第15話 七海さんは気付かされる
添い寝をする七海さんの全身からは、微かに甘い匂いがする。
なんの匂いだろうか。そう考えても、何にも例えられない。
ただ惹きよせられるような、そんな魅力があった。
「陸斗くん、顔が赤いですよ……」
話せば熱を持った息がかかる。
その度に撫でられる頭にも、時折ふれる足にも、薄い毛布の中で同じ空気を共有する全身が敏感になっていた。
「……七海さん、昨日から変ですよ。どうしたんですか」
理性の崩壊が近付いて焦る俺に、七海さんは不適な笑みを浮かべる。
「イヤ、ですか……?」
嫌だと即答できない自分がいる。
それはなぜか。そんなの、拒めるはずがないからだ。
目の前には綺麗な七海さんが、俺の目を見つめて添い寝している。
手を伸ばせば身体に触れられる。
顔を近付ければキスができる。
そして七海さんは、拒まず受け入れてくれるかもしれない。
いや、受け入れてくれる。
そんな魅力的な誘惑を拒むことはできない。
ただ俺にできる精一杯の抵抗は、本能に忠実にならないよう、全身を石のように固めるぐらいだった。
「もう、寝ますから……」
力強く目蓋を閉じる。
さっきまで七海さんの存在を感じなかったのに、今では、はっきりと目の前にいるのがわかる。
寝れない。寝れるわけない。
だけど寝ないと壊れそうな気がした。それなのに七海さんは、追い討ちをかけてくる。
「おやすみなさい、陸斗くん」
頭を撫でながら、そう言われた。
まるで園児をあやす保育士のように、その優しい手は、俺を深い眠りへと誘ってくれた。
♦
椎名七海は暴走していた。
彼女の理性が崩壊しないよう止めていたパーツは、ふとした瞬間に崩壊して、理性に反して動き出していた。
まるで目にハートマークを浮かべたように、優しい笑顔ながら、陸斗の頭を撫でる表情は一人の女の顔をしていた。
だがそれを、七海は気付いていない。
なにせこんなこと、今までの人生で初めてのことだからだ。自分が暴走してることも、自分がやりすぎてることも、七海は気付いていない。
「陸斗くん……」
目を閉じた陸斗を見つめながら、七海は艶っぽい声を漏らす。
全身は熱を生み、次第に微かな汗が毛穴から溢れていた。
だが、それすらも気にならないのだろう。
七海は撫でる手を止めない。それどころか、次第に顔は陸斗の顔へと近付いていく。
──このまま顔を近付けたら、彼はどんな表情をしてくれるだろうか。
驚くだろうか、顔を赤らめるだろうか、それとも七海を求めるだろうか。
脳内には卑猥な妄想が溢れる。
清楚でおっとりした七海の雰囲気は、どんどんと変貌していく。
だけど、
──ブー。
ふと、エプロンのポケットに入れたスマートフォンがバイブを鳴らす。
一回、二回、三回。マナーモードは止まらない。これは電話だ。
「……はぁ」
七海は嫌そうなため息を漏らした。
もう少しこのまま添い寝したかった。
彼が起きた時に目が合ったら、どんな反応を示してくれるのか、それが見たかった。
だが、幼稚園からの電話かもしれない。
七海は音を立てず毛布から出ると、リビングへと向かう。
着信相手は幼なじみであり親友の一ノ瀬華凛だった。
「もしも──」
『──あんた、今どこにいんのよ』
電話口からは、普段の陽気な華凛の声とは違い、どこか呆れたような声色だった。
「えっと……」
男子高校生の家でお泊まりしてました。
なんてこと、理由があるとしても言えるわけがない。
『例の男子高校生の家、とか言わないわよね?』
七海が言うか言わないか考えている間に、向こうからはっきりと聞かれてしまった。
「そう、だけど……」
『もしかして、泊まったとか?』
「そう、だけ──」
『──あんた、バカじゃないの!?』
爆音のように轟く華凛の声に、七海は驚いてスマートフォンから耳を離す。
そして静かになると、七海は不思議そうに返事をする。
「なんでよ。ただ私は、華凛が教えてくれた、高校生を元気付ける方法を実践しようと思っただけで……」
『……はあ。あたしはその高校生を元気付ける方法を教えてあげたわ。だけどね、男子高校生を誘惑する方法なんて教えてないわよ』
「ゆ、誘惑なんて……私してないもん!」
『してないだぁ? してるでしょ、どう考えても! いい、その家に幼稚園の妹がいるとしても、相手は男子高校生よ? そんな思春期だとかエッチに興味津々な高校生の家に泊まりに行くなんて、ありえないに決まってるでしょ!?』
「べ、べつに、私は……そ、それに、陸斗くんは私の身体に興味なかったもん。……耳掻きしてあげても、添い寝してあげても、何もしてこなかったから……」
『はあ!? あんたバカ! めちゃくちゃバカ! もう末期症状よ!』
連続して罵倒されても、七海は理解できなかった。
だが七海のお子様脳内と違って、男女の関係に詳しい華凛にはわかる。
七海が犯した過ちを、華凛は的確に言い当てた。
『それはその子が我慢しただけよ。その子が偉い、大人なだけ』
「だ、だけど、私の方が大人だよ?」
『年齢はでしょ、バカ。その子はあんたの誘惑に我慢しただけよ。あんたが無防備に、無意識に、その悪意のない清楚な雰囲気のまま誘惑するのを、その子は必死に我慢してたのよ』
「……えっと、なんか私、それじゃあ小悪魔みたいじゃない?」
『小悪魔じゃなくて、大悪魔よ! 純粋な高校生を虐める悪魔よ。……あんた、自分の素を理解しなさいよ』
「素って?」
『仕方ない。この際だから教えてあげるわ』
華凛はため息混じりに言葉を告げた。
『あんたはドSよ。相手の困ったり、自分を求める顔を見て興奮して快感を得る変態なのよ』
「……」
ソファーに座った七海は固まった。
自分がドS? 自分が相手の反応を見て快感を得る変態?
その意味がわからなかった。
「えっと、何かの間違いじゃないの?」
『……そんなわけないでしょ。あたしがそう思ったのは、まず最初は中学生の時で──』
華凛は一つ一つ、七海がドSである証明を過去に遡って説明してくれた。
だがドSだと言われたのは華凛からだけではない。陸斗からも同じことを言われた。
その時は否定した。
だけど落ち着いて考えてみるとわかる。
昨夜の自分は陸斗に甘えさせようと、大人の魅力を使った。
耳掻きしながら身体に触れたり、キスをする素振りを見せたり。
そうした時に陸斗が見せる恥ずかしそうな表情を見て、七海はどこか幸福感を味わっていた。
それは、先程の添い寝の一件も同様だ。
『──それで、他にも……って、七海、聞いてる?』
話を全く聞いていなかった七海は、壊れた人形のように全身から力を抜き、華凛に質問する。
「えっと、その……私って、Sなのかな?」
『SじゃなくてドSよ』
「そっか……」
『その証拠に。あたしが七海に紹介した男たち覚えてる?』
「え、んー、あんまりかな」
『でしょうね。あれはどっちかというとS寄り、というか、自分が自分がって前に出ようとするタイプの男ばっかよ』
「うん」
『その男たちに興味を示さなかったってことは、あんたはそういうタイプが好みじゃないってことよ。相手からグイグイ来るよりも、自分からグイグイ攻める方が好きなのよ、あんたは。その清楚で大人しそうな見ためとは違ってね』
華凛の言葉には不思議なほど説得力があった。
そして七海も、その言葉を受けてはっきりと自覚した。
「もしかして、前に華凛が言ってた『悪い方の女になるかもしれない』って、このこと……?」
『ええ、そうよ。なんとなくわかってたから。それと、S寄りの男を紹介したのも、あんたを更生させるためよ』
ふん、と誇らしげに言う華凛に、七海はため息をつく。
「そうなんだ……そっか、私がSか。はあ、そうなんだ」
『自覚した?』
七海は白状して、苦笑しながら伝える。
「まあ、そうかな。陸斗くんのいろんな反応を見るの好きかも」
『でしょうね。まったく、どんなことしたのよ?』
「えっと陸斗くんにね、わざとお風呂上がりにパジャマのボタン開けて見せたり、耳掻きするときにも胸とか触れさせたり、さっきなんて、添い寝しながら足とか絡めて──」
『ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ちなさいあんた!』
慌てた様子の華凛に止められた。
「どうしたの?」
『いやいや、どうしたのって……。あんたそもそも、その子を元気付けさせたいって話じゃなかったわけ?』
「そうだよ、私は陸斗くんを元気付けたい。誰にも甘えられない彼に、私だけが甘えられる相手になれればいいなって、そう思ってる」
頑張ってる彼を元気付けたい。
誰にも甘えられないなら、甘え方を知らないなら、自分が無理にでも甘えさせたい。
──それで彼が元気になるなら、自分もそれで幸せだ。
ただの幼稚園に通う妹菜の兄としてじゃなく、宇野陸斗として元気になってほしい、支えてあげたい、そう七海は思う。
だが、華凛には七海が気付かない違和感に気付いたのだろう。
『そうね。七海、一つだけ忠告してあげるわ』
「え?」
七海は首を傾げる。
そして華凛は、本人では気付いていない確信を突いた。
『あんた、その男子高校生のこと、甘えさせたいとか元気付けたいとか、そういう大人としてじゃなくて──』
──あんたは一人の男として、彼のことを好きに、自分の大切な存在にしたいと思ってるわよ。
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