氷のチワワ、溶かしちゃいました。

末松燈

1、風紀委員室へ呼び出しです。


 綺麗な女の子が泣いている。


 ひとりきりで、泣いている。





 ここは、僕の「秘密基地」。

 学校近くにある河原の土手。

 放課後はここの芝生に寝そべり、誰にも邪魔されることなく、そよ風に吹かれながらお気に入りのライトノベルを読む。

 それが僕の癒やし、何よりのストレス解消だ。



 だが、今日は先客がいた。



 芝生にぽつんと、立ち尽くす少女。

 制服のリボンとスカートの裾が、風にはためいている。

 遠目にもわかるほど整った、白い横顔。

 濡れたように艶めく髪が、陽射しのなかできらきら輝いている。



 思わず息を呑んだ。


 現実(リアル)に恋するなんて自分に限ってはありえないけど、普通の男子ならひと目ぼれしてもおかしくない。


 それほど綺麗な女の子が、泣いている。


 目に沁みるほど青い青い空の下で、はらはらと。


 大粒の涙をこぼしているのだった。



(冬城さんじゃないか)



 彼女の名前を、僕は知っている。

 同じ高校、同じ二年生の有名人だった。


 冬城千和(ふゆしろちわ)。


「氷のチワワ」とあだ名される、とびっきりの美少女だ。


 校則通り肩に触れないよう切り揃えた髪は清楚、清潔。ぱっちりとした黒目がちな目は子犬のような愛らしさで、いつも濡れたように光っている。全体のシルエットはすらりとして、それでいて出るところは出ている完璧ぶりだ。


 唯一の欠点は、背丈が中学生レベルで留まっているところだが――それもまた、彼女の愛らしさを際立たせる魅力と言えなくもない。


 朝の校門でも、昼時の学食でも、夕方の昇降口でも、彼女のいるところだけぴかぴか光って見える。


 男子からの人気も絶大で、一年生のときは学年問わず狩猟者ハンターが殺到した。そして全員、玉砕した。以降は、遠くから眺めて愛でられる愛玩犬、チワワと化している。


 氷のチワワだ。


 なぜ「氷」なのかというと――それは彼女の役職に理由がある。


 冬城千和は、風紀委員だ。


 生活指導教師のサポートとして、服装検査や持ち物検査などに立ち会う役目を負っている。

 好かれる役職とは言えない。

 校則違反者――たとえばスカートを短く詰めることに命をかける女子からしてみたら、厄介者でしかないだろう。

 真面目で融通のきかない性格も災いして、一部の生徒からは煙たがられている。


 そんな彼女が、泣いている。


 童心に返って芝生を転がりたくなるような青空の下で。


 ひとりきりで、涙を流している。



(……なんだってんだよ……)



 胸が締めつけられるような気分を、僕は味わった。


 女の子が泣いているのを見るのなんて、いつぶりだろう。


 透明な雫がつたう横顔を見ているだけで、自分まで悲しくなる。




 実は最初、彼女の姿を見つけたとき、怒鳴りつけて追い出すつもりだった。


 冬城千和は、僕の「天敵」だから。


 僕は生まれつき髪が茶色い。目つきも悪い。普通にしてても、にらんでいると誤解される。ついたあだ名は「オタクな不良」。そんな僕だから、冬城さんにはしょっちゅう注意されている。


 さらに許せないのは――僕が愛するラノベを目の敵にしてくることだ。


 僕は文芸部に所属している。ラノベの感想を部で議論するため、それらを学校に持ち込むことがある。あくまで、部活のためだ。野球部がグローブを、吹奏楽部が楽譜を持ち込むのとなんにも変わらない。


 そういうことを、「氷のチワワ」はわかってくれない。

 ラノベなんていかがわしい、と言って没収しようとする。

 だから僕としては、大切な本を守るため、彼女と議論するハメになるのだった。――まあ、これまでほとんど全敗なんだけど。


 天敵である。

 憎い仇である。

 校内ですれ違うとき、お互い目も合わせない。


 だけど、こんな姿を見かけてしまったら――。



(しょうがないな)



 校則違反のぼさぼさ髪を、右手でかきまぜる。


 このまま無視して、行ってしまうこともできる。


 だが、泣いている女の子を放っておくのは、自分のなかの「何か」が歪む気がした。



「どうかしたのか」



 わざとぶっきらぼうに声をかけると、綺麗な髪が大きく揺れた。

 白い顔が、おそるおそる、こちらを振り向く。

 真っ赤な目が見開かれて、僕を見上げる。

 あわてたように、濡れた頬を手の甲でぬぐった。


「な、んですか? 真田(さなだ)くん。どうしてここに?」

「ここは僕の秘密基地なんだよ」

「……そうですか」


 彼女は声を取り繕った。

 なんでもない表情を作ろうとしている。だが、涙のあとは隠せない。湿ったくちびるが小刻みに震えている。泣き顔を見られたことに狼狽しているのは、明らかだった。


「使えよ」


 ハンカチを差し出した。


 彼女は驚いた顔で、僕とハンカチを交互に見つめた。

 何故優しくするのかと、顔に書いてある。


「別に罠とかじゃないから。ちゃんと洗ってある」

「ハンカチくらい、持ってます」


 怒ったような手つきで、ポケットからハンカチを取り出す。

 敵のほどこしは受けないと言わんばかりに見せつける。


 ところが――。


「あっ」

「あ」


 女の子らしいピンクの布が、指をすり抜けた。

 風にあそばれて、西日を照り返す川面へ飛んでいった。


 途方に暮れる彼女。


 意外とドジなのかなと思いつつ、僕はハンカチを押しつけた。


「やっぱり使えよ。返さなくていいから」 

「……。ありがとう、ございます」

「もう来るなよ。大事な読書場所なんだ。学校じゃ誰かさんがうるさいから、ここで読むハメになるんだからな」


 突き放した言い方をした。

 こんな風に言えば「優しくされた」なんて勘違いしないだろう。


「じゃあな」


 彼女が何か言う前に背中を向け、さっさと歩き出した。振り向くつもりはない。自分はただ、己のなかの「何か」を守っただけなのだから。


 ぼそぼそと何か言うのが聞こえたが、無視して立ち去った。


 小さな声は、やがて風にかき消され、聞こえなくなっていった。





 帰りのバスの車窓から、秘密基地の河原が見えた。

 夕暮れに沈む芝生の上に、彼女の姿はない。もう泣いている女の子はいないのだ。そのことに、自分でもよくわからない安堵を覚えた。


(ガラにもないこと、したかな)


 そんな気持ちもあるにはあるが、気まぐれもたまには良しだ。

 百均のハンカチだし、別に惜しくない。彼女もいちいち気には病まないだろう。


(チワワさんも、これでしおらしくなってくれればなぁ)


 そんな甘い、ほのかな期待も抱いた。


 その時は。





 翌日の昼休み、教室前での出来事だ。


「あっ、バカっ! 公太!」


 悪友の吉澤公太(よしざわこうた)を注意したときには、もう遅かった。

 受け取ったライトノベルは僕の手から滑り、廊下の床にばさりと落ちた。


 書店でもらったカバーが取れて、表紙が露わになる。


 ラノベの表紙というのは、お色気重視のイラストが多い。

 ヒロインの胸がこれでもかと強調されていたり、太ももが惜しげもなくさらけ出されていたり、あるいはそれ以上のものも――。


「……いやらしい……」


 そんなつぶやきとともに、雪のように白い手が本を拾い上げた。


 あちゃあ、という公太のつぶやきが聞こえる。


 きのう秘密基地で出会ったつぶらな瞳が、鋭く僕を見つめた。


 使命感みなぎる風紀委員の目だ。


「これ、あなたのですか?」


 頷かざるをえなかった。

 貸していた本を、こんな人目につくところで返してもらったことを、今さら後悔した。


 しおらしさなど微塵もない、綺麗だけど冷たい声で、冬城千和は言い放った。



「この本は預ります。放課後、風紀委員室まで来てください。――真田亮介(さなだりょうすけ)くん」

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