第2話 牡丹



 さらり。

 カンバスの上をなぞる筆は楽しそうに蠢いた。その筆先を覗きながら、油の匂いに紛れながら、煙草をふかす春は楽しそうに口元を歪ませる。

 まっさらなカンバスの中を踊る紅色は、今この瞬間どんな世界よりも美しい。その美しいカンバスに描く予定の美しい牡丹の脳内に浮かべながら、ぐしゃりと手元の花を手折った。手の中に、散り散りになった花弁が舞う。


「あーあ、ああなった春さん、しばらくカンバスの前から動かないんだよなぁ」


 自分の一部が如く筆先を操る春の背中を見つめながら、ハチは小さく呟いた。傍らにはいつもの橙色した着物を羽織る妖艶な女が幸せそうに煙管をくわえる。カコン、と火鉢の中にその先端を叩きつけたのを見て、ハチは目をそっと細めた。

 夕月の瞳は芸術品を見るように、むしろ見定めるように春の背中を、そして指先、筆先を追っている。芸術家は作品制作中、鬼気迫る空気を醸し出すというが、春は真逆だ。空気に紛れるよう、その世界に溶けて輪郭を失わせていく。

「私はねェ、ハチ」

 ふふ、と口元に真っ白な袖を寄せながら、ちらりと夕月が視線をハチに一瞬だけ向ける。瞬きの間にその視線はまた青い着流しへと戻った。

「ああして筆を持った春さんが、この世で一等好きなんだよ」

 くく。

 喉を鳴らして幸せそうに目を溶かす夕月を横目に、そんなん僕のが好きに決まってる、と心の中でだけ呟く。じゃなきゃ、あんな面倒な男の世話役をあんなちっぽけな給金で引き受けるわけもない。



 一筆輪郭を描く度に、紅色の花弁がその部屋の床へと一枚、二枚と落ちていく。買っても摘んでも牡丹は次から次へと手折れていった。

 絵を書くとき、春は何かを壊しながら描く。その命を絵に変えていく。ひたすら紙をくしゃくしゃにしていくときもあれば、布を裂くときもある。その中でも、花を手折るのがもっとも多い。

その癖を知っているので、ハチは何本も何本も、牡丹を手に入れては白い花瓶に活けていく。

 美しい牡丹が、手折れる瞬間。そして手折りながら描く春の姿。

 美とはこの瞬間にある。

 ハチは眠らずに絵を描くその背中を見ながら、ほう、と小さく息を吐いた。この瞬間が見たくて、僕はここにいるのかもしれない。


 ひと段落ついたのか、ぱたり、と春が地面に落ちるように筆を零した。

 こん、こん。

 狭い部屋の中に小さな咳の音が響く。絵はまだ完成からは程遠い。その前に春の体力が底をついたのであろう。冷えたその身体に薄い布団をかけながら、ハチは絵を見上げた。

 本当に、春さんの絵は美しい。

 完成までは程遠いというのに、ただでたらめに引かれたような紅色の筆痕は生々しい芳香を放っていた。

「なァハチ」

 幸せそうに春は笑いながら、また一つ、牡丹を手折る。ばらばらと落ちる花弁からは独特の香りが立ち上る。それに身を寄せるよう、春は小さく空咳を零した。

「花が命を終える瞬間ってェのは、いろんな言い方があるンだぜ」

 こんこん。

 咳を零しながらそう言う春の背中をそっと撫ぜる。日が落ちると同時に夕月はこの館からいなくなった。女には女の生き方があるのだという。

「桜は散る、梅はこぼれる、朝顔はしぼむ。じゃあ牡丹は何というか知ってるか?」

 にぃ、と嬉しそうに口を歪ませながら、春は幸せそうに目を閉じる。目を開いているのも億劫になったのだろう。ぼんやりと描く牡丹を浮き出せている灯りに、ハチはふ、と息を吹きかけた。揺らぐ灯りが姿を消す。


「牡丹は、くずれる。あいつァ、崩したくなかったんだな」


 幸せそうにそう呟いてから、春はその呼吸を穏やかなものにした。

 ハチは一定になったその寝顔を覗きながら、そっと立ち上がり部屋から出る。部屋の中より一段低い冷気に、一瞬にして蒸気した自分の頬を冷ました。

 絵を描いているときの、春は異様な色香を帯びている。



 目が覚めてから、春は再びカンバスに向かった。ふわりふわりと、空気を描くかのようにその筆先を滑らせていく。その背中を見つめてから、ハチはそろりと館を出た。

 じゃり、じゃり。足元で小さく砂煙が立つ。いつものことに気も留めず、ハチは長屋が並ぶ小道に入りこむ。男は酒屋で働いているが、今日はその酒屋が休みだ。きっと中にいる。

ここだここだと、部屋を見つけたところで、細く開いた襖の隙間から中を覗いた。

ああ、やっぱりいた。春に絵を依頼した男が、ぼんやりとした様子で畳の上に座っている。そしてその目の前には、美しい牡丹の花が真っ白な白磁の花瓶に飾られている。

 牡丹を見つめるその目には、どうにも形容しがたい複雑な色が浮かんでいる。ああ、なんともわかりやすい。ハチは小さく口元を緩めてその姿から視線を逸らした。


 長屋から逃げるように大通へ戻った。ついでに、と、二丁隣に大きな屋敷へ足を伸ばした。屋敷と言っても、その軒下にはいくつかの美しい調度や女性に似合いの簪や櫛、銀の鏡が並べられている。

 町でもそれなりの話題になった物売りだ。一見の客を装ってハチはそれらの飾りを覗いては、店の奥をちらりと見やる。

「あらまァお兄さん。恋人への贈り物かい?」

「そんなところです」

 楽しげに笑いかける店先の旦那に、はは、と照れるように笑い返すとその旦那は更に楽し気な笑みを口元に湛えた。

「うちの商品を受け取れるたァ、運のいいおなごだねェ」

「そう思って覗きに来たんですよ」

「嬉しいこたァいってくれんじゃあないの」

 ゆっくり見てけよ。

 その言葉に笑みを返しながら、ハチはやはり店の奥をちらりと覗きこむ。と、奥戸から柔らかな雰囲気の女が顔を覗かせた。真っ白な頬に健康的な朱が浮いている。持ち上げられた黒髪は触れたくなるほど艶やかな光を浮かべた。

 おお、これは別嬪だ。ハチはほんの少しだけ瞳を見開いた。

「旦那、裏にあった中古の品、片しておきましたよ」

「おう、ありがとな」

 旦那はそう言うと、ぺい、と番頭から抜け出してその戸の向こうへ消えていく。格子窓の向こうでちらりと見える女の白いうなじに、ハチは小さく頷いた。

 楽しそうに笑みを浮かべる表情が、なんとも愛らしい。

 ちらり、と向こうから視線が飛んできたので、誤魔化すように手鏡や簪を一通り手に取った。しばしそうした後、また来ます、と代わりに出てきた丁稚に声をかけて軒先から離れる。

 一つくらい買っていこうかと思ったが、並べられた調度は手に届かない銭札を張られている。冷え切ったハチの懐では、一つ買うだけでひと月の食事代が消えてしまう。

 小さくため息を落とすと、ハチは春が絵を描いているだろうあの家を目指す。



 ハチが帰ると、春の背後を覗き見する夕月の姿があった。よくもまぁ、連日現れるこった。

 羽織りを脱ぎながら、夕月の隣、春の背後に腰を下ろした。春はそんな背後を気にすることもなく、器用に片手で煙草をふかす。

夕月がちらり、と楽しそうにハチを一瞥した。手前と同じことをやって何が悪い、と心の中でその小さな視線に反論する。

 春は心底楽しそうに、するりするりと筆を動かしている。

 絵の完成は近い。春の足元には、山になった煙草と、手折った牡丹の花びらが落ちていた。花弁はバラバラと、まさに崩れ落ちている。

 こんこん、と小さく咳を零しながらも、春の手は止まらない。

「命を削るようだねェ」

 夕月がふわりと呟きながら、煙管の先に火を灯す。ふぅ、と吐き出す煙が、春から吐き出されるものと混ざり合った。閉じたままだった縁側の襖を、ハチは少しだけ開く。そこから滑り込んできた風に、混ざり合った煙は音もなく消えていく。

「あの絵で、依頼人は喜んでくれるのかい?」

 夕月が煙管に口を落としながら、ちらり、とハチを見る。着物の衿の隙間から、真白い鎖骨を覗かせる。

「さあね」

 その鎖骨の毒にあてられないよう目を逸らしながらハチが返す。その様子が楽しかったのか、クツクツ、と夕月が喉元で笑った。ハチは視線だけで不満を訴える。

 ゆらり、と、夕月の瞳が春の背中から揺らぐと、ハチの瞳にするりと入り込む。

「あんた様は、本当に春さんが好きねェ」

「まあ、ね」

 あんたもだろう。

 視線を送り返す。夕月は何も言わずに、またふらりと視線を春の背中に戻した。夕月の視線を受けた真っ青な着流しは、気が付けば絵具にまみれて汚れている。紅か、白か。その汚れすら、今この一時に限っては芸術品のように輝く。


「あやかしのようねェ、春さんは」


 幸せそうに呟く夕月に、ハチは何も答えず、視線すら向けなかった。



 ***


「絵が出来たって本当かい!?」


 堰を切ったように、男が館に飛び込んできた。部屋の中には、まだ油絵具独特のツンとした匂いが広がっている。その奥の縁側で、春は美味そうに煙草の煙をくゆらせていた。

 男を連れてきたハチは、春のいるその部屋に男を通すと台所へと姿を消した。

「そんなに急ぎなさんな。絵は逃げないぜ」

 こんこん。煙草の煙と一緒に空咳を吐き出すと、春は瞳をそっと細める。

 ゆるりとしたその空気に、飛び込んできた男は冷静さを取り戻した。


 ハチが持ってきた茶をぐい、と飲み干しながら、男はそれでも熱に浮かされたような瞳で春を捉えている。よっぽど、春によって描かれた絵を心待ちにしていたようだ。

「で、その絵はどこなんだい? 早く見せておくれよ」

「それより先に、少しアンタと話がしてェンだ」

 煙草の火を灰皿に押し付けながら、春はくつりと肩を揺らしながら笑った。男は小さく唇を尖らせる。

「なんでェ。随分と勿体ぶるんだな」

「まァまァ」

 ハチに出された饅頭を一口ほおばると、春はのったりした口調でゆったりと問いかける。


「アンタ、なんで牡丹の絵を部屋に飾ろうと思ったんだい」


 その質問に、男はもごもごと口先を動かした。明らかに答えたくないという反応だ。ハチはそれを横目で見ながら、春の性格の悪さを心の中で攻めた。答えのわかっている質問なんて。

 答えようとしない男に、春は楽し気な笑みを浮かべて茶を啜る。

「アンタの長屋の二丁隣の小物屋に、そりゃまァ別嬪な女がいるのは知ってるかい?」

「え」

「この前うちのハチが空財布を持って行ったンだ」

 男が瞠目するのと同時に、ハチも目を見開いた。この人は背中に目でもあるのか。あの日こっそりと出向いたことを春は知らないはずだ。そもそもその長屋に通った回数は、ハチより春のがずっと多い。

 うろたえるような男に、春は幸せそうに目を細める。

「有名な看板娘らしいなァ。店先に出るときには、いつも白地に花が舞う着物を着ていると聞く。ちらりと見える裏地は綺麗な紅梅らしい」

 見てみたいモンだねェ。

 わざとらしくそう呟きながら、また新しい煙草に火をつける。瞳をきょろきょろさせる男が可愛そうになって、ハチは小さく春を睨んだ。その視線を受け止めても、春は小さく笑って煙を吐き出すだけで、顔色一つ変えやしない。


「知ってるかい。そういう着物のかさねを、牡丹というらしい。なァハチ」


 心底嬉しそうに煙を呑む春に、ハチはためらいながらも小さく頷く。一つも悪いことをしていない目の前の男が可哀想になる。

 赤くなっていいのか青くなっていいのか、男は顔を黒く染めて視線を彷徨わせ続けている。こういうときに限って夕月はいない。春を窘めるのはあの女の仕事だというのに。

「本人も牡丹を思わせるほど別嬪なんだと。面白い。あの娘っ子と、アンタは幼馴染だと風の噂に聞いた」

 男は、は、と顔を上げると春を伺うように目を覗き込んだ。どこまで知っているんだ、とその目が問いかけている。春はその目に目を返すだけで、そこに何も返さない。

 本当に、絵以外に尊敬できるところのない男だ。

 こんこん、と咳をこぼしつつ、春は短くなった煙草にゆっくりとした動きで口を着けた。会話の途切れた部屋の中で、煙だけが絶えず動き回っている。


「アンタが欲しかったのは牡丹の絵じゃなく、本当はあの女だったんだろう。枯れない牡丹が欲しかっただなァ」


 差し込むように、春が煙と共に問いかけた。男は視線を彷徨わせるのも、春に向けるのもやめて、買えたばかりの畳を、じ、と俯いて見つめていた。

「ハチ」

「はい」

 春の合図に立ち上がると、隣の部屋に置いてあったその絵を運ぶ。小さなカンバスに描かれた牡丹に、何度も見たはずのハチさえも小さく感嘆の息を漏らす。


「依頼の品は、これだね」


 目の前に置かれた絵に、男の顔がわかりやすく硬直した。

 白と紅色で描かれた、美しい女性の肖像画だ。牡丹の色を零した口元は、薄く微笑みを浮かべている。柔らかい瞳が、つい、と目の前の男を覗き込むように見えた。その絵に添えられた見事な牡丹の花さえ、その描かれた女性の引き立て役にしかなりえない。

 ふ、と、息をかければ反応しそうな生々しさがその絵にはあった。

 男が、呼吸も忘れてその絵を見入る。じ、と、ただただ絵に魅入られたように、その中の女と視線を絡ませた。

「絵で、いいのかい?」

 心を手折るように、春が吸っていた短い煙草を折る。そしてぐりぐりと灰皿にその先端を押し付けると、目をするりと細めた。

「アンタの欲しかったのは、牡丹でも絵でもない」

 男が、ようやく呼吸の仕方を思い出したように目を上げた。ふ、ふ、と足りない酸素を取り入れるような短い呼吸を繰り返す。


「あの娘が許嫁に嫁ぐのはまだ先だ。諦める前に、することがあるんじゃあないかい?」


 その言葉に男はぴくん、と肩を揺らし、その絵をひっつかんで館を飛び出す。

「ハチ」

「わかってますよ」

 それに合わせてハチも身体を躍らせた。ひょい、と慌てて玄関で下駄をひっかける男の肩を叩くと、豪奢な牡丹の花束を差し出した。

「手土産無しじゃあ、寂しいですぜ。これ、あんたの部屋から持ってきたんです」

 男は震える手でそれをひっつかむと「ありがてェ、ありがてェ」と泣きそうな声で言いながら通りの向こうへ消えていった。その背中を見送りながら、ハチは小さく息を吐き出す。

 うちの主は、面倒事が大好きだ。



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