第30話 母親の願い 1
肩甲骨辺りだろうか。
そこに柔らかいアレが押し当てられてる。
妹菜の気持ちよさそうにぐーすか寝ている姿を見て、声を抑えて柚葉さんに伝える。
「な、なにを、してるんですか……?」
「ん? ぎゅーって」
柚葉さんは耳元で囁く。
悪魔のような、天使のような。
いや、今の状況だと悪魔に近いかもしれない。
そしてこの状況の中、七海さんは無言のまま、俺を見つめていた。
指を絡めた手を離し、俺の手の平に指先で何か文字を書く。
──うわきはダメよ?
そう書いてるのか、それとも、そう伝えてるように俺が思ってるだけなのか、それはわからない。
ただ、七海さんはクスッと笑みを浮かべたまま、何も言ってこない。
「ねえ、りっくん。こっち見て?」
柚葉さんに後ろから囁かれる。
──もっと見ていいですよ。
七海さんに指先から伝えられ、吸い込まれるような瞳で見つめられる。
「妹菜が、寝てるんで、その……」
「りっくんが静かにしてたら大丈夫だよ。声、我慢できる?」
柚葉さんの右手が少しずつ、這うように俺の体を触ってくる。
布団の中から太股を触られ、その手が少しずつ上へ上へと進んでくる。
太股辺りに大量の汗。俺の汗なのか、柚葉さんの手の汗なのか、それはわからない。
ただ、はっきりと体温が感じられるのは確かだ。
これ以上はマズい。
そう思ったときだった。
七海さんの視線が、柚葉さんの忍び寄る手へと向けられた。
「──柚葉さん、それ以上はダメですよ?」
笑顔のまま、小さな声で言った。
その瞬間、柚葉さんの手が止まる。
「……残念」
ため息混じりに、柚葉さんは俺の背中に抱き付いていた姿勢から仰向けになり、天井を見つめる。
「もう少しで、りっくんを暴走させられると思ったのに」
「約束は約束です」
そして、七海さんも仰向けになり目を閉じる。
約束ってなんだ?
そんな疑問を持ったが、なんとか二人からの視線と誘惑から堪えることができた。
……少し、寂しい気持ちもあるけど。
そう思ってしまった瞬間、俺は声を発さず身悶える。
それじゃあまるで、このまま身を任せても良かった、むしろ任せたかったと思ってるみたいじゃないか。
俺は目蓋を力強く閉じる。
綺麗なお姉さん二人に挟まれたまま、払えない邪念を抱え。
「りっくん、アメとムチって言葉、知ってる……?」
妹菜の寝息しか聞こえない部屋で、柚葉さんの声が聞こえた。
「まあ、はい」
「昼間は厳しく家事を教えて、夜はたっぷり甘えさせる」
「え?」
「これも甘えさせ方の一つかもしれないね」
「それって」
「ふふっ……。もし辛くなったなら、夜なら甘えていいからね、お姉さんに……」
柚葉さんはそれだけを俺に伝え、静かに目を閉じる。
それに七海さんが、クスッと笑ったように感じた。
♦
──次の日から、俺の生活は大きく変化していった。
「陸斗くん、朝食を作って待ってます。いってらっしゃい」
「りっくん頑張ってね。朝ご飯作って待ってるから」
「ありがとうございます。じゃあ、いってきます」
朝焼け空の下。
二人の年上お姉さんに見送られながら、新聞配達へ向かう俺。
これが普通ではないのは理解している。
だけど母さんが入院してから「いってきます」も言わず、「いってらっしゃい」も言われず、一人で玄関を開けるいつもの光景よりも気持ちは晴れていた。
そして家へ帰ると、
「おかえりなさい、陸斗くん。朝ご飯できてますよ」
「おかえり、りっくん。朝ご飯一緒に食べよー」
「おかえりー!」
七海さん、柚葉さん、妹菜が出迎えてくれた。
キッチンからはいい匂いがする。
妹菜に手を握られ、
「おにいちゃん、おてて、あらいにいこっ!」
普段なら俺が帰ってきてから起きる妹菜。
きっと、七海さんか柚葉さんが起こしてくれたのだろう。
俺は妹菜に手を握られながら洗面所へ向かう。
「まいなも、てつだったの!」
「手伝った? もしかして、朝ご飯二人と一緒に作ったの?」
手を洗いながら聞くと、妹菜はにっこりとした笑顔を浮かべながら頷いた。
「うん! しいなせんせーと、ゆずはおねえちゃんと、いっしょ!」
「そっかそっか、偉いね」
頭を撫でると、妹菜は「えへへー」とはにかむ。
それから四人で朝食を。
二人と妹菜が手伝って作った料理は美味しかった。というよりも、料理のほとんどは七海さんが作ってくれたらしい。
「それじゃあ、私は先に幼稚園に行きますので」
妹菜を幼稚園へと連れていく一時間前ぐらいに、七海さんは一人で幼稚園へと出勤した。
柚葉さんが「一緒に行けばいいのに」と言っていたが、
──二人で出勤したら、色々と噂が立ちますよ?
という理由で別々らしい。
それに関しては賛成、というよりも、七海さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
それから少しして、
「それじゃあ柚葉さん、俺たちもそろそろ」
「はーい、それじゃあ妹菜ちゃん、行こっか」
「うん!」
妹菜の手を繋いだ柚葉さんと、一緒に家を出る。
普段通りの朝なのに、どこか気持ちは晴れやかで、どこか落ち着く。
誰かと一緒にいるからなのか、それとも、一人で何もかも抱えて生活していないからなのか。それはわからない。
「りっくん、帰ったらまた一緒に料理するよ! 今日はわたしも頑張るから!」
「え、柚葉さんもですか?」
「なによ、その「柚葉さんは料理できないでしょ」みたいな顔は」
「別にそんなこと言ってませんけど……」
「ふふん、見てなさい。わたしだってやればできるんだから」
柚葉さんは妹菜に「ねえ」と笑顔を向ける。
「俺も、頑張らないと」
それからの数日間は充実した──というよりも、自分の中で成長できる日々だった。
昼間は二人から厳しく家事を教えてもらう。
掃除、洗濯、料理。他にも学校の宿題なんかも。
妹菜も何かしたいと、自分から進んで洗濯物の畳み方を覚えていた。
俺も料理を覚え、今では簡単なものなら一人で作れるようになった。
──アメとムチ。
柚葉さんが言っていた。
その言葉通りで、七海さんも柚葉さんも、昼間は厳しいけど夜は優しいお姉さんだった。
とはいえ、それが男としての俺の精神状態に良くないのは確かだ。けれど、二人のその優しさがある意味でのご褒美ともなって、毎日を頑張れたのは言うまでもない。
まあ、優しさというよりも誘惑に近くて、毎日の夜は葛藤の連続で、どう堪えるのか心配だったけど。
それでも少しは成長できた日々だと思う。
──そして、遂にこの日が訪れた。
「それじゃあ、いってきます」
俺は七海さんと柚葉さんと妹菜に見送られながら、玄関へ向かう。
「気をつけて。ご馳走を作って待ってますから」
「わたしの自信作に期待しててねー」
「すみません、よろしくお願いします」
「おにいちゃん、がんばって!」
「あはは、何に頑張るのかな……」
七海さんと柚葉さんが泊まってくれてから5日ぐらいが経ち、やっと、母さんの退院の日を迎えた。
二人は退院パーティーを開くと朝からご機嫌だ。
そんな二人に「母さんには隠したいので帰ってください」なんて言えず、というよりも、こうして成長できたのは二人のお陰だから言いたくない。
だから母さんには、ちゃんと二人のことを紹介しようと思ってる。
「それじゃあ」
玄関の扉を開いて家を出る。
二人と妹に見送られながら、母さんを迎えに。
♦
「行きましたね」
「だね」
「さて、私たちも頑張りましょうか」
「そうだね。りっくんママに、約束を守ってちゃんと頑張ったこと証明したいしね」
「そうですね。でも、陸斗くんのお母さんの前で暴走しないでくださいよ?」
「んー、たぶん」
「たぶんって……まあ、いいですけど」
「ん? ふたりとも、なんのおはなし?」
不思議そうに首を傾げる妹菜を見て、七海と柚葉はにっこりと微笑む。
「「ヒミツ」」
陸斗の母親と、あの日に交わした約束のことを、二人は妹菜にも陸斗にも秘密にしていた。
♦
時は遡ること、七海と柚葉が結託した日まで戻る。
「柚葉さん、本当に会いに行くのですか?」
「もちろん。これからりっくんのお家に泊めてもらうんだから、許可は必要でしょ」
二人は大型病院に訪れていた。
面会受付を済ませた二人は、ベンチに座り正反対な表情だった。
七海は不安そうに。
柚葉はどこか明るい。
そして二人は受付で、とある女性が入院している部屋番号を聞くと、そこへ向かった。
「急に面会したりして、迷惑じゃないでしょうか……。それに、陸斗くんに相談もしないで」
「まあ、大丈夫でしょ。それにりっくんには後で説明すれば問題ないし」
「はあ……どうして柚葉さんは、そう楽観視できるのですか?」
コツコツと長い廊下を歩きながら、柚葉は後ろを歩く七海に伝える。
「別に楽観視してないけど。ただ、りっくんのお母さんにはいずれ挨拶したいなって思ってたから」
「挨拶……何か嫌な予感しかしないのですが」
「気のせい気のせい……っと、ここだ」
柚葉は部屋の前で足を止める。
扉の隣には、この部屋で入院してる四人の名前が記されていた。
「宇野佐代子さん、だね」
「ええ、そうみたいですね。……いいですか、変なことは言わないでくださいね?」
「もう、それじゃあまるで、わたしが変人みたいじゃない」
「そうは言ってませんが。まあ、これから退院日まで家に泊まらせてもらうのですから、挨拶するのが礼儀ですしね」
「そうそう」
「泊まるのもどうかと思いますが……」
「まあ、細かいことは気にしない気にしない。それじゃあ」
柚葉は扉をノックする。
コンコン。そして扉を開くと、部屋の中は妙に静かな雰囲気があった。
「「失礼します」」
同部屋の入院者は部屋の中にはおらず、二人はベッドの上で、窓の外を眺める女性に視線を向けた。
彼女だ。
二人は、陸斗が見せる優しい笑顔と似た笑顔をこちらへ向けてくれる女性を見て確信した。
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