第7話 用法と用量を正しく使える大人

 学校が終わってすぐにバイト先である本屋に到着した俺は、出勤の準備をしていた。



「えっ、りっくんのお母さん入院するの……?」



 着替えもできる休憩室で、先に準備を終えて椅子に座っていた柚葉さんは、食べようとしていたグミを、ポロッとテーブルに落とした。

 その表情は驚いているようで、同じくここにいた綾香さんも同じ表情だ。



「陸斗、それなのにバイトに来て良かったのか……?」

「えっと、まあ、検査入院で一週間だけみたいなので……だけど、すみません、綾香さん。18時に妹を幼稚園に迎えに行きたいので、早めに上がらせてもらってもよろしいですか?」

「それは構わないが……」



 綾香さんはテーブルを挟んで前に座る柚葉さんの表情を見る。



「りっくん、休んだ方がいいんじゃないかな。だってその間だけ、親戚の人とかが来るわけじゃないんでしょ?」

「そうですけど」



 柚葉さんからはいつもの陽気な雰囲気が見られなくて、こんな状況なのに、どこか新鮮に感じられた。

 俺は準備を終えて、柚葉さんの隣に座る。



「だけど、働かないと……入院するのにお金かかりますから」

「……だけど」

「陸斗。うちとしては、夜に出られるバイトは二人の他に数名しかいないから働いてくれるのは有り難い。だけどね、こんな時は休むべきだと私は思うよ。君のためでもあるが、何より、妹のためにもね」

「妹菜の……?」



 上着の胸ポケットからタバコを取り出そうとした綾香さんだったが、その手を止め、腕を組んで俺をジッと見つめた。



「これから陸斗は辛くなると思う。きっと、自分が想像してる以上にね……。だけどそれは、君の妹も同じだ。生まれてすぐに父親を亡くし、母親も数日とはいえ家にいない。きっと寂しいだろう。そんな時に兄もいないとなれば、まだ幼い妹は君と同じぐらい辛いだろうね」

「……だけど」

「君の家庭環境は我々も知ってる。どうして君がバイトを掛け持ちしてるのかも、ね……だけどこの期間だけは、休むべきだよ。妹を大好きな兄ならね」



 普段から目つきが鋭い綾香さんの視線が、今日も鋭いのに、どこか優しく感じられる。


「帰れ」とは言わないけど、その表情からは「帰るべきだ」と言われてる気がした。

 はっきりと言わないのは、綾香さんがうちの家庭環境を知っていて、他人が勝手なことを言うべきではない、強制するべきではないと、そう思ってるからなのかもしれない。


 すると、代わりに深く考えず思ったことを口にする柚葉さんは、不安そうに俺を見つめる。



「りっくん……今日は帰りなよ。りっくんのお家が大変なのも知ってるけど、今日はさ、妹菜ちゃんと一緒にいた方がいいって」

「柚葉さん……」

「家事とかもりっくんがするんでしょ? 今までお母さんのお手伝いしてたかもしれないけど、手伝いと一人でするのは勝手が違うから」



 柚葉さんに諭すように言われた。

 綾香さんは無言のまま、俺をジッと見つめる。



「綾香さん、すみません……今日は、帰らせていただきます」

「ああ、構わない。代わりに私と柚葉でこなすよ」



 俺は頭を下げ、部屋を出て行く。

 向かう先は、妹菜が待つ幼稚園だ。









 ♦









 二人になった休憩室で、冴草綾香はタバコに火を付けた。

 白い煙が換気扇へと吸い込まれ、目の前に座る美鏡柚葉は目を細める。



「店長、タバコの匂いくさい!」

「すまない、高校生の前では我慢していたからな」

「大学生の前でも我慢してください! 贔屓ひいき反対!」



 そう言われ綾香は立ち上がると、換気扇の下へと移動する。

 柚葉は少し不機嫌そうに「まったくもー、まったくもー」とグミを口にする。



「柚葉、陸斗に行けと言ってくれて、ありがとう」

「えっ、別にいいですけど。どうしたんです、急に改まって。怖いですよー?」



 綾香と柚葉は店長とバイトの関係という以上に、友人関係でもある。

 それは陸斗も知らないことだが、職場外で二人で出掛けることもよくある。



「私は強くは言えなかったからな」



 タバコの灰を、綾香は煙を吐きながら灰皿へと落とす。

 トントンっ、という音と、換気扇が回る音が、沈んだ空気に響く。


 すると、柚葉は大きなため息を漏らした。



「りっくん……気付いてないですよね。自分の環境が変わっていくことを」

「だろうな。きっと、その検査入院が終われば元に戻る。それまで堪えれば大丈夫。そう思ってるんだろう」

「普段は大人っぽく振る舞ってるけど、まだ高校生、ですもんね」

「ああ、そう見えないように頑張ってはいるんだろうがな」

「……店長、お母さんがなんで検査入院するか、聞かなくて良かったんですか?」



 視線を向けられ、綾香は首を左右に振った。



「聞いて何になる? むしろ、聞いたらもっと踏み込んだ話をしなくてはならなくなっただろ?」

「……症状や内容を聞いたら、検査入院で済まない可能性が見えちゃうから、ですか?」

「ああ。検査入院なんて二分の一だ。良くなれば退院できるが、悪くなれば入院期間は長くなる。私たちがどうして入院するのか聞いてしまったら、つい口に出てしまいそうだ」

「そう、ですよね……だけど、検査入院で終わらなかったら、りっくん、どうなっちゃうんですか?」



 いつもは陽気な柚葉が、暗い声色を発し、表情からは笑みを封じている。

 心配なのだろう、バイト仲間──陸斗が。

 だから綾香は「わからない」と答えてから「だが」と言葉を続けた。



「……もしそうなれば、陸斗が壊れるかもしれないな。これまでずっと、誰にも頼ろうとしなかったんだ。自分で自分を頑張らせるように縛ってな。だからきっと、これからも人には頼ろうとはしないだろう。そして──負担が倍以上に増えても誰にも頼れず、気付いたら壊れてしまうかもしれない」

「……なんで、頼らないのかな、りっくん。言ってくれれば、手を貸すのに」

「さあ、頼り方がわからないのだろう。正確に言うなら、他人への甘え方を知らないのかもな」



 綾香はタバコの火を消すと、再び椅子に座った。



「自分が頑張らないといけない。父親の代わりに、家族で唯一の男として。私は陸斗じゃないからわからないが、そういう気持ちがあるから、できないのだろう。一度でも甘えてしまえば、自分の弱さを自覚してしまうからかもしれんな」

「……じゃあ、私たちができるのは、いつも通りに接してあげて、りっくんから甘えてくるのを待つぐらいなんですか?」

「いいや、もう一つある」



 綾香はテーブルに置いたタバコに視線を向ける。



「店長……?」



 柚葉が首を傾げてこちらを見る。

 見た目は遊び歩いてそうな雰囲気がある柚葉だが、それは見た目だけであり、本性はそんなことはなく──むしろ、誰よりも一途なタイプな彼女。

 それを知ってる綾香は口元に笑みをこぼす。



「私たちは大人だ。自分から甘えることのできない子供を、無理に甘えさせるのも大人の努めかもしれないな」

「……店長、それちょっとエッチですよ。でも私、甘やかせるのメッチャ得意なんで」



 と、自慢気に告げた。

 その表情に不安を感じ、綾香はため息をつく。



「……甘やかせすぎて、何もできないダメ男にはするなよ?」

「へっ? もう、大丈夫ですよー。甘えさせるにも、用法と用量を守って正しく使いますから」

「……頼むぞ、本当に。本性は出さないでくれよ」

「なんのことだかさっぱりー。さーて、仕事仕事ー」



 柚葉は不気味な笑顔を浮かべながら、休憩室を後にする。

 綾香は一人、部屋の中で頭を抱えた。

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