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僕は寝台に横になりながらも、昼間の出来事が忘れられずにいた。あの彫刻の不思議な魅力に気がついたのは、僕が最初なのだろう。部屋の隅にぽつんと地味に飾られたそれは、何故か僕にとって懐かしく感じるのだ。
その懐かしさを否定された時、僕は自分自身を否定されたような感覚に陥ったのである。
僕は何処の誰で何者なのか、僕を証明するものはなにもない。新聞紙のコレクションも洋服たちも数枚の硬貨も、必要がなくなって疾うに僕の側には無くなっていた。強いて言うならあのカスケット帽は、僕とずっと苦楽を共にしてきた相棒なのだからと言い、 被らないことを条件に今も僕の枕元に鎮座している。
久しぶりに相棒を手に取った。もう生地もボロボロで何色なのかもよくわからなくなってしまっていたが、物心着いた頃から持っているものなのだ。確か若い女性から頂いたのだったろうか。
寝る気分にもなれなかった僕は寝台に座り壁に寄りかかって、顔にボロボロのカスケット帽を被せてぼうっとそのようなことをぐるぐると考えていた。
ふと気がつくと、帽子の生地の切れ目から何かが紅くぼやぼやと光っているのが見える。僕は帽子を手で持ち上げた。あの彫刻が置いてある台座の辺りだ。
この屋敷は床一面に大理石が敷き詰められているが、それは僕の部屋も例外ではない。コツコツと音を立てて台座に近付く。どうやら彫刻の内部が紅く光っていて、ヒビなどの隙間から光が漏れ出ているようだった。
どういうことだろうか。近付けば近付く程光は色濃くなっていく。
まるでそれは聖なる光で、両手でこの彫刻を掬い上げなければならない気がした。
一瞬奥様と旦那様との約束が頭に過ったが、幸い今宵は分厚い雲が月を隠しているし、こんな真夜中に見咎める人も居ないだろう。僕はゆっくりとカスケット帽を被り、慎重に彫刻を手に取った。
それから漏れ出す紅い光は宛ら流れる血液のようだった。ひやりとしたその塊からはまるで生きているかのような脈動を感じる。
思わずほう、と息が漏れた。
前より謎の魅力を感じてはいたが、今は明らかな美しさを持って僕の手の中に鎮座している。
どくり。
ふと一際大きく彫刻が律動し、光が溢れ出したかと思えば一点にスルスルと集結していく。それは彫刻の台座と床の大理石との境目。
屈んで光越しによく目を凝らすと一面の真っ白な床の中で白でない色が1部、台座の床際から見え隠れしていた。
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