3、わたしが泣くはずありません。
「わかりました」
たっぷりとした沈黙の後、チワワさんは言った。
「成人向けでないのなら、今回は返却します。先生への報告も控えますので」
意外な判決に、僕は顔を上げる。
「いいのか? 本当に?」
「はい。ただし、二度目はありませんよ。学校に相応しくない本なのは間違いありませんから」
ラノベを受け取って鞄にしまった。
この本が成人向けであるかどうかを調べるのは、わけもない。風紀委員用のノートPCが机には置かれている。ネットで検索すればすぐにわかるはずだ。
だが、彼女はネットに頼らなかった。
あくまで僕の言葉を信じてくれたのだ。
それは、昨日のお礼なのだろうか。それともただの気まぐれなのか……。
「だけど真田くん。あなたはその本より、もう少し勉強に身を入れるべきですよ。やればできるのに、もったいないじゃないですか」
「へいへい」
「お返事は一回、です」
「……へーい」
彼女はときどき、注意でも指導でもなく、こんな風に「小言」を言うことがある。
僕に対してのみだ。
もっとしっかりしなさい、とか。身だしなみをちゃんとしなさい、とか。まるで母親みたいなことを言う。
むろん、そこに特別な意味などないのだろう。
見た目不良で中身はオタクな「やべーやつ」を、どうにかして更正させたい。
そんな熱意の表れだと思っている。
(ひたすら仕事熱心なんだよな。こいつ)
その姿勢は尊敬するが、彼女が天敵であることに変わりはない。
返すものは返してもらった。さっさと退散するに限る。
「じゃあ、もう行っていいよな」
「はい。お疲れさまでした」
僕は鞄を持って立ち上がった。他の風紀委員と顔を合わせるのも億劫である。退散しよう。
扉に手をかけたとき、ふと心づいた。
「なあ。昨日はどうして泣いてたんだ?」
そのとき、彼女の顔から表情が消えた。
「氷」というあだ名に相応しい、冷たい声で言った。
「泣いてません」
「いや、あれは泣いて……」
「泣いてません。ホコリが目に入ってただけです。このわたしが泣くなんてこと、あるわけないでしょう。最後に泣いたのなんて、先週行ったお寿司屋さんまでさかのぼらないといけませんよ」
わりと最近じゃないか。
「ワサビ、苦手なの? 高校生なのに食えないの?」
「知りません。泣いてません。いいですね?」
「……へーい」
「返事は短く」
「へい!」
鬼気迫る勢いで押し切られた。
このこわーい顔を見ていると、昨日の泣き顔は見間違いだったのではないかという気すらしてくる。
「じゃあ、さよなら」
「はいさようなら。泣いてません」
頑固者め。
そこまで認めたくないのかよ。
(これまで通り、なるべく関わらないようにすべきだな)
そんな風に心の方針を定めた。
僕はささやかな勝利を報告すべく、悪友が待つ部室へと向かった。
◆
文芸部。
それが、僕の所属している部の名前だ。
しかし文芸部と呼ぶ者はほとんどいない。オタク生徒の溜まり場となっているため、校内では「オタク部」と呼ばれている。活動内容は漫画ラノベアニメゲームなどオタク全般。読んだり書いたり駄弁ったり、まぁそんな感じ。のんびりだらだらした雰囲気が僕は気に入っている。
部室に入ると、悪友・公太の明るい声が出迎えてきた。
「おおっ、勇者のご帰還じゃあ!」
部屋の片隅に敷かれた二枚の畳に寝そべって、ラノベを読んでいる。
ほとんど半裸状態のヒロインが艶めかしいポーズを取っている。僕の本よりさらに過激な、完全なる「エロコメ」というジャンルである。
「またそんなもの持ち込んで。見つかったら速攻アウトだぞ」
「エロの何が悪い。谷崎だって三島だって、濡れ場はたくさん書いてるぞ。文学とエロは切っても切れない関係にあるんだ」
などと、知ったようなことを言う。
三年のとある先輩の受け売りなのだと、僕は知っている。
「そういう能書きは、チワワさんの前で言ってくれ」
「……イヤ。あいにくとワタクシ、自殺願望はないもので」
くわばらくわばらと、合掌してみせる。
このノーテンキ男にしても、冬城千和は恐怖の的なのである。
「他の連中は来てないのか?」
「なんか今日は用事あるってー。それより、どうだった? やっぱせんせーにチクられて指導室行き?」
「返してもらえたよ」
ほら、とラノベを取り出してみせると、公太は驚きを顔じゅうに広げた。
「マジ!? 返ってきたの!?」
「ああ」
「検閲されてあちこち墨だらけとか?」
「戦時中かよ」
さすがの風紀委員もそこまではしない。
「どーいう風の吹き回しだよ? あのチワワさんが」
「知らない。単なる気まぐれじゃないか」
椅子に座って、机に置かれた湯呑みを手に取った。この部室にはだいたいの備品が揃っている。棚の裏にはカップ麺やスナック菓子も備蓄されている。ひと晩やふた晩の籠城は平気だ。卒業までに一度はやってみたいと、密かに思っている。
ポットのお湯でお茶を淹れて、ふぅとひと息。
「なあ、公太」
「ん?」
「そのチワワさんがもし泣くとしたら、それってどんなときだと思う?」
公太は畳の上で起き上がり、首を傾げた。
「どしたん? 急に」
「いや、なんとなく。思考実験として」
僕は言葉を濁した。
昨日のことは誰にも言わないと決めている。
腕組みをして、公太はしばらく考え込んでいた。
「そうだなあ。赤ちゃんのときか、ホコリが目に入ったときか、あとは寿司屋に行ったときとか?」
「……それ、泣かないってことじゃないか」
「そーゆーこと。泣いてるところなんて想像できねーよ、『氷のチワワ』が」
そうだな、と僕は残りのお茶を飲み干した。
「そんなこと、あるはずないか。彼女に限って」
やっぱりあれは、何かの間違いだ。
彼女の言う通り、ホコリが目に入っただけだったのかもしれない。
そんな風に結論づけて、取り返したラノベを読み始めるのだった。
◆
それから三日後の夜、塾帰りの電車の中。
午後七時すぎ。
帰宅するサラリーマンや学生でぎゅうぎゅう詰めの車内で、僕はまたもや「彼女」に出くわした。
目の前にいる。
泣いている。
あれだけ「泣かない」と言っていた彼女のまつげに、涙のしずくが光っている。
「…………ぅ、………ぐすっ……」
鼻をすすりながら、うつむき加減に首を振っている。
頬が上気している。
ブラウスの襟から覗く首元まで赤い。
すぐ近くに立っている僕にも気づかないほど、狼狽しきっている。
風紀委員の冬城さん。
氷のチワワが、痴漢に遭っている。
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