第26話 魅惑的な同棲生活 1


 病院の匂いが嫌いだ。

 そんなの感じないという人もいるかもしれないけど、匂いが、というよりも空気が嫌いだ。


 ここに来るといつも憂鬱になる。


 学校が終わって夕暮れ時。

 そんな時間でも、この大型病院には多くの人がいる。

 通院や入院する患者。それを見舞う人々。

 そして俺は、病院へ母さんのお見舞いに来ていた。



「退院、できるの……?」



 だけど今日は、病院の空気は良かった。



「ええ、検査入院だったから、予定通りに退院できるみたいなの」



 病室のベッドに座る母さんは、笑顔でそう言った。

 検査入院だったから、それで問題が起きなかったということなんだろう。



「良かった……ほんと、良かったね、母さん」

「陸斗、迷惑かけてごめんなさい」

「いやいや、別に迷惑なんてなかったよ。妹菜も元気だから」



 嫌な予感があったから、俺は妹菜をここへ連れて来なかった。

 経験から、なのだろうか。

 ただ、もしも退院が難しいとなったら、きっと妹菜は泣いてしまうと思った。


 だけど結果は違った。

 こんなことなら、二人で来れば良かったかな。



「バイトは大丈夫?」

「ああ、平気だよ。とはいっても、本屋のバイトは休ませてもらってるけどね」

「そう。家事とかは……?」

「え……」

「陸斗はお料理できる子だから、お母さん、心配してなかったんだけど。お掃除とか洗濯とか大丈夫?」

「あー、うん。大丈夫」



 実際のところ、七海さんと柚葉さんが、俺が家事全般ができないことを知って、昨日と一昨日は手伝ってくれた。

 なので俺はまだ、一人で全てをできたことはない。


 だから、大丈夫か? と聞かれて返事に困ってしまった。



「陸斗……?」



 俺の心の中を読んだかのように、母さんは不思議そうにしていた。



「大丈夫だって。問題ないから」

「そう? だけどもし無理だったらしなくていいのよ。お洗濯とか、まとめて置いてくれれば、お母さんが退院したらするから」

「いや、退院したからってあんまり無茶させられないよ。というより、大丈夫だから」

「……そっか。さすがお兄ちゃんだね」



 母さんは笑顔でそう言った。

 その笑顔を見てると少し苦しくなる。なにせ俺一人の力で乗り切ってるわけじゃないから。

 七海さんと柚葉さんが、助けてくれたから。

 それを口に出せないのは、きっと、見栄を張りたい自分がいるのだろう。



「まあね」



 俺は小さな返事をした。

 すると、母さんは手を叩く。



「そうそう、お母さんね、退院したらお仕事しようと思ってるの」

「えっ? 大丈夫なの……?」

「ええ、症状は少しずつだけど良くなってるって。前みたいに働いてたらすぐ倒れるようなことはないって」

「そっ、かぁ……」

「だから、今までみたいに陸斗ばかり頑張らせたりしないから安心して」

「うん……」



 嬉しいことなのに、どこか心配になる。

 無理してほしくない。だけど母さんが大丈夫だって言うなら、それを信じるしかないのかな。



「だけど母さん、無理はしないでね?」

「うん、わかってる。だけどお母さんも、陸斗にばかり甘えていられないもの」



 そう言った母さんは、悲しげな表情で俯いた。



「本当なら……」

「母さん?」



 悲しげな声を漏らした母さんに声をかけると、すぐに首を左右に振る。



「ううん、なんでもないの。だから退院するまで、妹菜のこと、それにお家のことお願いね」

「ああ、任せてよ」



 俺はそう答えて立ち上がる。



「それじゃあ、妹菜のお迎えがあるから」

「ええ、お見舞い、ありがとうね」

「うん。じゃあね」



 病室を出ようとしたとき、



「……お二人にもよろしくね」



 母さんが小さな声を発した。



「ん、なんか言った?」

「いえ、なんでもないの。気をつけてね」

「うん、わかったよ。母さんも休んで」



 母さんはにっこりとした笑顔で手を振る。











 ♦











 ──どうしてこうなった?



「おにいちゃん、おかえりー!」



 家へ帰ってくるなり、妹菜が玄関まで走ってくる。

 子供用のエプロンを付けた妹菜は、とてもご機嫌で、楽しそうな笑顔だった。



 ──だけど、おかしいんだ。


 だっていつも、俺が幼稚園へ迎えに行って一緒に帰ってくるのに、妹菜は既に、俺の家にいたんだ。

 こんなの今まで初めてだ。


 妹菜が一人で家に帰ってきた?

 それはない。今までなかったし、それこそ、危ないと思って七海さんが止めてくれるはず。


 じゃあ、誰かと帰って来た?

 俺はそう思って玄関に置かれた二足の靴を見た。


 動きやすいスニーカーが一足。

 踵の高い靴が一足。


 どちらも家には置いてなかった女性用の靴。そして、この二足に見覚えがあった。



「おかえりなさい、陸斗くん」

「あー、おかえり、りっくん!」



 その二足の靴の主は、玄関で突っ立っていた俺へ笑顔を向けた。


 ──いつからここは、綺麗な二人のお姉さんが出迎えてくれる華々しい家に変わった?



「……七海さん、柚葉さん。どうして、ここに?」

「実は二人で話したんです」



 七海さんは柚葉さんと目を合わせてから頷いた。



「お母さんが退院するまで、陸斗くんの迷惑にならないよう、妹菜ちゃんと陸斗くんのことをお世話しようと」

「お世話……?」

「そう、お世話。お泊まりしてね」



 大学生のノリみたいな、とても明るく華やかな二人の笑顔と、これをお泊まり会と勘違いしてる妹菜の笑顔。



「お泊まりって……その、ここで泊まるってことですか!?」

「はい。陸斗くんと妹菜ちゃんのお世話がしたいと思ってます」

「お、お世話って……い、いつまで、ですか!?」

「んー、それは決めてないよ。ただお母さんが検査入院から帰ってくるまでかな」

「なんで……」

「陸斗くんが心配だからです」

「そうそう、七海さんと二人で頑張るから」

「まいなもがんばるー!」



 ──すぐに理解した。

 母さんが退院するまで、二人は泊まり込みで俺と妹菜を面倒してくれようとしてることを。

 そして、これから俺に待ってるのは、二人からの魅力的な誘惑の日々ということを……。

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