悪の世界・Ⅰ

 私の世界は悪で満ちている。それが祝春花の感じる世界だった。

 誰も、春花を救う事はなかった。誰も、春花を認めようとはしなかった。誰もかもが、祝春花を恐れた。吐気がする程の冷たい視線。鳥肌が立つほどの冷ややかな態度。胸を刺す陰口。

 ただただ、魔法の才能があるというそれだけで。

 彼女にとって締め付けられるように渇望していたのは友人だった。彼女の存在を、魔法を抜きに認めてくれる家族だった。

 ……どうして、私は私を救う事ができないのだろう。

 いっそ魔族に生まれればよかった。彼女はそう嘆く。だがしかしそれは叶わぬ願いだった。

 人間は足元にも及ばない圧倒的な魔力と魔法の才。世界がそもそも違う彼等に混じったのならば、凡才として紛れ込んでいられただろう。だが同時に、彼女はその考えが間違ってるという自覚をもっていた。そもそも、捻じ曲げられてしまった性格こそが問題なのだと。

 祝春花は現実を自分で自分に突き立てる。抗えない感情と、客観的な自分に、心も頭もぐちゃぐちゃにしていた。

 何が正しくて、何が間違っているか。

 何が精神論で、何が正論で、何が極論で、何が感情論で、何が詭弁で、何が真実で、何が嘘で、何が仮面で、何が本当で、何が正解なのか。

 どうすればいいのかなんて、彼女には解らなかった。というよりも、わかっているけど、それをする力も、勇気も、持ち合わせていない。持っていないものは仕方ない。そう言い聞かせる事が、暗い目の前を歩いていくための精神安定剤だった。

 祝春花は恐れられていた。

 ノストラダムスの予言から始まった魔族大戦。或いは第三次世界大戦とも呼称される戦争後、現代には魔法の技術が芽生えた。しかし、使える人間はごく一部に限られた。使えたとしても、魔族と同等に魔法を扱える者は終ぞ現れず、核兵器と大艦隊と特殊工作部隊によって戦争は終結した。

 そして、今。

 魔法教育が義務教育化された中、祝春花は年齢に対して異様な程の魔法への適性を発揮してみせた。それが、周囲にどういう印象をもたらすかも解らない年齢の頃に。

 彼女の母は春花を忌み子と言った。父は、母を魔族に魂を売ったのだと罵った。小学校の先生は春花をできるだけ刺激しないよう遠ざけた。クラスメイトは愛想笑いが上手になった。唯一、奇人変人の集いとまで称される魔法学会だけが彼女に、彼女の力に興味を持った。

 それだけだった。

 魔法の力が突出しているというだけで、それは悪意を孕ませるに十二分な物だった。かといって、祝春花自身は誰かを呪う事も、直接的に魔力を叩き込む事も無く、大人しく黙って下を向き、ひたすらに自らの魔法を研鑽した。

 それは大人になった時、世界が魔法を中心に動き出した時、何もかもを見返す為だった。

 しかし、ずっと早くに転機は訪れた。


  ◆


 その少女はずっと席だけはあった。

 神北有寿アリスという名前しかわからないクラスメイト。祝春花にとってその存在はそれだけの話だった。顔も声すらもわからない。担任は病気で来ていないだけだという。

 担任の先生は所謂体育会系な若い男性教員であり、持ち前の底抜けた明るさが特徴だった。春花へも臆する事なく分け隔てなく話しかけるが、しかし彼女の悩みを解決できるだけの経験も知識も技量も持ち合わせてはいない。何とか春花もクラスに馴染めるようにと空回りしていた。

 その日も当然のように神北有寿は学校に来ず、担任は空回りするだけのはずだった。

 春花は放課後のチャイムを聞いて机の上の物を片付ける。周囲の席の人間はそそくさと荷物をまとめて自分達のグループの元へと逃げるように移動した。春花はそれを気にすることなく自分のペースで片付ける。

 ガラン、という音を立てて彼女のペンケースが転がった。何の変哲もないシンプルなアルミ製のペンケースから実用性のみを追求したような可愛げの一切を排除したような中身が床に転がった。

 途端、ざわざわとしていた教室が静まり返る。空気が凍りついたかのように。視線は春花の元へと集まっていた。誰しもが怯えたような表情で彼女の様子を見ていた。春花の表情は一つも変わらず、ただ少し溜息を吐いてからそれらを拾った。一部始終を見届けると雨が降りはじめたように教室の空気が溶けていった。

 凍りついたままなのは春花の表情だった。

 支度を終えた春花は誰に挨拶することもなくそのまま教室を立ち去る。

「こないだの魔法技能検定で準二級に上がったんでしょ?やっぱり魔女じゃない」

 全世界規模で行われている魔法に関する技能検定。準二級ともなれば複雑な上級魔法や新呪文の開発を行える魔法のプロフェッショナルとさえ言える程の実力を示している。魔法研究者ですらその階級を持つものは三割に満たない。つまりそれは、

「しっ聞こえたら呪われちゃう」

 畏怖と嫌悪をもたらすものだった。

 ……聞こえてる。

「わざわざ呪うよりよっぽど早い方法なんていくつでもあるのに」

 悪態を、そう小さく零して廊下を歩く。上級生も下級生も、或いは先生ですら彼女が通り過ぎる間は無言だった。後ろでヒソヒソと何かを言っている事だけが春花の耳を刺していた。腫物か疫病神か。そういう扱いを彼女は気にしていないのか、ただただ通過する。

 ……早く部屋に帰りたい。

 ただそれだけを考えていた。家ではなく、部屋に帰りたい。唯一の落ち着ける場所。部屋には本があり、それこそが友人だった。ファンタジー、サイエンスフィクション、サスペンス、推理、群像劇。大体このあたりが好みだった。

 だが、今日は問屋が卸さなかった。正確に言えば担任が降ろさなかった。

 学校指定の質素な鞄をぎゅっと握って教室から出ると

「おーい祝ー」

 遠くから暑苦しい声が飛んできた。その声を無視して彼女は同じペースで歩く。

「祝ー!聞こえないのか―!」

 段々と発信源が近づいてくる。それに合わせて祝は徐々に速度を早めた。だが、

「祝ってば、待ってくれ」

 真後ろまで来てしまった。

「……なんでしょう。先生」

 観念したかのような声で振り返り、突き刺すような眼光を髪の下から覗かせる。だが彼はそんなことはお構いなしに分厚い茶封筒をひらひらとしてみせた。

「まずはこれを渡そう」

 裏面が上になるように封筒を渡された。とりあえず受け取り表返すとそこには”神北有寿様”とあった。

「これ、届けてくれ」

 露骨に嫌な顔をしてみせた。

「そう嫌な顔するなって。ちょっと重要な書類なんだが今日は俺職員会議があって遅くになっちまうんだよな。住所は割と近いから、な?ほら表にかいてあるそれだ」

「郵便で送ればいいじゃないですか」

 そう言って突き返そうとするも、彼は掌を広げ受け取ろうとしない。

「そんな事に経費は使えないんだよ。じゃ、よろしくな」

 そう言って踵を返すように去っていった。

 ……どうして私が。

 いっそ郵便局にこのまま持っていこうかとも考えるが、そんなことでお小遣いを使うのも馬鹿馬鹿しかった。住所は本当に近所だ。適当にポストに投げ入れておけばいいだろう。そう考えて春花は靴を履き替えた。

 学校から家までは徒歩十分といったところだった。そこから更に二分ほどあるけばその住所には向かえるだろう。大体の検討をつけていけば直ぐに違いない。さっさと終わらせてしまおう。そう思って急いだはずだった。


  ◆


「あれ?」

 だが、気がつくと明らかに住所を通り過ぎていた。

 反対向いて歩き始める。

「……あれ?」

 だけど、また過ぎてしまった。

 ……何かがおかしい。

「まず三丁目の角、杉田、中村、水樹、梶田、悠木……」

 ……一つ空き地があって、

「神谷、小野、宮野、あれもう五丁目?」

 ……行きすぎた……どうして?

 立ち止まった。来た道を見通すように目を細める。だが、彼女の視界に入ってくるのは表札を読んだ家だけで、一軒だけまるでモヤがかかったように記憶できない。形容ができない。見ているはずなのにそれを見たことを覚えていられない。家はある。窓もある。あるにはあるのに、それがどんな形をしているのかをはっきりと言葉にできない。

 ……人払いの呪詛だ。

 春花は確信する。ノートを急いで取り出し、ペンケースから黒マジックを用意。

「どうしよう……かな」

 ……多分この魔法を解呪する方法は簡単。だけど、それじゃ直ぐに相手に気づかれる。態々人払いまでしているってことは事情があるはず。だったら、気付かれないように侵入しないといけない。なら――

 守護を意味する五芒星を中心にした魔法陣をノートの片面を使って書き上げた。ページを切り取り、丁寧に縦に二回それを折りたたむ。

「ここに在りしは不浄の呪詛。我が手に在りしは隠匿の加護。至るは必定なりて天道に示せ」

 折りたたまれたそれが僅かに光を放った。魔力放射光……魔力が魔法に変換される際の現実とのギャップで現れる余剰分が光に変換されたものだ。

 それを手に持ち再びその家を見た。はっきりと白い家が見える。外見は普通の一軒家に過ぎない。だというのに春花は寒気を覚えていた。明らかに、何かが可怪しい。近寄ってはいけない。そう訴えかける頭の声に反するように、手足は玄関へと向かっていた。

 ……何?何があるっていうの。

 ゆっくりと、震える右手が備え付けられたチャイムではなく門戸に伸びていた。

 駄目だ。なんてことはわかっている。だが好奇心が勝った。ただそれだけだった。正体不明の物を確かめずにはいられない。確かめて、対処を考えておかなければそれが向こうから迫ってきた時の対処の仕様がないから。大丈夫、自分は猫じゃない。

 ……それに、隠匿の魔法もある。見つかるはずがない。

 左手にぎゅっと握られた紙が手汗で少し濡れていた。

 そろそろと手が門戸に触れようとした瞬間、

「どちら様でしょう」

 ガクン、と手が止まった。いや、手どころか全身が固まった。バネでしっかりと固定されたかのような首をなんとか動かして声の方向を向く。

「え、えっと、あの」

 思いっきり乾いた声がでた。目線の先、玄関の前に居たのはゆったりとした白を基調にした服の外人のような女性だった。百八十はあろう高くスマートな身体、長く煌めくような金髪、透き通るような白い肌、蒼い瞳は澄んでいて、それこそ天使なのではないだろうかと見紛う程の美しい人だった。

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