第2話 波乱


 母さんが退院して数日が経った。

 妹菜まいなが通う幼稚園の先生である椎名七海しいなななみさんと、バイト先の大学生の美鏡柚葉みかがみゆずはさんのお陰で家事を覚え、今では、母さんが忙しい時は手伝えるようになった。


 とはいえ、母さんの体調も良くなったので、


『家事はお母さんの仕事!』


 と言われ、あまり手伝えていない。


 だけど母さんも働きたいと、今も少しの時間でも働ける仕事を探してるので、多少でも力になれるのは良かった。


 まあ、母さんの体調が完全に良くなったわけじゃないから、仕事が見つかるのはまだ先らしいけど……。


 そんなこんなで、前よりもずっと明るい家庭になったと思う。

 そんな中、なんだかんだずっと忙しくて、自分自身のこと、というよりも学校行事についてすっかり忘れていた。



「……そうか、もう夏休みなのか」



 洗濯物を畳みながら、ふと思い出す。


 今は7月中旬。

 もう少しで夏休みを迎えていた。


 とはいえ、俺にとって夏休みなんてさほど関係ない。


 なにせ、



「──えっ、りっくん、夏休み中ずっとバイトなの!?」



 ソファーに座る柚葉さんは驚くように固まっていた。



「柚葉さん、アイス垂れますよ」

「おっとっと」



 隣に座る妹菜と一緒に食べていたアイスが垂れそうなのを注意する。



「それで、ずっとバイトなの?」

「ええ、今までずっとそうでしたから」



 母さんが退院してから、柚葉さんはよく家に来るようになった。

 妹菜とは元から仲良かったけど、いつの間にか母さんとも仲良くなっていた。

 なんだか本当の姉になったような感じがする。


 まあ、俺には刺激が強すぎる姉ではあるのだけど。


 茶色の巻き髪に、ネコのように明るく人懐っこい雰囲気。

 高校生である俺でさえ綺麗な大人の女性だと思うんだから、同じ大学に通う人とかからは、めちゃくちゃモテてるんだろうな。


 ──わたし、モテるよ。


 前に自分で言っていたけど、たぶん本当だと思う。


 そんな柚葉さんが家に来て優しく接してくれる。

 それだけでも戸惑ってるのに、前なんか、通ってる看護大学の実習服であるナース服で一日中、家の中で生活していた。

 優しいんだけど、無防備というか、男子高校生には毒だ……。



「バイトかー」



 カップのアイスを木のスプーンですくい、パクッと口にふくむ柚葉さん。



「でもさ、ずっと綾香さんのとこでってわけじゃないしょ?」

「ええ、まあ」

「そういえば、今月のりっくんのシフト、ずっと休みの期間あったよね。……んっ、妹菜ちゃん、こっちのアイスも美味しいよ」

「わーい、たべるー!」



 柚葉さんは妹菜へスプーンを向けると、妹菜はパクッと口に咥え、んー、と美味しそうに笑顔を浮かべる。

 

 冴草綾香さえぐさあやかさんは、俺のバイト先である本屋の店長のことだ。


 俺のバイト先は二つある。

 綾香さんの本屋と、朝の新聞配達。

 だけど長い休みの時期とかは、それとは別のバイトをする。



「実は今年も、海の家でバイトしようと思ってるんです」

「海の家?」

「ええ。毎年お手伝いさせてもらってるところです」



 本屋だって毎日は働けない。

 柚葉さんや、他のバイトの人がいるから。

 だから俺は、学校が長い休みの間だけ、その時しかできないバイトをしている。

 去年の夏休みも、海の家でバイトしていた。



「なので、綾香さんのバイトも、夏休み期間中はあまり出られないんです」

「えー、じゃあ夏休み中はあんま会えないってこと?」



 頬を膨らませた柚葉さん。

 俺はため息混じりの声を漏らす。



「といいつつ、毎日のように家へ来てるじゃないですか」



 退院してから柚葉さんはよく家に遊びに来る。

 妹菜も柚葉さんに懐いてるから、そこに関しては問題ないんだけど……。



「ヤダ。だって別のバイトってことは、その間は会えないってことでしょ? ヤダ。絶対ヤダ!」



 子供のようにダダをこねる柚葉さん。


 柚葉さんは俺のことが好きらしい。

 らしいっていうのは、一度だけそう言われただけで、それから何も言ってこないから。

 だから、らしい、なのだ。


 年上の綺麗なお姉さんに好かれるのは嬉しい。


 だけど俺は、その答えが出せない。

 だって相手が柚葉さんだから。綺麗だから。俺は返事というか答えが出せない。


 それに柚葉さんも答えを求めてるわけではなく、こうして家へ遊びに来て、妹菜の面倒や家事の手伝いをしてくれるだけだ。



「別に、海の家にずっといるわけではないので」

「そうだけどさ……」



 悲しそうな表情をする柚葉さん。

 何か言いたげな様子だけど、急に首を左右に振って、ソファーから下りる。



「そうだね、仕方ない。お姉さんは応援する! 頑張ってね、りっくん」

「え、はい」

「はい!」



 柚葉さんは一口サイズのアイスが乗ったスプーンをこちらに向ける。



「え」

「頑張れのアイス。はい、あーん」



 屈託のない笑顔を向けられ、そのアイスを口にする。



「美味しい?」

「美味しい、です……はい」

「ふふっ、間接キスね」

「──ッ!」



 自分の唇を指で撫でながら、柚葉の頬が微かに赤く染まる。

 なぜそういうことを、サラッと言うのか。



「チュッチューッ! チュッチュ、チュッチュー!」



 妹菜はソファーの上で楽しそうに飛び跳ねる。

 そして、柚葉さんは妹菜へ、



「うんうん、間接キスだよ!」

「ちょ、間接キスって……。別に柚葉さんと、その、間接キスだから照れてるわけじゃ」



 柚葉さんとの間接キスに照れていると、柚葉さんは口元に手を当て、



「あれ、あれれ、妹菜ちゃんと間接キスして、なんで照れてるのー?」



 ぷすぷすと笑い出した。



「え?」



 思い出してみると、たしかに、俺がアイスを口にする前に食べてたのは妹菜だ。

 それがわかった瞬間、顔が真っ赤に染まるのを自覚する。



「ち、ちがっ、別にこれは」

「あら、もしかして、わたしと間接キスだと思ってかな……?」

「そんなわけ!」

「んー?」



 四つん這いになりながらこちらへ這い寄ってくる柚葉さん。

 着ているTシャツがだるんと垂れ、俺の目にはTシャツの中がはっきりと見えた。



「──赤!?」



 なぜ、そんな派手な下着を。

 そしてつい、思ったことを口に出してしまった。



「赤? あ、りっくん……」



 柚葉さんは言葉の意味に気付いて、ニヤリとする。



「見た?」

「見てません! 何も見てません!」

「ウソ。見たでしょ、お姉さんのブラ」

「──ッ!」



 ゆっくりとこちらへ近付いてくる柚葉さん。


 だるんと垂れるTシャツを手で抑えることなく、右に左に、たゆんとしたそれが揺れてるのがはっきりと目に入る。



「いいよ、りっくん。ガン見しても」

「しませんから!」

「そう言いつつ、目を逸らさないのはどうしてかなー?」



 たしかに視線を背けない。

 ただ揺れてるだけなのに、魅力的な誘惑が目の前にある。

 俺の視線は、柚葉が動けば揺れる胸に釘付けになってる。


 マズい。マズいマズい。


 背中に感じる汗を感じ。勝手に溢れ出る唾を飲む。そして、柚葉さんの手が、俺の太股の上に──。


 ──プルル!


 だがその瞬間、家の固定電話が音を鳴らした。



「あっ、電話だ!」



 母さんが出掛けてるので、俺は急いで固定電話へと向かった。



「ちぇ、あとちょっとだったのにー! 電話のバカー!」



 柚葉さんの叫びが聞こえるのを無視して、俺は受話器を上げた。



「もしもし、宇野です」

『もしもし、陸斗くん? いつもバイトしてくれてる、海の家のオーナーの田中です』

「あっ、田中さん。お世話になってます!」



 それはさっき話に出てきた海の家のオーナーさんだった。


 どうしたんだろ?


 そう思っていると、



『実は、すまない。今回は海の家でのバイト、君に頼めなくなってしまったんだ』

「頼めなくって……」



 申し訳なさそうにする田中さんに、謝られてしまった。

 


「それって、今年はバイトできないってことですか?」

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