第24話 年上の女性として


「それじゃあ、そろそろ寝よっか」

「はーい!」



 妹菜に手を握られた柚葉さんは、笑顔のまま寝室へと向かう。

 そんな二人の後ろ姿を見つめる俺は、まだ動揺していた。


 ──私の中で宇野陸斗は、この世界でたった一人の、大切な大人の男性だから。


 その言葉が意味することは、きっと、俺が想像してることで間違いないと思う。

 からかう言葉ではなく、真剣な、心からの言葉。


 それも俺のことを子供扱いしないで、大人として見てくれた。


 少し嬉しい。

 嬉しいけど、どうすればいいかわからない。

 そんな、どこかふわふわした気持ちにいると、



「りっくんは、一緒に寝ないの?」



 振り返った柚葉さんに聞かれる。



「一人で……寝ます」



 この状況で一緒に寝たら、また寝られなくなりそうな気がした。

 明日は朝から新聞配達がある。それに月曜だから学校も。今日は寝ないと……。


 

「そっか。それじゃあ、また明日。朝はお見送りするから」



 柚葉さんはそう言ってくれた。



「いこっか、妹菜ちゃん」

「……」



 だけど、さっきまで笑顔だった妹菜は急に俯き、無言のまま俺の手を握った。



「いっしょ」

「え?」

「いっしょがいい……おにいちゃんと、おねえちゃんと」



 その妹菜の表情はどこか甘えたがっているような感じに見えた。

 俺は柚葉さんに視線を向ける。



「たぶん、寂しいんだと思うよ」

「……妹菜」



 子供の気持ちはコロコロ変わる。

 明るかったと思ったら、急に暗くなる。

 同じ子供である俺が言うのもなんだけど、それでも、妹菜はきっとそうなんだと思う。



「わかった。一緒に寝ようか」



 頭を撫でると、妹菜は大きく頷く。



「うん! あのねあのね、おにいちゃんにまた、えほんよんでほしいの!」

「いいよ。何がいい?」



 いつも夜になると読み聞かせしてた絵本のことを言ってるのだろう。

 寝室に来ると、妹菜は両手に絵本を持って、それを俺に渡した。


「ようちえんから、かりてきたのっ!」



 それは幼児向けの絵本。

 絵が描いてあって、少ない文字が1ページ1ページ載ってる。



「よんで!」

「わかったよ、じゃあ」

「あっ、りっくん、私が読んであげる」



 柚葉さんは妹菜と目線を合わせるようにしゃがむと、



「妹菜ちゃん、お姉ちゃんが読んでもいい?」



 そう聞いた。

 それを妹菜は大きく頷く。



「うん、ゆずはおねえちゃん、よんで!」

「良かった良かった。それじゃあ、部屋の電気を消して……」



 川の字のように俺たちは横になると、柚葉さんはスマートフォンを操作して、上向きにライトを付けた。

 真っ暗な部屋を、天井に向かって輝く一点の光。

 そして、柚葉さんはスマートフォンの近くで絵本を開く。


 優しい声が部屋に流れる。

 どこか子守歌のような囁く声が、耳にスッと入ってくる。

 目を閉じると、絵本の景色が頭の中で映る。


 誰かに絵本を読まれながら眠るのは、いつ以来だろうか?

 いや、きっと今までなかったかもしれない。

 俺がいつも、妹菜が眠るまで読み聞かせてたから。

 母さんにお願いすることもなかった。


 ──そして気付くと、俺は柚葉さんの優しい声に包まれながら、夢の中へ誘われていた。










 ♦









 ──次の日。



「おかえりなさい、りっくん」

「ただいま、です……柚葉さん」



 時刻は6時を少し過ぎたころ。

 新聞配達から帰ってくると、エプロン姿の柚葉さんに出迎えられた。



「どうしたの?」

「いえ、なんかただいまって言うの緊張して」

「ふふ、ここはりっくんのお家なのに」



 オシャレポイントだと言っていた巻き髪は、綺麗な茶色の糸のように真っ直ぐ伸びる。

 どこかいつもの柚葉さんじゃないみたいな、印象が全く違って見える。



「ご飯の用意できてるから。妹菜ちゃんも、もう起きてるよ」

「えっ、もう起きてるんですか?」

「うん……というより、起こしちゃった」



 苦笑いを浮かべる柚葉さん。

 すると、バタバタと足音を慣らしながら走ってきた妹菜は、柚葉さんの後ろから顔を出す。



「おかえり、おにいちゃん!」

「ただいま。もう起きてたのか?」

「うん! ゆずはおねえちゃんがたのしそうだったから!」

「楽しそう……?」

「えっと……その……」



 どこかばつの悪そうな表情をする柚葉さん。

 そして、妹菜に手を引かれてリビングへ向かうと、



「あっ、りっくん待って」



 慌てた様子で柚葉さんが止めようとする。

 既にテーブルの上には料理が置かれていた。



「これ……」

「えっと、その……」



 お世辞にも綺麗に作られたとは言えない料理を見て、柚葉さんは申し訳なさそうに髪を撫でる。



「……失敗、しちゃった」

「そう、なんですか」

「おにいちゃん、おにいちゃん」



 柚葉さんの暗い表情とは対照的に、妹菜はどこか嬉しそうだった。



「まいな、おてつだいしたの!」



 褒めてと言わんばかりの表情。

 それを見て、俺は頭を撫でる。



「偉いぞ、妹菜」

「えへへ」

「柚葉さんも、ありがとうございます」

「でも、失敗して……」

「それでもです。というより」



 俺が笑顔を浮かべると、柚葉さんは頬を膨らませる。



「も、もう、笑わないでよ」

「違うんです。ただ、柚葉さんにも不得意なことあるんだなって」

「別に、いつもは失敗しないもん。今日は、その……」

「そうですね。今日はたまたまですもんね」

「もう! そうやってバカにして……」



 そして、柚葉さんはお辞儀をするように頭を下げる。



「……褒めて」

「え?」

「妹菜ちゃんばっか、ズルい……」

「えっと……」

「褒めて」



 言われるがままに、頭を下げた柚葉さんの頭を撫でると、



「えへへ……嬉しい」



 その反応は猫のようで可愛い。

 そう思うと急に恥ずかしくなってしまい、俺は慌ててキッチンへ向かう。



「手、洗わないと」

「もう、妹菜ちゃんより短い! もっと!」

「別に長さなんて」

「関係あるの。ほら、もっと!」



 そんなことを繰り返しながら、俺たちは柚葉さんと妹菜の作ってくれた朝ご飯を食べ始める。


 ──そして食事が終わり、学校へ向かおうとしたとき。


 私服に着替えた柚葉さんは、



「妹菜ちゃんの幼稚園へのお見送り、私がしていい?」

「え、柚葉さんがですか?」

「うん」



 柚葉さんは頷いた。

 それは七海さんのいる幼稚園に、柚葉さんが妹菜と一緒に行くということを意味してる。

 柚葉さんはいつになく真剣な表情で言葉を続けた。



「あの七海さんって人と話がしたいの」

「七海さんと、ですか……?」

「うん、話さないといけないことがあるの。だからお願い。迷惑はかけないから」

「何の話を……?」

「……秘密。迷惑かけないから、お願い」


 

 少し心配になったけど、柚葉さんは、その理由を答えてくれなさそうだった。

 妹菜を見ると、にっこりとした表情を浮かべていた。



「……わかりました。でも、柚葉さんは迷惑とかじゃないですか?」

「大丈夫だよ」



 その言葉を聞いて、妹菜を柚葉さんに任せて俺は学校へと向かった。










 ♦











「しいなせんせー!」

「おはようございます、妹菜ちゃん……それと」



 いつもと変わらぬ清楚な雰囲気のある七海を見て、柚葉はお辞儀をする。



「おはようございます、七海さん」

「おはようございます、柚葉さん」

「少しだけ、お時間いいですか……?」

「……仕事があるので、少しだけなら」



 七海の表情から笑顔が消えたように見えたのは、おそらく柚葉の勘違いではないだろう。

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