第11話 彼女は天然か、それとも小悪魔か? 3


 七海さんが自宅へ戻ってから、洗い物をする俺の心臓はバクバクと音を鳴らしっぱなしだった。



「おにいちゃん、まいなもてつだうー!」

「あ、ありがとう。それじゃあ、泡が付いたお皿を水でゆすいでくれる?」

「うん!」



 妹菜は台を持ってくるなり、隣でお皿に付いた泡を水で落とす。

 きっと、俺の心境は理解してないのだろう。

 どこか楽しそうにしながら「しいなせんせー、まだかなー」と七海さんの到着を待ち望んでいた。


 ──七海さんが家に泊まる。


 今までの人生の中で、女の人を──ましてや年上の女性が家へ来ることも、泊まることも、初めてのことだった。

 不安だったり、緊張だったり、いろんな気持ちが頭の中を駆け巡る。



「おにいちゃん、どしたの……?」

「えっ、ううん、なんでもないよ」



 皿洗いをしながらボーッとしてたのか、妹菜は不思議そうに首を傾げる。



「きょう、しいなせんせーと、おやすみするのたのしみ!」

「そうだね……あっ!」



 妹菜の一言で思い出す。

 泊まるということは、この家で寝るということ。

 部屋はある。妹菜の部屋と、母さんの部屋。

 いつも俺は妹菜と同じ布団で寝ている。

 今日は俺と妹菜か、妹菜と七海さんかの組み合わせで寝ることになると思うけど、きっと、今日は俺一人で母さんの部屋で寝ることになるかな。



「お兄ちゃん、ちょっと妹菜の部屋に七海さんの布団敷いてくるね」

「ん?」

「七海さんに妹菜の部屋で寝てもらって、お兄ちゃんは母さんの部屋で寝るから」



 今のうちに用意しておこうと思ったが、妹菜は不思議そうに首を傾げた。



「おにいちゃんも、いっしょがいい!」



 そして、満面の笑みで恐ろしいことを言われた。



「だ、駄目だよ! 俺と七海さんは同じ布団では寝れないの!」

「なんで……いっしょだと、たのしー!」

「楽しい、かもしれないけど……」



 それは色々な意味で、俺が危ないんだから。

 だけどその危ない理由を、妹菜に伝えることはできない。


 上手く誤魔化して納得してもらうしかないよな。


 そう思い、俺はしゃがんで妹菜の目を見つめる。



「お兄ちゃんと妹菜の部屋は狭いからさ、三人で横になったら、寝苦しいだろ?」 

「だけど、いっしょがいい!」

「それにね、七海さん、狭いところは嫌いなんだって。狭いところでは寝られないみたいなんだ」

「そうなの?」

「ああ。だからせっかく泊まってくれるのに、わがまま言ったら迷惑をかけちゃうだろ?」

「……うん」

「だから今日は、妹菜は七海さんと二人で寝てほしいんだ。いい?」



 頭を撫でながら言い聞かせると、妹菜は悲しそうにしながらも「うん」と頷いてくれた。


 少しだけ嘘を付いてしまった。俺は嘘が苦手なのに。

 それに妹菜には、あまり嘘は付きたくない。

 だけどきっと、普通に言い聞かせても妹菜は頷いてくれないと思った。



「ありがとう。それじゃあ──」



 その瞬間、チャイムが鳴った。

 玄関へ向かうと、そこには紙袋を持った七海さんがいた。



「いらっしゃい、です……」



 少し服装は変わっていたけど、それでも、清楚な雰囲気がある服装には変わりない。



「お邪魔、しますね……」



 俺の緊張が伝わったのか、七海さんはどこかよそよそしい感じで頭を下げると、そのまま家へと入ってくる。


 その時、七海さんが持ってきた紙袋の中が少しだけ見えた。


 ピンク色のパジャマ。

 きっと、それを着て寝るんだろう。

 そのパジャマを着た七海さんの姿を、俺は無意識のうちに想像してしまった。



「しいなせんせー、おかえりー!」

「ただいま、妹菜ちゃん」

「まいなね、おにいちゃんのおてつだいしてたの!」

「へえ、そうなの! 偉いね!」

「ふふん!」



 リビングにて。

 七海さんは妹菜の頭を撫でていた。

 変な妄想をしたことを脳内で謝り、俺は七海さんに伝える。



「七海さん、お風呂を沸かしてきますね」



 それは普通の言葉だった。

 だけど七海さんが「あっ」と小さな声を漏らして顔を赤くさせたのを見て、俺も「あっ」と小さな声を漏らして、少し恥ずかしくなってしまった。



「家で入ってきて、ない、ですもんね……?」

「あ、その、はい……。急いで戻ろうと思ってたので」

「そうですよね。良かったです……あっ、この良かったってのは深い意味はないですから!」



 手をパタパタとさせながら伝えると、妹菜がキョトンとさせて俺を見ていた。

 だから俺は逃げるように、風呂場へと向かった。



「平常心、平常心……お風呂に入って、寝るだけなんだ」



 雑念を振り払うように湯船を丹念にスポンジで洗っていくが、それでも、男として妄想が止まらない。



「……今日、大丈夫かな」



 俺はため息をつきながら、いつも以上に磨いていくのだった。









 ♦








「しいなせんせー」

「ん、どうしたの?」



 陸斗がお風呂掃除をしてる中、妹菜は七海の手を握る。



「しいなせんせーは、せまいへやだと、ねれない?」

「えっ?」



 なぜそんなことを聞かれたのかはわからない。だけど、妹菜が悲しそうな表情をしてるところを見ると、この家で泊まることを嫌がってないか心配してるのだろうと思えた。



「ううん、平気よ。むしろ、先生は狭いところが好きなのよ」



 別に広いか狭いかに好き嫌いはないが、好きと答えるのが正解なのだろう。

 だから妹菜にそう答えた。

 そして、妹菜の表情がお日様のように明るくなった。



「ほんと!? やったー!」

「ふふっ、だから先生と一緒に寝ようね」

「うん! ──おにいちゃんもいっしょ!」

「……え?」



 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。



「えっ、あの……陸斗くんも一緒?」

「うん! おにいちゃんが、しいなせんせーがせまいとこきらいだって! だから、おにいちゃん、ママのおへやでひとりでねるって」

「そ、そうなの……」

「だけど、しいなせんせーがせまいのすきなら、だいじょーぶ!」



 妹菜はそう言って、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる。

 七海の表情は固まっていた。

 おそらく陸斗が七海に気を使って別々の部屋で寝ようとしたのだろう。だけどその理由に困り、陸斗は七海が三人で寝ると狭くなるからと、そう妹菜に伝えたのだろう。



「ま、待って、妹菜ちゃん……あの、あのね」

「ん?」



 つぶらな瞳で見つめられ、陸斗がどうして嘘を付いて言い聞かせたのかわかった。

 この瞳で見つめられると断れない。

 それを保育士である七海は理解している。


 そして、追い討ちをかけるように、妹菜は七海の手を握って瞳を輝かせた。



「しいなせんせーと、おにいちゃんと、いっしょにおやすみするの、まいな、うれしいっ!」



 そこまで楽しみにされたら拒めない。

 七海は覚悟を決めるように、苦笑いを浮かべた。










 ♦









 お風呂掃除にかなりの時間をかけ、お湯を沸かして、先に七海さんと妹菜に入ってもらおうとした。



「おにいちゃん、まいな、しいなせんせーといっしょにはいる!」

「そっか。七海さん、いいですか?」



 七海さんに聞くと、七海さんはどこか不審な様子で、視線をキョロキョロとさせていた。



「う、うん、大丈夫、ですよ……?」



 明らかにオドオドした様子で、七海さんは答えた。

 俺はその理由に気付けなかった。

 だけど、ハッ、となり、俺は慌てて否定する。



「お、俺は、リビングから動かないですから! 大丈夫なので、安心して入ってください!」

「え……あっ、別にそういうことじゃ、疑ってるわけではないですよ!」



 七海さんも慌て手をパタパタと振る。


 不思議な間が空いてから、妹菜は七海さんの手を握って二人でお風呂場へと向かう。

 あの、ピンク色のパジャマを持って。

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