第14話 天使の追い討ち


 ──結局、俺は一睡もできずに朝を迎えた。

 妹菜がスースーと寝息をたてているのを、俺は起こさないよう静かに立ち上がる。

 カーテンの隙間からは、夕焼けに似た色合いの光が見える。



「……ん、陸斗くん?」



 準備しようとリビングへ向かおうとすると、七海さんは体を起こしてこちらを見ていた。

 線のような目に、寝ぼけたような声。どこか幼い姿に、少し笑ってしまった。



「おはようございます。起こしちゃって、すみません」

「いえ、もう行くんですね」



 七海さんは目を擦る。

 自身のはだけたパジャマに気付かないほどにボーッとしてる七海さんからは、昨日のドSな雰囲気は全く感じられない。



「はい。七海さんはもう少し寝ててください」



 リビングへ向かうと、七海さんは左右に揺れながら、ゆったりとした足取りで後ろを付いてくる。



「いえ、私も準備しますから」

「準備、ですか?」

「ええ、朝ご飯の支度です。帰ってきたら、一緒に食べましょ」

「……そんな悪いですって。朝ご飯なら俺が──」



 ──俺がしますから。

 そう言おうとした口が、七海さんの人差し指で止められる。


 昨日と似た色っぽい雰囲気が、七海さんから感じられた。


 ふふ、と笑みを浮かべた七海さんは首を左右に振る。



「ダメですよ。甘えてって約束しましたよね?」

「……約束は、してないと思うんですが」

「私はしました。だから作って待ってます。……それとも、食べてくれないんですか?」



 綺麗な女性に言われて、それも俺と妹菜のためを思っての行動に、拒むことなんてできるわけない。



「ズルいです」

「食べてもらうためですから」

「……すみませんが、お願いします」

「はい、お願いされました」



 満足そうに七海さんは頷く。

 だがすぐに、俺の顔をジーッと、不思議そうに見つめてくる。



「もしかして、あまり寝れてないんですか?」

「え?」



 目元を見られて言われたということは、目の下にクマでもあるのかもしれない。

 俺は隠すように俯く。

 だが七海さんに両頬を抑えられると、顔を近付けられ見つめられる。



「ウソはダメですよ? 眠れなかったんですよね」

「……まあ、はい」

「そうですか。私が無理に付き合わせたからですか?」

「それは違います! むしろ……嬉しかったというか」



 照れながら伝えると、七海さんも少し照れた様子で、何度か首を縦に振る。



「そ、そうですか。はい、それなら良かったです……だけど大丈夫ですか? お仕事、おやすみするとかは……?」

「難しいですね。まあ、大丈夫ですよ。慣れてますから」

「だけど……じゃ、じゃあ、一緒に行きましょうか?」

「いや、それも大丈夫ですから」



 悲しそうな表情をする七海さん。

 少しだけ過保護な反応に、俺は嬉しい気持ちを隠すように苦笑いを浮かべる。



「……帰ってから寝ますから。それじゃあ、いってきますね」



 玄関の扉に手をかけ伝えると、七海さんは見送ってくれた。



「はい。ご飯作って待ってますから、無理だけはしないでくださいね。いってらっしゃい、陸斗くん」



 まるで母親のように体を心配されながら見送りされ、俺は新聞配達へと向かった。


 七海さんには大丈夫だと言ったけど、寝てないこともあって頭がボーッとしたり、全身にあまり力が入らなかったりする。


 それでも仕事が始まると体は勝手に動いてくれた。

 体が慣れたからなのか、それとも、帰ったら七海さんが朝ご飯を作って待ってくれるのが嬉しくて、俺は頑張ろうと思ってるのか、それはわからない。


 だけどたぶん、両方なのだと思う。








 ♦







「……ただいま」



 新聞配達を終え、家へ帰ってくると小さな声で口にする。

 妹菜が寝てるからというのもあるが、母さんの体調が悪いときは寝てるから、起こさないようにしないとってのもあった。

 新聞配達から帰っても、おかえりという言葉が返ってこない方が多い。



「おかえりなさい」



 だけど今日は違う。

 リビングから早歩きで出迎えてくれた七海さんは、はっきりとした声で、俺を見てそう言ってくれた。


 どこか抜けたような表情をしていた数時間前とは違って、今は化粧もしていて、幼稚園で見る優しく清楚なお姉さんの顔をしている。



「ただいま、です」



 誰かに、おかえり、と言ってもらえるのは嬉しかった。

 少しだけ疲れが癒えた気がした。



「大丈夫でしたか? 転んだりとかしてないですか?」

「はい、大丈夫です」

「そう、ですか……良かった。そればかりがずっと心配で」



 胸をなでおろす七海さん。

 心配してくれてたんだなと、その表情を見ればわかった。



「朝ご飯の用意はできてますので。妹菜ちゃんは、起こしてきた方がいいですか?」

「ありがとうございます。そうですね、それじゃあ起こしてきます」



 俺は妹菜の部屋へ。

 七海さんがリビングへ。

 母さんが入院する前であればいつもの光景だ。

 七海さんは母さんじゃない。だけど、どこか似たような、不思議な安心感があった。



「妹菜、朝だぞ」

「ん、ふあぁ……ん、おにいちゃん?」



 カーテンを開けると、目をパチパチさせた妹菜は体を起こし、大きく伸びをする。



「ああ、お兄ちゃんだ。ご飯だから、顔を洗いに行くぞ」

「はーい」



 テクテクと歩き出す妹菜の背中を押して、洗面所へと向かう。



「おはよう、妹菜ちゃん」

「あっ、しいなせんせーだ!」



 リビングから顔を出した七海さんが笑顔で手を振ると、妹菜はそれを見て走り出そうとする。

 俺は妹菜の脇を持ち上げて止める。



「こら、まずは顔を洗うぞ」

「へー、はーい」

「ふふっ、妹菜ちゃん、後でね」

「はーい!」



 俺と七海さんとの態度が違うのは、七海さんを大好きになったからなのだろうか。

 兄離れの片鱗を見たようで少しだけ寂しく思いながら、妹菜の歯を磨き、顔を洗ってあげる。


 そして終わると、妹菜は勢いよく走り出した。



「しいなせんせー!」

「はーい、お兄ちゃんと顔洗ってきたの、偉いねー」



 七海さんへと一直線に走っていった妹菜を、七海さんは抱きかかえ頭を撫でる。

 嬉しそうに頬吊りする妹菜を見て、俺はため息をついた。



「すっかり七海さんに懐いてますね。俺に向ける態度と大違いです」

「ふふっ、久しぶりに年上の女性に甘えたいんじゃないでしょうか。ねっ、妹菜ちゃん」

「ふふーん」



 満更でもない、みたいな表情をする妹菜。

 それを見て少し羨ましいな、とか思ってしまったけど、すぐに首を振って絨毯に座る。

 すると、妹菜を下ろした七海さんは、お箸を両手で持ってこちらに差し出すと、



「もしかして、妹菜ちゃんに嫉妬してます?」



 と、首を傾げて言われた。



「なっ、そんなわけ、ないですから……」

「ギュッてして、頭を撫でてあげましょうか?」



 妹菜を撫でながら、七海さんは首を傾げる。



「からかわないでくださいよ」

「ふふっ、からってないですよー。陸斗くんが素直じゃないからいけないんです」

「素直じゃないって、別に……。ど、どういうことですか?」



 首を傾げると、七海さんは不敵な笑みを浮かべたまま「秘密です」と言って手を合わせる。



「それじゃあ、いただきます」



 誤魔化されたけど、むしろ、曖昧なまま終わらされた方が良かったのかもと思ってしまう。

 これ以上、ドキドキしたら、顔を見れなくなりそうだから。










 ♦








 食事を終えると、満腹になったからなのか睡魔に襲われる。



「七海さん、お言葉に甘えて少しだけ寝てきますね」



 洗い物を終えて七海さんに伝える。

 七海さんはまだ家にいてくれるそうで、「妹菜ちゃんの面倒を見てるので、陸斗くんは少し横になっていてください」と言ってくれた。

 妹菜も七海さんと遊べて嬉しそうにしている。

 だけど、ここまで迷惑をかけるわけには……そう思ったが、七海さんは「寝てください」としか言わなくなった。


 なので甘えさせてもらうことにした。


 リビングから離れた部屋。

 妹菜の笑い声が聞こえるけど、七海さんの声は小さく、気を使ってくれてるのだとわかった。


 夢に入るのも、そこまで時間がかからなかった。


 ──それから、何時間ぐらい寝ただろうか。


 俺は目を覚ますと隣を見る。



「んー」



 寝始めた頃にはいなかった妹菜が横になって、俺の腕をギュッと握っていた。

 よだれが俺の服に付いてて、ふと笑い声を出してしまった。



「おはようございます」



 だが、逆側からは七海さんの声がした。

 声のした方を見ると、横になった七海さんが優しい笑顔を浮かべてる。

 七海さんの手が毛布をかけられた俺の体の上に置かれ、ポンポンと心地良いリズムで優しく叩かれていた。



「どう、したんですか……?」

「妹菜ちゃんが、お兄ちゃんとお昼寝したいって。だから私も一緒にお昼寝しようかと思ったんです」

「そう、なんですか」



 息が触れ合う距離に七海さんの顔がある。

 心臓がバクバクと音を鳴らしてるのがわかる。


 そして七海さんは、ニコリと笑顔を浮かべる。



「このまま一緒に寝ますか? それとも、起きて二人でお話ししますか?」



 そう、選べない選択を迫られた。

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