幕間 失った焦り


 陸斗の家から帰ってきた七海は軽くシャワーを浴びると、髪を乾かしてすぐベッドへ横になる。



「……プレゼントか」



 テーブルの上に置かれたエプロンに視線を向ける。

 陸斗から貰ったエプロン。白色の生地にピンク色の刺繍といった、何の変哲もないエプロン。


 社会人である七海と、高校生である陸斗の金銭感覚は違う。だから七海にとっては決して高くはない物。仕事道具として何着か持っているエプロンと同じぐらいの値段だ。

 それでもこのエプロンを見ていると、口元が緩む。

 なにせ普段は貰った給料を全て家に入れる彼が、その給料で買ってくれた。だから嬉しかった。

 プレゼントをしたい、そう彼が思える女性になれたことが。



「とはいえ、進展はないのよね……」



 大きくため息をつく。

 既に彼の母親との面識はあり、家にいても何らおかしくない関係になったが、いつまで経っても関係は”優しいお姉さん”のまま。

 それでいいのかもしれないが、もう一歩、彼との距離を縮めたいと思っている。あの日、そう決心したのだから。



「……もう少し、大胆にか」



 もう一つのプレゼントに目を向ける。

 それは、まるで天使の羽のような純白の下着。

 陸斗が購入して一緒にプレゼントしてくれたのだが、それを選んだのは綾香だろう。だからその下着に意味なんてないのだが、それでも、少し考えてしまう。



「だけど、今はまだこのままでも、いいのかな……」



 恋愛としての進展があれば嬉しいが、それでも、今のこの状況に七海は十分に満足していた。

 なにせ恋敵ライバルである柚葉もそこまで大きなアプローチに出ていないから”焦り”というのを七海はあまり感じていなかったのだ。












 ♦













 時を同じくして。

 自宅へと帰ってきた柚葉もプレゼントを前に腕を組み、唸っていた。



「楽しかった。楽しかったんだけど……」



 元から子供が好きだった柚葉。陸斗の代わりに宇野家に行き、妹菜と遊ぶのは楽しかった。

 けれど今の状況は、求めていたものとは少しだけ違った。



「違う。違うんだけど……」



 柚葉は小さな箱に入ったピアスに顔を近付け、



「うへへ」



 たるんだ笑顔を浮かべる。

 陸斗から貰ったプレゼント。

 元々はバイト中、話題に困った柚葉がたまたま近くにあった雑誌に載っていたこのピアスを目にして、話題にしただけのものであって、本気で欲しかったわけではなかった。

 だが、こうして彼からプレゼントされると、どんな高級なピアスよりも輝いて見える。それはきっと、あんな些細な会話を覚えていてくれて、なおかつ彼からプレゼントしてもらったからだろう。


 様々な角度から、目の前のピアスを見る。

 その表情は子供みたいで、先程までの唸っていた人物ではないかのようだ。



「もっとアプローチした方がいいのかな……?」



 一緒に置かれたむ一つのプレゼントに目を向け、大きくため息をつく。

 それは真っ黒な大人の下着。かなり布地面積が少なく、見るからにエッチな雰囲気がした。

 それを着て迫れば、陸斗はどんな反応をするだろうか。そんなことを考えてしまう。



「でも、今の状況も楽しいからなあ」



 少し前までは男女の関係になりたいと焦り、激しいアプローチをしていたが、今は落ち着きただの”面倒見のいいお姉さん”となった。

 それが良いか悪いかと聞かれれば、難しいところだが、無理に焦らなくてもいいだろう。



「まあいっか。また明日から、ゆっくりアプローチしていこっと!」



 柚葉はベッドへとダイブする。

 七海という恋敵ライバルはいるが、まだ彼女は大きな行動に出ていない。であれば、まだ焦らなくてもいいだろう。


 彼が高校を卒業するまで、ゆっくりと、同じ時間を刻んでいけばいつか変化が生まれるはずだ。














 ♦













「──ちょっと、パパ! お弁当、忘れてるって!」



 玄関に向けて大声を発する少女。

 お弁当箱を持って玄関まで向かうと、優しい雰囲気をした男性が苦笑いを浮かべていた。



「すまない、鞄に入れたと思っていたんだが」

「しっかりしてよね。他に忘れ物はない?」

「大丈夫……だと思う」

「もう、今日はあたしも学校あるから、職場まで持っていけないからね?」

「大丈夫、大丈夫」

「本当かな……って、パパ、バスの時間!」

「あっ、急がないと! それじゃあ行ってくるよ!」

「帰り、バスに乗ったらメッセージ入れてね、ご飯の支度して待ってるから! いってらっしゃい!」



 バタン、と扉が閉まると、少女は大きくため息をつく。

 大きな子供が仕事へ向かうと、彼女も学校へと向かうため鞄を手に取ると、座布団の上に座った。



「……パパは相変わらずだよ。ほんと、あたしが大学生になって家を出たらどうなっちゃうのかな? 朝も一人で起きられない、料理も洗濯も、いまだにできないんだよ」



 彼女一人しかいないリビングで、笑いながら愚痴をこぼす。



「もう少し、ママがパパを甘やかさないでいてくれたら良かったのにね? それじゃあ、いってきます」



 彼女は目の前の仏壇に手を合わせた。

 仏壇に置かれた遺影。そこに映っていた女性は、手を合わせている今の自分と同い年ぐらいの年齢で、まるで鏡を見ているように似ていた。

 そして「いってきます」と告げ、彼女は高校へと向かった。


 ──この時の彼女はまだ、もう少し先の未来に特別な出会いをするとは思ってもみなかった。

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