第6話
【俺は至って正常なんだが世間が狂っている】
六話
『ごめん』だなんておこがましい。二人の覚悟は近くで見ていたのでよくわかる。それを無残にも踏みにじったのはあいつらじゃない。俺だ。
自分の感情を押し付けて、子供みたいに怒って我儘に駄々をこねたのは俺だ。紛れもなく俺だ。
「……俺のせいだ」
陸斗は背中を丸めてため息をつく。そんな友人に何一つ言ってやれる言葉が思いつかない。俺は……無力だ。
「……お前のせいなんじゃない。あんなこと言っちまった俺が悪い……五代にお大事にって伝えといてくれ」
そんな中、絞り出した答えがこれだった。友人があんなに苦しんでるのに何一つ気の利いた事を言ってやれない。そんな不甲斐なさから俺の爪が掌を抉っていた。
そう言い残して俺は病院から出る。ポツリポツリと雨が降り出した。ゲリラ豪雨ってやつなのかすぐに本降りになり、自転車を雨に打たれながら押して帰る。
ハンドルを握る俺の掌からは血が滲んでいた。だが、こんなのは彼らの痛みに比べればどうってことはない。
「あいつらと同じ血が流れてるだけはあるな……」
掌から溢れてくるどす黒い血を眺めていると、どれだけ自分が狂っているのかがよくわかる。あんなに陸斗が苦しんでいたのに俺の瞳からは涙が流れることは無かった。
もう、俺が狂ってるのか世間が狂っているのかわからなくなってきた。
髪の毛からは水滴を、手から血液を滴らせて家に帰ると、家の電気はついていないし、人の気配もない。親が居ないということに安堵し、体についた水滴を拭ってから手に大きめの絆創膏を貼り、グーパーグーパー繰り返し、少し慣れさせると料理に取り掛かる。
今日は野菜炒めと味噌汁くらいしか作る気にならず、さっさと準備をすると、料理を食卓に並べて母さんの帰りを一人、いつもの席に座って待つ。
チクタクチクタクと静かなリビングで、アナログ時計が秒針を刻む音だけが流れる。なんだかこうも音がないと色々と考えてしまう。
明日から二人にどんな顔をして会えばいいのだろうか。
「あれで友人なんて名乗れねえよな……」
結局、答えなんか出せず、スマートフォンにピロン。と、連絡が入った。その連絡に目を落とす。
『先にご飯食べてて! 私は食べて帰るから! 美人なお母さんよりハート』
だなんて書いてあった。いつもならしょうもないと笑っていたかもしれないが、口角が上がることは無く、冷めた野菜炒めを口に運ぶ。
「……甘い」
どうやらうっかり塩と砂糖を間違えたらしい。その甘いだけの野菜炒めを何も考えず二人前ほど平らげると、どうでも良くなった。
「甘く考えてたのは俺の方だな……」
気分は最底辺だったが、体が重いからか部屋にも戻らずそのまま居間で眠ってしまった。
***
今朝はよく眠れたかどうかでいえば全然寝れなかった。
頭がガンガンするし、上に乗っかっていた毛布は多分母が乗せてくれたのだろうけど、これがやけに重く感じる。でも、寒いし吐き気がする。
でも、朝がやって来てしまっていた。
俺は無理やり起き上がると、フラっと世界が一周したかのような錯覚を起こす。
「……あれ? さっき起きたのになんで俺の視界はひっくり返ってんだ?」
わけが分からないけれど、ひどい頭痛が襲ってきた。
「……熱か?」
壁に寄り掛かりつつ、タンスから体温計を手に取り熱を測り、暫く待ってると機械な音が鳴る。
「……九度四分……」
かなりの高熱だろう。思い当たる節はあった。昨日は風呂に入る気力がなくて入らなかったんだ。それが悪かったか。
体が重いがなんとかテーブルに体温計を置き、フローリングに倒れ込むとひんやりしていて気持ちいい。だが、頭の奥でガンガントンカチで殴られてるような痛みはどこにも行ってくれない。
「結構不味いかもなこれ……」
動ける気がしない。でも、母さんに頼る訳にはいかないし……どうにかしないと……
立ち上がろうと腕に力を入れた所で、身体が石みたいに重くなって、手を滑らした。刹那、頭にゴンッと、打ち付けたような鈍い痛みを最後に意識を手放す。
*
「……知らない天井だ」
目を覚ますと家の茶っぽい古びた天井ではなく、白い人工的な明るい天井が目に飛び込んできた。
あの時よりはいくらかマシだけれど、身体は重いしダルい。
ゆっくりと動いて腕に目をやると、腕にはなにか刺さっている。そのチューブのようなものを追っていくと、なにか得体の知れない透明な液体が入った袋に通じていた。
「……点滴なんて初めてだな」
なんだか大人の階段を登った気分になりながら、家の布団なんかよりも格段に心地がいい病院のベッドでうとうとしていると、ドアが勢いよく開いた音がした。
そっちに目をやるが、カーテンが締め切られていたので外の状況は窺えない。
というか、病院ならもっと静かにして欲しいものだ。
再び眠ろうと瞼を閉じて眠ろうと試みる。だが、なにか視線を感じる。
そんな心地悪さから目を覚まし、頭を抑えながらカーテンとカーテンの隙間に目をやると血走った情熱的な赤い瞳がこちらを覗いていた。
「な、なにしてんの?」
流石に薄暗い病院の中であんなもん見せられるのはちょっと怖かったが、あの目には覚えがある。
そう声をかけてやると、カーテンを締め切られてしまった。
「全く……」
他の意味で頭が痛くなってくる。小学校からの付き合いだからかもしれないが、なぜか目が離せないんだよな。
「あら? 愛梨ちゃん? お見舞い来てくれたの? ありがとうね!」
カーテンの向こうで声がする。この声は母さんだろう。
「え、えっと……その……はい」
珍しく、しおらしい櫻井ってのも悪くない。
「ただの風邪なんですか?」
「うん。だから、心配しないでいいわ」
「そうですか……なら、よかったです」
「倒れるくらい追い込まれてたのね……なんで私は気がついてあげられなかったんだろ。あの子の親なのに」
母さんはつぶやくようにそう言った。
母さんは関係ない。俺が悪いんだ。母さんが責任を感じることなんか一個もない。俺が子供だから、こんなしょうもない理由で風邪を引いたんだ。
「……私、この後用事あるので。あと、これ学校のノートです。賢人くんにお大事にとお伝えください」
「うん。ごめんね。ありがと」
そして、すぐにガチャン。と、ドアが閉まる音がした。
それからすぐに母さんがカーテンを開けて、中に入ってくる。俺は咄嗟に目を瞑って寝たフリをすると、母さんに背を向けるように寝返りを打った。
ガラガラガラ。と、椅子を引く音がし、優しく俺の頭を撫でる母さん。
「……はぁ。不甲斐ないなぁ。あの日、賢人を引き取った時、苦しませないって誓ったのに。またあの時みたいに苦しそうに床で震えてたね……これじゃ……変わらないや。ごめんね」
母さんの声は震えていて、寒そうだった。
……そんな訳があってたまるか。あんな親に比べるまでもない。あれは俺が招いたことだ。母さんが責任を感じることなんて一つもない。
……なのに、それなのに、なんで母さんは泣いてるんだよ。
弱々しく啜り泣く声がすぐ横でしている。
何故、俺をずっと気にかけて大切にしてくれた母さんを泣かせてんだよ。俺は……
あの時だって救ってくれたのは紛れもなく母さんだ。
何故、こんな恩を仇で返すような真似ができる。
手にギュッっと力が入り、手に貼られた絆創膏の感触が、ちょっと違った。
その手を見てみると、包帯が乱雑に巻かれていた。この不器用な感じ。絶対に母さんだ。
胸の奥からこれまで無くしていた感情が込み上げてきて、俺も母さんの涙が移ったかのように涙が零れてくる。
「……謝らないといけないのはこっちの方だ。ごめん。母さん」
「え……?」
いや、こうじゃない。本当に言いたいのはこうじゃない。恥ずかしくてずっと隠していたけど。
「ありがとう……俺さ、今、無茶苦茶幸せだ。だから、ありがとう……」
ずっと、もう何年間も伝えていなかった感謝。
いつもなら言わなくたってわかるとか、わかってくれてるとか、母さんの強さに甘えて多分、一度だって言葉にしてこなかった。
母さんは決して強い訳じゃない。強がっていただけなんだ。伝えなければ伝わらないことだってあるのに。それに気がついていたはずなのに。
後悔の念は胸の内で膨らんでいき、益々止まらなくなる。
「……ううん。わかった。わかったよ……伝わったからなんであんたまで泣くのよ」
「それは母さんだろ……」
二人して顔をクシャクシャにして涙を流す。
「母さんに辛いなんて言わせないから……ごめん」
「ふふ。何を言うのよ。私はもうとっくに幸せよ?」
母さんは涙ながらも笑ってそう言った。その一言で、俺は先生が言っていた本当の意味がわかった気がした。
言わなくたって伝わるなんて傲慢だ。俺はただ、母さんの優しさに縋っていただけ。高校の奴らよりも大人で居るような気分ではいたが、全然大人になんかなれてなかった。
「やっぱり敵わないな……」
面会時間が終了し、病室で一人なった俺はぼやく。
母さんは泣きたくなるくらい辛くても、逃げ出さなかった。殆ど泣き言なんて言わずに、俺に心配をかけないように胸の内に秘めていたんだ。
それがどれだけ辛かったかは俺には計り知れない。
やっぱり母さんは、大人はかっこいい。俺もあんな風に逃げ出さないで、真正面から受けて立てるのか。不安は募るばかりだ。
でも、胸張って母さんに自慢できるような大人になりたい。だから、今は目の前の俺が背負わないといけない責任から、目を背ける訳には行かない。
ここで逃げたら今度こそ、あいつらと同じになってしまう。それだけは嫌だ!
「……もう。やったことから目を背けない。大人になるんだ」
手に巻かれた包帯をぎゅっと握り締めると、やる気になれた。
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