第16話

 父さんから逃げ出してやってきたのは、小学校の時よく遊んだ通学路の途中にある公園だった。時刻はそろそろ夕方六時になる。遊んでいる子どもたちも家路に着く時間だ。公園からは徐々に人がいなくなっていき、俺一人が残される。




 一人でブランコに座って、ただ俺は時が過ぎるのを待った。昔はよくこのブランコで靴飛ばし何かをやったものだ。俺は脚力が足らなかったのか、ブランコを漕ぐのがあまり上手じゃなかったのか、大した飛距離は出せなかった記憶がある。




 空はオレンジから深い藍へ徐々に色を変えていく。そういえば昔から俺はこの時間が好きではなかった。友達といくら楽しく賑やかに遊んでいても、この時間になるとそれは終わり。俺は一人の家に、誰も待つ人が居ない家に帰らなければならない。それが小学二年生くらいまでは嫌だった。流石にそれ以降は慣れてしまって、何も感じなくなったけれど。




「……今じゃ父さんがいるってだけで帰りたくなくなるんだもんな」




 もし家族が今のようにバラバラになっていなかったら、どうなっていたのだろう。ふとそんなことを考えたが全く想像がつかなかった。あの両親と一緒に過ごす日々。朝と晩は家族揃って食事を取って、週末や長期休暇には家族でどこかに出かけたりする。そんな普通の家族の生活を俺たちが送っている様子、いくら考えても想像がつかなかった。全く、俺は何意味のないことを想像しているんだろうか。




「ははっ、長いこと一人で居すぎたせいかな……」




 乾いた笑いがこみ上げてきた。一人、と言っても全くの孤独だったというわけではない。学校にだって数は多くないけれど友達はいたし、隣の中庭さんともそれなりの交流はあったし。




 だがしかし、それでも一人は一人なのだ。自分を理解して相手を理解して、時に守って守られて、それが家族という存在だ。少なくとも俺の好きなゲームやアニメでは、大抵がそういうものだ。友達やご近所さんではその代替にはなれない。なれるとしたらそれはやっぱり、幼馴染ぐらいじゃないだろうか。




『啓介くん、一緒に帰ろ?』




 ふと彼女の、中庭遥香のことが頭に浮かんだ。俺の目の前に突然現れた、幼馴染を名乗る怪しい少女。




 ――もし、俺に本当に幼馴染が存在したのなら、俺はどうなっていたのだろうか。




「そしたら俺は、一人じゃなかったのかな……」




 呟いた言葉に返事はなく、ただ夕闇に消えていく――




「啓介くんは、一人なんかじゃないよ」




 ――はずだった。




「なっ……お前どうしてここに」




 気がつくと隣のブランコには制服姿の遥香が座っていた。




「何となく、散歩してただけ。そしたら偶然啓介くんがいたから」


「……嘘つけよ」




 俺の追及にも彼女はただ静かに笑うだけで、答えようとしなかった。更にそれを追求する元気もなかったので、彼女を追い返すこともせず俺はそのまま黙りこむ。彼女も特に何かをするわけでもなく、ただ俺の隣に座っていた。




 俺達は、ただ二人で、夕暮れの公園のブランコに座っていた。空の茜色はどんどんその勢力を失っていって、夜の黒に取って代わりつつある。どこからかカレーの匂いがした。今日の夕食なのだろう、いい匂いだ。




「……腹、減ったな」


「そうだね」




 それだけで、会話は終わった。また辺りに静寂が戻る。




「お前、帰んないのかよ?」


「そうだねー……」


「暇なのか?」


「ん~……そうだねえ」


「……いいともじゃねえんだから、それ以外言うことねえのかっつーの」


「ふふっ、そうだねー」




 ここに居たって何一つ面白いことはないのに、彼女は何故だか笑っていた。何故だか笑って彼女は、俺の隣に座っていた。やはり彼女の思考回路は理解できない。それでも不思議と、不快感はなかった。




「……もう暗くなってきたしさ、お前帰れよ」




 このあたりの治安は別に悪いわけではないが、街灯は少ないので夜道はかなり暗い。そんな道を女の子に一人で歩かせるのも忍びない。




「啓介くんは帰らないの?」


「ああ、俺はもうちょっとここに居る」




 今すぐに帰ったら、父さんはまだ家に居るかもしれない。彼とはしばらく顔を合わせたくなかった。




「じゃあ私もまだ残る」


「おい、お前……」


「ほら、もうどんどん暗くなって行っちゃうよ? こんな暗い道を女の子に一人で歩かせるの?」




 こいつ、どうやってもここに残るつもりか。




「だから今すぐ帰ればまだ真っ暗になんないっての」


「仮に私が今すぐ、暗くなる前に帰れたとしてもさ、啓介くんは暗い夜道を一人で歩くことになるんだよ?」


「別に俺は大丈夫だよ、ガキじゃねえんだし」


「だったら私だってガキじゃないもーん」




 屁理屈を捏ねやがって、何て女だ。




「男と女じゃ話が違うんだよ」


「あ、私のこと女の子扱いしてくれるんだ。やっぱり啓介くんて優しいんだね」


「あのなあ……」




 中庭遥香、思っていたよりも大分強かな奴だ。このままでは何時まで経っても埒があかない。




「俺は一人でいいんだよ。昔からずっとそうだったし、これからもきっとそうなんだ。だから放っておいてくれよ。何なんだよ、急に現れて幼馴染って」




 今までずっと一人で居たのだから、俺はそれでいいのだ。その方がずっと落ち着くし、ずっと気が楽だ。誰かと居るなんて面倒臭いし、鬱陶しいんだ。




「……ねえ啓介くん。さっきも言ったけどさ、啓介くんは一人なんかじゃないよ、昔から」




 昔から、と遥香は言った。意味がわからない。俺は両親が帰ってこなくなったあの日から、ずっと一人なのだ。




「昔からって、どういう意味だよ」


「それは、ええっと……秘密」


「やっぱりお前、意味分かんねえ」


「し、仕方ないじゃない、言えないものは言えないんだもん」


「だもん、じゃねえっつうの」


「うう……啓介くんの意地悪」




 散々意味深なことを言っておいて、肝心なところは何も教えてくれない。何なんだよこいつは。




「とにかく私は、啓介くんを一人になんてしないからね」




 あなたは一人じゃない、あなたを一人になんてしない。何て臭いセリフだろうか。ド直球すぎてギャルゲやエロゲなんかでもそうそう使わない台詞だ。現実ではもっと使いづらい恥ずかしい言葉を、彼女は臆面もなく使ってきた。




「何だよ、それ……」




 意味がわからないと、こいつあ頭がおかしいと流すのが正しい対応。臭い台詞を小馬鹿にするのが普通の反応。それは分かっている。分かっているのに、どうしてだか俺はそうすることが出来なかった。




「ははは、マジ、何なんだよ……」




 どうしてだか分からないけど、俺は泣きそうになっていた。泣きそうになるのを、俯いてぐっとこらえていた。




「啓介くん……」




 俺の名前を呼ぶ遥香の声。穏やかで優しくて心地が良くって、涙が零れそうになって、何だかとってもムカツイた。




「こっち……見んじゃねえよ」


「うん、分かった」




 それだけ言って、彼女はまた黙りこくった。黙ってただ隣にいてくれる遥香のことが有難くって、小学生レベルの臭い台詞に泣きそうになっている自分が情けなくって、複雑な気分だった。


 すっかり暗くなった公園に、また静寂が戻る。聞こえるのは何故だか出てくる涙をこらえる俺の鼻をすする情けない音だけだった。




 どうして涙が出てくるんだろう。どうして彼女は、こんなにも俺に優しいのだろう。俺は顔は全然全く良くないし、頭だって悪い。運動ができるわけでもないし、芸術の才能があるわけでもない。ちょっとアニメやゲームに詳しいだけの普通の、普通以下の高校生だ。こんな何も持っていない、ただの冴えないエロゲオタクに、彼女はどうしてこんなに優しくしてくれるんだろうか。




「……なあ、何でだよ」


「ん、何が?」


「何でお前は、俺と一緒にいてくれるんだ?」




 俺は彼女に何と言って欲しいんだろうか。「好きだから」「愛してるから」、こんな言葉はいらなかった。現実にあるどんな好きも愛してるも嘘ばっかりだ。自分の両親を見れば分かる。完璧な愛なんて、きっと創作の中にしかないのだ。




「そんなの……決まってるよ」




 俯いていた顔を上げて、彼女の顔を見る。いったい遥香はどんな顔で、何を言うのか。それが気になった。




「だって私は、啓介くんの幼馴染だから」




 彼女の答えは愛でも恋でもなく、『幼馴染』という関係だった。しかも自称の、一方的なもの。




「私は啓介くんの幼馴染だから。だから私はここに居る」




 そう言う彼女の笑顔は、遠くの街灯の光を受けて優しく光っていた。菩薩のようなとか、女神のようなとか、そういう笑みではなく、ただの十六歳の少女の笑顔。神々しさだとかそういうのは全く無いし、後光なんかも差すわけがない。それでも少なくとも俺にとってその笑顔は、どんな芸術家の絵画よりも彫刻よりも、どんなクリエイターのイベントCGよりもフィギュアよりも綺麗だった。




 言っていることは相変わらず信じられない。俺に幼馴染なんて居ない。だけど俺は遥香のこの言葉を聞いて、この笑顔を見て、




「…………そっか」




 そんなのも悪くはないと、愚かにもそう思った。この答えに不思議と納得している自分が居た。




「うん、そうだよ」




 たとえ俺に覚えがなかったとしても、こんな幼馴染がいてくれるのは悪くない。そう、思った。一度そう認めてしまったら、何だか心が軽くなった。どうして俺は頑なに彼女を拒み続けてきたんだろうか。全く、バカらしくって仕方がない。




「ははは、そうだよな」




 幼馴染であるというだけで、俺が俺であるということだけで、彼女は俺のそばにいてくれる。何て激甘、イージーモード。笑いがこみ上げてきてしまう。




「あは、ははははっ、はははっ!」


「もう、啓介くん笑いすぎだよ」


「ははははっ、ははっ、だってさあ」




 愉快だった。沈んでいた気持ちが嘘のように弾む。遥香が隣にいてくれるというだけで、俺はアホの様に浮かれてしまっていた。




「そうだ。なあ遥香、靴飛ばしでもしようぜ?」




 彼女の返事を聞かずに俺はブランコを漕ぎ始める。




「え、ちょっと啓介くん?」


「制限時間はあと二十秒な、そこまでで遠くまで飛ばせた方の勝ち」




 こんな風にブランコを漕ぐのは、何年ぶりになるのか全くわからないけれど、とにかく久しぶりだ。




「あ、ずるい! 先に漕ぎ始めてからそんなこと言うなんて」


「負けたら尻文字な!!」




 上手く靴を飛ばすことは出来るだろうか。




「そ、そんなの絶対ヤダよ。この歳になって尻文字なんて」




 でも別に、負けたっていいのだ。




「にじゅーう、じゅーく、じゅーはち」




 俺が靴飛ばしが苦手で、どんなに情けない人間でも、全く構わないのだ。




「もう待ってよ、私も今から漕ぐから!」




 だって、頭が悪くても、イケメンじゃなくても、彼女は俺のそばにいてくれるのだから。




「じゅーなな、じゅーろく、じゅーご」


「絶対負けないからね!!」




 ブランコはどんどん勢いを増していく。そのまま夜空に飛んでいくんじゃないかというくらい、高く、高く上がっていく。小学生の頃よりも遥かに早くブランコは動き、怖いくらいまで高く上がっていく。




「さーん、にー、いーち!」




 そしてブランコが最高点に最高スピードで向かって行く所で、




「ぜろおおお!!!」


「えいっ!!!」




 俺達は片足の靴を空に向けて放った。暗闇に2つの靴が飛んでいく。どちらのものが遠くまで飛んだのか、暗闇のせいでここからでは分からない。でも多分俺の勝ちだろう。俺の靴のほうが勢い良く飛んでいったように見えた。




「俺の方が飛んだよな?」


「ま、まだ分かんないもん!」


「さーって、何て書いてもらおうかなあ。遥香のおしりで」




 単に自分の名前をケツで書くだけではつまらない。内容の卑しさと、その尻の動きのいやらしさを重視しなければならない。そうなると「こんにゃく」とかはどうだろうか。内容は言わずもがなだし、横に縦の動き、曲線、そして小文字を書くために屈む必要もあるので動きのバリエーションも豊富だ。あ、だったら「しろみそこんにゃく」とかの方がいいかもしれない。こっちのほうが意味的にも動き的にもエロい気がする。




「よし。じゃあ遥香、書いてもらうのは」


「エッチなのは禁止だからね! それにまだ勝負は決まってないよ!」


「ふっ、何を悠長なことを」




 俺達は片足でケンケンしながら靴が飛んでいった方へ向かっていった。勝利を確信した俺は弾む遥香の肢体を見て妄想をふくらませていたが、




「ほら、啓介くん! 私の勝ち!!」




 残念、現実は厳しかった。遥香のローファーは俺の薄汚いスニーカーより、少し遠くに落ちていた。




「ば、馬鹿な!! 何故だ、どうして!?」


「へへっ、啓介くん昔からあんまり靴飛ばし得意じゃなかったもんね~」


「ぐ、ぐぬぬ……」




 そういえば遥香は運動神経がかなり良いのだった。体育の時間の豪快なホームランを俺は今更思い出した。




「さーて、啓介くんにはお尻で何を書いてもらおうかなあ?」




 高校生にもなって尻文字をやるなんて恥ずかしすぎる。絶対に嫌だ。




「なあ罰ゲームなんて、冗談だってば。ははは、尻文字なんて本気でやらせるわけないだろ? だって俺達もう高校生なんだしさ、そういうのやるにはちょっと」


「そうだなー、じゃあ『バラ』にしようっか!」


「あ、何だそれくらいなら」


「そうそう、もちろん漢字でだよ?」


「いや書けねえよ!」


「えー、じゃあ『憂鬱』にする?」


「そういう問題じゃねえっての! 糞、誰が一回勝負って言った? 三回勝負に決まってるんだろうが!」


「うわっ、まるで小学生」


「うるせえ! とにかくもう一回だ!」




 片方の靴を履きなおして、俺はまたブランコの方に駆けていった。




「ふふふ、何度やっても同じじゃないかな~」




 楽しそうに彼女も俺に付いてきてくれる。




「馬鹿言え、絶対『しろみそこんにゃく』って書かせてやるからな!」




 こんなに無邪気に誰かと遊ぶなんて、何時ぶりだろうか。まるで小学生の様にはしゃいでいる自分を恥ずかしいとも思うけど、それも今は悪くない。




「ぜ、絶対そんなの書かないからね!」




 この後俺達は靴飛ばしに手押し相撲に石蹴りなどをした。遥香が勝ったり俺が勝ったり。ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、真っ暗な公園で俺たちは時間を忘れて遊んだ。




「ちょっと君たちー、何騒いでるのー。もういい時間だよー」




 そんな苦情を聞きつけたのか、中年のお巡りさんが自転車でやってきた。手元の懐中電灯が俺たちを照らす。腕時計を見ると既に夜の八時。確かに住宅地のど真ん中のここで、こんな時間まで騒いでいたら迷惑にもなるだろう。仕方がないが、そろそろ家に帰らなくてはならない。




「え、あ、すみません!! すぐ帰りますんで!」


「すんませんでしたー」




 遥香に続けて俺も素直に頭を下げた。




「いやーでもいいねえ、若いカップルって。青春っていうのかな? 羨ましいよ」




 俺たちを注意するでもなく、その警官は呑気に言った。




「いや、私たちはカ、カップルなんかじゃ無いですから! ね、啓介くん?」




 顔を真っ赤にして、遥香は否定した。全く、こんな風に否定するなんてテンプレ過ぎるだろうが。こんな展開、もうゲームで死ぬほど見飽きている。




「照れなくてもいいじゃないか。私も若い頃はね~」




 何故だか嬉しそうにオッサンは話し始めた。長くなると厄介だ。面倒くさいので話を切り上げてとっとと帰ろう。




「お巡りさん、俺達本当に付き合ってなんかないですから。そういうのじゃないんです」




 遥香がちょっと残念そうな顔をしたのは、面倒くさいから無視。




「え? そうなの?」




 そしてこの後俺が言うことに対する彼女の反応も、きっと面倒くさいから無視しよう。






「そうですよ。俺達はただの――『幼馴染』ですから」


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