第8話 あれ、あれれ?
「陸斗、くん……?」
バイト先から真っ直ぐ俺は、妹菜の通う幼稚園へと向かった。
妹菜は、七海さんと一緒にお絵かきして遊んでいた。
「すみません、七海さん。バイト先の人が、この期間だけ休んでいいって言ってくれたので」
「そうだったの。良かったですね」
他の園児はいない。
別の部屋には保育士さんもいると思うけど、ここにいるのは妹菜と七海さんだけ。
そして、妹菜は俺を見るなり顔を明るくさせて走ってきた。
「おにいちゃーん!」
「妹菜! ごめんな、迎えに来るのが遅れて」
飛び込んできた妹菜を抱き上げると、ううん、と首を振る。
「しいなせんせーが、いっしょに、おままごととおえかきしてくれたからへいきっ!」
「そうか、良かったな……七海さん、妹の面倒を見てくれてありがとうございます」
妹菜の頭を撫でながら、七海さんに笑顔でお礼をする。
朝から元気が無かった妹菜だけど、今は明るい表情で、不安の表情は一切ない。
この選択が良かったんだ。
それに、七海さんが面倒を見てくれたおかげだと思う。
だからお礼を。
すると、立ち上がった七海さんは一瞬だけ驚いた表情を見せてから、顔を伏せ、首を振った。
「えっ、う、ううん……大丈夫、ですよ」
「七海さん?」
俺と妹菜が首を傾げると、七海さんは慌てた様子でテーブルの上に置いたお絵かきセットを片付け始める。
「そ、それより、明日からはどうするんですか?」
「あっ、えっと、明日からは、バイトは休ませてもらえたので、学校が終わったらすぐに迎えに来ます」
少し頬を赤くさせた七海さんが、どこか色っぽくて、綺麗で、なぜたか俺はしどろもどろな返事をしてしまった。
「わかりました。それじゃあ」
七海さんは片付けを終わると、妹菜の頭を撫でる。
「良かったね、妹菜ちゃん。優しいお兄ちゃんが来てくれて」
「うん! しいなせんせーも、やさしいおねえちゃん!」
「お姉ちゃん……? ふふっ、そうね」
七海さんは目蓋を閉じて笑顔を浮かべる。
そして俺と妹菜は、七海さんに見送られながら自宅へと戻った。
「おにいちゃん、しいなせんせーが、しんぱいしてたよ!」
「えっ、七海さんが? なんて?」
「うんとね、えっとね……うーん、あれ、わすれた!」
「ははっ、忘れちゃったか。それじゃあ、思い出したらお兄ちゃんに教えて」
「うん、わかった!」
「よし、一緒に買い物して帰ろうか。何が食べたい?」
「えっとね、まいな、ローストビーフがたべたい!」
「ロ、ローストビーフ!? なんで急に……?」
「しいなせんせーが、おままごとしてたら、つくってくれたの!」
「そ、そうなんだ……ローストビーフ、ローストビーフ……お兄ちゃん、作れる自信はないかな」
♦
「ビックリした……」
陸斗と妹菜を見送ってから、七海は胸に手を当て、はあ、とため息をつく。
「……急に大人っぽい表情して、どうしたのかな、陸斗くん」
高校生から大人へと変わるのは一瞬だ。
ふとした瞬間、ふとした仕草で、大人へと姿を変える。
その瞬間を、七海は目の前で見てしまったような気がした。
「朝は守ってあげたくなる感じの高校生だったのに……さっきの笑顔は、なんだか」
妹に優しい、カッコいいお兄ちゃん。
そう口にしようとして、それを振り払うように、七海は慌てて首を振った。
「な、なにを考えてるの……前から優しいお兄ちゃんだったじゃない、陸斗くんは」
だけど、あの一切の汚れがない純粋な笑顔が、頭のどこかでチラつく。
それと同時に。
あの笑顔を守りたいと、そう思ってしまった。
「……陸斗くんの、保育士さん」
思ったことを口にして、七海は顔を真っ赤にして廊下を歩く。
「何を考えてるのよ、七海! それは、それは……意味が違うでしょ!」
自分で思って自分で否定する。
ただ純粋に、ずっとあの笑顔を向けてくれたら嬉しいなと思った。
自分が保育士になったのも、子供たちに笑顔を向けられるのが好きだったから。
──彼に笑顔を向けられると、子供たちから向けられるのと同様に嬉しく、なんだか心が温まる。
七海はふと、足を止めた。
その表情はどこか間抜けな壊れた人形のようで、何度も何度も首をカタカタと傾げていた。
「あれ、あれれ……私、どうしたの? なんで急に、こんなに動揺してるの……?」
七海は疑問の答えを、後にすぐ知ることとなる。
♦
──次の日。
七海は、陸斗から妹菜を預かると、すぐさまため息をついた。
「はあ、どうしちゃったのかな」
陸斗の顔が今までみたいにはっきりと見られない。
それどころか、笑顔ではない、少し苦笑いを浮かべたり落ち込んでみせたりすると、異様なほど心配になってしまう。
それはまるで母親のようだと、七海は思う。
「しいなせんせー、どしたの?」
「えっ、ううん、なんでもないの」
教室へと向かう途中。
手を繋いだ妹菜が不思議そうにしていた。
丸っこい顔が、可愛い。七海はすぐさま笑顔を向けて大丈夫と伝えた。
「そっかー、しいなせんせー、きのうのおにいちゃんみたいなかおしてた」
「えっ、陸斗くんと同じ?」
「うん、おにいちゃんもむずかしいかおして、うーん、うーん、って」
「そ、そうなのね。何かあったの?」
そう問いかけると、妹菜は少しだけ悲しそうな表情を浮かべる。
「おにいちゃんに、ローストビーフがたべたいっていったの」
「ローストビーフ!? え、どうして!?」
どうして急にローストビーフというワードが出てきたのか、七海は驚いて、他の園児たちに聞こえるほど大きな声を出してしまった。
「……きのう、しいなせんせーとおままごとしてたから」
「あ、そうよね。それで食べたくなったの?」
「うん。それに、おにいちゃん、ローストビーフすきだから。ママとおにいちゃんとまいなのさんにんで、クリスマスにたべたとき、わらってたから」
「あ……」
それはきっと、まだ二人の母親が元気だったころの話だと、すぐに気付いた。
以前、陸斗は言っていた。
母親が倒れてから、クリスマスのような祝い事でも普段と変わらない生活をしてると。
もちろん、ケーキなんかはあるが、それでも生活が厳しくなってからは、前のような豪勢な食卓ではないのだと。
「そっか……それで、お兄ちゃんに食べて笑ってほしかったの?」
「うん。おにいちゃん、ずっとげんきなかったから……」
子供の表情は一瞬にしてころころ変わる。
笑ったと思えば、何秒後には泣いてしまったり。かと思えば、また笑ったりと。
子供の喜怒哀楽なんてのは、すぐに見てわかる。
だからはっきりと、今の妹菜は悲しんでるのだと、七海は理解できた。
──そして、妹菜は七海のことをジッと見つめた。
「だけど、おにいちゃん、しっぱいしたって……ごめんねって」
「そう、なのね……難しいもんね」
「うん、でも、おにいちゃんにたべてほしくて……。ねえ、しいなせんせーは、ローストビーフ、つくれる?」
「えっ?」
何かを訴えかけるような視線。
決して下心のない子供の目。裏表のない、子供ながらの純粋な疑問。
だからだろうか。
七海は次に言われることを容易に想像できた。
子供は純粋だから、大人の事情とか何も考えてない疑問をぶつけられる。
だからもし、その疑問を断りたいのであれば、七海の答えは決まっていた。
──作れない。
それを言えばきっと、子供である妹菜は理解してくれるだろう。
だが、もしも違う言葉であれば、きっと──。
「……作れる、よ?」
その瞬間、妹菜の表情が明るくなった。
「ほんと!? しいなせんせー、おにいちゃんにローストビーフ、つくって!」
「あ、その……」
わかっていながらも、してはいけない返事をしてしまった。
いや、園児を喜ばせる保育士として、この答えは正解なのかもしれない。
──けれど、七海はローストビーフの作り方なんて知らない。
要するに嘘を付いてしまった。
決して子供に付いてはいけない、嘘を。
「……うん、いいわよ」
「やったー、きょう? きょうがいい!」
だけど妹菜が喜ぶなら、陸斗の力になれるのであれば、それはそれで、いいのかもしれない。
「今日か……」
「ダメ……?」
「ううん、じゃあ今日、椎名先生が二人に作ってあげる」
「やったー、しいなせんせー、ありがとー! えっとね、えっとね、おにいちゃんをおどろかせたいの!」
「驚かせる……?」
疑問に思い伝えると、妹菜は大きく首を縦に振った。
「うん! まいなのおうちで、パーティー! しいなせんせーといっしょに、おにいちゃんにないしょでパーティーする!」
「……え?」
それはつまり、自分が妹菜の──陸斗のいる家へお邪魔して、彼のご飯を作るということだろう。
それが意味することとは。
七海の鼓動が早くなり、顔はどんどんと赤面していくのであった。
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