第3話

「こんちわー、啓介です。おばさん居るー?」




 帰宅した俺はすぐにジャージに着替えて、お隣の中庭さんの家に向かった。インターホンも押さずに玄関を開けて挨拶をする。




「あら啓介くん、今日はどうしたの? また家の鍵忘れて閉めだされちゃった?」




 穏やかな笑みを浮かべて失礼なことをのたまっているのが、お隣の奥さんの中庭恵さん。




「もう高校生なんだからそんなことやんないって」


「ごめんなさいね、昔はしょっちゅうだったものだから。うふふ」




 昔からの長い付き合いだから、こんな風に俺の恥ずかしい過去を沢山知っている。困ったものだ。




「んなこと忘れてくださいよ」


「あら忘れられないわよ。だって啓介くんはウチの息子みたいなものでしょ?」




 中庭さん夫妻には子供がいない。そのせいかどうかは知らないけれど、俺は子供の頃から本当の息子の様にとても可愛がってもらっていた。




「それでおばさん、ラブは?」


「ラブ? 家の中に居るはずだけど……」




 と、おばさんが後ろを振り返った瞬間、黒い細身のシルエットが目の前に飛び出してきた。




「おんっ!」




 聞き慣れた鳴き声を挨拶代わりに一つ発して、黒のラブラドールが俺に飛びかかってきた。




「おうラブ、元気だったか?」


「はっはっはっはっはっ」




 ラブは尻尾をブンブン振りながら、荒い息遣いで俺の問いに答えた。




「久しぶりに散歩行こうぜ、な?」


「うおんっ!」




 俺の誘いに、ラブは嬉しそうに吠える。流石に子犬の頃からの付き合いだ。俺に懐いてくれているメスなんてこいつ位のものだ。ああ、ある日急にラブが犬耳美少女に変わったりしねえかなあ。




「……でもお前、もう10歳くらいなんだよなあ」


「そうね、もうすぐ11歳よ」




 犬の10歳って人間に換算すると、細かいとこはよくわからないけど相当な高齢になる。残念ながらこいつが今人間に変身してもババアってことになる。




「世知辛いな、ラブ」


「うおん?」




 まあそんなことはどうでも良い。今日はラブを異種姦の妄想の種にするため来たわけではないのだ。




「じゃあおばさん、ラブ借りてきますね」


「ええ、お願いね」




 ラブの首輪にリードをつないで、外に出た。糞処理のビニールも忘れず持っていく。




「よしラブ、今日はちょっと走るぞ」




 俺はすみれ先生に言われた通り、まず運動から始めることにした。




「うぉんっ!」




 運動といえばジョギングだろう。ジョギングに決まっている。ジョギング以外ない。『きらめきメモリアル2』の野田薫ちゃんとの出会いもジョギングの最中だったし。運動を通しての美少女との出会いというのは、割りとありふれたものである。




 それにもちろん、ラブを連れて行くのにもちゃんと理由がある。動物というのはヒロインと主人公をつなぐ重要なファクターになることが多い。特に『トゥーバード2』のヨシツネとか『プリンプリンシスター』のミシェルとか、犬というのはその中でもメジャーなペットだ。




「さあ頼むぜラブ、俺を美少女との出会いに導いてくれよ!」


「うあぅっ!」




 俺の言葉が分かっているのかは不明だが、ラブは元気よく返事をしてくれた。可愛いやつめ。飛び出した五月の街は、五時を過ぎても明るさが残っていた。




「よっしゃあ待ってろよ、俺の美少女!」




 何だか運動の目的が摩り替わっている気がするが、きっと俺の気のせいだろう。




「びっしょうじょ、びっしょうじょ、びっしょうじょ……」


「はっはっはっはっはっはっ」




 意気込みを口にしながら、馴染んだ街を走っていく。双葉ヶ丘は閑静な住宅街で、俺の通う高校のある水ノ登市街からは電車で約十分、最寄り駅から自転車で十五分くらいの距離に位置している。




「今日は小学校の方まで行ってくるか」




 俺の通っていた双葉ケ丘小学校は五丁目にあり、自宅から歩いて二十分くらい、走ったら十分くらいと言ったところだろうか。




「懐かしいなあ、この道も」




 小学生の頃使っていた通学路、今ではもう通る用事は無いので数年ぶりになる。


 途中児童公園の中を通過する。よくここにボロボロのエロ本が捨てられてたりしてたなあ。今考えるとそこまで過激な内容のものではなかったが、当時の俺達は大騒ぎしたものだ。




「ふっ、あの頃は若かったんだな……」




 平凡なエロ本に驚愕し、興奮し、皆で大騒ぎしていたあの日々。今ではもうあの頃の初々しい感動は取り戻せない、そう思うと胸が少し切なくなった。




「もし将来童貞を失ったらさ、こういう風に今を振り返るのかな。どう思う、ラブ? なんてな」


「おぅん?」




 時間は絶えることなく流れていって、俺もこの街もきっと変わっていく。俺もどんどんオッサンに近づいていくし、公園の遊具もどんどん錆びていく。今隣に居るラブも今はこんなに元気だがもうお婆ちゃんで、俺が成人するころにはきっともうこの世にいないのだろう。それは仕方のない事だ。切なくて寂しいことだけど、過ぎ去っていくものに執着して生きることより、これからのことに期待して生きていくほうがずっと建設的だってことは分かっている。




「でも何かさ、何て言うか……」




 俺はこのまま成長していって大人になっていいのだろうか。何かしなくてはいけないことがあるのではないか。そんな気持ちが湧き上がってくる。もしかすると何か大切なことを見失っているような、そんな不安。何だか分からないけれど、こんなことを考えることがたまにある。でも、いつだって、どんなに考えても答えは見つからないのだった。




 湿っぽいことを考えてしまった。まあきっかけは我ながらロクでもない思い出だったけども。どうしてこんなことを考えてしまったのか、夕焼けがこんな気分にさせたのだろうか。


 後ろ向きな気持ちを打ち消すためにスピードを上げる。ラブもそれにしっかり付いてくる。




「結構、キツイなこれ……」




 多分明日は筋肉痛だろう。それくらい頑張ったおかげで、予定より早く小学校の近くまで来られた。残りはあと百メートルくらいだろう。




「うし、ラストスパートだ!」


「あうっ!!」




 悲鳴を上げる体に鞭を打ち、全速力で走る。


 全力疾走なんて何時ぶりだろうか。苦しい、肺が空気を求めている。もう止まりたい、休みたい。それでも最後の直線を駆け抜ける。これで最後だからと身体にムチを打って駆け抜ける。




「うおおおおおおお!!」




 気合を入れるため、叫んでみる。なぜだか知らんが叫びたい気分だった。




 そしてゴールまでいよいよあと十メートル程度。その時の俺のスピードは最高潮で、急に止まれるはずなんてなくって、




「え?」




 だからその事故は起きてしまった。




「おわっ!!!」


「きゃっ!!!」




 正面衝突。俺は勢いを殺すことが出来ず、曲がり角から現れた女性とぶつかってしまった。その勢いのまま、俺は相手を押し倒すように地面へと倒れこんでいく。




「ぬっ、おおおう!!」




 相手に怪我をさせないよう、女性を抱きしめて自分が下になるように何とか体勢変えながら倒れこんでいく。




「ぐへえっ!!!」




 地面に倒れ込んだ衝撃が背中側に、反対側には相手の倒れこむ衝撃が訪れた。思わず情けない呻き声が出る。




「ごほっ! ごほっ! うえぇ……」


「いった、もう最悪……」




 咳き込んで、更にえずく俺とは対照的に、巻き込んでしまった彼女は冷静だった。




「くぅ~ん……」




 ラブがうずくまる俺の顔をぺろぺろと優しく舐める。




「はあっ、はあっ……お、おうラブ……ありがとう……」




 ラブはその身体を心配そうにすり寄せてきた。ははは、可愛いやつめ。




「ちょっと、急に飛び出してくるなんて危ないじゃないの。何考えて……って、遠山?」




 聞き覚えのある声、事故相手の顔を覗きこむと、




「お、お前は……」




 今日の昼休み、義史に陵辱の限りを尽くされた(あくまでも妄想でだが)柳井透子が俺の腕の中に居た。




「す、すまん柳井! 俺が悪かった、ちょっと走ってたらテンションが上っちゃったっていうか」


「……とりあえず腕、放してくれる?」




 俺は柳井を力強く抱きしめたままだった。うわ、なにこれラッキースケベみたいな感じじゃん。俺の主人公力も捨てたもんじゃないかもしれないな。エロゲだったらバッチリ一枚絵が入るところだ。




「あ、悪かった! うん、ごめんなさい!」




 ぐへへ、これで立ち上がろとした時にバランスを崩して、更に恥ずかしい体勢で絡み合っちゃったりしたらもう言うことなしなんだが。例えば顔面騎乗とか、ぐふふ。




「全く、何なのよもう……」


「ちっ……」




 だがやはり現実はそこまで上手くいかないようにできている。柳井はバランスを崩すことなく、スムーズに立ち上がった。




「舌打ちはこっちがしたい気分なんだけど」




 柳井は酷く不機嫌な顔で言った。普段から愛想は良くないが、これは明らかに苛立っている。




「あ、ああ悪かった。ゲホゲホッ!」




 俺も上半身を起こして柳井に再度謝る。全力疾走の影響で、まだ立ち上がる気になれない。息はまだゼイゼイだ。




「ったく、急に飛び出してくるなんて何考えてんのよ」


「はあ……はあ……だから悪かったって言ってんだろうが」




 抱きしめて庇ってやったというのに何て言い草だ、酷い女だ、やはり陵辱されるべきだ。




「……ほら、いつまでも座ってないで立ちなさいよ」


「お、おう……」




 柳井は不機嫌そうな顔で手を差し伸ばす。何だ、そこそこ優しいところもあるじゃないか。




「すまんな……うっ、いてててて!」




 立ち上がろうとすると、右のふくらはぎに強烈な痛みが走った。




「右脚、攣ったみたいだ……」


「はあ、情けないわね」


「う、うるせえ」




 久しぶりの運動だったのだ、仕方ないだろう。俺はお前と違って繊細なのだ、脳みそまで筋肉の走り屋とは体の構造が違うのだ。




「全く、しょうがないなあ……ほら、そのまま座って、脚の力抜いて」




 柳井はしゃがみこんで俺の脚に手を添えた。




「ちょ、お前何すんだよ」


「うるさい、いいから黙って。これ、痛い?」


「うげっ!」


「じゃあこれは?」


「い、痛くない」


「そう、じゃあこのままじっとする」


「おう……」




 柳井は優しく俺の右脚をさすってくれた。俺は柳井にされるがまま、じっとしているしかなかった。なんだこれ、柳井が跪いて俺の足をさすっている。あの柳井が、だ。普段の俺なら興奮しそうなシチュエーションだが、驚きのほうが先行してそれどころではなかった。




「どう、ちょっとは落ち着いてきた?」


「お、おう。ちょっとはな」


「そ、じゃあ飲んで」


「何だこれ?」


「いいから早く飲む」


「ら、ラジャー」




 差し出されたペットボトルは、保冷カバーがかかっていて中身は分からない。




「んぐ、んぐ…………何だこれ、美味いぞ」


「それは良かった」




 よくあるスポーツドリンクみたいな味なのだけど、市販のモノよりごくごくイケる。しつこい甘さがない。




「んぐ、んぐ、んぐ…………おかわり!!」


「もう無いわよ馬鹿。んで、痛みはどう?」


「ん、痛み? ……おお!」




 気がつくと右脚の痛みは消えていた。恐るべし、謎のドリンク。よし、これは柳井汁と命名しよう。




「サンキュー、助かったよ」


「別に、こんなの部活で慣れてるし」




 流石陸上部といったところか。さっきは脳筋とか言って済まなかったな、柳井。




「柳井汁、最高にうまかったぜ。また是非飲ませてくれ」


「何なのよ、その如何わしい名前の飲み物は……」




 柳井の献身的なご奉仕のお陰で、俺は無事立ち上がることが出来た。




「もう今日は激しい運動はしないこと。あと念のため、お風呂でマッサージしときなさい」


「はーい」




 なんだ柳井、ぶっきらぼうだけど良い奴じゃないか。




「……悪かったわね。私も考え事してたから、ちょっとボーっとしてた」


「へ?」


「あと、庇ってくれてありがと。お陰で何処も怪我しなかったわ」


「え、何? 謝ってんの?」


「悪い?」




 相変わらずの無愛想だが、まあこれはこれでいいな。こういう奴がデレた時って、落差で結構グッとくるものがある。




「はっはーん、お前実はツンデレだな?」


「は? 何言ってんの?」


「ぬはは、照れなくていいんだぜ?」


「遠山、死んだら?」




 冷たい瞳で柳井はそう言い放った。が、こいつが実は悪いやつじゃないことは分かっている。実は結構面倒見がいいやつだということも、俺には分かっているのだ。




「はっはっはっはっはっはっはっ」


「んお? どうした、ラブ」




 ラブが嬉しそうに遠山の足元でじゃれ付いている。




「きゃっ……遠山、この子何?」


「見ての通り、犬」


「んなこと言われなくたって分かるわよ」


「名前はラブ、メス、結構ババア」


「そういうことじゃなくて。何であたしにくっついてくんのよ?」




 尻尾はフリフリ、身体はスリスリ、まさにデレデレと言った感じ。対する柳井はいきなりくっついてきたラブに困惑顔だ。




「知らねえよんなこと。でも凄いな、柳井」


「何が?」


「初対面の人にラブがここまで懐くなんて、今まで見たこと無い」


「そうなの?」




 もともと人懐っこい犬種ではあるけれど、ここまでデレデレになるのは中庭さん夫妻と俺くらいのものだ。




「ああ、自慢していいと思うぜ」


「ふ~ん……」


「良かったら撫でてやってくれよ。喉のとことか、特に喜ぶぜ」


「そ、そうなんだ」




 柳井はしゃがみこんでラブの身体を撫でてくれた。ラブも嬉しそうに目を細め、大人しくしている。




「柳井んちって犬でも飼ってんの?」


「飼ってないけど、何で?」


「いや、何か手つきが慣れてる感じがするから」


「そうかしら」




 やっぱりラブを連れてきて正解だった。ラブを通して、こうやって女子とコミュニケーションをとることに成功している。柳井の顔もいつもより心なしか優しく見える。




「うん。やっぱり柳井ってもうちょっと笑えば、もっと可愛くなると思うんだ」


「何よ遠山、あたしのこと口説いてんの?」


「口説かれたいか?」


「あんたにだけは、死んでもゴメン」


「柳井、可愛いぞ」


「だからキモいから止めてって言ってんのに」


「照れんなって、透子」


「下の名前で呼ぶな。あんたいつか訴えられるわよ?」




 やっぱり柳井の攻略難易度は結構高いかも。こういう風に女子を褒めたら普通、




『は、はあ? あんた何言ってるわけ!? か、可愛いとか、急にそんなこと言わないでよ、バカァ……』




 ってな具合に顔を真赤にするものだろう。どうしてこうも色気のない会話になってしまうのか。俺の好感度が足りないからだろうか。




「で、遠山。あんたどうしてこんな所、全力で走ってたわけ? あんたの家、一丁目だったよね」


「あー……まあ、なんつーか深い事情があったっていうか」




 謎の視線のこととかは話してもしょうが無いし、美少女との出会いを求めてとか言ったらもっと好感度落ちるだろうし、非常に説明に困る問いだった。




「ま、理由は別にどうでも良いけど、気をつけなさいよね」


「おう、悪かったよ」


「大体公道で止まれないほどのスピードで走るっていうことの危険性をあんたは……」




 途中まで言いかけて、止まった。柳井は周囲を鋭い目つきでキョロキョロと見回す。




「どうした?」


「……いえ、別に何でもない」


「何だ、組織に狙われてるのか? 邪眼が疼くのか? 前世の戦士としての記憶が蘇ったのか?」


「……何でもないっていってるでしょ」




 俺の冗談には全く取り合わず、柳井はそう言い捨てた。




「じゃ、帰るわ。バイバイ、ラブちゃん」


「うぉん!」


「おう、気をつけろよ」


「あんたこそ気をつけなさいよ、馬鹿」




 そう言って柳井は俺に背を向け、颯爽と帰っていった。




「さてラブ、俺達も帰るか」


「おぅん!」




 帰りは柳井に言われた通り、ゆっくり歩いて帰ることにした。




「なあラブ、フラグたったかな?」


「あう?」


「……まあ柳井だし、それはねえか」


「あう」


「肯定するように鳴くなっての、悲しくなるだろうが」


「あんっ!」




 でもまあ、取り敢えずラブを連れて行く作戦は大成功だったかもしれない。




「これで後はよく食って、よく寝るだけだなあ」




 すみれ先生の言う『健全』に、俺は着実に近づいていた。

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