第2話 めんような野風


 とある町の裕福な商家に、惣介という名の童がいた。優しい両親と弟と、何不自由のない暮らしをしていた。周囲からは坊ちゃんと呼ばれ、幼くしてふみという可愛らしい許婚もおり、家業の跡取りとして大切に育てられていた。

 惣介は近隣の子供たちのガキ大将でもあり、毎日、町を駆け回って遊んでいた。我がままに育てられた惣介は両親の期待が疎ましく、商家を継ぐことを厭わしく思っていた。生まれた頃から定められた運命というものに、幼いながら抗う気持ちが強かった。両親の言うことを聞かず、お金をくすねて旅の芸人一座を見に行ったり芝居小屋に通ったり、町で悪戯を繰り返したりしていた。

 幼馴染のふみも良家の出であったが、惣介とは違って両親の言うことは絶対だと思っているような従順な少女であった。惣介は仄かな恋心を抱いていたものの、その従順さへの嫌悪感と照れ臭さから、いつもつっけんどんな態度を取り、とことこと後を付いてくるふみを置き去りにして遊んでいた。

 両親はそんな惣介を微笑ましい思いで見守っていた。二親は全てをいい方に解釈する傾向にあった。言うことを聞かないのは自立心が強いからであり、ガキ大将になって悪戯を繰り返すのは人望と知性を兼ね備えているからである。芝居小屋に入り浸るのは、好奇心が旺盛で何事にも興味を持つからだ。そう褒め称えた。何をしても褒められるので、惣介はうんざりしていた。嫌がりつつも、両親の愛情をたっぷりに受ける中で、惣介は育っていた。

 惣介は夜空を眺めるのが好きであった。月や星を見ながら、遠い異国へと思いを馳せるのが好きであった。商家には船乗りも多くやってきて、海の話をせがむ惣介に、様々な冒険譚、怪奇譚、浪漫譚を面白おかしく話し聞かせてくれた。船乗りから、星と星は絵を描いているということを教わった。そしてその星を頼りに船乗りは航海をするのだと知った。惣介はつらつら夜空を眺めながら、月とはいったいなんだろう、なぜ欠けたり満ちたりするのだろうと想いを巡らせ、また、星とはいったいなんだろう、なぜ流れ落ちてしまうのだろう、そんなことを考えるのが好きだった。

 惣介はときどき、そんな星に関する疑問を大人たちにぶつけることがあった。その解釈は様々であり、面白かったが、納得のいく答えは得られなかった。ただ一人の旅芸人が、興味深い話をしてくれた。

 流れ星は願いを探している、というのだ。

 流れ星に願い事をすれば願いが叶う。それは誰もが知っている言い伝えだった。といっても惣介は信じていなかったし、大人たちがそれを信じていないことを知っていた。もっといえば、下らないとさえ思っていた。そんな考えを、その旅芸人は一蹴する。

 「考えてごらんなさい。不思議ではない? 例え信じてはいなくても、誰もが祈らずにはいられないということを」

 確かにそうであった。誰もが本当だとは思っていなくても、流れ星に願いをかける大人たちと、それを真似する子供たちは後を絶たない。

 「星が流れるということは、誰かが祈りを捧げ、願いをかけているということ。同じ流れ星を見ていても、別の誰が遠く離れた場所で、異なる願いをかけているということ」

 旅芸人はそう語り、「星とは何なのか」「星はなぜ流れるのか」「星は何処へ落ちていくのか」という惣介の質問にこう答えた。

 「星は遠くにある太陽。お前が世に一つだと思うている太陽は、実は無数に存在する。そして異なる世を照らしている。また星は願いを探しているのよ。その願い事を叶えるために、流れ星になる。流れ星は無数の願いの中からたった一つを選び、その誰かの元に落ちて、願い事を叶えるのよ」

 その話を聞いてから、惣介は流れ星の行く先を想像するようになった。星が落ちた地平線の彼方、いったい誰が、何処で、どんな願い事をかけたのだろう、と。そして自分もその星の落ちた方角に向かって駆けて行きたくなるのだった。

ある夜、惣介は屋根に上って寝転がり、星空を眺めていた。幾つかの流れ星が落ち、消え去っていくのを見た。と、奇妙な流れ星に気が付いた。ひときわ大きく煌き、長い尾を引いている。何より、普通ならば瞬きも許さぬほど刹那にして消えてしまうものが、ゆっくりと夜空を横切るように流れていくのである。幾つもの願いをかけながら、惣介は目を瞬かせ、指で擦りあげた。流れ星は変わらず夜空にとどまり、少しずつその位置を変えている。他の星と違い、遥か彼方に離れているという感じがしない。なんだか手を伸ばせば掴めそうなほど、確固とした実体を持っているように見えた。

 屋根で立ち上がり、その流れ落ちる方角を見極めた。いつものように夜空の闇にまぎれてふっと消えることなく、はっきりと裏山の向こうに落ちていくのが見えた。遊びなれた裏山である。惣介は流れ星が落ちた位置を確かに見定めた。屋根から降りると、夜明けも待たずに駆け出していた。

 惣介が裏山を登り、見当をつけていた場所にたどり着くと、そこに落ちていたのは流れ星ではなく、一匹の天狗であった。天狗とすぐに分かったのは、背に翼があり、鳥の嘴を備えた異相をしていたからである。惣介は驚き、恐る恐る近づいた。逃げようかとも思ったが、月明かりにぼんやりと浮かび上がった天狗の様子を見て考えを改めた。天狗は血にまみれ、気を失っていた。よく見れば、翼は折れ、痛々しく捩れている。肌は黒くなってぶすぶすと煙を上げている。嘴の端からは血が流れ、足は折れ曲がっていた。

 どうしたらいいのか悩んでいると、山の下のほうから声が聞こえてきた。どうやら自分と同じく流れ星が落ちたのを探しにきたものがいたようだった。惣介は天狗が見つかるとまずいと咄嗟に判断した。天狗が仏法の敵として恐れられ、忌み嫌われていることを惣介は知っていた。惣介は瓢箪の水を飲ませ、天狗を起こした。天狗は意識を取り戻して目を薄く開いたが、痛々しそうに顔を歪めて呻き声を漏らした。動かそうとしても、天狗の体は重くて引き摺ることさえままならない。と、そんな惣介の様子を見た天狗は、腕をぶるぶると振るわせながら懐に差し入れ、奇妙なものを取り出した。それは面であった。模られているのは人とも獣とも付かぬ、熊と人を半々にしたような異相であった。

 それを惣介に差し出し、被るような仕草をした。惣介は意味を解したが、すぐにその面を被る気になれなかった。妖しげ迫力に満ちた面であった。しかし追っての声は少しずつ近づいてくる。意を決して面を被ると、肌に吸い付くようにぴたりと張り付いた。不思議な感覚に包まれた。体から力が湧き上がってくるのだ。立ち上がり、感覚の違和に驚いた。体がふわりと浮かび上がりそうなほど軽いのだ。

 声に急かされ天狗の体を持ち上げようとすると、驚いたことに、軽々と持ち上げることができた。惣介はひょいと天狗の体を抱えると、そのまま跳ねるように山を駆け上った。信じられない速さであった。視力や聴力も格段に上がっていた。追っ手をあっという間に引き離すと、裏山で自分だけが知る秘密の場所、大樹の洞の中に連れて行き、そこに天狗を隠した。心が高揚し、何でもできるような気がしていた。

 洞から出て高い木に登り、耳を澄ませた。風の音にまぎれて、遠くの追っての囁きが聞こえてきた。意識を集中すると、その囁きを聞き取ることができた。目を凝らすと、天狗を見つけた辺りで木々の間を探し回る奇妙な姿の人々が見て取れた。

追っ手は明らかに町人ではない、かといって役人という風体でもない。やがて追っ手は四散し、その場を去っていった。彼らは星を観察する陰陽師の手のものだったのだが、そんなことは惣介には分からなかった。ともかくも、惣介は天狗を匿ったのである。

 洞に戻ると、息を吹き返した天狗の手当てをした。しばらくすると、面は自然に顔から剥がれ、カランと音を立てて落ちた。もう一度その仮面を被ってみたが、今度は何の変化も起こらなかった。

 天狗の奇妙な面に魅せられた惣介は、未だ動くことのできない天狗の面倒を見てやることにした。そこに匿ったまま、ときおり両親の目を盗んで、食べ物や水を持ってくるようになった。先の追っ手は諦めていないようで、山狩りのように町から捜索隊が出ることも何度かあった。その度に惣介は天狗に知らせ、居場所を変えさせたりするのだった。

 最初は喋ることもできないほど弱っていた天狗であったが、見る見る元気になっていった。ただ捩れた翼と折れた足だけは時間がかかるようであった。惣介は己が願いをかけようと流れ星を探していて、奇妙な流れ星を追って天狗を見つけたのだという経緯を話した。天狗は、己は大陸から来たのだと話した。惣介の「なぜ怪我をしていたのか」という問いに対してはこう答えた。

 「なあに、流れ星に化けようとして失敗したのよ」

 「どうして流れ星になろうとしたのさ」

 「坊も言っておったろう。人に何かを願わせるためさ」

 「死にそうになってまでかい」

 「その通り。愉快だろう。己を見て無数の人間たちが異なる願いをかけるのだから」

 「でも失敗したんだろう」

 「さて、どうかな」

 天狗は含み笑いをしていった。

 「これも縁だ。坊には助けてもらった恩もある。願い事があるなら聞いてやろう。さて、いったい何を願ったのだい――」

 惣介は口を開きかけ、はたと止まった。何を願えばいいだろう。幾つもの願い事をしたことを伝え、願い事が多すぎる、そう話す。

 「願い事といえば一つだけ、そう決まっている。我侭な子だ、しかし面白い」

 そう天狗は笑う。

 願い事は一つだけ、ならば簡単には決められない。惣介はちょっと待って欲しいといった。一つに決められるまでお願いするわけにはいかない、と。

 「なかなか計算高い、賢い子だ」

 感心したように天狗は言うのだった。

 それから天狗との交流は続き、しばらくすると、いよいよ捩れた翼も足も直りかけてきた。惣介は動けるようになれば天狗が逃げてしまうかもしれないと思い、ある日、願い事を定めたと言った。

 「何だ、空を飛びたいか、力が欲しいのか」

 惣介がいつも翼の状態を気にし、不思議な面に興味を持っているのを知っていた天狗は言った。しかし惣介の願いは天狗の予想に反するものだった。

 惣介はいった。弟子にして欲しい、と。

 「天狗様には色々な力があるんだろ。空を飛んだり、風を起こしたり、あの百人力の面みたいなものを作ったり。おいらもそんな不思議な力が欲しい。だから弟子にしておくれよ」

 天狗はその願いに一瞬戸惑ったような顔をして顔をしかめ、あつかましいやつだ、そう苦笑した。

 「そうかな、家来になれっていうのよりましだろ。これでも遠慮したんだよ」

惣介は、そう言って天狗をさらに笑わせた。

 「それは駄目だ」

 天狗は笑顔を消し、きっぱりと断った。惣介は「なぜ」と食い下がる。

 「お前は天狗の弟子になるということがどういうことか、まったくわかっていない。天狗道は修羅の道よ」

 それでも引き下がらない惣介に、天狗は一つ勝負をしようといった。それに勝ったら、お前のその願いを聞いてやろう、と。

 「どんな勝負だい、力比べとかじゃないよね」

 「なあに、そんな卑怯なことはせん」

 天狗が持ちかけた勝負は、半時の間にどちらが多くの流れ星を見ることができるか、というものだった。それなら大人と子供の体格の差は関係がない。しかも惣介にとっては得意なことだった。惣介は毎晩のように夜空を眺めていたし、目のよさは船乗りからも褒められるほどだったからだ。惣介は天狗の提案を呑み、勝負を受けることにした。

 「嘘はなしだ」

 そう天狗に言われ、惣介も「当たり前だろ」と頷いた。

 野風と惣介は背中合わせに座り、異なる夜空を眺めながら、落ちていく流星を背中越しに数えていた。

 天狗は己が負けるはずはないと思っていた。なぜなら、天狗は常人より遥かに視力が優れている。人には見えざる流れ星も数えることができるからだ。

 と、惣介は「わあっ」と声を上げた。天狗も何事かと振り返った。

 夜空に無数の星々が降っていた。おびただしい数の流星が、夜空を彩っていた。惣介の見ていた夜空に、到底数え切れないほどの流れ星が降り続けていた。

 天狗は絶句した。

 流星群であった。恐らくは、数百年に一度の。

 天狗は流れ落ちる星々を愛しげに眺めた。

 無数の流星、無数の夜、無数の願い、無数の祈り、無数の生、無数の果て…

 その傍らで、惣介ははしゃぎながら必死に数えている。その様子を見て天狗は思った。

――この子には何かがある。そういう星の下に生まれたのかもしれない。

 惣介はこの夜、天狗の弟子として認められることになった。

 やがて自らが天狗となって世を流離うことになる惣介の物語は、こうして始まったのだった。


 弟子と認められたといっても、天狗は何を教えてくれるというわけでもなかった。子分の子供たちや弟、ふみの目を盗んで会いに行っても、いつも面倒そうに惣介を追っ払ったし、修行をしたいといっても何かをしろと言うわけでもなかった。それどころか翼が治りかけた頃、惣介が隠れ場所に行っても見つからず、何日も帰ってこなかった。惣介は天狗が約束を破って何処かへ去ってしまったかと思った。一月ほど経って諦めかけた頃に帰ってきたが、それからも天狗はしばしば姿を消したし、山にいっても会えることは稀であった。

 ただ惣介と会うと、惣介の話を聞くことを好んだ。惣介の町での暮らし振りや、市井の人々がどのような日々を送っているのか、その日の出来事、どんな人たちがいるのか、そういったことを惣介に話させた。惣介は商家の跡取りであったため、市井のことや、世間の様々な情報が入ってきたし、色々な土地、職業の人々と会うこともできた。天狗はそういった話を聞きたがった。惣介は商家に出入りする人々から色々な話を聞きだしたし、両親にも天狗に話すための話題を尋ねたりした。両親は愛息子がついに跡取りとしての自覚を持ち始めたのだと大喜びをした。だが、惣介は自分が話すだけでなく、天狗の話を聞きたかった。そう天狗に言っても、「昔のことなど忘れてしまったわい」そう言われ、取り合ってくれないのである。

 ある日のこと、惣介は天狗に頼まれ、ともに町に下りることになった。天狗は惣介に町案内を頼んできたのである。

 初めてそれを聞いたとき、惣介は即座に無理だといった。なぜなら、天狗の風体は異形そのもので、あっという間に捕らえられてしまうからだ。すると天狗は、惣介の目の前で、その巨大な嘴の異相を、一瞬にして人の青年の顔へ変化させたのである。翼も消してしまい、あらかじめ惣介の用意してきた服に着替えると、そこにはもう天狗はいなかった。

 「これなら天狗とばれる事はあるまい」

 あっけにとられる惣介を満足げに見ると、にやりと笑みを浮かべた。

 そして惣介の案内で町を見物し、評判の小料理屋に入って季節の食べ物を頼んだり、酒を呑んだりと舌鼓を打つと、また山へと帰っていったのだ。

 天狗は変装の達人であった。いや、それは変装などというものではない。天狗は自由自在に顔を変えることができた。それも顔だけでなく、体つき、身長、年齢、声色、性別までも思うままに変えることができた。

 普段は山に篭ったり、姿を隠して何処へ行っているのか分からないことが多い天狗であったが、やがてその能力を使って町に出没するようになる。正体を隠し、普通の人間として町に溶け込むようになったのである。

 町人に成りすまして町に暮らすこともあったし、旅芸人や薬売りなど流人として町を訪れたりすることもあった。天狗の変化は完璧であり、一度顔を変えてしまうと、正体を明かされない限り、惣介にも分からなかった。

 また変装の達人であると同時に、天狗は面打ちの達人でもあった。

 初めて天狗を町に案内してからしばらくたったある日のことである。山篭りをしている間、天狗は何をしているのか。惣介がそのことを尋ねると、近くの洞穴に案内された。そこは草木によって上手に隠された洞穴であり、天狗が面を打つための工房であった。そこで、惣介は壁に飾られた多くの面を見た。最初それに気づいたとき、それらが面だとは気が付かなかった。人や獣の顔が土壁にめり込んでいて、その体ごと壁に埋め込まれているように思え、恐怖で全身が凍りついた。一瞬、自分もその蒐集品に加えられるのではないかと思い、逃げ出そうとしたぐらいだ。天狗に言われてようやく、それらが面だと気づいたものの、しばらく動悸は収まらなかった。面から醸し出される雰囲気に圧倒され、視線に飲み込まれるような錯覚を引き起こしていた。いずれの面もそれほどに精巧であり、真に迫っていた。

 それらは全て天狗が打った面であった。工房の傍らには無数の原木と、鑿や鑢などの鉄の道具が置いてあった。普段、天狗はここで面を打っているのだという。

 「この面を被って他の顔に変化するのかい」

 「いや、被らなくとも私は顔を変えることができる」

 「では何のために面を打っているのさ」

 「戯れよ。それに、面を被らなくとも顔は変えられるが、面を打たねば顔は変えられぬのでな」

 意味が分からずに惣介は小首を傾げた。天狗はその様子を見て説明した。

 「面を打つということは、その顔と全身全霊を持って向き合うということ。皺一つ、髪一本の細部さえ揺るがせにできぬ、そうした忘れえぬ一個の面を完成させることによって、私は面相の種類を増やすことができる。忘れてしまった顔には変わることができない。私が面を打つのは、顔を忘れてしまわないためだ」

 惣介は天狗の面が奇妙な力を宿していることを知っていた。最初に天狗を助けようとしたとき、授けられた面を被った惣介は百人力の力を得、また体が飛べそうなぐらいに軽く感じたものだった。そのことを言うと、天狗はこう答えた。

 「私の打つ面は霊具。魂の込められた面には力が宿るのだ。私の打ったものは面によって異形の力を宿している」

 「これを被れば、前みたいに不思議な力を得ることができるんだろう」

 惣介が恐る恐る壁の面に手を伸ばすと、天狗は腕を掴んで止めた。

 「やめておけ、子供が手にしていいほど半端な面ではない。何れも神事で使われる、一筋縄ではいかない神楽面。うかつに手を出せば容易く面に飲み込まれてしまう」

 「面に飲み込まれる?」

 天狗によれば、面に宿った魂に己の心を支配され、乗っ取られてしまうのだという。そうなると、もはや面を外すことは不可能。己ではない何者かになってしまうのだという。

 惣介は面を外したときのことを思い出した。初めて天狗と会った日、手渡された面は惣介に不思議な力を授けてくれた。しかしその夜、惣介は全身に耐え難い疲労感を感じ、三日ほど寝込んでしまったのである。惣介は覚えていないが、意識を失って寝込んでいる間に、獣のような鳴き声を発したり、屋根に上って空を飛ぼうとしたりしたそうだ。両親は鳥獣の霊にとり憑かれたと思い、祈祷師やらお坊様やらを何人も呼んでお払いをさせたという。惣介は天狗にそのことを話した。

 「あれは戯れで打った童の玩具よ。それでさえ狂いかけたのだろう。ここに飾ってある面を被れば、お前などひとたまりもないわ。己を乗っ取られるどころか、心は千々に引き裂かれ、魂は粉微塵になって掻き消されてしまうだろう」

天狗の言うことの恐ろしさが分からず、惣介は恨めしそうに面を見ていた。

面の一つに普段の天狗の顔、半人半鳥の面もあった。聞いてみると、その顔も無数にある変装の一種でしかないのだという。

 そういわれ、惣介はふと一つの疑問を思いついて尋ねた。

 「じゃあ、本当はどんな顔をしているのさ」

 惣介は大鷹の顔が天狗そもそもの顔、素顔だと思っていた。それも変装だというならば、いったい天狗はどのような顔をしているのか。大鷹も普通ではないが、それ以上の異形なのだろうか。

 と、それまで闊達に喋っていた天狗がぴたりと口をつぐみ、表情を険しくして惣介に目を向けた。天狗の眼差しに宿った異様な光に気づき、惣介は金縛りにかかったように体が竦んだ。

 惣介の怯えた顔に天狗ははっとし、我を取り戻すと、再び表情を柔らかくして、ため息混じりで答えた。

 「本当の顔、か。そんなもの忘れてしまったわい」

 「忘れた? 自分の顔を? 案外間が抜けているんだね」

 「師匠に向かって言うではないか」

 「何にも教えてくれないだろ。こういうときだけ師匠面するなよな」

――師匠面、か。天狗はそう呟くと、かかと笑った。

 「いや、童の言うとおり。間の抜けたことよ。忘れてしまった顔を取り戻すために、私は世を流離ってきたのだからな」

 「忘れた顔を探しているってこと?」

 「ああ、私が面を打ち続けるのはそのためさ。面を打ち、他の顔に変化するうちに忘れてしまった顔を取り戻せるものかと思ってな。ところが、どれほどの面を打ち、どれほどの顔に変化しても、未だたどり着くことはできておらん。近づくどころか、ますます遠ざかっていくばかりよ」

 「そりゃそうだろ。どんなに他人の顔に化けても、自分の顔は一つしかないんだから」

 天狗はまじまじと惣介を見ると、自嘲気味に笑った。

 「その通りだ。坊は幼いのによく分かっている。いや、まだ幼いから、といった方がいいかな。年を経て大人になれば、誰しも己というものがよく分からなくなるものよ」

 自分のことがわからない、ということが惣介にはよく分からなかった。

 「おいら自分が誰だか知っているし、顔を見れば分かるもの。それを忘れることなんてありえないだろ」

 「そんなことはない。人は何でも忘れてしまうことができる。自分の名前でも、たったいま使っている言葉でも、使わなければいつか忘れてしまうのさ」

 「嘘だろ、そんなこと」

 「嘘なものか。わしなど、かつての己の名前も、かつて己が喋っていた言葉も忘れてしまった。忘れてしまったということだけは忘れないがな」

 「いっている意味がよく分からないや」

 「どんなに忘れても、何も知らない頃には戻れない、そういうことよ」

 天狗は遠い目をすると、惣介には分からぬことを言って煙に巻いた。そして立ち上がって惣介の質問を封じた。

 「坊よ、私はお前を戯れに弟子にすると言った。しかし戯れであっても約束は守らねばなるまい。天狗道の要とは面。面を打ち、面を被り、面を操り、面を支配する。面を極めることこそ天狗の道よ。お前にはわしが童子の面を戯れで打ってやろう。それで何ができるのか、何をしようとするのか、それはお前しだいよ」

 数日後、惣介は数枚の面を手に入れた。獣とも人間とも判別も付かない、半獣半人の面である。惣介が手にすると、壁に掛かっていたものほどの迫力はないが、十分に精巧な、妖しさを秘めた面であった。

 面にはそれぞれ異なる不思議な力が込められていた。惣介がそれらの面をつけると、空を飛ぶことができたり、怪力を宿したり、遠くのものを見通したりと、人間離れした力を得ることができるのである。天狗はその後も気まぐれに新たな面をくれることがあったが、中には動物たちの言葉が聞こえたり、驚異的な嗅覚を宿したり、猛烈な速さで走れるようになったり、風を巻き起こすことのできる面もあった。

 少年であった惣介は、それらの面を使うことが楽しくて仕方がなかった。しかし、面を外すとすぐに力は失われてしまったし、面に宿っている神通力には限界があって、使用回数や有効時間に限度があった。何度か使ったり、長時間使っていると力そのものが消えてしまうのである。一度力を失ってしまうと、その面は普通の面になってしまい、二度と神通力が蘇ることはない。天狗はしばしば姿を消していなくなったし、どんなにお願いしてもそう面を打ってはくれない。そのため、面は取って置きのもので、惣介は使う時を慎重に選ばなければなかった。

 また面に宿る神通力を引き出すのは難しく、制御するのはさらに困難であった。力に溺れ、溢れ出る力を抑えきれなくなると、惣介自身が面に支配され、操られているようになるのである。何より面は副作用も強く、面を使った後、極度の疲労感、脱力感に襲われたし、面の余熱で反動で性格が荒々しく攻撃的になったり、冷たくなったり、或いは気づかぬうちに人間離れした行為や行動をしてしまうこともあって、惣介の周囲の人々を当惑させ、迷惑をかけることもしばしばであった。面を長く使ったときほど、その副作用は強かった。

 惣介は町での暮らしの中で、それらの面を使って色々と不思議な事件を起こしたり、或いは町で起こった奇妙な事件を解決したりすることになる。そんな日々の中で、少しずつ面の使い方を学ぶようになり、その力の抑え方、操り方を覚えていくのだ。

 面の奥深さは知れば知るほどに惣介を夢中にさせた。同時に面の力を知ることは、面の恐ろしさを知ることでもあった。面の力を知るほどに、その恐ろしさもまた増していくのだ。しかしその恐ろしささえ、惣介には抗いがたい妖しげな魅力となっていた。

 時に精神的に不安定になることもある惣介を両親は心配し、過保護なほどに見守るようになった。それはともすれば人ならざるものへと変わってしまいそうな惣介を引きとめ、感情の歯止めを失いかけたときには、その堤防となった。一方で己の心の変容に気づかぬ惣介は、両親の愛情を鬱陶しい干渉だと感じ、監視されるような息苦しさに、憎らしく思うようになる。

 惣介の変化にいち早く気づき、最も心配していたのは、許婚であるふみであった。やがてふみは惣介の天狗との交流を突き止め、秘密を共有することになる。面によって人と獣の一線を何度か越えそうになる惣介を、その陰で支えるようになった。そうしてふみと惣介は、幼いながらも睦まじい関係を育てていくのだった。

少年天狗として己に何ができるのか、それを模索しながら年月を過ごす中で、惣介は世の中というものを実に不思議なものとして見るようになる。世と、そこで暮らす人々に強い興味を抱くようになる。世とはいったい何なのか、人とはいったい何なのか、生きるとはどのようなことなのか。いつしかそのような尽きせぬ疑問が惣介の心に巣食うようになる。惣介はその思いを天狗にぶつけた。すると天狗は、惣介を様々な場所へと連れていくようになった。

 惣介を連れて空を翔け、遥か離れた場所、知らない地へと誘った。そして色々なものを見せ、聞かせ、体験させた。それは例えば、惣介の想像も付かない暮らしを送る人々であり、人々の紡ぎだす歴史の一場面であり、歴史には残らない名も無き者達の生の煌きであった。それらの経験は惣介を逞しくさせ、成長させていく。

少年ながら惣介の世の視界は広くなり、人々への洞察は深く、鋭くなっていった。そんな中で惣介は、天狗の師にも憤りを感じるようになる。天狗の師は惣介にとって不可解の一言に尽きる。その本性、善悪すら定かではない、気まぐれな神。それが惣介の天狗に対する印象であった。

 天狗は驚異的な力があり、面に纏わる不思議な能力を備えていた。それだけでなく、様々な方面での知識にも長けていた。例えば薬草などを基礎とした医術、天候を予測する気象学、狩猟や漁に関する的確な技術、吉兆を占い、船や人の行く先を定める占星術などなど、それらの知識は惣介にとって面の力や身体能力と同じような、まさしく神に通じる力に等しかった。

 そんな奇跡と同等の力を有していながら、天狗はそれらの力を戯れにしか使わないのだ。例えば貧しさで苦しんでいるものへ、ある貧者へは施しの大金を恵み、その隣のそれ以上の貧者は無視する。天狗の力があれば容易く救える者たちを助けようとせず、人に化けて博打に興じる。目の前で悪人に襲われている者たちの横を平然と横切るばかりか、その様子を演劇でも見るかのように見物し、悪人の極悪非道ぶりに拍手を送る。

 惣介が己の力の無力さを嘆き、彼らを助けてやって欲しいとどんなに泣いて頼んでも、逆に天狗の冷酷振りをなじっても、一向に立ち上がろうとはせず、昼寝をしたり、一日中蝶をおいかけたりとふざけた態度をとるのだ。

 逆に、何がきっかけで正義感に駆られたのか、幾つもの町をまたいで荒らしていた夜盗を一網打尽にしたり、惣介より幼い童子の、惣介からさえ馬鹿げているとしか思えない願いごとを叶えるためあらゆる手段を使ったり、各地を奔走したこともあった。

 天狗の行動原理には脈絡がなく、きっかけさえない様であった。善と悪を容易くいったりきたりしながら、時に神になり、鬼になり、時に演者となり、観客となり、その一方で舞台と観客の全てを見通す演出家のような眼差しを向けて、高所から楽しんでいる、そんな風に惣介には思えるのだ。

 付き合いが長くなるにつれ、そんな天狗の眼差しが己にも向けられていることを、惣介は意識せずにはいられなかった。

 顔を変え、眼差しを自在に変える天狗であったが、惣介はその瞳の奥底に、変わることのない仄暗い光がちらちらと瞬くのを知っていた。惣介が何らかの事件に遭遇したとき、何らかの決断を迫られたとき、何らかの行動を起こそうとしたとき、天狗はその光をちらつかせながら惣介をじっと見ているようであった。

 そればかりか、天狗が引き起こす出来事や騒動も、或いは惣介に頼まれても何も行動しないことさえも、惣介に対する挑発のように思えることがあった。不可解で理不尽な行動をしているのは、惣介に向けられた挑発的な演技であり、惣介の反応を見るためではないかとさえ思えてくるのだ。

 やがて惣介は、天狗がいなくてもその視線を感じるようになった。いつも何処からか天狗に見られているような気配を感じるのだ。何処にいて、何をしても、己の言動を試されているような気がした。それまで何を教えるでもなく、師とも思えていなかった天狗が、実は惣介の苦悩や憤り、歓喜や悲しみを演出し、それらの想いから生み出される思考や行動を律し、導いているのではないか。惣介はそんな妄想を抱くのだった。

 惣介は天狗と関わる中で、あることに薄々気づいていた。天狗が弟子として育てているのは己だけではない、ということである。空を翔けることのできる天狗にとって、惣介の棲む町は仮の宿でしかないのだ。他にも各地に天狗は己の棲みかを拵えているのだろう。天狗としてか人に化けてかは知らぬが、異なる土地、異なる名で暮らしながら、惣介のような弟子を何人も育てているのではないか。時が経つにつれ、その思いは確信に近いものとなっていった。

天狗は己のことを話すことはめったになかった。惣介が天狗の素性について知っていることといえば、大陸から渡ってきた、ということだけであった。天狗は流れ星になって落ちてきた。「流星になって願い事を叶えるため」と天狗は話した。しかしそれは嘘であろうと惣介は思っていた。本当の理由を天狗は口にすることはなかった。

 天狗には名がなかった。いや、少なくとも、惣介は名を知らなかった。天狗は天狗であり、惣介は師匠と呼んでいた。本当の顔を失ってしまったように、名も失くしてしまったのだ。そう天狗自身は話した。一方で、天狗は無数の顔と同じ数だけの名を持っていた。天狗が顔を変えて町にきたときは天狗と呼ぶわけにはいかないので、面に付けられた名で呼んでいた。天狗は百面相の一つ一つに異なる名を付けていた。戯れで打った面、失敗した面は名を付けられることはなかった。それらを天狗は「銘無し」と呼び、完成して名を与えられた面を「銘打ち」と呼んでいた。

 天狗が面を打っている姿を、惣介は見たことがない。天狗は面打ちのために工房に篭ってしまうと、硬く扉を閉ざし、決して誰も中に入れようとはしなかった。そして一度篭れば、まず三日は出てくることはない。ひたすらに面を打ち続けているのだろう。ようやく出てきたときには、あの無限の体力を持つと思われる天狗がげっそりと痩せこけ、疲れ果てているのである。天狗の言うところによれば、全身全霊を込めなければ「銘打ち」の面は打てないのだという。

 面の名も色々であったが、なぜその面にその名前をつけたのか惣介が尋ねると、天狗はこう答えた。

 「面に後から名を付けたのではない。まずは名を定めてから面を打つのよ。まずは名有りき。その名にふさわしい面を打つのだ。それが面打ちの極意」

惣介が工房を訪ねたある日のこと、天狗が無数の面を持ち出すところに出くわしたことがあった。最初は天狗ではなく、別の人間が工房に侵入して面を盗み出したかと思った。なぜなら天狗は惣介も初めて見る男の顔をしていたからだ。着ている服で天狗と分かり、安堵した惣介が近寄って見てみると、面は一見してどれもが完成していて、作りかけとも思えなかった。そしてどれもがそのときの天狗の顔とそっくり同じ顔をしていた。ただ無数の表情で彫られていた。惣介が何と呼べばいいのか尋ねると、野風だと答えた。両手に抱えたたくさんの面に惣介が興味を示すと、

 「これらは全て失敗した面、名無しよ」

 そういって惣介を置いて歩き出した。それを追いかけながら惣介は話しかけた。

 「どうして名無しなのさ。野風って名を最初から付けて打ったんだろう」

 「名無しの面とは最初に定めた名になりきれなかった面のこと。名を定めることと、その名にたどり着くことはまた別のこと。ひとつの名にたどり着くまで、時には数十の面を打たねばならぬこともある」

 惣介は失敗した面でも欲しかった。面に宿る不思議な力をもっと使ってみたかったからだ。しかし天狗は名無しの面を渡すことを拒んだ。

 「これらの面は、今から面供養をせねばならん」

 それから天狗は櫓を組み、火を起こした。そして面を取り出しては真っ二つに割り、一枚一枚と火の中に投げ込んでいった。

 「名無しの面は、無念の面。そのままにしておけば、己を探して世を彷徨い、名を欲して人の顔を奪い、やがて災いを為す恨みの面。我が身から生まれた災禍の面を野放しにしておく訳にはいかんのだ」

 燃え上がる炎を前に合掌する天狗を、惣介は不思議な思いで見つめていた。仏の敵と言われる天狗が、供養だといって手を合わせているのだから。

 最後の一枚を投げ入れ、全ての面を燃やしたとき、惣介は天狗の瞳から涙が流れ落ちるのを見た。惣介は言葉をかけることができず、いつしか己も手を合わせて炎を前に立ち尽くしていた。それから二度と、天狗が野風と名乗ったときの顔に変わることはなかった。

 

 天狗と惣介の出会いから数年が経ち、少年天狗の噂がちらほらと各地で流れる中、惣介は年齢以上の大人びた凛々しさを身に付け、少年期の終わりを迎えようとしていた。相変わらず天狗は、名を変え姿を変えては現れ消えていく存在であった。移り気に誰かに肩入れしたり、気まぐれに誰かの願いを叶えては去っていく、流れ星のようであった。どれほど長く生きているのか、何処から来て何処へ行くのか、それは惣介には一切知らされることはなかった。

 ただその眼差しと、立ち位置だけは変えることはなかった。天狗はいつも、上空から舞台と観客の双方を眺め渡しているのである。時に戯れに観客にまぎれたり、演出をしたり、己自身を登場させることもあったが、せいぜい偶然通りかかる程度の端役、或いは数多の野次馬の一人として掛け声を出す程度であった。積極的に何かを変えようとしたり、自ら絵図を描き出そうとすることは稀であった。ただ池に石を投げ込んで描かれた波紋を楽しむように、予測のつかない事態へと持っていき、どのように絵図が変わっていくのかを眺めることはあった。そう、天狗は眺める存在であった。世の移ろい、時の流れの中で懸命に生きる人々を、面白そうに眺めているのである。全体を眺め渡し、自らを偶然として、ときに奇跡として投げ入れ、何食わぬ顔で舞台から去っていく。そして己の引き起こした偶然が、絵図にどのような影響を与えるのかを楽しそうに眺めるのである。

 天狗の振る舞いは、偶然を装った神を演じるかのようであった。

 惣介は幾度となく問い質した。

 「なぜ師匠はその力を世のために、人のために使おうとしないのですか」

 その思いは最初は軽い気持ちであったが、時を経るにつれ惣介の中で、強い憤りとなっていた。時に怒り、拳を叩きつけて、時に泣き、縋り付いて、惣介は言葉をぶつけることもあった。あるとき、惣介が己の無力さ打ちひしがれ、泣きながら天狗を責めたてると、ひたすら口を閉ざしていた天狗が、ぽつりといった。

 「飽きたのよ」

 そして一呼吸おくと、言葉を続けた。

――世の無情を嘆いたり、人の非情を悲しんだりすることに疲れ果てたのよ。悲しさも、虚しさも、傍から見て面白がるだけが一番よ。世の移り変わりも、人の儚さも、ただカカと笑って眺めているのが面白いのよ。

 絶句した惣介は、軽蔑の目で天狗を睨み付けた。怒りに任せ知る限りのあらゆる言葉で天狗を罵倒し、詰寄った。そんな惣介に天狗は言った。

 「ならば聞こう。もしもお主に、私と同じだけの力があったらどうする?」

 惣介は間髪いれずに答えた。おいらに力があったなら、きっとこの世を変えようとするだろう、そしてたくさんの人たちを救ってやるんだ、と。

 「この世を?」

 天狗は笑った。笑いながら言った。

 「大それたことよ。そして愚かで悲しいことよ」

 天狗は言う。

――ならば力を授けてやろうか。

 「今まで坊に渡した戯れの面とは違う、私が旅の果てに辿りついた魂の面がある。それは人から天狗へと生まれ変わる転生の面。それを付ければ、天狗としての力に目覚めることができる。しかし一度嵌めれば、決して外すことはできない。人に戻ることはできないのだ。

お主は人としての顔を失い、限りある人としての生を失ってしまうだろう。それでもいいのか」

 「人でなくなることなんて怖くない。力を得ることができるなら、いや、力のない人間なんて真っ平さ。かまわないから天狗の力をおくれよ」

 「お前はまだ分からんのか。人ではなくなる、ということがどういうことなのか。天狗になる、力を持つ、ということが、どういうことなのか」

 そう言うと、天狗は己の顔を変化させて、一つの面を見せた。

 それは夥しい皺に覆われた面であった。性別も、年齢も分からない、喜怒哀楽の何れかも分からない、無数の皺そのもので形成された面。分かることといえば、それが人の顔であるということだけであった。惣介はその面を一目見て、たまらずに吐き戻した。面の発するおぞましさ、恐ろしさに、目を逸らさずにはいられなかった。そして再び面を見る勇気を失ってしまった。全身に鳥肌が立ち、寒気が止まらなくなった。一瞬にして体の芯まで冷え切り、悪寒に心を鷲掴みにされたような気がした。

 その様子を見て、天狗はすぐに面を隠した。

 「これを被るには魂の器が必要なのだ。広く、深く、そして硬い器がな。荒れ狂う混沌を満たし、形を与えるだけの器がなければ心が耐えられないのだ。そしてそのような器を持つ人間など、どこにもいない。

 もし器が小さかったり浅かったり、軟かったりすると、その器は粉々に砕けてしまう。溢れ出した混沌に飲み込まれてしまう。形を失った混沌の魂は、もはや制御することは不可能。暴走してしまう。つまりは狂うてしまうのさ。

 そうなれば感情が抑えることができなくなってしまう。喜怒哀楽に歯止めが利かなくなってしまう。喜怒哀楽を力で行使しようとする。

 この天狗面は己を失わせる面。これまで私が背負うてきた無数の名が、夥しい記憶の断片が、交錯する自我が、この天狗面には宿っている。確固とした自分がない幼い時分にそれを被ると、どの記憶が自分のものであったのか分からなくなってしまう。いや大人であってもそれは同じ。この天狗面を支配することができるものなど、何処にもおるまい。如何なる人間であっても、この面の力を思うままに操ることなどできないのだ。面を嵌めたとたん、面に宿った無数の名が頭で反響し、どの名が自分のものであったのか分からなくなってしまう。自分が持つよりもはるかに鮮烈な過去、記憶、想い…それらにもともとあった己という自我が押しつぶされ、引き裂かれ、やがてはその過去も、記憶も、思いも忘れ去られてしまう。そして、自分の顔を失って、戻れなくなるのだ。

 そしてひっきりなしに入れ替わる無数の面で、人を殺めたり、女を犯したり、貧者を助けたり、強者を貶めたりする。善悪もなにもない。人を殺した血まみれの手で、人を救うのだ。母親の菩薩の笑顔で子供を優しくあやしておきながら、突如面に出現した鬼婆の顔で子供を縊り殺してしまう。そして父親の顔になって絶望したかと思えば、次の瞬間には高笑いをしながら歓喜する。得体の知れない、感情の、過去の、執着の化け物となって苦しみ続けるのだ。

 記憶は鮮明であるが、時系列さえも定かではない、あらゆることが昨日の出来事のように感じられる、あらゆることがついさっき起こっていること、いや、今この瞬間に起こっているように思える。感情の海の中で混乱し、安らかに眠ることなどできるはずもない。どれほど時を経ようと昨日のように感じられる悲劇、どれほど朝日を迎えようと明日のように感じられる喜劇、記憶の時系列は混乱し、一貫性がない。ぶくぶくと泡のように膨らんで破裂し、また別の記憶が、過去が浮かび上がってくる。何が現実なのか、何が記憶なのか、今起こっていること、今、自分が起こしていることさえも過去のように思えてくる。逆に、遠い昔のことであるというのに、今まさに起こっていることのように感じられる。そんな己を抑えることができないのだ。

 そんな夥しい記憶の大渦、混沌の海に飲み込まれてしまうと、新たに出会った人々、新たに起こった出来事、新たに生まれた喜びや悲しみ、そういったもを記憶できなくなる。昨日あったことなのに、他の鮮明な過去や出来事に、すぐに埋もれ、忘れてしまうのだ。昨日知り合った人のことが覚えられず、新たな記憶が、つまりは未来が紡ぎ出せなくなるのだ。

 日ごとに入れ替わっていく顔、記憶、感情。夜に見た夢によって、その朝の顔は、人格は変化し、別人になる。夢は悪夢のときもあれば、すばらしい記憶のときもある。しかし、それは明日には繋がっていない。それは昨日の続きではない。ただの断片なのだ。そしてどれが自分の記憶であるかさえ分からなくなる、いや、すべての記憶が自分のものとして感じられるのだ。

 自分という人間が制御できず、記憶の断片と感情の結晶に引きずられ、行動を起こすのさ。

 そう、お前ははお前でなくなるのさ。これまでの記憶など押しつぶされ、雲散霧消してしまうだろう。無数の人格、過去によって生み出された『天狗』という奇妙な妖と成り果ててしまうだろう」

 惣介は想像して身震いした。己を乗っ取られ、過去も記憶も、名前さえも忘れてしまう。そのことがどういうことなのか、惣介にははっきりとわからなかった。ただ天狗の言葉による想像だけで、その恐怖は伝わってきた。俄かには信じがたい話だが、それを信じさせるだけの異様な力を、天狗面から感じ取っていた。

あの面を被るということは、あの顔になってしまうということだ。無数の皺だけで構成された、喜怒哀楽の分からぬ顔に。そのことが本能として途轍もなく恐ろしいことに感じられた。

 天狗は「面を被るか?」そう意地悪そうに問うた。惣介はぶるぶると首を横に振って強く拒絶した。一瞬ちらりと見せられただけの面が頭をよぎるだけで、がくがくと膝は震え、新たな悪寒と吐き気が襲ってくるのだった。

 そのときから、天狗面の面影は惣介を苦しませるようになった。記憶からなかなか消えず、夢にさえ出てくるのである。忘れようとしても、何の前触れもなく記憶が蘇るのだ。映像はおぼろげではあったが、おぞましさは褪せることがなかった。思い出すたびに強烈な眩暈、吐き気を催さずにはいられなかった。

 眠ることができなくなり、食事も思い出すたびに吐いてしまうため、しばらすると、げっそりと痩せこけてしまった。心が暗澹として外を出歩く気になれず、やがて部屋に篭っているばかりとなった。どんなに面の記憶から逃れようとしても、天狗面は惣介を縛り、苦しめ続けた。このままでは命さえ危ないというほどに、惣介は弱り果てていった。

 そんな得体の知れない苦悶に満ちた日々の中で、惣介が縋り付いたのは、家族とふみ、友人たちであった。彼らの笑い声や笑顔に囲まれた安らかな暮らしだけが、天狗の面の記憶を薄れさせることに気づいた。惣介は恥ずかしさも忘れ、両親やふみの胸の中でしか眠れない日々を過ごすようになった。そうしてようやく安堵の眠りを貪ることができるようになった。安らかな眠りが悪夢を遠ざけ、面の輪郭をぼやけさせ、やがては面影を忘れさせていったのだった。

 惣介は面を捨て去り、両親の商いを手伝うようになった。すると、それまで頭を下げるばかりで卑屈だと思っていた両親と、その商いへの見方が変わるようになった。両親がどれほどの志を持ち、人のため、世のために懸命に働いているかを理解できるようになった。正直さだけでは生きていけない世の無情を知った上で、それでも両親は必死に己の良心に、信念に、あたうる限り従って生きようとしていた。曲げなければならないこともある、しかし曲げられないこともある。そういった大人の世があることを惣介はようやく分かるようになったのである。

 惣介は面に背を向けて夢想するようになった。この商家で、この町で、ふみや弟や、仲間たちと商売を盛り上げていく暮らしも悪くない。そんな夢を見るようになった。そんな甘やかな夢を見ることも、面を忘れさせてくれるのだ。かつての惣介の夢想は常に面と向き合ったものであり、面を付けた眼差しの先にあるものだった。それが天狗面の一件以来、大きく変わっていった。

 しかし天狗の弟子をやめようと思っていた最中、再び運命は惣介を弄ぶ。

商家の財力が理不尽な領主に狙われ、陰謀の末、両親、弟ともに皆殺しの目にあったのである。たまたま助かった惣介であったが、領主のあまりに惨い仕打ちに全身が張り裂けんばかりに慟哭し、憎悪でその身を焦がした。

惣介を引き取ろうとしたふみの両親は、惣介を優しく受け入れ、そのままやがては婿として迎えよう、そう言ってくれた。ふみも惣介を抱きしめ、幼く拙い愛を、ひたむきに注ごうとした。

 しかし惣介は呆然とした頭で考え続けていた。なぜ、この苦しい世で懸命に生きようと、汚れきった世でそれでもまっとうに生きようと己を貫こうとするものが、こんな理不尽な目にあわなければならないのだ。何が悪いのだ、一体誰が、何がこの原因なのだ。権力とは、政とは何なのだ、と。

夜、惣介はふみの家から抜け出し、天狗の棲み処へと走った。

――あの天狗面が欲しい。

 そう言う惣介のかつてない表情をじっと見ながら、天狗は問いかけた。

 「あの天狗面で力を得たとしても、いったいどうするつもりだ。言ったはずだ。面を被ったとたんに、己は己ではなくなる。その復讐の決意も、憎悪の炎も他の炎に飲み込まれてしまうだろう。悪いことは言わない、やめておけ」

惣介は答えた。天狗さえ怯むようなくらい光を瞳に宿して。

 「この憎悪が消えることなど決してない。いまこそ力が欲しいのだ」

 絶望の炎を覗き込んだ天狗は言った。

 「かもしれない。お前はその憎悪を刻み込んだまま、天狗へと変わるかもしれない。そうすれば、お前ができないことをその力で行うこともできるだろう。しかし、それができたからといって、その後はどうなると思う? 一度その恨みを晴らしてしまい、望みが実現されてしまったら、後には何も残らない。ほかの数多の記憶、名におまえ自身は飲み込まれてしまう。それでもいいのか。たった一つの恨みを晴らすためだけに、おまえ自身のその後のすべては失われてしまう。お前は何者にもなれずに、天狗の面に支配されるままに彷徨うことになるのだ。

 このままふみの両親に引き取られ、やがてはふみを娶って暮らすのが一番であろう。恨みの炎は消えることはあるまい、しかし時を経るうちに弱まっていくだろう。心に刻み込まれた傷跡は生涯癒えることはあるまい、しかし時を経るうちに、生々しい傷跡は肌に馴染んでいくだろう。きっとふみやお前の仲間、ふみの両親が、お前の恨みの炎を弱め、傷跡を瘡蓋となって覆ってくれるだろう。今は決して消えることがないと思っている傷跡も、きっと、いつかは薄れていくのだから」

 と、惣介は諭すような天狗に、叫びの言葉をぶつけた。

 ――それが怖いのだ。

 「恨みが、憎悪が、時とともに薄れていくという。そうだろう。私はそれが怖いのだ。では、両親の無念はどこに行くというのだ。行き場を失って世を延々と彷徨い続けるだけなのか。それを知りながら、忘れてしまえというのか。できるはずがない。私は自分が自分でなくなることより、自分の未来を失ってしまうことより、この憎悪が消えてしまうことのほうが怖い。憎悪が消え、一方でぬくぬくと領主たちは生きながらえるのだ。私たちにした理不尽なことなど気にも留めず。

そんなことを許しはしない。このまま領主たちがのさばること、そして自分自身が憎悪を忘れてしまうこと、何より、自分一人、何事もなかったように幸せに生きることは、何よりも許せない。

 毎夜、どれほどの流れ星が落ちていくのか、それは夜空を眺めるものでなければ知ることはできない。その星にかけられた願いなど、きっと誰も知らぬままに終わってしまうだろう。だからといって忘れてしまうことができるだろうか。私の両親の願いも同じこと。私はそんな、人知れずに消え落ちてしまう刹那の願いこそ汲み取らなければならない。私がそれを忘れてしまっては、両親の願いは、思いは無駄になってしまう。それを汲み取ることができるのは、私だけしかないのだ」

 惣介は再び天狗に言うのだ。

 「あの面を、いまこそ嵌めなければならない。全身を焦がしつくしそうな憎悪が、私の体中に満ちている間に、あの面を嵌めるのだ」

 その惣介の顔に、天狗は確かに修羅の表情を見た。顔に残された深い傷跡が、血を流すのを見た。

 「師匠、私はもう弟子ではない。私自身があなたの後を継ぎ、天狗となりましょう。あなたをあの日の願いから解き放ちましょう。だから、あの面を我にください。私に力を下さい」

 そのとき、天狗は惣介の背後の夜空に、巨星が長い尾を引いて流れ落ちるのを見た。箒星だった。それをみて天狗は決意した。この子こそ、天狗面の後継者にふさわしい、と。

 「惣介よ。そなたの願い、聞き届けよう。あの日、流れ星にそなたが願った願いを、ついに叶えるときがきた。あの夜試み、一度は失敗した流れ星変化も、今宵こそ為しえるだろう。おぬしの願い事を叶えることで、私は真実、流星となって燃え尽きるのだ」

 天狗はそういうと、己自身を一枚の面へと変化させた。惣介の前から天狗は姿を消し、あの日見た天狗面だけがからりと転がった。

 惣介は震える手で天狗面を掴むと、己の顔に近づけていった――

 一匹の天狗が果て、新たな天狗が誕生した。

 新たな天狗面の後継者となった惣介は、面に新しく生々しい傷跡を、消えることのない皺として刻み込んだ。全身の骨が軋み、細胞が蠕動し、少年の丸みを残していた体が、一気に大人の男へと変化していった。惣介は、いやかつて惣介であった天狗は、獣のような遠吠えをあげると、そのまま闇に姿を消した。

その夜、領主一家が護衛ともども惨殺されるという事件が起きた。犯人は分からなかった。記録によれば、たった一人生き残ったその家の息子が、「天狗が、天狗が」と泣き喚くばかりであったという。その日を境に町から姿を消した少年のことは、一切の記録には残っていない。


 惣介が天狗になり、姿を消した夜のことである。ふみは、惣介の帰りを待ちながら、星空を眺めていた。

 ふみは惣介が少年天狗であることを知っていた。惣介が向かったのが天狗の棲み処だということも分かっていた。

 家を抜け出そうとする惣介に気づいたふみは、引きとめようとした。しかし止めることができなかった。ただ一つだけ惣介と約束を交わした。そして闇夜にかけていく惣介を見送っていた。

 惣介はこう言って、ふみと約束を交わしたのだ。

 「きっとお前のもとに帰ってくる」

 その夜、惣介が帰ってくるのを待ちながら、ふみは考え続けていた。どうすれば惣介の心を癒してあげられるだろう、どうすれば、惣介の心を自分に繋ぎ止めることができるだろう。毎日笑顔で迎えてあげることだろうか、それとも、一緒に泣いてあげることだろうか。

 「きっと明日には帰ってくるさ、お前も早く寝なさい」

 両親はそういったが、胸騒ぎがして眠れなかった。夜空を眺めながら、ふと思った。

 ――そうだ、惣介は流れ星に願いをかけるのが好きだった。いつも流れ星を見つけても、願い事を言い終わらないうちに星が落ちてしまうといっては残念がっていた。

だから、私は願い事を願い続けよう。いつ流れ星が落ちてもいいように、繰り返し、祈り続けよう、と。

 ふみは星空を見ながら、惣介の最後の言葉を胸の中で繰り返し反芻していた。

 「きっとあたしのところに帰ってくる」

 と、夜空にひときわ大きな星が流れた。

 長く尾を引く箒星だった。不思議なことに一瞬ではなく、闇をゆっくりと翔けていく。

 ふみは星に願いを込めた。

 はやく惣介が帰ってきますように。はやく惣介が元気になりますように。はやく惣介が笑顔を取り戻しますように。はやく惣介の怪我が治りますように…

 すれ違う二つの思いが、同じ一つの箒星に願いをかけていた。箒星は迷子になってしまったかのように、夜空をしばらく彷徨い続けた。


掌――さすらい面供養


 復讐を遂げた後、惣介は己が誰であったのか、その名も、過去も、忘れ果ててしまった。いや、忘れるというより、面に封じ込められ、皺となって刻み込まれた無数の人々の魂に、惣介の幼い自我は押しつぶされた。数多の他人の記憶、想いに、惣介という人格は掻き消され、心の奥底に沈められてしまったのである。

一匹の天狗となった惣介は、次々と入れ替わる人格に操られることになる。不安定な人格、過去、現在、未来の狭間で、天狗はその面の力に引きずられるまま顔を変え、名を変えて世を流離うことになる。一方で、根源的な問いが、頭の中に反響するのである。

 ――私は、誰だ。

 日替わりで面に浮かび上がる異相、宿る人格は、拭い去れない違和感を絶えず抱えていた。己が明日には己では無くなるという、奇妙な感覚である。いわば、面に浮かび上がる無数の顔は、水面にぶくぶくと浮かび上がる泡沫のようなものであって、消えては浮かび、浮かんでは消えていく儚いものであった。それでも、何とか己を己のままに留めようと、天狗はあがくのである。例えば、その面の持つ記憶にしがみついたり、その面の持つ過去を反芻したり、願いや祈り、未来へと想いを馳せたりするのだ。しかし、どんなにがんばっても、数日の後にはそれらの一切を忘れてしまい、まったく別の人格が浮かび上がってくるのだ。

 面に宿っている記憶は、強烈な心の傷となっている体験が殆どであった。忘れることのできない悔恨の、無念の、苦悩の、悲嘆の体験。その傷跡が面に浮かび上がり、消え去ることの無い確かな皺となって刻み込まれていた。天狗本人には面の力を制御することができなかった。何かのきっかけで、混沌とした記憶から泡のように過去が浮かび上がり、面の顔が変化するたびに、別人格に変わってしまうのだ。

面の制御ができない天狗は、面に引きずられるまま、当て所なく世を彷徨った

それは修羅の道であった。

 天狗は人の世との関わりの中で、数多の戦乱、無残な殺し合いを目にしてきた。それらの争乱によって踏みにじられる人間の生、或いは争乱によって煌く人の性があることも知っている。時にそれに乗じ、自らも無数の命を奪ってきた。そんな中で、主君、英雄、領土、国、身分、仏……そういった人が生み出した独自の奇妙な文化に興味を持った。

 やがて天狗は戦乱を自ら引き起こすようになった。支配しようとする邪悪なもの達を懲らしめ、何かを変えようと理想を持ったものたちを先導し、『世の中』を変えようとしたからである。しかしその考え方も時によって変わる。憎しみと憎悪の果てに戦乱を引き起こすようになった。好んでではない、全身を焦がすほどの憎悪、絶望が戦乱を引き起こすのである。天狗はそもそも風を引き起こす力があるが、それは世を渡る風だけではなく、人々を煽るような、時代の、変革の風なのである。

 そんな時、大妖、九尾の妖狐のことを知る。海を隔てた大陸で数多の国々を滅ぼしたとされ、最大最強の力を持った妖、可奈の伝説である。九尾はある場所では乱世の覇王として崇められ、国家建国の守り神として奉られる。ある場所では不吉な娼婦、乱世を引き起こす災いの姦婦として憎まれていた。様々な言葉で語られ、無数の表情を持ったその妖は、時に戦乱の引き金であり、時に平和の使者でもある、混沌の妖だった。天狗は思った。可奈という妖もまた、自分と同様に、己という存在を疑い、混沌の泥濘の中で悩み、もがき苦しんでいたのではないか、と。何のために戦乱を引き起こし、何のために戦乱は終わるのか。人は、何のために戦乱を起こし、何のために戦乱を止めるのか。そこには理由があるはずである。天狗はそれを知りたいと思うのである。大義ある戦乱に巻き込まれ、踏み潰されていく無数の儚い人々の命。その上に築かれる束の間の平和。

 天狗は可奈の影を追いながら、無数の国々を滅ぼしたという可奈の気持ちが何となく分かるような気がしていた。自分よりも強大な力と能力を持つ可奈だからこそ、その力の使い方に悩んだのではないだろうか。ちっぽけで儚い人間と、千年を生きる自分、その関係に悩んだのではないだろうか。伝説に語られているように、神を気取ったり、平和の使者を気取ったり、理想郷の建国を目指したこともあったろう。しかしそのつど失望を繰り返し、人間たちの愚かで醜いところを目の当たりにしたはず。やがてそれは怒りとなり、憎悪となり、戦乱の端緒となる。儚い、虐げられる人々を救うためだったはずが、いつしか自分が切っ掛けとなって、か弱き人々を苦しめるようになるのだ。

 では、その可奈という妖は一体何処へ消えたのだろう。聞くところによれば、ある大妖と戦っているのだという。その大妖は九尾を超える力を持った最大最強の妖だとも。にも拘らず、その大妖は、正体を知るものが誰もいない奇妙な妖だった。可奈は一体何と戦い続けているのか、そして二匹は何処へ消えてしまったのか、誰も知らないのだ。可奈を超える最大最強の妖の正体とは何であり、その戦いの結末は、どのようなものだったのか。

 いや何よりも、可奈という大妖は、何のために、その妖と戦い続けていたのか。

戦うことには理由がある。ある時期から人の世を半ば見限り、姿を潜めていた可奈が再び立ち上がったその理由とは、一体なんだったのだろう。

 天狗は顔を変え名を変え、行く先々で世に風を吹かせながら、そんなことを考えるようになるのだ。

 面に支配され、過去、記憶に囚われ、感情に振り回されるままに天狗としての力を行使する日々が続いた。湧き上がる激情を抑えることができず、天狗は数多の人々を殺め、一方で数多の人を救いもした。

 自分が誰であるのか分からないという根源的な空虚感が、さまざまな人格に天狗をしがみ付かせた。ところが一時の名にしがみつき、過去に囚われて面の無念を晴らすと、その顔は消え去り、過去は忘れさられてしまうのである。そしてまた新たな顔が浮かび上がってくるのだ。

 面に操られるままに彷徨と暴走を繰り替えす天狗は、あることに気づく。

 面の激情を抑えるためには、その面の持つ願いを叶え、無念を晴らすしかない。面の願いを叶えたとき、憑き物が落ちたように、その面の過去や記憶は蘇らなくなるのだ。

 願いを叶え、一つの名を忘れ去ったときのことである。天狗が鏡に映した面を見ていると、一つの皺が生々しい血を流した後にスゥと消えていった。そして表情が僅かに、ほんの僅かに変わったような気がした。

 天狗は考えた。この面に刻まれた全ての表情の皺が消えたとき、天狗の面は剥がれ落ち、己の本当の顔が取り戻せるのではないか、己の真実の名を思い出すのではないか、と。

 それまで面の激情に支配されるだけであった天狗は、その面と向き合うことで、少しずつ面の感情を抑えることを学んでいく。

 無念のままに死んでいった無数の人々。その無念を一つずつ晴らしながら、想い宿った過去を忘れ去ることが、旅の目的となった。いつしか天狗は、一つ一つの面を弔うような思いになっていった。面供養、いつかどこかで聞いたそんな言葉が天狗の脳裏に浮かんでいた。

 そうして天狗の当て所ない彷徨は、面供養の旅となった。

 天狗は姿を変えながら、色々な一座に紛れ込んで旅を続けた。記憶と過去、感情、快感の行使に苛まされる苦悶の旅をしながら、一つ一つ憑き物の記憶を忘れ、一枚一枚仮面を剥ぎ取っていく天狗だったが、その旅の中でもまた、たくさんの人との新しい出会いがあり、出来事があり、別れがあった。一つ皺を消しても、再び新たな皺が、しかも幾つも刻み込まれるのだ。それは無念の、悲しみの、憎悪の皺であった。そんな中で、天狗はこの世の儚さ、残酷さ、無常をかみ締める。己の天狗としての力を使っても、所詮は何も変わらない、過ちは繰り返され、悲劇は繰り広げられ、幾度も、幾度も、理不尽な絶望は人を苦しめる。人は愚かであり、その愚かさから何かを学ぼうとはしない。先人の血と躯は糧にはならず、無為な死となって忘れ去られるだけである。行き場のない憎悪と悲哀の皺だけがこの顔に永遠に刻み込まれていくだけなのだろう。

 やがて天狗は、この人の世こそ百鬼夜行の地獄ではないかと絶望に陥り、この世など空っぽではないかという虚無感に苛まされるようになる。

 虚無と絶望をいったりきたりしながら、天狗は押しつぶされそうな懊悩の果てに、忘れてしまった者たち、化けることができなくなってしまった者達の面打ちに励むようになっていく。それは暗黒の闇の中で、灯火を灯すような行為に等しかった。いままで出会ったものたちとの、煌くような思い出の断片、忘れられぬ表情だけが、心をほの温かくしてくれるのである。

 その面は刹那の煌き、一瞬の表情である。どす黒い憎悪や憤怒だけではない。そういったどす黒い暗渠の中でこそ映える煌き、儚さと強さの両方を兼ね備えた、星の輝きであった。縋り付くように、天狗はそんな面を打つようになる。天狗は、人々の表情に焦がれるようになっていった。なぜ、どうしてそのような表情ができるのか、どのような心持になったときに、そのような表情が作られるのか。到底己では辿りつけそうもない境地、心模様に、天狗は幾度となく心を奪われた。

 天狗は旅をしながら、過去を忘れようとする一方で、焦がれるような人の表情を記憶に留めていった。忘れたくない、忘れるわけにはいかない、人々の顔、表情を、心の中に宝物のように集めていた。

 そうして天狗はいつからか、かつての師匠のように、自らも面を打つようになったのだ。

 その行為は、天狗面の力を己の意思で操る一つの切っ掛けとなる。

 新しい面を打ち続け、忘れたくない、忘れてはいけない者たちの面を、心と顔に刻み込んだ。それが一種の抑止力となって感情の暴走に歯止めがかけられるようになるのだ。

 己が打った面には様々な思い、願いが込められている。それは天狗の思いではなく、面の元となった人の思いである。天狗はそれぞれ思いの異なる面の願いを聞き届けるようにして旅をするようになった。ある面には、「もうすぐ辿り着ける、一緒に行こう」そう語りかけ。ある面には、「これがお前の見たかった光景だ、満足かい」そう語りかけるのである。

 過ぎていく時の中で、天狗は少しずつ色々なことを忘れていった。そして、忘れていくことを怖いと思い、申し訳なく思ってもいた。どれもがかけがえのない思い出であり、忘れがたい者達であったからだ。しかし、面供養をして一枚の面を割ることで、天狗はその面の人物を忘れるようにしていた。

 「もう忘れてもいいだろうか、忘れられるのだろうか」

 そう己に語りかけ、一つずつ過去を消し去っていくのである。

 そうして、天狗は忘れないように面を打ち、忘れるために面を壊すのだった。

 やがては天狗面への気持ちも変化していく。最初は恐ろしかった、疎ましかった天狗の面。それが、次第に自分の思うままに皺が刻まれていくのを見るうちに、天狗は親しみを感じるようになる。

 長い面供養の旅の最中に、天狗はついに自分の記憶と顔を取り戻すことになる。しかし、もう取り戻せない時を過ごしてしまったことに気づき、かつての己と決別する。誰でもない自分を受け入れることで、一匹の天狗として生きることを選び取るのだ。そして記憶から一つの名を思い出して名乗るようになる。野風、それは天狗の師匠の名であった。

 それから天狗の野風としての旅が始まった。かつてと同じく、面打ちと面供養の旅路ではあったが、それまで世の無常の前で立ちすくんでいただけの天狗の心に、ある変化が起こっていた。それは、無常であろうと、面の祈りや願いを受け継いで、無常の世を楽しもうとする、積極的な意思である。

 野風はあらゆる過去を、一歩引いて客観的に眺めることができるようになる。かつてその身を焦がし、心を狂わせてしまうほどの激情や憤怒、憎悪も「役柄を演じている」という冷徹な眼差しを持つことによって、心のバランス、平衡を保つことに成功する。「他人を演じる」ということ、「自分を演じる」ということ、その二つを極めようとする。

 飄々と無数の役柄を楽しむ術を身に付けた野風は、数多の人格を自在に演じられるまでになる。人格だけではない。その天狗面の力によって、顔を、体を、年齢を自在に変えられるようになり、あやかしたちの間で百面相の野風という二つ名を持つようになるのだった。

 時を経て、野風はある山野で面を打ち続ける日々を送るようになっていた。

そして、たまに誰かに変化して人の世を流離っては、ただ世を眺めてカカと面白がっているだけの日々を過ごしていた。

 どこか醒めた目で、自分とは関係ないところで流転、変転する人の生を面白がりながらただ世を笑っていた。

 ある意味、野風は疲れ果てていたといってもいい。心は擦り切れてしまっていたし、人や世情に煩わされることが嫌になった。強い厭世観を持つようになっていた。旅するのも億劫であり、あらゆるものへの興味を失ってしまっていた。面を打つのは戯れの一つになり、退屈しのぎに成り果てていた。野風の打った面には不思議な力が宿るようになっていて、それを人に与えることで、気まぐれに人の生を変えたりするのである。面によって人がどう変わっていくのかを楽しむのである。

 野風はかつての師匠のように、気まぐれな神を演じるようになっていたのだ。


 さて、そんな日々を送っていた野風の下に、一匹の妖狐が現れる。

 千代という名のその妖狐は、澱んでしまった野風の心に新鮮な風を吹かせ、新たな旅へと誘うことになる。野風はその旅の中で、いつしか千代の表情に魅せられ、目を離すことができなくなっていく。幾度となくその表情を面に打とうとしては、途中で諦めるということを繰り返すようになる。決して完成に至ることのない作りかけの面を並べてみると、どれも同じ人物を模ったとは思えぬほどに面相は異なっている。どこかに面影だけが、微かに共通して残されているような気がするのだ。

 ――いつかこの面を完成させられたときこそ、私の旅は終わるのではないだろうか。果てしない面供養の旅を、終えることができるのではないだろうか。

 野風は面を眺めながら、そんな夢を見るのだった。

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