に何者に化けることができるのか」という風に変化していったのである。

 

 化け物は土地に縛られるものである。その土地が力を与えてくれるし、土地の人によって語られるほどに形は確かになっていき、力は増す。もし土地を離れてしまえば、土地から得ていた力は失われ、また人によって語られることもなくなり、存在そのものが消え去ってしまう。だから雲は、行く先々で人々を驚かさなければならなかった。そうしてその土地土地で姿を変えていった。そうしなければ、存在を保てない。飢えを満たすために、異なる語られ方をし、異なる名で呼ばれることになった。

 それは新鮮な体験であった。それまで棲んでいた土地一帯の人里では、雲はただの雲の妖として認知されていて、それ以外の何者でもなかった。一方、旅先の新しい土地では、己の語られ方は実に様々であった。それまで拙い言葉と感情で語られていた雲は、彼らの多彩な反応を楽しんだし、どのようにして語られ、象られるのかを堪能した。人間たちは例えば己を誰それの霊であるとか、怨霊であるとか、神であるとか、大樹の精霊であるとか、土地に纏わる言葉で語った。土地に染み付いた言い伝えで祀り上げられ、畏敬の感情の込められた複雑な言葉で語られるとき、雲は得体の知れない形のない己が、重みを持った確かな存在であると感じられるのである。

 各地の妖たちと出会い、生活を共にするうちに、雲はあることに注目するようになる。故郷では気にも留めなかったことであるが、それは、妖たちが「人」というものととても深く関わりあっているという点である。妖は人とは異なる世界に棲み、相容れないものである、かつての雲はそう考えていた。人など妖の変化の力を知らしめるためにいるもので、人の感情を食む妖たちも、互いに境界を守り、必要以上に干渉しあわない、それが人と妖の関係であると思っていた。それがどうやら違っていることに気づいたのだ。人は妖を恐れ、妖は人を蔑む。しかし一方で、妖は人と深く関わっていて、人は妖と離れることができないようなのだ。この不可思議な関係を考え、妖側から思索してみると、どうやら妖は、存在として人と離れられないものである、という結論に辿り着いた。妖はその存在意義、生きる意味を人に依っているようでさえあり、妖は人と分かちがたい存在であるように思えてしまうのである。例えばそれは、一枚の紙の表と裏のように。或いは光と影のように。

 そうして、人に対して興味を持ち始めた雲は、ある時一人の人間と出会い、ともに旅をすることになる。その人間は年の頃二十歳を過ぎた長身の坊主であり、その名を空也といった。男は僧としての修行で各地を巡る旅をしていた。

雲が空也と出会ったのは、ある廃寺でのことであった。滅びた村落で忘れ去られていた墓で、空也は念仏を唱えていた。

 人を驚かせながら旅をしていた雲だったが、長らく人里にたどり着けず、その体を痩せ細らせていた。そこに久しぶりの人間である。己の飢えを満たすために、雲はその僧を存分に驚かせることに決めた。

 人の畏怖や恐怖を糧とするため、雲は人を驚かせるのはお手の物であり、それなりの自信があった。場所も好都合なことに、滅びた村の廃寺であり、しかも僧である。僧が信心深く、魂や霊といったものの存在を認知し、妖を恐れやすい性質を持っていることを、雲は経験上よく知っていた。僧は何のためか分からないが、廃寺で暮らしているようであった。簡素に荷造りされた手荷物から、己と同じように旅の最中であることが分かった。

 この僧をじわじわと怖がらせ、怯えさせ、恐れさせるのだ。我という妖の存在を僧の想像の中で膨らませ、畏怖の思いをその心に刻み付けるのだ。さて、墓もあることだし、発光する霊にでも変化しようか、それとも怨恨の声で一晩中呻こうか、いや壊れた人形に宿ってうろつこうか、或いは廃寺の中の小道具を揺れ動かす演出をしようか…。

 雲は隠れて男を見張り、夜が訪れるのを待った。そして闇が降りるとともに、寝床に入った男を怖がらせようと試みた。ところが、男は一向に怖がるそぶりも、驚くそぶりも見せなかった。かといって眠っている風でもない。物音に気付いた男は寝床からは出たものの、正座をしたまま身じろぎもしない。ただぶつぶつと何事かを呟き始めた。男は昼間も、しばしば何事かを小声で呟きながら過ごしていた。誰に向かって言うでもなく、独り言をひたすらにもごもごと囁き続けていた。雲はそれを念仏だと思っていた。男が妖に食われることを恐怖し、神仏の力に縋ろうと念仏を唱えているのだろう、そう思っていた。しかし男からは恐怖というものが一向に感じられないのだ。感情を食む妖は、人の醸し出す恐怖や驚き、そういったものに敏感である。それは例えば多彩な香りのように芳しく人の体から漂ってくるし、雰囲気が色となって見えたりもする。その空気を吸い込むことこそが、妖にとっての糧となる。

 しかしその男は、恐怖や驚きといった感情を全く発してはいなかった。泰然自若と端座して、僅かな動揺すら見せない。雲が狼の唸り声や、人間のうめき声の声色で脅かしても、戸板をがたがたと揺さぶっても、果ては仏の木像を転がり落とそうとも、一向に反応しないのだ。それまでの人間はといえば、どんな屈強そうな男であろうと、雲の手法にじわじわと恐怖を募らせ、肝をつぶし、最後には腰を抜かして逃げ出すものが殆どであった。その常と違って恐怖を微塵も感じない僧に、雲は首を捻りながら様々な演出を試みた。己のそれまでに修めた変化を駆使し、思いつく限りのあらゆる手を尽くした。そのうちに雲は焦りに駆られてきた。

 と、僧は思いがけない一言を発した。暗闇の中、雲の潜んだ天井に顔を向けて何とこう言ったのだ。

 「――雲よ、まだまだ未熟よのう。それしきで変化が極められるはずもない」

 僧を驚かせようとしていたはずの雲は、逆に僧によって驚愕させられてしまうこととなった。

 「御坊、お主、私を知っているのか」

 「ああ。お主が知らぬことまで、私は雲という哲学する妖について知っておる」

そんなことがあるはずがなかった。雲は旅をする妖であり、故郷を離れてより、人と深く交わることなく世を流離ってきた。その己について知っている人間がいるわけがないのである。しかし僧は、そんな雲の動揺を見越してか、すらすらと語り始めた。それはあろうことか、雲のそれまでの旅の過程であった。雲が己という存在が空っぽではないかと悩んでいたこと、一匹の化け物と出会い、変化を極めることを決意して旅に出たこと、それらを物語るように話したのだ。

雲は知りえないことを知っている僧に、得体の知れない恐怖を感じた。

 「もしやあなたも変化、妖なのか」

 妖であれば、変化の才児として名高い雲に関して知っていてもおかしくはない。しかしそれにしても、僧は雲に関して詳しすぎた。

 「変化? 私がか」

 僧はそう言うと、おかしそうに笑った。

 「いや、私はこの通り、見てのまんまの人間よ。だがしかし、まあ変化と言っても当たらずとも遠からずといったところか」

 そう言うと、下を向いて考え込み、ぼそぼそと何事かを呟き始めた。雲はその囁き声を聞いていたが、所々しか聞こえてこない。会話を中断しておいて念仏のような言葉を唱え始めた僧に、雲は戸惑った。問いかけた雲のことなど忘れてしまったかのように、僧はぶつぶつとひたすらに言葉を吐き続けている。ときどき首を捻ったり、一人頷いたり、ぽんと手を打ったり、ぴしゃりと頭を叩いたり、ぶんぶんと首を振ったりしながら、延々と何事かを語り続けているのである。

 耳を澄ませると、微かに聞こえてきたのは念仏などではなかった。

 「…妖とはそもそも人間の変化であろうし、いや、人間こそが妖の変化であるともいえる。では己は変化ではあっても、妖ではない。いやいや、己とは人間ではなく、人間だと思い込んだ化生なのか、そもそも人間の定義、妖の定義とは学者や時代によって異なるもの、しかも数学のように唯一無二に正しいといったものではない、時代によって正解は異なり、全く異なる方程式が使われている。そう考えてみると、今私は人間であるが、過去は人間ではなく、未来は人間かどうかさえも分からないということ、いや、そもそも己とは何だ、記憶か、肉体か、魂か、過去か、未来か、今か、いやそもそも…」

 聞いていても雲ではさっぱり要領を得ないことである。しかし真剣な僧の表情には、声をかけるのを躊躇われる何かがあった。思索する妖である雲は、没我の思索を妨げられることの不快さを知っていた。しばらくの間、幾度もの「そもそも」がもそもそと繰り返されるのを聞いていたが、このままでは埒が開かないと、遠慮しつつ僧に話しかけた。

 「御坊、思索の途中で申し訳ない」

 と、真剣な顔で何やら考えていた僧はぴたりと言葉を止め、雲の方を向いた。

 「おっと、すまんすまん。御主との話の途中だったな。どうも一つの疑問が浮かぶと止め処なく考えが湧き上がってきて、何をしていたか忘れてしまうのでな…そもそも―」

 僧は雲を見ながら頭を振り、困ったような顔をして言った。

 「――で、何の話をしておったのだったかな?」

 「…結局のところ、なぜ御坊は私のことを知っておるのだ」

 その質問に、僧は何かを思いついたかのようにぽんと手を叩き、そうそうそうじゃったな、と楽しげに頷いた。

「それは簡単なこと、お主自身から聞いたのよ」

 そんなはずはなかった。雲はこんな僧など会ったことがない。そういうと、僧は再び深く頷きながら言った。

 「お主が私と会ったのは今宵が初めてであろう。しかし、私がお主と会うのは初めてではないのだ」

 雲はその言葉を幾度も反芻してみた。しかしどういう意味であるのか、さっぱり分からなかった。

 「どうじゃ、この謎かけの解が分かるか」

 雲は考えた末に言った。

 「そんなことは起こりえない。矛盾しているではないか」

 「矛盾か、いやそんなことはない。実際に、現実に、私自身の存在そのものが、私の言葉が矛盾していないことを証明している」

 僧は雲の戸惑いを楽しむかのように、にやにやと嬉しそうに言った。

 「実は、私は未来でお主に会っておるのよ」

 「未来で?」

 「そうとも、今よりずっと先の未来で、私はお主に会ったことがある。そしてお主から直々に話を聞いたのよ。だからお主が私と会ったことを知らぬのは当然。未だ会ったことがないのだから。しかし私がお主のことを知っているのも当然。私はお主から直接話を聞いたのだからな。これなら矛盾せず道理が立つであろう」

雲は言われたことを考えてみて、思わず納得しそうになった。ふむふむ、確かに、それなら御坊の言っていることは間違いではない。

 しかしどこかが違う、何が根本的に納得できない部分があった。そこに思い至ったとき、雲は慌てて言った。

 「そんな馬鹿な。それでは御坊は……」

 言葉が思いつかずに固まった雲に、

 「そう、私は未来からやって来た。過去を遡り、時を越えてきたのよ」

僧は楽しげに、にやりと顔を歪めて言ったのだった。


 ――輪廻、という言葉を知っておるか。

 語り始めた僧の話は、雲には俄かには信じがたいものであった。僧は言った。己は死しては生まれ、生まれては死ぬることを繰り返す、輪廻転生の魂を持っているのだ、と。

 生き物はどのようなものでも魂を持っており、死しても別の、新たな命となって生まれ変わる。それが知られざる世の真理である。しかし殆どの生き物は己の前世のことなど覚えてはいない。ましてや、前世の前世、そのまた前世と連綿と繋げられてきた輪廻のことなど存在さえ知る者はいないのだ。

 ――何と哀しいことよ。

 僧は物憂げに言った。

 まあ、記憶していないのだから、信じられないのも仕方がないが。もし覚えているならば、いや、少なくとも知ってさえいれば、世の中ももちっとましになるのだろうに。

 雲が聞くところには、どういうわけか僧は、前世のこと、そのまた前世のことも、その前も覚えているのだという。かつて僧は虫であり、魚であり、犬であり、鳥であった。花であったこともあれば、大樹であったことも、葉であったこともあった。幾つもの命へと魂は移ろいながら、生と死を繰り返してきたというのだ。

そして更に驚くべきことを話した。僧の輪廻転生は、種や場所を変えるだけではなく、時間さえも選ばないのだという。僧は時を越え、未来から過去へといったりきたりしては、新たな命、新たな姿となって生まれ変わるというのだ。

 「厄介なことよ。己自身では輪廻転生は操れるものでないのだからな」

 ――今はこうやって人の姿になっておるため、お主と言葉を交わすことができる。長く旅をすることもできる。しかし次に転生するのは、道端の虫や花かもしれん。虫や花の一生などは人に比べて儚いもの。どんなに懸命に生きたとしても、あっという間よ。いや、人に生まれたとしても、すぐに死ぬることもあれば、長く生きることもある。それに長く生きたとしても、草花とは比べ物にならないほどの苦しみや悲しみを味わわねばならんこともある。生きれば生きるほどに人の業は深くなる。考えてみれば、儚いこと、刹那であることは人も草花も変わらんか。神代の大樹の命からすれば、人の命も午睡ほどのものに過ぎないのだから。

 雲は俄かには空也の話を信じることができなかった。そこで空也に、様々な質問をぶつけた。それは変化に関する化け学問答であった。姿を変えることのできる妖しか知りえぬ、問答の掛け合いである。驚くべきことに、空也は雲の問いかけに淀みなく答え、更に雲に対して新たな質問をぶつけてきた。雲はそれまで己の疑問や考えをぶつけ、戦わせる相手を見つけられることができなかった。己の悩みや考えを他の化け物に話しても、笑われるだけであった。雲は初めて知った。言葉を、考えを戦わせることは、快感であった。それまでもやもやとしていた己の心が、対話を通して少しずつ確かなものと象られていくような、そんな心地よさを覚えていた。雲は思ったものだ。己は体の形がもやもやとしていただけでなく、心もまたもやもやとしていて形がなかったのだ。そのことが己を不安にさせていたのだ。いや、心がぼやけているせいで、そのことが己の体にまで影響していたのかもしれない。雲は堰を切ったように話し続け、己がこれほどまでに話すことに飢えていたことに気付き、驚いた。

 問答は白熱していき、半日に渡る化け学問答の末、雲は空也が確かに輪廻転生をする一種の化生であることを認めざるを得なかった。


 問答の際に雲は空也にこう言われた。一人の人としての生を知らずして、一匹の獣としての生を知らずして、変化などできるものか。それは所詮、真似事に過ぎない、と。

 その言葉は痛烈に雲の心を打った。痛みを感じない己が、全身を揺さぶられたような気がした。雲は思った。変化とは姿を変えるということ。しかしどんなに姿形を似せようとしても限界がある。転生という究極の変化によって姿を変え続けてきた空也にこそ、変化の極意を持つのではないか、と。問答を掛け合いながら、雲は魅了されていた。時を越えて幾つもの生を全うし、時代を越えた知を備えている空也という人間に。そして問答の終わる頃には、空也の旅に付いていくことを決めていた。

 雲の提案を聞いた空也はしばし思案してから言った。ふむ、私も妖にはかねてより興味があった。それにお主がいれば何かと便利なこともあろう。どうにも人間は不便なことや不都合なことが多くての。

 そうして空也と雲の二人での旅は始まったのだった。

空也と雲との旅は当て所のないものであった。空也は街道を辿りながら人里を巡っていた。雲はその後を付いていくのであるが、当然、妖のままの姿では人目につく。妖だと気付かれないほど上手く人に化けることはとても難しく、雲には不可能であった。そこで空也は、雲に修験者の服を着せることにした。もやもやとした体をすっぽりと覆う大き目の僧衣を着せ、できるだけもやもやとした肌が見えぬようにした。更に頭には、形の変形した大きな深編笠を目深に被らせ、顔を見えぬようにした。後は足袋を着せ、履物を履かせ、全身に衣装を着せることによって、一見して化け物とは気付かれないように工夫した。雲は服によって己の形を象り、人の形を保つことが可能になった。しかしこれでもまだ人里を旅するには不十分であった。雲は人のように重さがなく、更には骨格や筋肉といったものもない。そのため、動くにしても人の形のままスーッと横滑りするように移動してしまうし、腕や首を、曲がるはずの角度で曲げたりしてしまうこともしばしばであった。雲は空也に習って人の動きや仕草といったもののを学ばなければならなかった。空也の動きを観察し、仕草を真似して、人の歩き方、動き方を習得した。それでも最初の頃は失敗の連続であった。うっかり気を抜くと首を一回転させてしまったり、奇妙な形に腕を曲げてしまったりすることもあり、しばしば人を驚かせるというヘマをしてしまうことも多かった。旅をするうちに大分上達していったが、その動きはどうにもふわふわとした重さを感じさせないものであり、人に違和感を覚えさせるものであった。実際には存在しない己の重さ、というものを演技によって表現できるようになるまでにはかなりの修練を要した。雲はまさしく浮世離れした修験者として旅をしていた。

 雲にとって空也との旅は驚きの連続であった。それは世の有り様や、人や妖の多彩さだけでなく、空也という一人の人間に対して、雲は己の興味が尽きぬことを感じていた。

 それはまず、空也の持つ知識と、知識を表現する言葉への畏怖であった。

 空也は語り始めると止まることを知らなかった。とにかく無数の言葉で何事かを語り、呟き続けるのである。それも、起承転結のあるまとまった話ではない。胸に渦巻く疑問、疑念、疑い、真理、そういったものを延々と語り続ける。歩きながら、座り込んで、横になって、いついつかなる状況においても、空也は一旦語りだすと、際限なく言葉を紡ぎ続けた。雲に語って聞かせるというのではない。己の思い、考え、思考、思索を、内に溜めておいては破裂しそうになってしまう、そんな抑えきれない衝動から吐き出しているようであった。

 共に旅をする中で、空也は雲に対しても色々なことを語った。様々な生き物や人間たちの生を生きてきた空也は、数多のことを知っていた。そしてその知を言葉にして表現する術に長けていた。それまで雲が言葉にできなかった森羅万象の形、様に対する疑問を確かな言葉にして見せた。そしてその答えを、理路整然とした言葉で解き明かしてみせた。それまで雲は、世のあらゆるものに対して漠然とした疑念を持っていながら、それを言葉にすることができずにいた。不定形の、言葉にできない、不可解な思いだけが渦巻いていた。空也はそんな雲の思いを解きほぐし、雲が何に関してどういう点について不思議に思っているのか、雲の拙い言葉から推測して言い当てて見せた。

 更にはそれに関する答えを説いて見せた。しかもその答えは一つではないのだ。一つの問いに幾つもの答えがあり、その答えに至るまでの異なる理論があった。しかもどの答えも、空也の話を聞いているとなるほどと納得できるものなのだ。答えそのものは全く異なるというのに。

 空也は世を言葉にすることに長けていた。疑問であろうと、描写であろうと、説明であろうと、見方や眼差しを言葉にするのを得意としていた。なぜこれはこうなのだ。なぜこれはこうなってしまうのだ。一つの花を見て、数百数千の疑問を抱き、それらを淀みなく言葉にして見せるのだ。

 雲にとってそれまで、ただあるがままでしかなかった世から、或いは空白で空っぽであった世から、空也はまるで真実を言葉にして紡ぎだすようにして、無から有を生み出すかのようにして、言葉を、疑問を投げかけた。また、未来から来たというだけあって、その時代にはいまだ存在しない、雲の知らない言葉やものの名前を知っていた。そういった言葉を教えてもらうのも楽しいことであった。

 空也は言葉にとりつかれていたといってもいい。旅そのものが言葉を、文字を求めるものであった。空也は旅をしながら、様々な書物や、文字、巻物などを探し求めていた。時には己で文字を紙や竹に書き連ねたり、木に刻み込んだり、砂の上に記し出すこともあった。言葉に興味を持った雲は、文字というものを空也から習うようになった。

 旅をしながら各地で様々な漢籍や書物、仏典などを求めて貪欲に吸収していた空也であったが、雲が驚いたことに、この男は僧の格好こそしていながら、やることは盗人、よく言って詐欺師であった。知恵の回る、小賢しい小悪党であった。口八丁手八丁で相手を欺く術に長けていて、それを駆使して世を渡っていたのだ。

紙や墨や筆などは非常に高価であり、珍しいものであった。書物や巻物はそれ以上の価値があり、金を出せば買えるものだけでなく、それこそ宝物として土蔵の奥にしまわれていたり、門外不出として屋敷や寺社の何処かに秘蔵されていることも多かった。

 空也はそれらの品々を時に盗み出し、時に盗み読み、騙し取り、時に買い上げ、あらゆる手段で己のものとした。仏典に限らず、例えば武術、忍術の秘伝書や、ある地方の刀工の秘法、薬師の秘薬、秘毒の調合法、奇術の種、策略や兵法書などにまで及んだ。空也は世に秘されている様々な知識を漁るようにして求めていたのだ。面白いことに、空也はそれらの書を苦労して手にすると、読み終えるとすぐ、盗んまれたことに気付かれぬうちに返却していたことだ。

 雲はしばしば空也の指示によって詐欺盗人の片棒を担がされることがあったが、苦労して手にした書物も、空也は一度読み終えると興味を失って、すぐに返すことが殆どであった。空也は言った。私は一度読めば、決して忘れることはない、と。そうして空也は、今しがた読み終えた巻物を最初から最後まですらすらと諳んじて見せた。空也は驚くべき記憶力の持ち主であったのである。

 一方で、雲は空也という人間を信じられなくなることも度々であった。その詐欺師まがいの世渡りの作法を目の当たりにし、雲は己もまた空也によって騙されているのではないかと思うことがあった。記憶力は抜群であることは認めるが、それは実に斑のある力であった。昨日あった出来事や語ったことをさっぱり忘れていることあったし、下手をすればさっきまで己がしていたこと、さっき話していた内容をすっぱり忘れていることもあった。空也は己の興味のあることは忘れることはなかったが、興味がないことと、自分にとって都合が悪いことはすっぱりと忘れてしまうのである。

 本人いわく「これだけ長く転生を繰り返していると、記憶できる容量でも限界がある。忘れてしまわねば、新しいことが覚えられないのだ」

空也は記憶の取捨選択が思い通りにできるようであったが、自分に都合が悪いこと ――例えば金を借りたこと、約束をしたことなど――すっかり忘れてしまうため、単に忘れたふりをしているだけではないかと疑わずにはいられなかった。また昨日真理として語ったことを今日には平気で誤りだといい、矛盾することも厭わず話をしたし、真実は一つにあらずと言って、前言を撤回することもよくあった。

 転生を背景にしたその豊富な知識に雲は圧倒せずにはいられなかった。にも関わらず、時にはその転生さえも嘘ではないかと思うこともあった。

 空也の語る一大叙事詩、物語群は、壮大で深遠な作り事なのではないだろうか。空也の思索によって紡がれた精緻な絵織物、密を極めた妄想でしかないのではないのか、そんな考えがしばしば頭をよぎるのであった。

 ともかくも空也との旅は、雲に思索すること、言葉、文字の面白さを教えた。色々な考え方があること、色々な人が、世が存在することを教えた。不思議であるということが、雲の思考原理の一つに確固とした回路として組み込まれることになった。雲はやがて己も言葉を使って延々と思索するようになる。そして文字を使ってそれを書き表こともできるようになった。

 空也との長い旅の中を経て、雲はそれまで知らなかった無数の言葉、ものの名を蓄えていき、それらの言葉で世を象ることの面白さを知った。たとえば、真理、たとえば、この世、たとえば、物の怪、風流、それらの得たいの知れない言葉の意味、由来、来歴、それらを知ることを面白いと感じるようになった。雲もまた空也と同じく、言葉に取り付かれたかのようになっていった。

 雲は無口で、何かに変化をしていても無表情であった。しかしいつからか、考えていることが言葉になって漏れることが増えた。しかも当人はそのことに気がつかないのだ。

 また、たとえ口に出さなくとも、空っぽの心の中では言葉が滾々と湧き出るように溢れるようになった。思索では真実に辿り着いたような達成感があり、悟ったような快感が得られた。しかしそれは一瞬のことでしかない。さっき辿り着いた真実を、次の瞬間には忘れてしまっている。何とかそれを形に留めたくて、雲は拙いまま言葉にして書き写すようになる。ところが、それは言葉にした途端に色褪せてしまうのだ。それはどこか味気ない、空っぽの、ただの虚ろな文字、絵空事になってしまうのである。そんなとき雲は、空也の言葉の表現力多彩さ、物の名の豊富さ、深遠な知識に敬服せずにはいられなかった。

 己が空っぽな存在であると悩む雲に、空也は言った。

 ――空っぽである、か。空をみなされ、空は空っぽに思えるかもしれない。しかし、そこには風が吹き、雲が流れ、時には雨や雪が降り、嵐も訪れる。朝が訪れ、夕暮れになり、夜が訪れる。空には星が瞬き、満ち欠けする月がかかる。どこが空っぽであろうか? この広大な空の下に異なる世が、人が、生き物たちがいる。空は天蓋となって無数の世を、時を、全てを包み込んでいる。孕んでいるのよ。いつか卵の殻が破れるように、幼き世が天蓋を破り、生まれるのを待っているのよ。この世は空という殻に包まれた卵の中身、未だ生まれてもいない、始まってさえいない。己もまた同じこと。気づかないだけでな。空と殻、この二つが字は違えど音が同じなのはそういうことよ。

 それに、お主は空っぽではない。むしろ逆よ。お主が空っぽだと思うその内側は、あるもので満ちておる。それが何か、わかるか。

 それは「飢え」よ。

 言われて雲ははっとした。

 確かに雲は飢えていた。食べ物にではない。何に飢えているのか、それさえも分からずに、雲は飢えていた。己の飢えを満たすものは何なのか、ただの人の感情ではない。似たもので微かに飢えが満たされたような気がするが、しっくりとはこない。いや、雲はあらゆることに飢えていた。飢えを満たすために様々なことをしてきたのだ。己の行動原理の根幹には、飢えがあった。そのことを、空也に言われて初めて気付いたのである。

 空也は言った。

 「人もまた様々なものに飢えるが、何に飢えるかは人それぞれだ。安心、感動、痛み、快楽、安寧、安楽、栄光、名誉…何に飢えるかによって人は異なる存在となる。人も妖と同じように、異なる欲望を際限なく尖らせ、発達させた一種の化生であるのだ。空っぽである己を満たすために、そこには飢えを満たしているのだ。肉体は魂の器に過ぎない。しかし魂の形を定めるのは肉体であるのだ。よって魂と肉体は密接に繋がっているといえる。人とは魂が肉体に包まれている存在であるが、妖とは肉体を魂が包み込んでいるように思える。魂の有り様によって実際に肉体が変化するのだろうな」

 そして再び歩き始め、ひとしきりぶつぶつと言葉を漏らすと、ふと納得した顔をして雲を振り返って言ったのだ。

 ――己とは何か、か。それは空に形を求めるようなもの。

 雲は旅をしながら空也と問答を繰り返すなかで、色々なことを考えるようになった。例えば、己、例えば、死。

 死とは何であろうか――そう空也は雲に問うた。そんなこと考えたこともなかった雲は戸惑い、延々と考え続けるようになった。空也は雲の答えが出ないうちから、この世とは何か、時とは何か、命とは何か、そんなことを繰り返し、延々と問いかけ、雲の考えを問うた。己でも思索し続け、言葉を吐き続け、傍の雲に問いかけ、意見を求めるのだ。

 言うことが日によって異なっていたり、矛盾していたりすることを指摘すると、空也はこう言って雲を困惑させた。

 「その時代の知というものは、正しいとか正しくないとかではないのだ。なぜ月は満ち欠けするのか、太陽とは何か、その考え方は時代によっても場所によっても異なる。それはそれぞれの社会、世、時代に根ざした世界像であり、曼荼羅である。未来で聞くところによれば、世は丸い球体であるという。しかしそれも己で確かめるまでは信じるつもりはない。それはその世界での真実、その世界での曼荼羅であるからだ。ま、ぱられるわーるど、というやつじゃな」

 雲は曼荼羅やぱられるわーるどなどといった言葉の意味が分からずに問いただし、再びそこから話は横道にそれていくのである。

 また、空也の輪廻転生に関する話を騙りではないかという疑いを雲が口にすると、こういって煙に巻いた。

 「世は壮大な嘘を騙ってお主をだまそうとする。自然が真実であるなど、とんだ勘違いよ。あるがままの世など存在しない。世はあらゆる手を使ってお主をだまし、欺き、目を眩まそうとする。それこそが世の真実。世とは壮大な嘘、まやかし。そして化け物とはその眷属よ。騙し絵こそ世の本質の姿なのだから。だから私の語る輪廻転生の物語も、過去の歴史も、未来の姿も、真実にはなりえない。真実は時によって、場所によって、人によって、種によって変容し、容易に姿を変えてしまうもの。言葉とは壮大な嘘そのもの。精緻精密なからくり。だから信じるも信じないも己次第よ」

 そういわれてしまえば、雲にはもはや空也の嘘を証明することも、暴くこともできないのである。

 空也によれば、空也自身もなぜ己が輪廻転生の生を持つようになったのかは分からないのだという。輪廻が一つの輪のような形をしているのならば、始まりも終わりもないことになる。輪廻に始まりはあるのか、あるのならば、終わりはいつ訪れるのか――それを知るために空也は旅をしているというのだ。そして遥かな遠い眼差しを空の彼方に向けると、寂しそうに呟くのだ。

 「我は輪廻の始まりと終わり、その時の結び目を探して流離っているのよ。さて問題は、時の結節点において、己が全てを無に孵すことができるのか、ということ。果たして煩悩にまみれた己に、なれの果てを見極め、この旅を終えることができるのだろうか」

 あるとき雲は空也と話をしていて、ふと妄想を抱いて苦笑してしまった。己の思考や考え、行動が一個の物語となって誰かに語られているという妄想である。あたかも己の生が物語となって、言葉となって紡がれているような、そんな馬鹿げた夢想である。そこから、更に雲の思考は飛躍する。

 ――言葉で余すことなく語り尽くせる、そんな見え透いた生など送ってたまるか。

 そんな考えが浮かぶ一方で、

 ――一遍の美しい物語してしまえるような、そんな生を送ってみたい。例えば僅か十七文字で一個の美しい物語を表現するように。

 そんな全く異なる思いが湧き上がるのだった。

 数十年に及ぶ空也との旅も、やがて終わりを迎えるときが訪れる。

 終わりは空也の死によってもたらされた。

 死に際し、雲は空也と言葉を交わした。それは雲を地上に縛り付ける一つの約束であった。空也はこういったのだ。

 「生まれ変わって、いつかの時代で再会しよう。そのとき私はお前を忘れているかもしれぬ、或いは、まだ知らないのかもしれぬ。私は人間でないかもしれぬ、お前も今とは別の姿をしているかも知れぬ。お前が私より先に我を見つけ出すことができたら、私の転生変化を見抜くことができたなら、お主の勝ちよ。逆に私がお主の変化を見破り、見つけ出したなら、私の勝ちとなる。お主が勝ったなら、私が辿り付いた唯一つの、揺ぎ無い、唯一の、永遠の真理を授けてやろう。私が勝ったなら、お主が旅の中で辿り付いた真理を話してもらおう。再会の時まで精進せよ。人の世を遊び、妖の世で戯れ、己の変化道を極めるのだ」

 雲は空也の死体を傍らにして、じっとその肉塊を眺め続けた。一人の人間の生に数十年と寄り添い、その命が尽きるまでを見届けた雲は、死とは何かを知りたかった。死とはどのようなものなのか、遺体が腐り、肉が溶け落ち、やがて骨と化していくまで、ひたすらに死を眺め続けた。

 ついに空也の体は肉を失い、大地に横たわる一体の白骨となった。雲はその骨を拾い上げた。それはもはや空也ではなかった。雲はその一体の人間の骨を己の体の中に取り込んだ。すると、ふわふわした体が俄かに確かな実感を持った形を為した。その体は、紛れもない空也の体であった。頭蓋骨には、雲のふわふわとした体によって空也の顔が復元されていた。雲は己が持つその能力をはじめて知った。骨を取り込むことで、雲はその骨の生前の体を復元させて身に纏うことができたのである。

 その時より雲は空也の体を持つようになり、その僧衣を受け継いで旅をすることとなる。僧衣を纏った雲は、空也と交わした約束をはたと思い出し、その本当の意味に気付いた。雲は思った。

 してやられた、またあの詐欺師に騙された、と。

 雲は旅の途中で気付いていた。

 輪廻転生も、空也の語った話も嘘ではない。しかし空也自身が経験したことではないのだ。空也はその驚異的な記憶力で、かつて己が本物の『輪廻の者』と旅をしていた頃に聞いた話を全て、そっくりそのまま覚えていたのであろう。そしてその話を己の体験、己の知とするために、いつも心の中で、時に口に出して呟き続けていたのであろう。恐らくその『輪廻の者』の名が、空也であったのだろう。一人の詐欺師がその名を継ぎ、いや恐らくは騙り、世を渡っていたのだ。

そう、空也とは『輪廻の者』の偽物なのだ。

 約束は永遠に叶えられることはないだろう。決着は永遠に付くことはないだろう。だとするなら、我は永遠に変化の道を歩まねばならない。空也にとって真理そのものが目的なのではなく、我にその道を歩ませることこそが本当の狙いだったのではないだろうか。

 そう、もう空也には会えぬのだ。それが死なのだ。

 雲はいつのまにか笑いながら泣いている己に気付き、愕然とした。

 ――そうか、これが「込み上げる」という感情なのか。

 雲は思い出していた。空也の仕草、言葉、表情、感情を、その様々な場面を。そして空也を真似、感情を様々に表現し、爆発させた。ひとしきり泣き、笑い、怒り、悲しみ、喜怒哀楽を味わいつくすと、すっきりとした気持ちなって空を見上げた。

 さあ空也よ。そなたとの約束を果たそう。果てしない旅に出よう。いつかそなたと会える日まで、私も己の道を究めるために、流離おう。

そして雲は、空也とそっくりの歩き方で歩み始めたのだった。


 それから歳月は流れる。

 空也ともに旅をしている間は、雲はその後に付いていけばよかった。しかし空也が死んでしまったとき、雲ははたと気づいた。自分は何処に向かえばいいのか、何を求めて旅をすればいいのか、と。

 雲は一人で世を流離うようになる。空也の死に様と死に際の約束、体に溜め込まれた無数の言葉、疑問を抱いたまま、空也と同じ修験者の姿となって世を彷徨うようになる。

 己とは何か、そして妖とは何か、この世とは何か、何処から来て、何処へ行くのか。そんなことを思いながら、雲は人と妖の世を、その境界を行くことになる。何者かになるために、己が何者であるのかを知るために、再び変化の道を究めようとするのだ。

 かつて空也に出会うまでの一人旅は苦しいものであった。答えがどこかも分からず、ただ右往左往しているような、自分が目指しているものが何かも分からず、そこから遠ざかっているのか、近づいているのかも分からない。自分がしていることが常に不安で、間違っているのではないか、無駄なのではないか、そう疑っては迷ってばかりいた。

 それが空也との旅で変わっていた。旅すること自体が愉快で面白いものとなっていた。一直線に道があるわけではない。旅すること自体が目的になり、楽しくなってきたのだ。そしてまた、自分だけではなく、人と人の世というものへの興味が強くなっていた。空也との旅が、確実に雲を変えていた。

 やがて雲は、化け学者の雲斎、雲変化の雲斎としてその名を轟かせるようになる。そして数多の妖から慕われ、尊敬され、人からは畏怖の念を持って遇されるようになるのだ。

 そんな雲であるが、雲斎と呼ばれるようになって久しく時が過ぎるなかで、いつしか疲れ果ててしまった。己が己であることに。己の内側に渦巻く言葉に。疑問に、感情に、雲斎は消え去ることのない重い疲労感、拭い去れない徒労感を背負い込むようになっていた。それは諦めから来る絶望であった。もはや自分ではたどり着けないのだ、そんな確信を、雲斎は拭えなくなったのである。そうして、考えること自体を止めてしまいたいと思うようになる。辿り付くことのできない答えを求めながら、仮想の化け学体系を縦横無尽に張り巡らせる内に、雲斎はこんな考えに取りつかれてしまう。

 ――全ては幻。己が己である限り、決して答えに辿り着くことはできないのだ。

そしてある日、不意に空を見て、雲斎は焦がれてしまった。遥か天上に浮かぶ雲に。風に流されるまま形を変え、空を渡る雲に。

 雲は己を手放すため、言葉を、名を、思考を捨て去った。ただ風に任せて空に漂う一片の雲へと変化する術を為した。妖であることも、それまでの過去も、己が己であることさえも忘れ、戻ることのできない雲への変化を成就させた。

 それは己自身でさえ解くことのできない変化の術であった。変化を解く方法はたった一つ。空を漂う雲に向かって、誰かがその名を呼ぶというものだった。

己の変化を見破れるものなどいるはずがない。雲斎自身は、そんな確信を抱いていた。

 我が名は忘れ去られ、誰の記憶からも零れ落ちるだろう、人の世からも、妖の世からも、我は忘れられてしまうだろう。そのときこそ、私の変化は完成する、そのときこそ私は辿り着けるのだ。永遠に解けることのない、変化の極みへ。

考えることをやめ、一片の雲と変化した妖、雲。幾年月が過ぎ行く中で、雲の変化は本当に完成したかに思われた。

 しかしある日、一匹の年若い妖狐によって、雲の変化はあっさりと見破られてしまう。

 「雲斎、みーつけた」

 その言葉によって変化を解かれた雲は、再び世に降り、年若い妖狐とともに新たな旅に出ることになるのだった。


掌――おぼろげ風流


 千代様が縁側で毛毬と遊んでいる。毛毬とは、道具に変化することが得意な、化け狸である。その毛毬に、千代様は様々な御題を出してはそれに変化させて遊んでいるのだ。見ると、市で見つけた独楽に化けさせようと、変化を繰り返させている。その独楽は色絵職人や漆職人、彫金師や細工師によって装飾された、豪奢な飾り独楽であり、市でそれを買い求めた千代様は、それを手本にして化けるように御題を出したのだ。

 しかし先ほどから見ていても、幾たび失敗を繰り返したかしれない。いくら毛毬が道具変化の天才だといっても、あのような細緻な飾り独楽に変化することは、並大抵のことではないのだ。

 最初は独楽の模様が狸の斑な毛並みそのままであり、あまつさえ尻尾が横からころりと出ていた。毛毬が本物を確認しながら、何度も変化を繰り返すうちに、少しずつ本物へと近づいていくのが分かる。なかなか尻尾は消えないが、装飾や色絵は違いが分からないほどになっていくのだから、大したものだ。

 まあ、その呆れるほどの集中力と情熱も、上手く変化することができたときのご褒美欲しさによるのだから、感心する必要もないかもしれぬ。

 ようやく変化が成功したようで、見た目には殆ど見分けが付かぬほどそっくりの飾り独楽が二つ並んだ。目を凝らすと、尻尾は上手く消えていたが、尻尾の斑模様が独楽の周囲に小さく残っていた。どうやらそこが毛毬の限界のようだ。この毛毬という化け狸は、天与の才を持ちながら、いつもどこか一箇所が抜け落ちていて、何をしても滑稽に見えるという長所を持っている。変化の才もそうだが、その滑稽さこそが千代様に気に入られているのだ。

 満足した千代様は、見事じゃ、そう言って一つ頷いた。ご褒美に、懐から饅頭を出そうとする。毛毬という化け狸は、人の世の食べ物に目がない。特に甘い菓子には目の色が変わってしまうほどだ。千代様が包みを広げようとする傍から、独楽から尻尾が生えてきた。ついで狸の口が独楽の横に現れ、突き出された舌からは涎が垂れ出した。集中力が切れたとたん、これなのだ。まったく食い意地の張った狸だ。

饅頭を一つむしゃむしゃと食べさせ、もう一つの饅頭を強請る毛毬を、千代様はもう一度飾り独楽に変化させた。独楽に紐を巻きつけて、独楽遊びをしようとするが、上手くいかない。子供たちが遊ぶように、上手く独楽を廻すことができないようだ。紐の巻き付け方が違うのか、回し方が違うのかも分からず、四苦八苦しながら独楽をあっちへ転がし、こっちへ転がししている。その度に毛毬は己でころころと転がって千代様の元へ帰ってくる。まあ便利な玩具もあったものだ。

 そうこうしている所へ、お使いに行っていた天狗の野風が帰ってきた。千代様が上手く独楽が回せず困っているのを知ると、本物の独楽を手に取り、紐をくるくると手際よく巻きつけ、実に見事な手さばきで独楽を回して見せた。

 「ほう」

 千代様が瞳をきらきらとさせて面白そうに回り続ける独楽をみる。

 野風は「こんなこともできまする」そういうと、独楽に綱渡りをさせたり、頭の上に乗せて回転させたり、手のひらから腕を伝わらせ、体をくねらせて背中を伝わらせて再び逆の手のひらへと渡すという曲芸じみたことまでやってのけた。千代様は目をくりくりと動かし、「上手いものじゃのう」と褒め称えた。

 野風という天狗の妖もまた、抜きん出た変化の才を持っている。それは数多の人に変化するというものだ。変化の術の中でも、人への変化は難度の高いものであり、野風のように自由自在に無数の人へと変化することができるものはそういない。よほど上手く化けても、どこか人形のようにぎこちなかったり、上手く表情が作れなかったり、同じ顔に化けたつもりでも、どこか顔を違っていたり、あるいは二度同じ顔に化けることができないのだ。まあ、世には無数の人がいて、その一人一人の顔が違うのであるから、その微妙な差異を変化によって表現することの難しさは言うまでもない。その変化を容易く行うことができるのが、百面相の野風と呼ばれる所以である。

 私など、そもそもが雲であり、体は借り物のようなものであるため、人への変化は不得手である。いや不得手というよりも、変化の技の流儀が野風とは異なるのである。したがって表情というものを作ることは下手なのだ。演じる、ということが上手くできないのである。それに、いつも考え事をしていることから表情が硬くなってしまった。千代様からはよく、「どうしていつもそのように難しそうな顔をしておるのじゃ、無表情とは言わぬが、お主の表情はいつも一つだけじゃ。たまには表情を変えてみい」といってからかわれてしまうが、私という妖の性質上、仕方がないことなのだ。

 この野風という天狗は顔を変えながら旅をするうちに世渡りに長け、流れ者の常として旅芸人となって世を流離っていたことから、実に多芸多才の持ち主である。奇術や人形遣い、舞いや楽器が上手いことは知っていたが、童の遊びである独楽回しを曲芸の域にまで扱えるとは、器用なことこの上ない。ただ、野風は何処かしら演技じみたところのある男でもある。その表情も仕草も、物言いも、そのすべてが舞台役者の芝居がかっているのである。何と言えばいいのか、その役柄に嵌りすぎていて、何処までが演技で、何処からが本当の野風なのか、判断がつかないことがある。

 感情においても同様で、どうも何を考えているのやら分からないことが多い。表情や仕草や言葉は分かりやすくても、その内面は実は全く異なることを考えているのではないか、そう思ってしまうのだ。まるで台本どおりに演技をしながら、心の中では全く違うことを思っているのではないか、そんな疑念を抱くことが多い。

私がそう思うのも、時折、その芝居じみた表情に、乾いた悲しみが浮かび上がってくるのを垣間見ることがあるからだ。天狗の面によって無数の顔を使い分けても、その一枚の薄皮の下に、うっすらと、表情とは異なる感情が滲むことがあるのだ。いや、そのうっすらと感情が滲むからこそ、どこかしら演技じみて見えるのかも知れない。

 野風は千代様に紐の巻き方やら独楽を回すコツなどを教え始めた。千代様の独楽は無論、毛毬の変化した独楽である。何度かやるうちにコツを掴んだのだろう。千代様の独楽は勢いよく回り始めた。二人して手を叩いて喜んでいる。やっていることは人の童と変わりがない。

 二人のきゃあきゃあ言っている声が気になったのか、奥座敷から紅緒がやってきた。新しい化粧薬の調合をしていたようで、指先が紅色で染まり、体には磨り潰していた花のよい香りが纏わり付いている。

 縁側に座り、何を言うでもなく、楽しそうに二人の様子を眺めている。

 喧嘩独楽に興じる二人から、弾き飛ばされた独楽が紅緒の足元へと転がってきた。それを拾い上げて、そっと細工を覗き込んで言った。

「まあ、回っている間は気づかなかったけれど、こんなに美しい飾り独楽だったのね。回すのがもったいないではございませんか」

 独楽を日にかざして眺め回しながら、なかなか返そうとしない。

 紅緒という娘もまた、山姥と人との間に生まれた半妖である。絶世の美女らしい。美女らしいというのは、私には美の基準がよく分からず、人の美醜が上手く判断できないからである。

 「私の美貌が分からないとは、お前さんも無粋な妖ね。毛毬のように食い意地だけ強いのも考えものだけれど、人生を一つ損しているとしか思えないわ」

そう紅緒には言われ、野風からも同じように「お主には風流というものが分からぬらしい」とくさされるのではあるが、それはどうにも風流や美を言葉にして理解しようとするのが原因であるらしい。「言葉にして意味を解するのと、心で感じるのはまったく別のことである」自分自身このように言葉では理解してはいても、実際には「心で感じる」には至らないのだから、妙なものだ。

 山姥の娘である紅緒だが、その情熱の殆どは刹那の恋に向けられている。どうすればあれほどまでに恋に情熱を傾けられるのか、少々羨ましくもある。恋をしたことのない私には、恋を知る手段は、物語や艶聞だけである。それからすれば、恋というものは得体の知れない、人を狂わせる呪術のようにしか思えぬ。紅緒はうっとりとした表情と唇で恋という言葉を口にするが、とてもそのような気にはなれぬ。これまでともに旅をし、暮らしてきた私が、紅緒を言葉で表現するならば、このようになる。

 紅緒は美と刹那の狩人である。彼女が求めているのは美と刹那、一瞬のものだ。消えてしまうに決まっている恋や愛、それに纏わる睦み事の快楽を遊び、追求することに己を捧げている。切なさを愛し、やがて消えてしまうという儚さを孕んだ運命を知りながら、悲しみを湛えて刹那を求め続けている。

 「永遠なんて、そんなものはただの言葉、糞食らえさ」

 かつて彼女が吐き捨てるように言ったのを聞いたことがある。

 恋や愛における言葉遊び、ことに恋文や詩句には強い関心を示す彼女が、永遠という言葉を嫌悪するほどに憎んでいるのは、なかなかに興味深い。

 ただ刹那を絶え間なく繰り返すこと、そんな戯れに興じているようにも思える。刹那であるからこそ美しく、価値があり、愛しい、そう信じている。そんな刹那を繰り返すことが、刹那を持続する唯一の手段なのだと考えているのだ。

最も濃密な、時間や背景や想いの凝縮された刹那を求めて、紅緒は恋を繰り返すのだ。

 と、本物の独楽を弾き飛ばして一人でくるくると回り続けていた毛毬の独楽がよろりとよろけると、斜めになって回転し、そのまま倒れてしまった。途端に元の狸の姿に戻り、地面に座り込み、ふらふらと頭を回転させると、えろえろと吐き戻した。回転しているうちに気持ちが悪くなったのだろう。褒美でもらった饅頭の、未消化の餡子が地面にどろりと流れ、毛毬は回転させた頭の重みで、そのまま後ろにコテンとひっくり返った。

 それを見た紅緒と野風は大笑いし、千代様だけがくすくすと笑いながらも毛毬の背中をさすって介抱し始めたのだった。

 しばらくして思索から顔を上げると、千代様は毛毬をまた別の道具へと変えて遊び始めている。筒状の色鮮やかな道具で、遠眼鏡のようにその中を覗き込んでいる。それはとても不思議な道具で、中を覗き込むたびに異なる景色が見えるのだ。万華鏡という名らしいが、毛毬の得意とする変化の一つであり、その変化の技の精華だと言える。千代様の母である可奈様から教わった変化らしく、いまだそのような道具はこの世に現れていないことからしても、恐らくは未来の道具ではないかと思われる。そのこともあって、他のいかなる妖も真似のできない変化である。毛毬が可奈様からの忘れ形見ということもあって、千代様は時折、その万華鏡を覗き込み、からからと回しながら飽きることなく覗き込んでいることがあるのだ。

 変化の術とは奇妙なもので、私と野風、毛毬はそれぞれ変化を得意とするが、その作法も、流儀も、得意とする分野もまったく異なる。先も言ったが、野風は人に変化するということにかけては右に出るものがいない。あの無数の顔と表情の豊かさにおいては、千代様さえ及ばない。一方で、ほかの動物には全く変化ができない。私は人への変化は骨を媒体とする限定的なものであるが、雲の体を自由に変えることによって様々な形に変化することができる。毛毬は動物への変化は殆どできないが、静物、ことに人の作り出した道具に変化することにずば抜けた能力を示す。紅緒は憑依の術や髪を操る術に長けているが、変化においては己の年齢を変えられるだけで、自分以外の誰にも変化することはできない。

 また千代様であるが、これはもう違うことなき変化の天才である。千代様は一度見れば大概のものに化けることができる。無数の動物はもちろんのこと、人や、道具や、虫や花にまで変化できる。

 それだけではない。私が心底千代様の変化を凄いと思うのは、変化したそのものの心持ちとなって世を楽しむことができることだ。世に対する尽きせぬ興味から、千代様は変化という術を心から遊びつくすことができる。変化によって千代様は、己の魂の器まで如何様にも変化させてしまうのだ。しかも、それでありながら、己が己であることに一切の迷いがない。あれほど自在に己を変化させることができながら、己というものに一切の疑念を抱くことがないというのは、私からしてみれば有り得ない事である。

 一度、変化の極意について千代様に問うたことがあった。千代様はしばらく考えた後、こういった。

 「変化とは、人が衣を重ねて姿を変えることとは違う。一枚一枚、己の着込んだ見えざる衣を脱ぎ捨てていくこと。そしてすべての衣を脱ぎ去ることよ」

さて、変化の力と同様に、われわれ三人と一匹の従者は、千代様に対する思いも異なる感情を抱え込んでいる。

 千代様は好奇心の塊である。人の世も妖の世も拘らず、何にでも強い興味を示し、疑問を抱き、感心する。そのため色々な場所や出来事に首を突っ込んだり、引っ掻き回したり、厄介ごとを引き起こしたりすることがしばしばである。しかも善悪を通り越して、ただただ「面白がる」ことができるのだから、あまり性質がいいものではない。子供の無邪気な好奇心程度ならかわいいですむが、九尾の力を持つ千代様の好奇心はある種の災害でさえある。それは権力者の暴力や、為政者の気まぐれやにも似ていて、手がつけられないほどだ。

 「面白そうじゃのう」

 その言葉が千代様から聞こえると、思わずびくりとしてしまう。また何か面倒ごとを引き起こすのか、そのお守りと尻拭いをしなければならないのか、と。そのくせ、わくわくする気持ちを抑えきれないのであるから、我ながら不思議なものだ。

こっそり私の目を盗んで出かける時も、毛毬だけは髪飾りや風車に変えて身につけて連れて行くが、それは毛毬が道具に化けることができて便利であるからだ。例えば先ほどの独楽のように、玩具のような存在だ。にもかかわらず、毛毬という化け狸は、自分こそ千代様の一番の子分であるという根拠のない自負を持っている。千代様に最も信用されているのは自分であり、いざというときに千代様を守るのは自分だと思い込んでいるのである。言葉も喋ることのできない化け狸だが、その態度からは、自分を千代様の用心棒だと思っているようなのだ。確かに千代様は毛毬を重宝し、何処へ行くにも身に着けていくが、実際は、毛毬が滑稽な失敗をしでかすのを見たいだけなのだ。

 紅緒にいたっては、千代様を様々な如何わしい場所に連れて行こうとする張本人である。この己の年齢を自在に変えられる妖女は、化粧師であり、髪結い師であり、夜伽師であり、世の女たちに男を狂わせる様々な術を伝授することで生計を立てていたという。数多の恋を経験し、男心を知り尽くしている紅緒は、魅惑的な女性の仕草から、作法、物言いなどに通じ、殿方の恋心をじらし、転がす手口などに長けている。そしてその技を隙あらば千代様に教えようとするのである。

 野風はといえば、千代様を、飼っている動物を眺めるように楽しそうに観察している。野風はよく千代様の表情を見つめていることがある。何かの出来事が起こったとき、事件に遭遇したときなど、千代様の表情がどのように変化するのかを、じっと見ているのである。野風は千代様が一人で出かけようとしたり、厄介ごとに首を突っ込もうとしていることに気づいていても、それを止めようとすることも、私に報告することもしない。見て見ぬ振りを決め込んでいる。そればかりか、時には自ら千代様の興味を引き出したり、興味に新たな道筋を示したりするのである。面倒なことをなるべく避けたい私は、野風の態度を歯がゆく感じることもある。

 また、野風が千代様を観察するまなざしに、時にぞっとするような暗い光を覗かせることがある。不吉なものを感じさせずにはいられないその光に、一度問いただしたことがある。なぜそのような目で千代様を見ているのだ、と。野風はぽつりと言葉を漏らした。

 「あのお方の面だけは、決して再現することができない。どれほど表面を完璧に似せることができたとしても、その魂の欠片さえ宿らせることはできないだろう。内側から発せられるものが、造り物の面にはないからだ。私はあの方の面が、旅の果てに一体何処に辿りつくのかを知りたいのだ。その道程を、余すことなく記憶しておきたいのだ」

 その言葉の真意は理解できなかったが、何となく言わんとしていることは分かった。私にも同じような気持ちがあるからだ。いや、私と野風だけではない、毛毬や紅緒も同様であろう。私たちはみな、それぞれが異なる眼差しで千代様に魅せられているのだから。

 例えば野風は千代様の表情であったが、私の場合は、千代様の言葉である。

 千代姫様の言葉に(それは感想や考えだけでなく、一言の疑問や感嘆でさえも)何か御宣託やら大層な教えやら真理やらを乞うような気持ちにさせられる。その表情に(それはちらりと見える陰りや、あるかなしかのかすかな微笑や、僅かな頬のふるえ、睫毛や皺の動き一つからさえも)何らか深遠な神秘を見出さずにはいられない気持ちになる。

 私は千代様を眺めながらよく思うのだ。

 ――何を考えているのだろう。

 そして、何か深遠なことを考えているのだろうかとあれこれ思いを巡らせる。そして、それを知りたい、そう思うのである。

 また、千代様の動きも私を引き付けずにはいられない。紅緒にはさらに顕著な反応だろう。様々な動物の動きを体得している千代様は、その動きの一つ一つが優美であり、どこかしら風雅を漂わせている。千代様が動くことによって、周囲にまで風雅が散りばめられていくような錯覚さえ抱く。千代様はあらゆる動きが舞い、演舞のように見えるのだ。踊っているときだけではなく、じっとしているときの佇まいや、欠伸をして伸びをいる瞬間でさえ、演舞の振り付けの一部であり、次の動作に移る前振りのように思える。また、いかなる方角からいつ見ても、どこか一枚の図画を眺めているような気にさせる。どんなときも、主役は千代様であり、私たち従者は引き立て役でしかない。

 「様になる」「決まっている」「堂に入っている」そんな言い方が思い浮かぶ。

そのような場面に出くわすと、その図画に何がしかの名を付けたい思いに駆られるのである。

 私を含めた三人と一匹は、それぞれ千代様に何らかの幻を見ようとしているように思える。それは例えば憧憬であり、理想であり、夢である。

千代様の眼差しに、言葉に、表情に、舞いに、それぞれが幻を見ている。己の祈りや、願いや、最も純粋な想いが投影された幻が、千代様に映りこむ。そこから目を離すことができないのだ。

 そう、先にも言ったが、千代様は万華鏡を面白そうに眺めていることがある。万華鏡とは珍妙な道具で、覗き込むごとに中の風景が千変万化するという不思議な玩具だ。私たちにとって、千代様こそが万華鏡のように思える。少し動くだけで、まったく異なる光景となる。見ようによって、幾らでも姿を変える。しかもその姿は常に、秩序だった美しさを備えているのである。そして時折、私たち従者は千代様という万華鏡に映し出される中身なのではないかと夢想することがある。長い旅を経て決まりきった、確固とした己という存在が、千代様を通すことによって、まったく別のもののように思われる。「新たな自分を発見する」などというと気恥ずかしいのだが、まさしくそう感じられるのだ。

 千代様は私たちの映し出された万華鏡を覗き込み、無限に美しく様変わりする一瞬の場面を、楽しそうに眺めているのではないだろうか。

 それを知ってか知らずか我々も、千代様の前では何らかの「ぱふぉーまんす」を演じてしまわずにはいられないことがある。そして千代様の「りあくしょん」を期待してしまうのである。

 ふと音に気づき、顔を上げると、千代様が毛毬を太鼓に変えて叩いている。ぽんぽんと小気味よく音が響いている。そこに野風が加わり、笛を吹き始めた。紅緒がやってきて、舞いを舞い始めた。一服の絵のように、美しい情景が演じられている。それを眺めていると、なにやら、己のうちからむずむずとした感情が湧き上がってきた。千代様は太鼓を叩きながら舞い始め、野風もまた笛を吹きながら舞いに加わった。私は舞いが下手である。加われば、きっとこの美しい情景は壊されてしまうだろう。しかしそう分かっていても、私は自分を抑えることはできなかった。私が加わることで、この情景は如何様に変化するのだろう。千代様はどのように眺めてくれるのだろう。どんな新しい情景が、千代様の眼差しに映し出されるのだろう。

 私は立ち上がると、ぎこちない足取りで、しかし胸を躍らせながら万華鏡へと身を投じた。

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