第23話 病室でナースは…… 3


「な、なんのこと、ですか……?」

「ナニかな? お姉さん、わかんない」



 嘘だ、柚葉さんが笑っているのは声でわかる。

 だけど馬鹿にされているというよりは、



「隠さなくていいじゃん、別に……。嬉しいよ、私はね」



 耳元で囁かれた声は、どこか本気で喜んでいるようだった。

 そして柚葉さんは明確な追求を止め、妹菜に声をかける。



「妹菜ちゃん、シャンプーするから、おめめ、ギューッてしててね」

「はーい! ギュウーッ!」

「うん、偉い偉い。目開けちゃダメだからねー」



 カシャカシャとシャンプーで髪を洗ってる音が、この密室の空間で反響する。

 俺は熱いお湯に肩まで浸かりながら、必死に無心になる。でないと想像してしまう。振り返ればそこにいる、柚葉さんの姿を。



「りっくん、髪と身体はもう洗った?」

「……まだ、ですけど」

「じゃあ、後で洗ってあげる」

「い、いい、ですから」

「遠慮しないの。どっちみち、そこから出られないでしょ」

「……」



 柚葉さんの言う通り。

 一つしかない扉の前に柚葉さんがいて、その姿を視界に入れずに、脱衣所に向かうなんて無理だ。

 それに髪も身体も洗ってない。

 だけど柚葉さんに洗ってもらうなんて、それこそ、もう逃げられなくなってしまう。



「おにいちゃん、ゆずはおねえちゃんのきもちいいよ!」

「……何が?」

「ゆずはおねえちゃんのシャンプー!」

「……シャンプーか」

「おっ、嬉しいねぇ、妹菜ちゃん。……りっくんは何が気持ちいいと思ったのかなぁ?」

「……」



 駄目だ、柚葉さんの言葉一つ一つが、変な想像へ巻き込んでくる。

 ペースが完全に柚葉さんに掴まれてる。


 二人はシャンプーを終え、今度はボディソープで身体を洗い始める。

 楽しげな明るい声。

 そして、



「はい、泡流すね」

「はーい。ぶくぶくぶくー」

「こら、ぶくぶくしないの」



 風呂桶ですくったお湯が、妹菜の頭から流れ、床へと落ちていく。

 その音が消え静かになると、一気に心臓が激しく音を鳴らす。



「……さて」



 妹菜が狭い湯船の中へ入ってくる。

 それが意味するのは、もう柚葉さんが妹菜の面倒を見ることがないということ。そして、



「……おいで、りっくん」



 柚葉さんが俺の髪や身体を洗おうとしてること。

 耳元で囁かれた瞬間、頭がクラッとした。



「……自分で洗いますから」

「そう。それじゃあ、どうぞ?」



 柚葉さんは理解している。

 俺が湯船から出て、視界のどこかに柚葉さんを入れることができないこと、そして、身体を隠すものがここには何も無いこと。


 だから俺は、ここから出ることはできない。



「……柚葉さん、どうしても、駄目ですか?」

「うん、ダメ。おいで」



 柚葉さんは動かない。

 それどころか、細くしなやかな指先が、俺の身体を這ってくる。

 肩に触れ、首に触れ、胸元へ。

 肌に触れられてるだけなのに、なぜかどんどん心の中を浸食されているような感じがする。



「わかり、ました……だけどせめて、タオルか何かで隠してもらえませんか?」

「……どうしよっかな」



 背中からクスクスと笑い声がする。

 隣では、湯船に浸かりながら、お湯の中に口元まで入れぶくぶくさせる妹菜。



「仕方ない。ちょっと待ってて」



 柚葉さんはそう言って脱衣所へ向かった。

 バスタオルで身体を隠してくれるのだろう。

 俺はため息をつく。



「はい、りっくん」



 肩から手が伸びる。

 それは小さなタオルだった。

 これがあれば、隠したい部分は隠せる。



「おいで、りっくん」

「……はい」



 これ以上のお願いはできない。

 俺は心を落ち着かせてから、腰にタオルを巻き立ち上がる。


 そして、振り返った──。



「なっ……」



 湯気が立ち込める中。

 目の前には、瑞々しい肌を露わにさせた柚葉さんが、小さな手で上と下を隠していた。

 何も巻いてない。隠してあるようで、隠されてない。


 腕で包み込むように隠しても、大きな膨らみは、腕に乗しかかってるようだった。

 それはむしろ、腕に押されてはっきりと大きさや柔らかさを強調していた。



「な、んで……?」

「ん? タオルで隠したいんでしょ? 自分の身体」



 違う、そう言おうとした。

 なのに恥ずかしくて、驚いて、全身に力が抜けた。

 その瞬間、柚葉さんの目の前で俺の腰を雑に巻いたタオルは、湯船へと落ち、力無く沈んでいった。



「あらら……」



 柚葉さんの視線は、俺の顔ではなく、俺の一部分に向けられていた。


 その表情は──嬉しそうだった。


 そして再び俺を見て、頬に手を当てた柚葉さんは、



「見ちゃった……ふふっ」



 そうやって、妖艶な笑みを浮かべた。














 ♦










「──あっ、起きた」



 目覚めるとそこは、リビングのソファーの上だった。

 横になりながら、天井のライトが眩しく感じる。

 そのライトと一緒に、柚葉さんの顔がある。



「あれ、俺……」

「お風呂場で気絶しちゃったの」



 ボーッとした頭のまま思い出す。

 柚葉さんの笑顔を見た後、俺はその場に倒れた。

 ずっと熱いお湯の中に何十分も浸かって、朦朧とした意識のまま、刺激の強い出来事があった。



「あ、そう……って!」



 そして今。

 俺は柚葉さんの膝に頭を乗せている。

 慌てて起き上がろうとすると、それを柚葉さんに止められる。



「まだ起きたらダメだよ」

「だけど……」

「このまま。ねっ?」



 そう言われ俺は頷く。

 そして柚葉さんは、俺の頭を撫でながら、少し悲しそうな表情をする。



「ごめんね、りっくん……」

「え?」

「別にからかってたわけじゃないの。りっくんに、少しでも私を見てほしかった。少しでも、私に甘えてほしかった。……だから、あんなことしちゃった」



 それが心からの言葉だって、なんとなく思った。

 柚葉さんの今の表情は、普段の明るい感じからは想像もできないほどに、落ち込んだ悲しそうな感じだったから。



「俺って……そんなに頼りないですか?」

「え、なんで?」

「なんとなくです。優しくしてくれるのって、俺が弱いからですよね?」



 頼りがいのある良い兄ならきっと、心配されないと思った。

 俺の心がいつか折れてしまうんじゃないか、そう心配して柚葉さんは、支えてくれたのかなって。


 だけど柚葉さんは、首を左右に振った。



「ううん、りっくんはしっかり者だよ」

「だけど」

「私はそんなしっかり者のりっくんだから、甘えてほしいと思ったの」

「どういう、意味ですか……?」

「簡単だよ。頑張り屋でしっかり者だからこそ、心配になるんだよ」

「それはやっぱり心配で……」

「頑張ってるりっくんの助けになりたい。心配だけど、心配じゃない……ごめん、わかんない。変だね、なんか」



 ふふっ、と笑った柚葉さんを見て、俺も笑った。



「はい、変です」

「もう」

「だけど嬉しいです。ありがとうございます……」

「ううん、いいの。だから私にもっと頼って? 一人で頑張りすぎないで?」

「……そう、ですね」



 支えてくれる人がいるのだから、それに甘えるのは、決して弱さではないのかもしれない。


 強くあろうと思ってた。

 絶対に誰も頼らない、誰にも甘えない、そうやって意固地になってたのかもしれない。


 誰にも頼らない人が、強い人だと勝手に決めつけて。



「……柚葉さん。だけど俺、もっと大人になりたいです。母さんも、妹菜も、支えられるような」

「そっか。うん、りっくんなら大丈夫。私も支えてあげるから」

「ありがとうございます。だけど……」



 何を言おうとしたかわかるのだけど、俺はそっから先の言葉を口にすることを躊躇った。

 恥ずかしくて、言いたくなかった。

 だけどそれを、柚葉さんはわかったんだろう。



「私の裸は、嫌い?」

「そんなわけ! ……そんなわけ、ない、いや……その」

「ふふっ、嫌いじゃないけど恥ずかしい、みたいな?」



 なぜ柚葉さんはこんな恥ずかしいことを照れずに言えるのか。それは大人だからなのか。俺が大人じゃないから照れてるのか。

 それはわからない。

 ただ、柚葉さんの裸を思い出すと顔が熱くなって、柚葉さんの顔を直視できない。

 それがきっと、まだまだ子供だということなんだろう。



「まあ、私の身体にメロメロなのは知ってるけど」

「そんなこと、誰も言ってませんが……」

「嘘はいけないなぁ? 身体は、正直だったよ? 詳しく、それを説明してあげようか?」

「……結構です」

「残念。私が本気を出せば、すぐに証明できたのに」



 やっぱり柚葉さんは怖い。

 前に綾香さんが言ってたか。


 ──柚葉さんは闇が深い。


 それの意味はわからないけど、なんとなく、まだ柚葉さんの全てを知らないのかもしれない。



「だけどりっくん、これだけは知って」



 そう言って柚葉さんの顔が近付いてくる。

 初めて見せる、恥ずかしそうな表情で。

 そして首筋に毛先が触れる。視界が真っ暗になり、柚葉さん以外が何も見えなくなった。



「……私の中で宇野陸斗は、この世界でたった一人の、大切な大人の男性だから」

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