第6話 お礼と探り


「でも、前にお礼はいらないって……」



 なんとか吐き出せた言葉。

 七海さんは笑顔を浮かべる。



「はい、そのときは言いました。でも、やっぱりほしいです」

「そ、そうなんですね。でも」



 扉が閉まったエレベーターは動かない。

 目の前に立つ七海さんは、笑顔のまま両手を広げた。



「いま、ほしいんです」

「……ッ!?」



 頬を赤らめた七海さんを直視できない。

 何を求められているのか、それは俺にだってわかる。

 ただなぜ今なのか、どうしてなのか、それを頭で理解できない。



「あの、エレベーター、動いてないですよね……?」

「はい、ボタンを押してませんから」



 5階のボタンは点灯していない。というより、どっちも押してないから動くわけがない。

 だけどボタンを背中で隠すように七海さんが前に立っているから、俺も押せない。



「あの、どうして?」

「どうしてだと思いますか?」

「それは……」



 本気で言っているのかわからない。

 からかっているだけではないのか。

 それを判断できない。七海さんが付けた香水の甘い匂いや、その優しそうな笑顔が、正常な判断を狂わせる。


 そして、七海さんは大きく両手を広げながら首を傾げた。



「お礼、してください」



 天然なのか、それとも狙っているのか。わからないけど、いつもの七海さんとのギャップの違いに汗が止まらない。

 全身をクモの糸で絡みとられたように体が固まり、自分の意志とは関係なく、甘い誘惑と化した糸に引き寄せられて俺の右足が一歩前に出る。

 手を伸ばせば、体を前に倒せば、七海さんの体が触れる距離で、彼女は優しく囁く。



「ここには邪魔者もいませんし、立派なお兄ちゃんの姿を見せなくてはいけない家族も、誰もいませんから。……さあ、どうぞ」



 口にした言葉一つ一つで俺の退路を断っていく七海さん。

 そして背中に風が吹いたように、俺の体が前に──七海さんへと倒れた。



「ふふっ、いい子ですね」



 左手で俺の頭を抱き、右手で俺の背中を抱く。

 七海さんの柔らかな箇所が触れ、熱を帯びた声が耳にかかる。


 ──このまま、ずっと。


 そんな風に思ってしまうほどの安らぎの中、俺は手を伸ばして5階のボタンを押す。

 ゆっくりと上がっていくエレベーター。



「陸斗くんは、意外と大きいですよね」

「俺も、高校生ですから」

「そうですね。ただ、ふふっ……なんでもないです」

「気になるんですけど」

「気にしないでください。それより、こうして二人っきりの時間は久しぶりですね」

「そう、ですね」



 2階。

 母さんや妹菜、それに柚葉さんが家にいることが増えたから、七海さんと二人っていうのは母さんが退院してから少なくなった。



「あれから、柚葉さんに変なことされてませんか?」

「別に、何もないですよ」

「本当ですか? 嘘はダメですよ?」

「何も、ないですから……」

「そうですか、良かったです」



 3階。

 横に顔があるから見えないけど、七海さんはどこか子供っぽく拗ねているようだった。



「だけど、柚葉さんばっかり家に呼んだらダメですよ?」

「えっ、まあ、はい……」

「不公平、です」



 甘い香りと囁きに誘われる。

 遠く、深く、どこか心地よい場所へと。



「だから、お礼に……その、あの」

「七海さん……?」

「だ、だから、ですね……お礼に……」



 4階。

 言葉に詰まらせる七海さんは、いつもの堂々とした感じと違ってしどろもどろだった。

 だけど、このままじゃあ俺が望んだお礼ができない。

 そう思って俺は、七海さんの肩に手を置き、引き離すと、目を見てはっきりと伝える。



「……七海さん!」

「えっ、あ、はい!」

「七海さんにはめちゃくちゃ感謝してるんです。だから言葉じゃなくて……」

 そこまで口にして、ここで言ったらダメだと自制する。



「七海さんには絶対お礼をします! だから、もう少しだけ……俺からしたいので、待っていてもらえないですか!?」



 ちゃんと言えた。そう思ったとき、チン、と音が鳴りエレベーターが5階に到着した。

 目の前の視界が輝くように扉が開くと、両肩に手を触れた七海さんの頬が真っ赤に染まっていたのに気付いた。



「す、すみません! つい……そ、それじゃあ、行きましょう」



 肩に手を触れてしまったことに反省しながら、七海さんの表情の変化に見惚れてしまった。


 俺は慌ててエレベーターを降りると、


「待っていてくださいって……それって、高校を卒業するまで、ってことよね……」


 七海さんの小さな声が聞こえた。

 だけど風が吹けば消えそうなほど小さな声は、なんて言ったかまでは俺の耳には届かない。










 ♢









 エレベーターを降りると、受付の女性に個室まで案内された。

 部屋に入るとそこには、スーツ姿の女性が椅子に座っていて、俺たちを見るなり立ち上がる。

 左耳に茶色の髪をかけたショートカット。目鼻立ちが良く、カジュアルスーツを着てるから働く女性って印象が強い。

 踵の高い靴を履いてるが身長はそこまでない。たぶん、ヒールを履いて160ちょっとぐらい。



「随分と早かったのね、七海」

「もしかして、早く来たら迷惑だった?」

「ううん、大丈夫よ。ほら、二人とも座って」



 一ノ瀬華凛さんという名前は七海さんから聞いていた。

 俺と七海さんはテーブルを挟んで一ノ瀬さんの前に座り、名刺を俺の前に置いた。



「はじめまして、宇野くん。あたしは一ノ瀬華凛、よろしくね」

「よろしくお願いします、宇野陸斗です」



 頭を下げて挨拶をすると、一ノ瀬さんは俺のことをジッと見つめる。

 なんだろう、笑顔は笑顔なんだけど、視線はどこか値踏みするような感じがする。だけど目が合うと、またにっこりとした笑顔に戻る。



「緊張してる?」

「すみません、少しだけ」

「これは面接とかじゃないからリラックスしていいのよ。少しだけ業務内容の説明をして、後は人となりを知るために世間話をするだけだから」



 さっきまで感じていた視線が消え、優しそうな笑顔を浮かべる一ノ瀬さん。

 少しだけ緊張が和らぎ、手のひらを濡らす汗が乾く。



「そうそう、そういえば聞いてると思うけど、七海とあたしは幼なじみなのよ」



 一ノ瀬さんは俺の目の前に何枚か紙を置きながら、隣に座る七海さんに視線を向ける。



「ここへ来る前に話したわ。陸斗くん、私と華凛の地元はここじゃないんですけど、ずっと一緒だったんです」

「小学校から、でしたよね?」

「そうそう、まっ、あたしと七海は腐れ縁みたいなものよ」

「ちょ、華凛。腐れ縁ってひどくない?」

「腐れ縁は腐れ縁でしょ? まさか地元から出てもこうしてあんたと顔を見合わせるとは思ってなかったわよ」



 言い合う二人を見て、俺は本当に仲がいいんだなと思った。



「それじゃあ、仕事の説明をする前に……あっ、七海は外で待っていていいわよ」

「えっ、なんで? 一緒でもいいって……」

「来るのは一緒でもいいって言ったけど、これからは仕事のお話とかがあるから、契約や秘密事項の説明とかしないといけないのよ。だから、ね?」



 にんまりとした笑みを浮かべた一ノ瀬さんに、七海さんは何か言いたげな様子だった。



「……わかった」

「ありがと。あっ、説明とか終わったら久しぶりに呑みに行きましょ。──話したいことがあるだろうし」



 その会話を聞いていて、やっぱり仲良しなんだなって。あと「この後、呑みに行こう」って、なんだか大人の会話っぽい。

 だけど、七海さんはまた何か言いたそうにしてる。



「……わかった、待ってる。陸斗くん、頑張ってね」



 七海さんは立ち上がって俺に手を振って部屋を出た。

 バタン、と扉が閉められると、

「それじゃあ、宇野くん……」

 一ノ瀬さんはテーブルに肘を突き、両手の指を絡め、その上に顎を乗せてクスッと笑みを浮かべる。

 さっきまでの優しそうな雰囲気から、どこか変わったような気がした。



「宇野くんって、学校で好きな子とかいる?」

「えっ、学校にですか?」

「そうそう。高校生ならいるわよね」



 まるで好きな子がいて当然と言わんばかりの言葉に、俺は戸惑いながら答えた。



「えっと、それってここでバイトさせてもらうことと関係あるんでしょうか……?」

「ええ、あるわ。知っての通り、これから君にしてもらう業務は二泊三日で行われる婚活パーティーを円滑に進めてもらうお手伝いよ。そんな君が、恋愛に疎いとなったら困るの」



 そうなの? と疑問に思ったけど、書店でのバイトをする際にも綾香さんに「陸斗は本は好きか?」と聞かれたことがあった。

 それと同じ感覚なのだろうか。いやもしかしたら、婚活パーティーに参加する人たちを様々な面で支援しなくちゃいけないのかもしれない。


 ──恋愛経験ある人じゃないなら今回は無かったことに。


 もしかしたらそんなことを言われるかもしれない。

 それは嫌だ。だって今回、このバイトをどうしてもしなくちゃいけない、買いたいモノがあるから。


 だけど、恋愛経験は、



「すみません、恋愛経験はないです」



 嘘は付けなかった。



「……そう」



 まただ。また勘ぐったような視線を一ノ瀬さんから感じた。



「じゃあ、好きになった人は?」

「いない、です……」

「ほんと? 宇野くんとはあたし、隠し事なしでいきたいわ」

「えっと、隠すとかではなく」

「だって高校生でしょ? あたしだって学生の頃は月毎に好きな人がコロコロ変わってたのよ」



 え、それって普通なのか?

 そう疑問に思ったけど、友達と恋愛話をしたことない俺にはわからない。

 きっと一般的な恋愛事情では、それが普通なのかもしれないけど。



「すみません、やっぱり、考えてもいなかったです」

「ふーん、そう。例えば隣の席の子とか、同じクラスの子とかは?」

「あまり話したことがなくて」

「そうなんだ。あっ、同級生じゃないなら……」



 何か思い出したように手を叩く一ノ瀬さん。

 そして俺に顔を近付けて、小さな声で聞かれた。



「学校外で知り合った、年上の女性とかは……?」



 その瞬間、なぜか俺の鼓動が大きな音を鳴らした。

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