4、屈辱(くちゅじょく)です。


 満員電車にて、痴漢行為に遭っているチワワさん。


 それを目撃した僕の率直な感想は、


(怖いもの知らずな痴漢だなあ)


 というものだった。


 ライトノベルの表紙すら、見逃してくれない彼女である。


 その怖さ・厳しさは、校内で知らぬ者がない。購買部のパンを買う行列に横入りした上級生グループをその場で糾弾したとか。煙草の匂いをぷんぷんさせていた強面の体育教師に面と向かって注意したとか。様々な武勇伝が全校に伝わっている。


 そんな彼女に、痴漢。


 彼女を知る者であれば、絶対にそんなことはしない。


 外見はとびきりの美少女である。邪な気持ちを抱くのはわからなくもないが――それが「危険物」だとわかっていたら、誰だって手を引っ込める。


 きっと、すぐにも彼女は声をあげる。「やめてください」。毅然としてにらみつけるはずだ。「お尻を触られました」と、痴漢の手をねじり上げるかもしれない。ちっちゃいからとナメてはいけない。チワワは小粒でぴりりと辛い。痴漢の人生は終了である。南無。



 ところが――。



(なんで、声出さないんだよ)


 彼女は黙り込んだままだった。


 じっとうつむき、唇を引き結んだまま、長いまつげをフルフルさせている。嵐が過ぎ去るのをじっと待つ、そんな顔に見えた。


(怖くて、出せないのか)


 僕と彼女の距離は1メートルほど。あいだに大学生風のカップルがいて、ずっとおしゃべりしている。痴漢はその隣にいる、六十代と思しき背広のおっさんだ。彼女とは逆方向を向いていて、一見無関係に見えるのだが、つり革に掴まってない左手がもぞもぞと不自然に動いている。そのたびに、彼女が怯えた子犬のように震えるのがわかった。


 彼女の目には、涙のしずくが光っている。


 それを見るのは、これで二度目だ。


 あれだけ大見得を切っておいて、即落ちにもほどがある。「泣きません」。キリッ、という音が聞こえてきそうなくらい、僕に言ってのけたくせに。


(しょうがないな……)


 そう思うのも、二度目だった。


 もう関わらないようにしようと思ったばかりなのに、いったいどういう縁なのか。ともかく見過ごせない状況なのは間違いない。



「すいません、あの」



 僕が声をかけたのは、痴漢――ではなく、大学生カップルの女性のほうだ。


 チワワさんがはっと振り向く。

 驚きに目を見開いている。

 

「隣の友達が苦しそうなんで。少し離れてもらえますか?」


 女性はあわてて「ごめんね」と距離を取った。


 女性よりもあわてたのは、おっさんだった。

 痴漢していた手を持ち上げ、両手でつり革に掴まった。


 僕は移動して、チワワさんとおっさんのあいだに体をねじ込んだ。

 脂ぎった顔を、思い切りにらみつけてやった。


 ――その顔、覚えたからな。


 視線でそう宣告した。


 おっさんは気まずそうに何度も咳払いをした。茶髪で目つきの悪い不良ににらまれたのだ、びびるのも無理はない。僕と目を合わせず、ずっとうつむいていた。次の駅についてドアが開くと、逃げるように降りていった。




 痴漢が去った後、チワワさんはか細い声でささやいた。


「あ、あの……真田くん」

「勝手に友達ってことにして、ごめんな」

「……いえ、そうじゃなくて……」


 それきり、彼女は沈黙した。


 僕も口を開かず、車内の吊り広告を読むことに集中した。


 ちらちらと頬に感じる彼女の視線が、少しだけくすぐったかった。





 僕が降りると、彼女も降りた。


 彼女と最寄り駅が同じだなんて、初めて知った。父親の海外転勤を機に独り暮らしを始めて一ヶ月半。まだまだ知らないことが多い。


 人の波に乗ってホームの階段を昇ろうとしたら、後ろからブレザーの背中を摘ままれた。


「先ほどは、ありがとうございました」

「いいって。災難だったな」

「はい……」


 まだ少し、声に怯えが残っている。


「ああいうの、よく遭うの?」

「いえ。今日はたまたま帰りが遅くなって。いつもの電車なら、こんなことは」

「さっきの電車には、もう乗らない方がいいかもな」


 そうします、と彼女は頷いた。


 話は終わったはずなのに、彼女は摘まんだ指を放さなかった。降りた客はみんないなくなって、ホームには人気(ひとけ)がない。


「笑わないで、聞いてほしいのですが」

「うん?」

「ぜったいに、笑わないでほしいのですが」

「笑わないよ。何?」

「……肩を、貸していただけないでしょうか」


 は? と思わず彼女を見つめた。


 真っ赤な顔で、プルプルしている氷のチワワが、そこにいた。


「足が、まだふるえてて。階段を昇るの、手伝ってください」

「…………」

「……っ。笑わないって。笑わないって」

「すまん」


 めっちゃお尻つねられた。痛い。痛いけどおかしい。


 そういうわけで、彼女に肩を貸した。

 よくあるラブコメであれば、おんぶやだっこで運ぶのだろうけれど、それは二人の仲が深ければの話だ。天敵同士の二人ならば、肩を貸すくらいでちょうどいい。


 それでも、けっこう恥ずかしかった。

 右の肩と脇腹に密着する彼女のからだは、どこもかしこも柔らかくて、ふにふにしていた。しかもいい匂い。男の自分とこんなにも違うのかと、驚くほどだ。


「ゆっくり一段ずつな。転ぶなよ」

「わ、わかってます」


 おっかなびっくり、彼女と昇っていく。

 二人三脚みたいだ。


「まったく、くちゅじょくです」

「くちゅ?」

「屈辱です。真田くんに、こんな借りを作ってしまうなんて」

「くちゅ?」

「…………」

「痛えっ」


 またも、おしりをつねられた。


「お前っ、痴漢のときにそれやれよ!」

「できません。真田くんだからです」

「僕は痴漢以下なのか!?」


 ケンカしながら、二人三脚。

 我ながら器用である。


「ていうか、あのスマートな助け方はなんですか? 真田くんのキャラじゃないと思うのですが」

「ふふん。あれは愛読してるラノベにあったやり方だ。主人公とヒロインは、それをきっかけに恋に落ちるんだぜ」


 彼女はしばらく沈黙した。


「恋に落ちる。わたしたちに限ってはありえませんね」

「ないなー」

「天敵ですもんね」

「だなー。あ、そこ、滑るから気をつけろ」

「……この流れで急に優しくしないでくださいよ……」


 何故か、頬を赤らめる彼女。

 その横顔に、一瞬、みとれてしまう。


(ほんと――顔が良すぎるんだよなぁ)


 気まずくなって、僕は話題を変えた。


「ともかくまあ、ラノベもたまには役に立つってことだ。有害有害うるさい誰かさんも、少しは身に染みただろ?」

「……えー」

「えーってなんだ、えーって。ラノベのおかげで救われたと言っても過言じゃないぞ、お前」

「そうですね。一部は認めてあげなくもなくもなくもなくもなくもなくもありません」


 ナクモナクモうるせえー。

 そんなに認めたくないんかい。


 それにしても――。


 すっかりいつも通りである。


 痴漢に怯えていた彼女はもういない。

 ほんのり、頬を緩ませて。

 僕の肩にちっちゃな体を預けながら、ツンとした口調で言う。


「だからって、学校に持ってきていい法はありませんからね。これからもびしびし取り締まります」

「わかったわかった」

「お返事は一回です」

「わーーーーーかーーーーーーーっーーーーーたーーーーー」


 やっぱり、天敵だ。


 そんな憎まれ口を叩きながらも、肩に感じる彼女の重みが、少し心地よかった。

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