第13話 彼女は天然か、それとも小悪魔か? 5
「えっと、それは……」
「どうぞ」
七海さんは、太股をポンポンと叩きながら、俺をじっと見つめてくる。
さすがにそれは恥ずかしい。
というよりも、妹が通う幼稚園の先生にそんなことお願いするなんてできない。
「陸斗くん、早く横になってくれないと怒りますよ?」
なぜ? と思ったけど、しないといけない空気になってしまった。
俺は緊張しながらも、ゆっくりと、絨毯の上で横になり、七海さんの太股に頭を乗せる。
「ふふっ、素直で偉いですよ」
七海さんに背中を向けて横になると、頭を撫でながら、七海さんはどこか満足げだった。
上を見れば七海さんの顔や胸が視界に入る。だから正面を見る。
緊張してたり、動揺してたりする。なのに、頭を撫でられるとそんなの消えて少しずつ落ち着いてくる。
「それじゃあ、始めますね……」
耳掻きの棒が、右耳の中へと侵入してくる。
「痛かったら言ってくださいね」
優しい声がする。
「……はい」
「まだ恥ずかしいですか?」
「ええ、もちろんです。……七海さんって、たまに強引な時ありますよね」
「強引な……あっ、もしかして昔のことですか?」
七海さんはクスクスと笑みを浮かべる。
「陸斗くんが、私のことを七海さんって呼ぶようになったときのこと?」
「はい。他人行儀なのが嫌だって」
「ふふ、まあ、それも理由であったんだけど……」
ふぅ、と耳の中に息を吹かれ、全身がゾワッとした。
目を七海さんの顔に向けると、どこか楽しげな表情を浮かべていた。
「ゾワゾワってした?」
「はい……わざとですか?」
「いいえ、そんなことないですよ」
「嘘ですね」
「決めつけはよくないですよ?」
七海さんはどこか俺の反応を見て楽しむように、再び耳掻きを続けた。
「妹菜ちゃんを初めてうちの幼稚園に預けに来てくれたとき、なんだろう……陸斗くんって人形みたいだなって思ってたんです」
「人形、ですか……?」
「そう、お人形さん。周りが笑えば作り笑顔を浮かべて。周りが静かにしてほしそうだったら、空気を読んで言われる前に静かにする。よくできた子供だなって思ったけど……それでも、気を使いすぎて、どこか心が通ってないような、そんな気がしたんです」
「七海さんは、ヒドいですね」
「ふふっ、ごめんなさい。だけどその時に、あー、この子は無理に大人になってるんだなって、大人にならないと駄目だって思ってるのかなって、そう思ったんです」
「だから俺の反応を見て楽しんでたんですか……?」
「楽しんでた、というよりも、本当の陸斗くんを知りたかったんです。私のこと名前で呼んでって言ったときの陸斗くんの顔……ふふ、今でも覚えてますよ」
「変な顔、してました?」
「いいえ、年相応の子供でした。それが嬉しかったんです」
俺はため息をついて、横目で七海さんに視線を向ける。
「……七海さんって、Sですよね」
「ええ?」
その瞬間、耳に痛みが走る。
耳掻きの先端が、触れてはいけない部分に触れたんだと思う。
痛みから表情を歪めてると、七海さんは慌てた様子で顔を下げた。
「陸斗くん、大丈夫ですか? ごめんなさい」
「い、いえ……また人のこと虐めて、やっぱりSです」
「もう、今のは本当に違いますって」
「今のは……?」
「……変なこと言うと、また痛くしますよ?」
顔を覗かせた七海さんの髪が顔に触れる。その髪の隙間から、七海さんの幸せそうな笑顔が見える。
俺が反応するのが楽しいのか、俺が素を出したのが嬉しいのか。
七海さんは出会った頃に見せた、俺の反応を見て楽しむ、小悪魔のような笑顔を浮かべる。
だからSだって。
それもドが付くほどのSだって、そう思ってるんだけど。
七海さんはきっと、自分の本性に気付いていないんだろうな。
「痛かったですか? ごめんなさい」
七海さんの息が顔に触れる。
その表情にドキドキする。なにせこの、普段の清楚でおっとりした雰囲気の七海さんの、たまに見せるSっぽさを知ってるのが、たぶん俺だけだと思うから。
それに、このSっぽさに、嫌悪感を抱かない。
「……痛くないです、それに痛がったら、ドSの七海さんがもっと嬉しそうにするので止めておきます」
「そう、良かった。じゃあ、もっと痛くしてもいいですか……?」
「駄目ですよ。というより、やっぱりわざとなんじゃないですか」
「ふふ、わざとじゃないですよ」
顔を上げた七海さんは、俺の肩を叩く。
「それじゃあ、次は反対です」
「……反対はちょっと」
「駄目です。ほら、早くこっちを向いてください」
言われるがままに、俺は背中を向けていた体勢から、七海さんの正面を向く体勢に変える。
さっきまでリビングが映る光景だったのに、今では、七海さんしか見えない。
恥ずかしさが倍増すると、七海さんはどこか嬉しそうな声を漏らした。
「陸斗くんの頬、なんだか熱くなってますね……ふふ、かわいい」
「かわいいって、俺は高校生なんですけど?」
「それでもかわいいの。かわいいって言われるのイヤですか?」
「……嫌です」
「少し間が空きましたね。本当は、そこまでイヤじゃないのでは?」
「まさか……」
とはいうものの、別にめちゃくちゃ嫌というわけではなかった。
「陸斗くんは素直じゃないですね。まだ、大人の皮を被りたいんですか?」
「言い方悪いですよ。……まあ、そうかもしれません」
「ずっと頑張ってきたんだから、私の前では無理しなくていいんですよ?」
「……嫌です。もし弱い部分を見せたら、なんだか、どんどん自分が弱くなりそうなんです」
「そっか……」
七海さんは耳掻きの棒をテーブルに置く。
終わった、そう思ったが、七海さんの左手が頭を撫で、右手が俺の背中をさすっていて身動きがとれない。
「七海さん……?」
「私は、もう少し甘えてほしいです」
「え?」
「私は陸斗くんのお母さんでも、お姉ちゃんでもない。だけど、アナタには甘えられる大人が必要だと思うんです」
ギュッと自分の方へ引き寄せるように、七海さんの体へと顔を埋められる。
七海さんの表情は見えない。
どんな表情をしてるのかわからないから、それが本気なのかどうかわからず、返答することができなかった。
「お母さんにも、妹菜ちゃんにも、弱さを見せられないなら……私が、陸斗くんの弱い部分を出させてあげる」
一瞬にして七海さんの雰囲気が淫靡なものに変わっていくのを感じた。
そこには普段の七海さんの、落ち着いた雰囲気はどこにもない。
だけどその雰囲気に、その声色に、全身が蕩けそうになる。
「……本気、ですか? 七海さん」
「ええ、本気です」
「七海さんって、彼氏さんとか……」
「いません。いると思いました?」
頭を撫でられながら、七海さんの右手が背中を大きく動き始める。
「はい。だって、七海さん……綺麗だから」
「ふふっ、嬉しい。だけどいません。それに私、気付いたんです」
「何にですか?」
「それはね……」
七海さんの声が、遠くから近く──耳元で囁かれた。
「好意を寄せられるよりも、好意を向けたい……甘えるよりも、甘えられたいんだって。……ね?」
「──ッ!」
高校生には反則的な声色に、俺は絶対にしてはいけない興奮を強めてしまった。
「……陸斗くんのお耳、なんだか熱いですねぇ」
それに七海さんが気付いてるのかどうかはわからない。
耳元に感じる七海さんの声がどんどん色気を増していく。
「ねえ、陸斗くん……好きな子とか、いるんですか?」
「えっ、い、いませんよ、そんな……」
「そうなんですね。恋愛とか、したいですか?」
「別に……」
「今、嘘つきましたね? 耳がピクッて反応しました」
耳たぶを指で弾くと、七海さんはクスッと声を漏らした。
「教えてあげましょうか……大人の恋愛を」
「それって……」
──その瞬間。
顔を上に向けられる。
赤く染まった頬。誘惑するような瞳。
そして顔が少しずつ、こちらへと近付いてきた。
「目を閉じて……」
全身が金縛りにあったかのように、俺の意志に反して動かない。
──いや、動きたくないのは、意志の方なのかもしれない。
このまま先に進んだらどうなるのか、どうなってしまうのか。俺の頭は真っ白になり、近付いてくる七海さんの柔らかい唇に視線が奪われる。
そして──期待するように俺は、目蓋を閉じる。
「……言うこと聞いて、偉いね、陸斗くん」
真っ暗な視界の中、すぐ目の前から七海さんの声がする。
生温かい息が触れ、七海さんの体温がはっきりと感じる。
──そして、
「だーめ」
七海さんの人差し指が、俺の唇に触れた。
目を開けると、今までに見たことないほどの幸せそうな笑顔を──Sっ気のある小悪魔な笑みを七海さんは浮かべていた。
「もっと甘えてくれてから、教えてあげる」
それは自分に甘えろと言っているようだった。
そうすればこの先へ、止めることなく、ずっと先へ進める。
俺は期待から唾を呑んだ。
だけど顔には出さず、視線を背ける。
「……そう、ですか。別に教えてもらわなくていいですけど」
動揺してるのが七海さんには気付かれてるだろう。
だけどそれに触れず、じっと俺を見つめる。
「これからは、もっと甘やかせてあげますから。だから陸斗くんは、私にだけもっと甘えていいですよ。私が大人になろうとする陸斗くんを──子供のように溺愛してあげますから」
ふふっ、と不気味な笑顔を浮かべた七海さんを見て慌てて上半身を起こす。
どんどん七海さんのペースで進み、あと一歩でも足を前へ出したら、本気で俺は七海さんに甘え、溺愛されるような気がした。
「それじゃあ、寝ましょうか」
俺が立ち上がると、七海さんも立ち上がる。
「……はい」
「明日、新聞配達に行く時間になったら私が起こしますからね」
「……はい」
それは悪いのでいいです。
その遠慮した言葉がすぐに出なかった。
まるでそれは、自分の大人でいなければいけないという意志を、七海さんの手によって少しずつ改変されてるようだった。
呑まれてはいけない、呑まれてはいけない。
そう思った矢先。
部屋へと向かって前を歩いていた七海さんは立ち止まり、振り返り、近付いてきて──。
「……ちゅ」
強い意志を取り戻すのを妨害するように、七海さんは俺の頬へキスをした。
柔らかい感触に驚く余裕もなく俺が固まっていると、顔を離した七海さんは自分の唇に触れる。
「これからは私が甘やかせてあげますから。だから陸斗くんは何も考えないで、私に甘えてくださいね」
おやすみなさい。
七海さんはそう言って、先に部屋へと戻っていった。
「……寝れるわけ、ないじゃないですか」
小さな声を漏らす。
子供の頃から持ち続けていた強いと思っていた意志が、脆く簡単に亀裂を入れられたのを実感していた。
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