第31話 母親の願い 2


「お二人は……?」



 陸斗の母親、宇野佐代子は軽くお辞儀をした。


 三十代後半の年齢だが、見た目はそれよりも若く感じる。

 肩幅まで伸びた黒髪。薄くではあるが化粧もされていて、顔色が悪いわけではない。

 そんな佐代子を見て、容態が悪くなくて良かったと二人は安堵する。

 そして、佐代子は七海を見て、



「あっ、椎名先生。娘がお世話になっております」



 深々とお辞儀をした。

 七海も頭を下げる。



「お久しぶりです、宇野さん」

「はい。それで今日は……もしかして、妹菜に何か?」



 娘が事故にでもあったのではないか、そう不安に思ったのだろう。佐代子は驚いたように目を見開く。

 それを七海は首を左右に振って否定する。



「いえ、妹菜ちゃんは元気です。安心してください」

「そう、ですか。では、どうして……? それにこちらの方は?」



 佐代子は柚葉に視線を向ける。

 二人は置いてあった椅子に座った。

 上半身を起こす佐代子に、柚葉は挨拶をする。



「わたしはりっく……陸斗くんと一緒の本屋さんでバイトしてる、美鏡柚葉と申します」

「あっ、バイト先の方でしたか。いつも陸斗がお世話になっております」

「い、いえ、こちらこそ」



 佐代子は、今度は柚葉に向けて頭を下げた。

 それを受けて、柚葉も慌てて頭を下げる。



「それで、椎名先生と美鏡さんが、どうしてここへ……? もしかして、陸斗に何かあったのですか?」



 再び慌てた様子の佐代子に、柚葉は慌てて否定する。



「いえ、違います!」



 つい声が大きくなってしまい、七海が静かにと目配せする。


 大声を出してしまったのは、母親が子供のことを本気で心配してるのがわかったからだった。

 このまま理由を伝えず話していれば、彼女を余計に不安にさせてしまうと思い、七海は本題へと移った。



「実は、お話ししたいことがあるんです」



 そして、七海と柚葉は佐代子に伝えた。


 ──佐代子が退院するまでの間、二人で陸斗と妹菜の面倒を見ること。


 もちろん、七海が伝えると「そんな迷惑はかけられない」と佐代子は拒んだ。当然だ。他人に子供の面倒をお願いするわけにはいかない。

 けれど七海は、陸斗と妹菜の今現在の状況を説明した。それは少しだけ重く、深刻に、二人の為を思って伝えた。

 でなければ断られるのはわかっていたから。

 少し話しただけでも人の良さそうな──母親でありたいと願う佐代子が、すぐに納得するわけない。



「今は二人でなんとかなってます。ですがこのままでは、まだ子供である二人の為になりません。なので、私たちで二人のお手伝いをしようと思ってるんです」



 すると、佐代子は悲しそうに何度か頷いた。



「……そう、ですよね。陸斗と妹菜に、迷惑をかけてしまってますよね」



 決して七海は佐代子を責めたいわけではない。

 彼女だって、好きで入院してるわけでないことも、誰にも頼れない家庭の、親族との難しい事情があるのも知ってる。

 それでもここへ来たのは、七海も柚葉も覚悟を決めてのことだった。

 本心かどうかわからなくとも、佐代子に拒ばれ「はい、そうですか」と簡単には帰れない。

 陸斗と妹菜の為。少しだけ邪な感情も込められてはいるが、少しでも二人の為になりたいと七海も柚葉も思っている。


 だから敢えて、申し訳ないと思いながらも状況を少しだけ悪く伝えた。

 子供二人で一週間も生活するのは簡単ではない。ましてや幼稚園児と高校生で、バイトしながらなど難しいことだと、現実を突きつけた。



「陸斗くんはしっかりした子です。それでもできないこともあります。それを言えない、助けてと求められない性格なのを、佐代子さんも理解してますよね?」

「……はい」

「私たちは陸斗くんと妹菜ちゃんの支えになりたいと思って、ここへ来たんです。お母さんである佐代子さんに、私たちに任せてもらう許可が欲しかったのです」

「……」



 他人である七海や柚葉にお願いすることは心苦しいだろう。

 なにより「子供の面倒が見れないので、自分がいない間はお二人に子供たちをお願いします」と、そう言ってるのと変わらない。

 子供を幸せにできない母親だと、痛感させることになってしまう。


 その許可を下すのが、どれほど母親として酷なことをお願いしてるのかも理解してる。



「……陸斗と、妹菜を」



 そこまで口にして、佐代子は口を閉じた。

 きっとまだ、少しばかりの葛藤が残ってるのだろう。

 子供たちを幸せにできる、するんだと、母親となった時から彼女は決めていたのだろう。

 その気持ちを一度でも覆し、意志が揺らげば、彼女は母親ではなくなってしまうのではないか、そう心配に思ってるのではないだろうか。


 七海は今まで母親になったことも、母親としての覚悟や自覚なんてものを考えたこともない。だけど悲しそうに俯く佐代子を見て、気付いたら彼女の手を握っていた。



「……佐代子さん。母親として、子供たちにどうなってほしいのか、それを考えてください。私たちが手助けしても、陸斗くんと妹菜ちゃんのお母さんは、あなたですから」

「椎名さん……」

「今は、今だけは、私たちもお手伝いします。陸斗くんと、妹菜ちゃんの幸せの為にも」



 そして、柚葉も大きく頷いた。



「陸斗くんが頑張ってる姿を見て、わたしたちは二人のお手伝いをしたいと思ったんです。だから退院するまでの間だけでも、お手伝いさせてください」



 七海と柚葉の言葉を受け、佐代子は小さく頭を下げた。



「……ごめん、なさい」



 弱々しい声だった。

 けれど握っていた七海の手を、佐代子は力強く握り返した。


 無力な自分でごめんなさい。

 不甲斐ない母親でごめんなさい。


 きっと、そんな気持ちを込めた謝罪だったのだろう。



「大丈夫です。佐代子さんが戻ってきたときの為に、二人が元気な姿でおかえりを言えるように、私たちがお手伝いしますから」

「そうです。わたしたちに頼ってください!」

「お二人とも、ありがとうございます……」



 深々と頭を下げる佐代子。

 その表情は涙を流していたが、どこか背負っていた重荷が取れたような、そんな安心した笑顔だった。










 ♦






 宇野佐代子はこれまで、誰にも頼らず、女手一つで子供たちを育ててきた。

 けれどいつからか、それは使命感のように彼女自身を苦しめていた。

 夫を亡くし、親戚にも頼れず、たった一人で頑張ってきた。


 母親として子供たちを立派に育てたかったのか?

 辛く当たる周囲に、自分一人でもちゃんと子育てできるんだと意地を張っていたのか?


 それはわからない。

 ただ結果的に、頑張ってきた彼女は体を壊してしまった。

 誰にも頼れないのに、頑張らないといけないのに。


 そんな母親を見て、息子である陸斗は大人になった。母親の分まで自分が。もしかしたら、母親として意地を貫き無理していたのを、息子は見抜いていたのかもしれない。


 余計に気を使わせてしまった。

 だとしたら、七海と柚葉が来てくれたこの時が、転換期なのかもしれない。

 誰にも頼れなかった日常から、誰かに頼れる日常へ。


 それが立派な母親の姿でなくても、子供たちには立派に育ってほしい。

 佐代子が母親となったとき心に決めた、絶対に忘れてはいけない想い。


 だから佐代子は、七海と柚葉の手を握った。

 母親としての意地やプライドよりも、子供たちの幸せを願って。










 ♦











 



「それにしても、どうしてお二人が子供たちの面倒を見ようと?」



 あれから少し経ち、少しだけ打ち解けた雰囲気の中。

 佐代子は二人と世間話をしていたときに感じていた疑問をぶつけた。


 椎名七海は娘が通う幼稚園の先生。

 美鏡柚葉は息子が働くバイト先の同僚。


 そこまで親しい間柄ではない二人がなぜ、家に泊まってまで子供たちの面倒を見ようと思ったのか、それが不思議で仕方なかった。



「えっと、妹菜ちゃんが心配なので……」

「りっくんから、妹菜ちゃんのこと聞いて大変そうだったので……」



 すると二人は妹菜が心配だからと、視線をキョロキョロさせながら答えた。

 それだけの理由で……?

 というより、七海はわかるが柚葉は本当の理由なのか?

 彼女が手伝う理由があるとすれば、



「そうだったのですか。てっきり、陸斗の恋人なのかと思いました」



 それしか考えられなかった。

 だが言ってから気付く。高校生と大人、付き合うとかはないだろうと。

 だから笑いながら伝え、「まさかね」と付け加えようと思っていたら、柚葉は──というよりも二人とも、予想以上に驚いていた。



「ど、どうして、そう思ったんですか?」

「そう、ですよ」



 逆に佐代子が驚いてしまう。

 その反応が、どこか図星のような気がして。



「えっと、椎名さんは妹菜の通う幼稚園の先生で、美鏡さんは陸斗のバイト先の人だから、なんでここまで優しくしてくれるのかなーと。それで、もしかしたら陸斗の恋人だったりするのかなーとか……」



 佐代子は笑いながら「でも、まさかね」と、



「まだ高校生だし、それはないですよね」



 と伝えるが、二人から「違いますよ」と否定する言葉が返ってこない。それどころか、七海は顔を赤くさせ、柚葉は視線をキョロキョロさせる。

 明らかに──図星だ。

 そして、佐代子が冗談だと伝えられずにいると、



「──お母さん!」

「はい!?」



 柚葉が佐代子の目をジッと見つめて呼んでくる。

 唐突なお母さん呼びに、息子を貰いに来ましたと言われるのではないか、そう思ってしまった。

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