第16話 校門前の天使?
目を覚ますと家のどこにも、七海さんの姿はなかった。
ただ置き手紙があった。
『用事があったので帰ります。夜ご飯は冷蔵庫に入れておきましたので、妹菜ちゃんと食べてください』
用事があったのに料理まで。
俺は置き手紙に何度も頭を下げて、妹菜と一緒に夜ご飯を頂いた。
明日、幼稚園に行ったときにお礼をしよう、そう考えた。
──次の日。
妹菜と幼稚園へと向かうと、そこで七海さんは、いつも通りの優しい保育士の笑顔を園児たちに向けていた。
「──七海さん、おはようございます」
俺は七海さんに挨拶をした。
いつも通りの挨拶だったはずだ。
「お、おはよう、ございます……」
だけど七海さんは、どこかオドオドしたような感じで、俺を見て挨拶を返してくれなかった。
それに頬が赤く、ピンで止めた前髪を何度も何度も、必要以上に撫でていた。
そして、
「そ、それじゃあ、妹菜ちゃんは預かりますので──」
七海さんは逃げるように、妹菜と一緒に幼稚園の建物の中へと向かった。
手を引かれながら妹菜は、不思議そうな表情のまま俺に手を振り、俺も不思議そうに手を振る。
「どうしたんだろ……」
昨日のお礼、ちゃんと言いたかったな。
美味しかったって。ありがとうございますって。
「また、良かったら家に来てほしいって……甘えたかったな」
そう口にして、ブンブンと首を振る。
「いやいや。きっと七海さんは、甘えられたら迷惑だって冷静になったら思ったんだな。だから少し気まずそうにしてたんだ」
よし、と息を吐く。
「やっぱり俺はお兄ちゃんなんだ。妹菜と母さんを笑顔にできるように、弱音なんて見せちゃ駄目なんだ」
俺はそう思い学校へと向かった。
♦
「しいなせんせー、おにいちゃんとけんかしたの?」
「えっ、なんで……?」
上履きに履き替えた妹菜は、顔を真っ赤に染めた七海を見上げる。
子供の純粋で無垢なまん丸した瞳が、針のように七海に突き刺さる。
「だって、いつもみたいにおはなし、してなかった」
「それは……」
「おにいちゃんね。しいなせんせーに、ありがとって。ごはん、おいしかったって。まいなもいっしょにいおうねって、あさ、やくそくしてたのに」
「……そう、だったの。ごめんね」
頭を撫でながら伝えると、妹菜はううん、と言って納得してくれたようだった。
「じゃあ、おにいちゃんがおむかえにきたら、おはなし、してくれる?」
「……ええ、もちろんよ」
「やったー。やくそく、やくそくだよっ!」
妹菜はそう言って、他の園児のもとへ走っていった。
その後ろ姿を見ながら、七海は胸が苦しく感じていた。
──七海は陸斗が好き。
昨日、親友の華凛に言われてから、そればっかり考えてしまう。
純粋な気持ちで、陸斗を見れない。
だから昨日も、置き手紙を残して帰った。
明日になれば元通り。
ちゃんと、何も意識せずに話せる。
そう思ったのに、いざ陸斗を前にすると、顔を合わせることができなかった。
「本当に、私は陸斗くんのこと……」
そう口にしても、頭の中では理解しても、受け入れることができなかった。
なにせ相手は高校生。
そんな彼を好きになるなんて、大人である七海がしてはいけない。
「なのに……」
最初はただの高校生。
次に母親と妹のために頑張る立派な高校生。
──そして今は、優しくしてあげたい、甘えてほしい、大切な男の子。
意識してはいけない。
なのに七海は、意識しないようにしてても、無意識に考えてしまう。
「……距離を取らないと」
七海は決断する。
自分の気持ちを押し殺すことで、彼を振り回さないで済む。
それなら忘れよう。
妹菜の送り迎えのとき、少しだけ話をするだけならいい。
それだけであれば、問題はない。
「……じゃないとまた暴走して、陸斗くんに迷惑かけちゃう」
七海はそう決意する。
──その決意がすぐに崩壊することも知らずに。
♦
学校が終わると校門の前に柚葉さんがいた。
ピチッとしたジーパンに黒シャツにパーカーという、かなりラフな格好をする柚葉さんは俺を見るなり、パアッと明るい表情になり、ぶんぶんと手を振る。
「柚葉さん、どうしたんですか?」
「えへへ、りっくんのこと待ってたの」
リュックを背負い、手には大きめの紙袋。
「もしかして、大学の帰りですか?」
「そそっ、さっき終わったの」
バイトに来る時はいつもお洒落に気をつける柚葉さん。だけど大学に通うときは比較的にラフな格好、というか、いつも適当な服装らしい。
めんどくさいから、と前に言ってたけど、普通はバイトの時がラフな格好なんじゃないのだろうかと思う。
「それでどうしたんですか?」
「りっくんを待ってたって言ったじゃん。これからどっか行く予定とか?」
「予定はないですけど……待ってたって、何か変なこと考えてたりしません?」
とりあえず校門から遠ざかっていく。
少し怪しさがあったから聞いたんだけど、柚葉さんは心外だと言わんばかりに目を細める。
「ちょっとー、それどういう意味さ」
「なんとなくです。だって、俺の学校に来るなんてこと、今までなかったじゃないですか」
「まあ、そうだけど。少し心配になったのさ」
トン、トン、とゆっくりとした足取りで歩く柚葉さんの表情は、少しだけ暗く感じた。
「お母さんが入院して、妹ちゃんと二人でさ……新聞配達のバイト、今もしてんでしょ?」
「まあ、向こうは妹菜が寝てる間にできるので」
「そっか。どう、辛くない?」
心配してくれてんだな。
俺は笑顔で言葉を返す。
「心配かけてすみません。でも、なんとかなってます。それに妹菜の通う幼稚園の先生が来てくれて──」
と、そこまで言って、俺は慌てて口を閉じる。
「先生が来てくれて……?」
柚葉さんの表情が少し暗く、それになぜか怖く、おかしな引き笑いを始めていた。
「先生がお家に来て、ねぇ……ふふっ、ふふふっ、りっくん、その先生って、いくつの方なの?」
「そ、それは……」
「その反応、若い先生だね。若いメスだ?」
「メスって、言い方! そ、そうですけど。ただ心配してくれただけですから。変な想像しないでくださいね?」
「急に慌てて……りっくん、怪しい。もしかして、泊まり込みでお世話してもらってたとかー?」
「そ、それは、その……」
「ははーん、図星ですかー。りっくんは嘘付けないねー。あーあ、ほんと、いやらしい高校生だことー」
「ちょっと!」
前屈みになりながら、細目でジーッと視線を向けられる。
一歩、また一歩と詰め寄られる。だけど、
「まっ、それ以上は追及しないであげるー」
ふと立ち止まり、笑顔を浮かべた。
「良かったね、りっくん。りっくんと妹ちゃんを心配して、親身になって優しくしてくれる人がいて」
「まあ、そうですね。本当に助かりました」
追求が止み、安堵の表情を浮かべる。
「その保育士さんに料理とか作ってもらったの?」
「ですね。妹菜も喜んでました。俺の料理より美味しいって」
「ははっ、それは兄として複雑だねー。あっ、そうそう」
そこまで言うと、柚葉さんは「今日ここに来たのはね」と本題に入る。
「私もりっくんのお家にお上がりして、妹ちゃんとりっくんのお世話をしようと思ったのさ」
「そう、だったんですか。心配してくれたのは嬉しいんですが、その……」
「もしかして、その保育士さん今日もお泊まり?」
「いえ、そういうわけではないですよ。ただ迷惑かけちゃうかなって、柚葉さんに」
「別に気にしないでいいよ。うち一人暮らしだし、お家で一人でいるより、りっくんと妹ちゃんの三人で寝る方が楽しいしさ」
「え、もしかして、泊まるとか言わないですよね?」
会話の流れから、なんとなくそんな気がした。
そしてその予感は見事に的中する。
「そだよ。なーに、もしかして先生は泊めて、バイト仲間は駄目とか言わないよねー?」
「いや、それは。でも柚葉さん、明日も大学ありますよね?」
「午後からねー。それを言ったら、りっくんだって学校でしょ? 朝ご飯作ってお見送りしてあげるよ」
「だけど──」
「──りっくんに拒否権はありません!」
ピシッと手を前に出す柚葉さん。
「だってりっくん、何を言っても断るもん」
「当たり前ですよ。そりゃあ、嬉しいですけど、柚葉さんに申し訳なくて」
「りっくんは優しいからね。だから今回の私が泊まるのは、私がりっくんに泊めてってお願いしてるだけ。りっくんは私を家に泊めてくれればいいの」
「無茶苦茶ですね」
「そだよ。じゃないとりっくんは頷いてくれないからね。泊めてくれる代わりに、これでお世話してあげるからね」
小さな顔の隣に、柚葉さんは持ってきていた紙袋を並べる。
その紙袋に何が入ってるのか。
大学からそのまま来たということであれば、簡単に想像できた。
俺はぶんぶんと首を左右に振る。
「無理無理無理! 無理ですって!」
すると、柚葉さんは口元に手を当て悪い笑みを浮かべる。
「ふっふっふー、なーに、りっくん。変な妄想したでしょ?」
「してないですけど……」
「まあ、りっくんが望むなら、私はウェルカムだよ。料理とか身のお世話とか、この実習服でしてあげる。どう、嬉しいでしょ?」
「いや、いやいや、駄目ですって。だってその実習服って」
「そう」
柚葉さんはどこか誇らしげに、紙袋の中身を俺に見せる。
「ナース服でね?」
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