第5話 エレベーターへ
「なるほど、その七海さんという方の紹介先でバイトするのか」
書店のバイトへ向かうなり、俺は雇い主である
スラッとした綺麗な黒髪を腰辺りまで伸ばし、知的な雰囲気のある黒ぶち眼鏡。
黒色のスラックスに白のYシャツをいつも着てるからか、綾香さんの印象は働く大人の女性といった感じがする。
「はい、ほんと助かりました。まさか海の家で働けなくなるとは……」
「理由が理由だから仕方ないだろうが、もう少し早く教えてくれたら良かったのにな」
「初めてのことでオーナーも大変だったそうです。それに、めちゃくちゃ謝られたので……」
「なるほど。まあ、なにはともあれ良かったな、陸斗」
「あっ、はい……」
凛々しい雰囲気から繰り出される、たまに見せてくれる優しい微笑みは少しズルい。
俺は視線を逸らすように、頭を下げた。
「綾香さんにも、迷惑かけてすみません」
海の家でバイトができないことを聞いたその日のうちに俺は綾香さんに相談した。
休み希望を取り下げられないか……。
だけどやっぱり、夏休み時期ということもあってシフトは既に埋まってしまっていた。
たぶん他のバイトさんたちも学校が長期の休むこの時期は働きたいんだと思う。
「いいや、私にはなんの問題はないさ。まあ、強いて言うなら柚葉が暴走していたぐらいだろうか」
呆れたように笑みをこぼした綾香さんは、スマートフォンを俺に見せてくれた。
画面には大量の着信履歴が残されていて、それは全て、柚葉さんからの着信だった。
「柚葉さん……」
「あいつもあいつなりに心配だったんだろう。私だけでなく、その七海さんって女性にも連絡したということは、不安で何とかしないとって気持ちで一杯だったんだろうな」
「ですね。感謝しないといけませんね」
「ああ、そうだな。ただ少し暴走気味だ。不在着信の履歴を見て唖然としたぞ」
スマートフォンをテーブルに置いた綾香さん。
その拍子に手が触れたのか、机の上から一枚の紙がひらひらと落ちた。それは俺の方へと飛んできて、何も考えず拾い上げてしまった。
「……海水浴場の婚活パーティー?」
「あっ、そ、それはっ……!」
紙に書いていたのは、大型海水浴場で行われる婚活パーティーの紙だった。
確か去年のこの時期に、俺がバイトしていた海水浴場の近くでも行われていた気がした。
「あれ」
この紙が机の上に乗っていたということは……。
「綾香さん、もしかして……?」
「それは、その……」
普段から慌てた様子を見せないクールな綾香さんは、頭に手を当て恥ずかしそうに頬を赤くさせていた。
「これは、あれだ。そ、そうだ! 次の小説の題材にしようと思っていたんだ。別に参加するつもりはないぞ?」
明らかに動揺した様子の綾香さん。
ジャンルは頑なに教えてくれないけど、小説家である綾香さん。理由としては頷ける気もするんだけど、この反応はたぶん違う。
綾香さんは年齢を隠しているけど、柚葉さんは28才だと教えてくれた。
見た目の容姿からは判断できないぐらい綺麗なのだけど、もしかして、気にしてるのかな。
俺はその婚活パーティーの紙を綾香さんに渡した。
「なるほど、小説家の仕事って大変そうですもんね」
笑顔でそう伝えると、綾香さんにジーッと横目で見られた。
「本当だぞ……?」
「はい、わかってますから」
「本当か……?」
「本当ですって。それじゃあ、俺はそろそろ」
これ以上はどんな反応をしても疑われそうだ。というより、本当に隠す気はあるのだろうか。
俺はこの場から慌てて退散しようとすると、
「陸斗」
綾香さんに呼び止められた。
「はい?」
「まだ言ってなかったな。お母さん、無事に退院できて良かったな」
どこか姉のような温かい笑顔を向けられた。
きっと綾香さんにも心配かけたんだろう。だから俺は大きく頷いた。
「はい、みんなのお陰です!」
♦
夏休みまであと数日を迎えた土曜日。
七海さんから紹介されたバイトの面接へ向かうため、俺はお昼前に家を出発した。
まあ、面接っていう名目だけど、内容は顔合わせのようなものと仕事の説明ぐらいらしい。
七海さん曰わく、既に働けることは確定してるのだとか。
だから緊張はあまりしないんだけど、それでも、初めての顔合わせは緊張する。
「ここだよな?」
面接場所は都内にあるビルだった。
7階建てのビル。その入口の前には会社名がいくつも載っていた。
「えっと……」
13時の15分前。
俺は前もって七海さんから教えてもらった会社の名前を探して見つけた。
「『婚活コンサルティング』でいいんだよな」
教えてもらった名前通りの会社が5階の欄に載っていた。
俺は入口を抜け、エレベーターへと向かった。
「陸斗くん」
「えっ、どうして七海さんが?」
元は受付スペースでもあったのだろう無駄に広々とした一階部分で、椅子に座っていた七海さんに声を掛けられた。
保育士としての動きやすい格好とは違った全体的に白で統一された格好。ひらひらと足首まで覆ったスカートが歩くと揺れる。
「ふふっ、陸斗くんが心配だから来ちゃいました」
にっこりとした笑顔と言葉が、大人っぽさの中から子供っぽさを垣間見せる。
だけど目の前に立つとはっきりとした大人の色気や微かに甘い香水の匂いがして、ドキッとする。
ギャップ、というか、なんだかズルい。
俺は目線を外に向けながら笑顔を返す。
「別に、一人でも平気だったんですけど……」
正直なところ初対面の相手との顔合わせや、初めてのビルで緊張していた。ただそれを悟られたくないから強がったのに、
「迷惑、でしたか……?」
前屈みになるように顔を覗き込んでくる七海さん。
俺の反応を楽しむような笑顔に、顔が微かに熱くなる。
「いえ、別に……」
「ふふふ……そう、それは良かった」
「──ッ!?」
何かのスイッチが入ったように、七海さんの雰囲気が一変する。
俺は動揺しながら、急いでエレベーターへと向かった。
「そ、それより、そろそろ向かいましょう」
これまで何度も七海さんとこういうやり取りをしてきた。それで学んだことは、七海さんの雰囲気が変わったら流れを断たないと危ないということ。
Sっ気があったり、小悪魔のような感じだったり。
とにかく、いつもの聖女のような七海さんが攻めに転じたら、どう頑張っても俺の理性を正気で保っていられる自信がない。
「あら、そんなに急がなくてもいいのに……」
後ろから聞こえてきた七海さんの声は、どこか艶っぽく、全身を震わせた。
早くエレベーター来て、と念じるように何度も上矢印のボタンを連打する。
5、4、3とゆっくり降りてくるエレベーターが、いつも以上に遅く感じる。
「そういえば最近、柚葉さんが頻繁に家へ遊びに来てるそうですね……?」
「え、まあ、そうみたいです。妹菜も遊んでくれるから嬉しいって」
「……そうなんですね」
七海さんの声色が1トーン下がった気がした。
それが気になったところで、チン、という音が鳴ってエレベーターの扉が開いた。
俺はエレベーターに乗って振り返る。
「……そういえば、まだバイトを紹介したお礼、してもらってないですよね?」
お礼なんていりませんって前に言ってましたよね? という反論の言葉がなぜか出てこなかった。
七海さんはエレベーターの扉を、満面の笑みを浮かべながら閉める。
夏の暑い気温。密室の空間で二人っきり。いつもと違って妖艶な雰囲気を纏った七海さん。
様々な状況が重なったこの場で、俺はゴクリと大きく唾を飲んだ。
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