第18話 白衣の堕天使


 柚葉にはわかる。

 なにせ彼女、保育士である七海の今の恥ずかしそうにする表情は、陸斗を好きだと意識した頃の自分の表情と同じなのだから。



「妹菜ちゃん、私は先生とちょっとだけ話したいことあるから、ここで待っててね」

「ん、わかったー!」



 柚葉が妹菜から離れると、七海も妹菜と離れる。

 これから話すことが大人の会話だと、七海も理解したのだろう。



「どうして、私が彼の家に泊まったことを知ってるんですか?」

「りっくんから聞いたんです。先生が”ご厚意”で彼の家にお泊まりして、家事を手伝ってくれたって……」

「そ、そう、なんですね……」



 七海は目を伏せながら小さく返事をする。

 その表情には安堵が見えない。ただただ、ドキドキしている恋する乙女のような、柚葉から見ても魅力的な表情だった。


 ──それが少しだけ、嫌だった。


 だから柚葉は、七海へと作った笑顔を向け言い放つ。



「ですけど、もう気を使っていただかなくて結構ですので」

「……えっと、それはどういう意味でしょう?」

「これからは私が、りっくんのお母さんが戻ってくるまで面倒を見ますので」



 なので、アナタはもう彼の家には来ないでください!

 そんな意味合いも込めて告げた言葉。


 そしてその言葉の意味を、七海もちゃんと理解していた。

 向こうも大人の社会で身に付けた笑顔を浮かべる。



「……ごめんなさい、それはアナタが決めることではないですよね?」

「なっ、それは」

「私は彼と妹菜ちゃんが困ってるので、料理や洗濯、それに遊んでいただけです。それをどうして”ただのバイト仲間”であるアナタに止められなければいけないのでしょうか?」



 七海の纏うオーラ? のようなものが一瞬にして変わった。柚葉はそう感じた。その証拠に嫌な汗が流れていた。


 だが、ここで柚葉は引けない。


 一歩前へ、足を出して反撃する。



「私はりっくんよりも後にバイトを始めました。りっくんは私のバイトの先輩です。大先輩です! そんな彼が困ってるのであれば、後輩である私が助けるのが当然だと思います! アナタのような”ただの保育士”ではなく、この私がです!」

「言ってる意味がわからないのですが……? では、バイトの誰かが困っていたら、そのバイト仲間なら家まで来て手を差し伸べるのが普通と、アナタはそう言いたいのですか?」

「そ、う、で、す! バイト仲間として当然ですから!」

「申し訳ありません、バイトしたことがないので、そのアナタが言うバイトの普通がわからないので。ただ、バイト仲間であるアナタに、とやかく言われる筋合いがないのだけは、私にもわかります!」

「はあ? 別に私は無理しなくていいよって言ってるだけですけど!」

「無理してませんので! 陸斗くんも、妹菜ちゃんも、私は二人が心配なので!」



 おそらく二人とも、頭に血が上って何を言ってるのか自分たちでも理解していないだろう。

 最低限の相手を思いやる気持ちはあります、というようなことは口にしてるが、それでも、第三者から見れば自分の気持ちを口にしてるだけである。



「それに」



 柚葉は七海の服装を下から上まで見てから、



「いいんですか? 保育士さんが一人の保護者に贔屓して? 誰かにその現場を見られたら、後々マズいんじゃないんですか?」

「それは……」



 その言葉に七海は怯む。

 そこが弱点だと思った柚葉は、更に追い討ちをかけていく。



「私は大学生なので、彼と妹菜ちゃんの面倒を見ても問題ありません。変なしがらみもありませんから。でもアナタはマズいですよね? 幼稚園に通う園児の兄、それも高校生の家に泊まって面倒を見るなんて、周りに知られたらどうなります?」

「……」

「わかっていただけましたか……?」



 自分でも酷いことを言ってるとは思う。

 けれど、彼の面倒を見るというのは、それほど簡単なことではない。

 彼は高校生だ。

 高校生と社会人の間には、大きな社会的壁がある。

 それを無視していけなければ、思い切った行動はするべきではない。



「アナタだって、大学生ですよね……? 学校にバレたら──」

「──その点はご心配なく」



 柚葉は首を左右に振る。



「もし何かあったとしても、全て受け止めますから」



 今まで柚葉は、その点が不安で一歩前に出せなかった。だけどここへ来た以上、全てを覚悟している。


 ──今まで甘えてこなかった彼が、もしもそれまで溜まった何かを爆発させたなら、それ含めて自分が受け止める。


 それほどの覚悟を、柚葉は持っている。

 そして、保育士である七海には、社会的に受け止めることはできないだろう。


 だから七海の為、といえば体のいい言葉だが、それでも彼女を止めるべきだろう。

 もしもまだ恋をして日が浅いのであれば、七海がここで彼と距離を取れば──立ち止まれないほど堕ちてしまってる自分とは違う彼女であれば、元に戻れるだろうから。


 柚葉は、笑顔で言葉を告げた。



「私がりっくんと妹菜ちゃんを、お母さんが帰ってくるまで面倒見ます。もちろん、嫌がられたら辞めます。ただ、彼の家庭環境がマズいのは、アナタもご存知ですよね? だったら誰かが無理矢理にでも支えて、甘えさせるべきだって、私は思いますから」



 柚葉はそれだけを告げると妹菜のもとへ戻ろうとした。だが、



「柚葉さん。アナタは彼のことを、その……」



 七海は途中まで口にしたが、それ以上は言葉が出なかった。

 だが柚葉は、当然だと言わんばかりにはっきりと、七海へと本心を伝えた。



「私はりっくんが好きです」



 目を見開き驚く七海へ、柚葉は言葉を続けた。



「彼のためなら何でもできます。彼が困ってるなら手を差し伸べて、苦しみを取り除けるなら甘えさせてあげます」

「でも、彼は高校生で……」

「それがどうしたんですか? 高校生だと、何がいけないのですか?」

「それは、思春期とか、大人の、その……」



 言いよどむ七海を見て、



「ああ、性的なアレですか」



 と瞬時に理解した。

 そして柚葉は、白衣の堕天使と呼ぶに相応しいほどの、狂った笑顔を浮かべた。



「甘えさせ方は人それぞれです。彼がもし、私の身体を求めるのであれば、私は喜んで捧げます。だって……私は彼を愛してるのですから。それって物凄く幸せじゃないですか、ねぇ?」



 それだけを残して、柚葉は妹菜のもとへ向かった。

 勝手に妹菜と家へ向かうのは、この幼稚園にも、陸斗にも迷惑がかかる。



「ゆずはおねぇちゃん、しいなせんせーとなにおはなししてたの?」

「うんとね、大人の会話だよ」

「おとなの? いいなー、まいなもするー!」

「そっかそっか、だけど妹菜ちゃんはもう少し大きくなってからだよ」



 柚葉は陸斗がここへ来るのを、妹菜と共に待つのだった。











 ■










 七海は柚葉の背中を見つめながら、怖いと、そう感じた。



「……彼女を陸斗くんに近付けたらダメよ」



 彼女はきっと、誰よりも陸斗を甘えさせるだろう。

 それが必要なことは、七海だって理解している。

 だけどその甘えさせるのにだって、良い甘えさせ方と悪い甘えさせ方がある。


 彼の人生は、ずっと鞭で叩かれ続け、走らされてるような人生だ。

 誰にも頼らず、一人で頑張ろうと。

 そんな彼はいつか、ずっと溜めてきた何かを爆発させ、最悪の場合は精神が崩壊してしまうのではないか、七海はそこが心配だ。


 だから彼にはアメが必要だ。

 溜まってきた何かを発散させるのも、気持ちの部分を楽にさせるのも、誰だって、大人だって必要なこと。

 なので彼には甘えさせるという、アメが必要なんだ。


 ──だけど柚葉はきっと、陸斗を必要以上に甘やかせる。

 いや、彼を溺愛して、駄目人間にしてしまうかもしれない。


 それほどまでに、柚葉の恋心は盲目的で──どこか闇が深いのだと言わざるを得ない。

 初対面なのに七海が思うということは、相当なのだろう。



「止めないと……じゃないと彼が……なのに」



 頭ではわかってる。

 なのに体も心も動かない。

 それはきっと、自分自身の社会的な立場が邪魔してるからだろう。


 ──ここが線引きだ。


 ここで引き返せば、普通の大人としてまだやり直しができる。

 ここから前へ進めば、きっと取り返しのつかないことになる。


 七海はそう理解している。



「私は……」



 そして彼女は、決断する──。

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