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それからというものの、僕の生活は一変した。

上流階級のみが送ることを許されるであろう優雅な生活は、普通ならば僕が一生味わうことが出来なかったものなのであろうが、どこか馴染めないでいた。


彼らが僕に課したルールは屋敷内でカスケット帽を被らないこと、そして屋敷から極力出ないこと。ただそれだけであった。


飢えと寒さの苦しみは人一倍知っている。生まれてからこの方苦汁を嘗めてばかりであった僕は、それらと無縁である今の生活を失いたいはずもなく、しっかりと定められたルールに則り生活を送っていた。そのため専らカスケット帽は寝台テーブルに鎮座しており、僕もそれを手に取ることは殆どなかった。


そんな僕が窮屈な生活の中で楽しみにしていたのが、この古く広い屋敷に点在する古い芸術作品を見ることであった。


シックな深い赤の壁や天井には多くの絵画が、廊下には煌びやかな花々が活けられた陶磁器が。数々の芸術品は今まで見たことも無いものばかりで、僕の好奇心を大いに掻き立てる。


中でもとりわけ僕の目に止まったのは、僕の部屋として割り当てられた部屋の隅にぽつんと置かれた大理石の彫刻だった。こじんまりとした台座に据えられていたそれのサイズは手のひらに収まるくらいで、何やら読めない文字が刻まれている。角錐のその作品は寝台のようにも見える。


何故かわからないがアレは僕を惹き付ける。故郷の空気を吸ったような心地良さと、脳髄を掻き回されているような不快感が共存している。最も僕の記憶上に故郷などはない訳だが。


芸術の善し悪しなど分からないズブの素人が素手で触れるのもどうかと思い、僕は毎日その不思議な物体を眺めるのであった。

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