2、ひざまくらなんて、いやらしい。


 放課後になった。


 僕は重い足を引きずるように廊下を歩いた。解放感にみちあふれた級友たちの明るい顔がうらめしい。自分は今から叱られにいくのだ。あの天敵である風紀委員に「スミマセン」と謝って、本を返してもらわなくてはならない。もし生活指導教師に報告されたら、絶対戻って来ない。


 風紀委員室の扉をノックすると、「どうぞ」と澄んだ声がした。


 失礼します、と声をかけて入室する。


 中は八畳ほどの広さだ。壁側にはスチール製の本棚が置かれ、隣には段ボールが山と積まれている。古い資料が置かれているせいか、古本屋みたいな匂いがする。常連の僕には馴染みの匂いだ。


 中央には会議用の長机と、椅子が六つ。


 その椅子のひとつに、背筋をすっと伸ばして「彼女」が座っている。


 可愛い。

 悔しいことに。


 この僕でさえそう思ってしまうのだから、一般生徒にはどれほど魅力的に映るだろう。


 噂によると、母方の祖母が北欧人だという。上等のミルクのような肌の白さ、瞳の色の深さは、確かに日本人離れしている。それなのに、艶々とした黒髪は純和風で、黒曜石のように輝いている。全校女子で一、二という小柄な体格もあって、丁寧に作られた人形のような趣があった。


 白と黒。

 モノクローム・トーンの、精巧な愛玩人形。

 それが、冬城千和。


 部屋には彼女だけだった。風紀委員は各学年男女一人ずついるはずだが、出払っているようだ。


「かけてください」


 同学年なのに、常に丁寧語である。


 対面に腰掛けると、彼女は昨日のハンカチを差し出した。ふわりと、女の子らしい清潔な匂いが漂う。折り目正しくアイロンがあてられている。本当に自分のハンカチかと、思わず見返した。


「これ、お返しします。ありがとうございました」 

「別に返さなくても良かったんだが」

「そういうわけにはいきません」


 ふるふる、首を振る。

 ときどき見せるこういう仕草は、とても幼くて愛らしいのだが、繰り出される「お説教」は彼女の容姿ほど甘くない。


「昨日のことは感謝しています。――ですが、違反は違反、なので」


 しかめつらしい声を、彼女は作った。

 子犬のような目が鋭く光る。


 対決の火ぶたが切られた。


「校則はご存じですよね? 『原則として、学業と関係のない私物を持ち込んではならない』」

「まあな。だけど、本の貸し借りくらい学校でやったって、誰にも迷惑はかけないだろう? 授業中に読んでたわけじゃあるまいし」

「確かに」


 ン、とくちびるに人差し指をあてる。

 考えるときのクセなのだ。

 以前「赤ちゃんみたいでちゅね~?」とおちょくったところ、トイレ掃除一週間の刑に処された。むごい。


「普通の小説であれば、見逃がしていたと思います。……ですが、これはいけません」

「いけない?」

「いやらしい、です」


 文庫本が机に置かれた。

 昼休み、僕から没収したライトノベルだ。


 カバーには、レオタードのような鎧を身につけたヒロインが描かれている。大きな胸がこれでもかと強調され、スカートは太ももが剥き出しになるほど短い。どう考えても下着が見える丈なのだが、魅惑の布きれはどこにも描かれていなかった。


「この本は、いわゆる成人向けではないのですか?」

「いや、誤解だ。一般向け」

「だったらどうしてこんなにスカートが短いんですか。あり得ないでしょう。どこの痴女なんですか一体。もしこんなスカートで登校してきたら、即、指導室送りです」

「痴女じゃない! そのヒロインは一国の姫君だぞ」

「一国の姫君が痴女とは……。大丈夫ですかその国」

「だから痴女じゃないって!」


 思わず机を叩いた。


「そういう表現は、ライトノベルじゃ普通なんだよ。肌色多めのイラストが使われる作品もあるけど、内容はそこまでエロくない! あとソフィアたんは痴女じゃない! 清楚可憐で奥ゆかしい理想のヒロインなんだッ!」


 勢いあまって、本音が出てしまった。


 彼女が、しらーっと冷たい目で僕を見つめる。この目だ。このゴミを見るような目がつらい。


「なるほど。ソフィア〝たん〟」

「……うん」


 やめて。死にたい。


「その清楚可憐で奥ゆかしいソフィアたんが、どうしてこんなビキニみたいな鎧着てるんですか? 防具の用をなしてません。弓矢や投石で普通に死ぬと思うんですが。よっぽど見せたいのかと。命の危険を冒してまで肌を見せたいのかと。だから痴女と言ったんです」


 背中にたらりと汗が流れた。


「お、お前ら女子だって、クソ寒い冬でも短いスカートはいてるじゃないか」

「わたしは、はきませんけど」


 そう。彼女のスカートは長い。もはや形骸化して誰も守ってない校則通り、膝までちゃんと届いている。しかしそのせいで、黒タイツに包まれたふくらはぎやほっそりした足首が余計際立つ。


 誰よりも長いスカートなのに、誰よりも綺麗な脚。


 それが、チワワさん。


「ともかく、正真正銘の全年齢だ。そもそも小説に成人指定はない」

「たいていの本屋では、ゾーニングされていると思いますけど」

「されてない。書店では漫画コーナーの隣に置いてある」

「官能小説コーナーではなくて、ですか? だったら――」


 白い指がページをめくる。

 彼女が指し示したのは口絵の見開きカラーであった。


 二人してページを覗き込んだ。


 なにぶん彼女は小さいので、「うんしょ」と身を乗り出すような体勢になる。以前「お子さまでちゅね~?」とからかったら、格技場掃除二週間の刑に処された。ひどい。


「痴女さんが、男性にひざまくらをしていますね」

「ソフィアたんの優しさが表れてる、良いシーンだな」

「良くありません。こんな短いスカートはいてひざまくらする女性、いないです。痴女です」

「舞台が異世界だから、日本の常識は通用しないんだ」


 僕は頭と舌をフル回転させる。


「国と地域が変われば、倫理や法律も変わる。日本じゃ違法の大麻だって、外国じゃ合法のところだってある。郷に入っては郷に従え。日本のルールでいちいち考えてたら異世界なんて楽しめないだろ」

「はあ。つまり?」

「ミニスカートでひざまくらは、異世界じゃ普通のことなんだッ!」


 いや~。

 苦しい。

 我ながらそう思う。


「百歩譲って、ひざまくらは良いとして」

「良いとして?」

「このスカート丈はなんなんですか? 表現としておかしいでしょう」

「どこが?」

「あまりに短すぎます。これでは下着が見えてしまうじゃないですか」

「でも見えてないよな? ほら、この絵のどこかに下着が見える? 見えないよな? 見えてなーいミエテナーイ!」


 ムキになってしまった。


 痛いところを突かれたからである。


 ラノベ好きな自分でも「どうなんだこれ」と思うことはある。「はいてない」かのように表現される鉄壁スカート。衣服を貫通する勢いで隆起する謎の胸。お約束とはいえ、ついていけないこともある。


 しかし、ともかく今は本を返してもらわねばならない。


「見えてないってことは、問題ない。なんにもいやらしいことはない!」

「そういう問題ではないでしょう」


 冷たい声で彼女は言った。


「真田くん。あなたが、周りの生徒からなんて言われているか知ってますか?」

「やべーやつ。もしくはオタクの不良」


 あっさりそう答えた。


 僕は茶色い地毛と目つきが悪いせいで、ぱっと見で不良と間違われることが多い。誤解を解くのも面倒くさいので、そのままにしている。


 それでいて趣味はオタク全開なため、たいていの生徒からは「得体が知れない、やべーやつ」と思われている。昔からの友人や、一部のオタク仲間を除けば、近づいて来る者はいなかった。


「わたし、真田くんのそういうところがいけないと思うんです」

「いいよ僕なんか。他人からどう思われたって」

「そんな風に開き直らないで、誤解は解けばいいじゃないですか。髪は黒く染めて、ちゃんとすればいいんです。もっと自分を大事にしてください」


 正論である。


 彼女は、口やかましくて堅苦しい天敵だけれど、僕を腫れ物扱いはしない。一部の教師でさえ僕を無視しようとするのに、彼女はむしろ率先して注意しにくる。そこには彼女なりの誠実さ、僕に対してフェアであろうとする心根が見えるような気がした。


 だから、嫌いなのだ。


 人を外見や趣味だけで差別する、ただの嫌な女であれば、遠慮なく憎めるのに……。


「真田くん、入学当初の成績はベストテン内に入ってましたよね」

「……まあな」

「今は?」

「赤点付近をウロウロ」

「礼華(れいか)先生が嘆いてましたよ。彼はやればできるのにって。学生の本分は勉強です。それがおろそかになるようであれば、やはりこういう本は有害なのでは?」

「…………」


 反論が見つからなかった。

 完敗である。


「と、ともかく、エロ本じゃないことだけはわかってくれ。純粋に内容が好きで読んでるんだ」

「…………」


 彼女はじっと僕を見つめた。


 真実か、嘘か、見極めるような目だ。



 僕はうなだれたまま沈黙し、判決が出るのを待った。

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