第三章「甘い誘惑、甘い罠」

第18話「甘い誘惑」


 翌日。


 私は普段どおりに会社へと向かった。


 正直、今日ほど会社を休みたいと思った日は無い。


 体が重い。


 心も重い。


 オフィスの中。扉の前に立つと声が漏れ聞こえる。


 私の噂なんじゃないか。被害妄想が首をもたげる。


 ……昨日あんな事があったしな。


 けど、もう後には引けない。


 私は意を決して扉を開き中へと入り込んだ。


「おはようございます」


 挨拶を口にするも、待っていたのは想像通り、冷たい視線と静けさだった。


 よそよそしく、いくつかの挨拶の声が返って来るものの……。


 何も無い風に装いつつも、腫れ物に触れるような空気が周囲を充満していた。


 普段は嫌味を言ってくる部長も、今日ばかりは何も言ってこない。

 お局様も見ないふりを決め込んでいる様子。


 気にしちゃダメだ。静かでよい事じゃないか。



 どうせもう……全ては終わったのだから。



 私は気を取り直してデスクへと向かうのだった。




 こうしていつもとは打って変わって、静かだけど物憂げな一日を過ごした私。




 業務時間も終わり、サービス残業も終え、タイムカードを押す。




 そんな憂鬱な日々が何日も過ぎ、地獄を耐え抜くが如き日々が過ぎていく。



 石川さんと会う事もなぜか無くなり、癒しの無い日々が続いた。


 だが、苦しい生活にもやがて慣れというものがやってくる訳で。


 心を無にして働き続けて数日。



 そんなある日の事だった。



「な~るせさん」


 食堂で突っ伏していた私の耳元に、あの涼しげで爽やかなお声が。


 背後に、石川さんが立っていた。


「はい、これ」

「ひぎぃっ」


 ほっぺたに冷たい物を押し当てられ、小さくも醜い悲鳴をあげてしまう。


「ごめんごめん。びっくりした?」


 悪戯っぽい笑みで微笑む石川さん。


「甘いもの、好き?」


 押し当てられていたのは甘さがMAXな事が売りの黄色い缶コーヒーだった。


「僕の奢り。がんばってるみたいだからね」


 優しさが心に染みる。


「ごめんね。大事な時に会えなくて」

「いえ……」


 プルトップのふたを開け、ゴクリとコーヒーを飲み干す。

 世間の厳しさに当てられた心と体に、甘さが芯まで染み渡る。


「ちょっと忙しくてね。色んなとこ飛び回ってたんだ……って、言い訳かな」

「そんなこと……しょうがないですよ。お仕事だし……それに」

「それに?」

「私の事なんて……どうせ、あんな変な奴と知り合いな、気持ちの悪い女だって、きっと軽蔑しましたよね?」

「どうして?」

「どうしてって……」

「病気になっちゃった可愛そうな元彼なんでしょう?」


 どうやら噂になってしまっている様子。

 あのハゲ部長。言いふらしやがったな。


「でも、元って事は……今はフリーなの?」

「え?」


 それってどういう……。


「今夜、空いてる?」


 間近に素敵な微笑みがあった。


「また一緒に、羽根、伸ばしちゃおっか」


 悪戯めいた笑みを浮かべて魅力的な提案を口にする石川さん。

 そんな素敵な提案に乗らない理由なんてあるはずがない訳で。


 私は、彼に誘われるままに楽しい時間を過ごし――そのまま、この身を捧げる事になるのであった。


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わた☆ゆう~さえないOLである私のもとに勇者の方がやってきた!?~ 金国佐門 @kokuren666

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