第17話「静かな部屋に一人きり」


 私は一人、広くなった部屋の中で佇んでいた。


 広いといっても、元々狭かった部屋だ。


 一人余分な物が無くなって、ようやくまともになった、といった所か。



 そう、まともになったんだ。


 ようやく、普通が戻ってきただけなんだ。



 なのに、何故か涙が止まらない。


 なんでだろう。


 あんな奴、いなくなって清々したはずなのに。




 思い出されるのは楽しかった日々。


 あんなに疎ましかったというのに、いなくなった瞬間に思い出される楽しかった日々の思い出。



 同棲が始まった頃の、楽しかった記憶が急に蘇ってくる。



 一緒にごはんを食べるだけでも楽しかった。

 イケメンとかそういうのだけでなく、誰かと一緒にいるのが楽しかった。


 何も知らない彼の無邪気さが心地よかった。


 こちらの世界を何も知らずに、カレーを排泄物だと思い込んで一口食べるのにも躊躇したり。

 ちょっと豪勢なケーキを出したら、こんな美味なるものが!? みたいな顔をしたりするのが楽しかった。

 TVゲームなんて知りもせずに、簡単にあしらわれて「奈々子殿はお強いですなぁ~」なんて。

 RPGをやらせれば「ドラゴンは四人で倒せるような存在ではございません」なんて意見してきたり。

 なのに「まぁ私ほどの腕前があれば別ですけどね」なんて自慢げに言ってきたりと可愛い姿を見せてくれたり。


 色んな魔法も見せてくれたなぁ。


 お皿を洗おうとして水の魔法と風の魔法を見せてくれたり。

 怪我をした時に魔法で治してくれたっけ。

 風邪をひいた時も魔法で治してくれた。

 部屋中を花の香りで充満させてくれたり。


 楽しかった。


 けど色んな失敗もあった。


 洗濯機の使い方がわからないからと、風呂場で桶を使って手洗いしてくれたり。

 掃除機があるのに雑巾がけをして部屋を綺麗にしようとしてくれたり。


 そうだ。

 そうだよ。

 彼は彼なりに、ちゃんと役立とうとしてくれていたんじゃないか。


 それなのに私は――。



 たまたま相性の悪い仕事ばっかだったってだけで、別の仕事なら大丈夫だったんじゃないか?


 次の仕事が見つかるまで我慢してあげればよかったんじゃないのか?


 確かにあんな格好で職場まで来たのは困った事だったけど、あそこまで怒るような事だったか?



 でも、全ては終わってしまった。


 あの楽しかった日々も、もう終わってしまった。



 思い返すほどに、色々あったけど、楽しい事もあったんだなと思い返される日々。



 それなのに、なんで私はまるで悪い事ばかりあったみたいに?


 悪い事ばかり忘れられずに、楽しかった日々を忘れていた?





――どうしてこんな事になってしまったのだろう。





 なんだか最近、自分じゃない自分、自分だとは思えない何かが急に爆発する感じが抑えられない。



 心の中に、ドス黒い何かが溜まりこんでいる嫌な感じがして吐き気がする。



 まるで、私じゃない何かが体の中にいるみたいで気味が悪い。



 けれど――。



「もう……どうしようもないじゃないか」



 そうだ。全ては終わってしまったのだ。


 私が、終わらせたんじゃないか。


 それなのに……何を今さら。



「忘れよう……」



 昨日よりも広くなった部屋で、私は一人床につく。


 何を後悔する必要があると言うのか。

 私は取り戻しただけなんだ。


 普通を。


 本来あっただけの、普通の日常を。


 今までが異常だっただけじゃないか。


 私はただ、元に戻っただけなんだから。


 無かったはずのものが、また無くなっただけ。


 あったのがおかしい日々が、無くなってしまっただけ。


 そうだよ。



――全部元に戻っただけなんだよ。



 静かに、静かに、闇の中へと落ちて行く。



 自業自得な悲しみに浸りながら、私は暗い闇の中へと溶けて消えるように、一人静かに眠りにつくのだった。

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