筆が描くは現か夢か

妹蟲(いもむし)

第1話 春という男



 こん、こん。

 小さく咳を零しながら、男は縁側で煙草をふかす。薄く青い着流しをまとった男は、退屈そうに高い春の空を見上げていた。煙草の先からふわふわと立ち上った煙は雲に届く前に霧散する。

 ぴぃぴぃ。春らしい小鳥の囀りに男は小さく口元を緩ませ、ふ、と春らしい穏やかな日差しに目を細める。


「ちょいと春さん、煙草は辞めろと言ってるだろう」


 小さな音を立てて襖が開くと、そこからひょろりと細い体躯の男が入ってきた。丸い眼鏡を生真面目にくい、と引き上げ、不満そうな目で男を見る。

 春と呼ばれた男は、その目を気にもせず、にかりと笑った。

「これを辞めるのは無理な話というもんよ、ハチ」

「まったく。肺に悪い」

 床に丸めて捨ててあった白い羽織を手にすると、ハチは甲斐甲斐しくその背にかけてやる。短くなった煙草を消しながら、春は「どうも」と小さく呟いた。

「それより春さん、さっき画商が来ていたよ」

「またかい。追い払ってくれたんだろうねェ」

「とりあえずってところだよ。春さんの絵を手に入れるまで何度でも足を運ぶと意気込んでいた」

 こん。

 春は小さく眉を寄せる。ふと気になって、自分の背後に立つカンバスを見る。手が付けられていないそのカンバスは、ただ一面美しい白で染まっている。そのカンバスの足元に絵具と筆はオブジェのように散らばっていた。

「僕としては、今は春さんに少しでも療養してもらいたいところなんだけれど」

 そう言いながら、ハチは壁に飾られた大きな風景画を見つめる。鮮やかな色彩で描かれたハチの郷里は、その土の匂いすら思い出させるほど力強い。

「描きたくなれば描くサ」

 ケタ、と小さく声をあげて笑うと、春は再び春の高い空を見上げる。その青い空を横切るように、5羽ほどの鳥の群れが飛び去っていく。

 描く必要がないほど、この世界は美しい。


 ***



「美しい牡丹を描いてくれやしないかい」


 突然春の元を訪れた男は、開口一番そう言った。着物に染みついたものだろうか、男から一瞬だけ甘い香りがした。

 居間とも客間とも言える部屋で、春は胡坐をかきながら首を傾げた。それなりに名は売れているが、縁起物や肖像画以外の絵を依頼されるのは珍しい。そもそも気分屋の春に対して絵の依頼を持ってくる人間がまだいたのか、とハチは目の前の男に感嘆の思いを抱いた。

「ぼたん、てェいうと、花の牡丹かい?」

「ああそうだ。あのでっけェ花だ」

 男は脳内にその花を思い浮かべたのか、キラキラとした瞳をまっすぐ春に向ける。春は小さく口の中で「花、ねェ」と口ずさみ、こんこん、と小さく咳を零す。その背中をハチが撫でる。

「で、その花の絵をどうするつもりなんですか?」

「……その、家に、飾りたいだけなんだ」

 ハチの質問に、少し男は考えるように目をくるりと回してから、照れたように右手の人差し指で頬をかいた。

 春は「ふむぅ」と小さく呻いてから、楽しそうに口元を微かに緩める。

「おれのこたァ、何処から聞いたんだ」

「ああ、知り合いにあんたの贔屓がいてねェ。見せてもらった絵がすンばらしかった」

 そう言いながら、その部屋の壁に飾られた風景画をうっそりと見つめる。ハチが小さく胸を張る。春さんの絵は世界一だ。

 春は考え込むように目の前の男を見つめた。

「なんで絵を飾るんだい? 花なら本物を飾ればいい」

「いンや、本物はだめだ。飾ってもすぐに枯れちまう。庭に植えてもみたが、どうにもおれには花を枯らせる才能しかないらしい。もし成功しても、春が過ぎればもう見れなくなっちまうだろう? おれァずっと見ていたんだィ」

 困ったように花をこする。ハチはふうむと考える。季節の花を愛するわけではなく、この男にとって牡丹だけが特別なのか。

 にしても、牡丹という花はそんなに魅惑的なものだったろうか。ハチは微かに首を捻りながらその花を頭に描こうとした。が、残念ながらその姿はぼんやりとしたものにしかならない。赤かったような、いや、白かっただろうか。

 春は覗き込むように男を見る。男は、その視線に眉尻をかくんと下げた。

「謝礼で払える金は、そんなにねェんだが、出来る限りは準備する。だから、頼む。美しい牡丹を描いてくれ。枯れぬ牡丹が、どうしてもおれには必要だ」

 畳に頭を擦りつけるように男は頭を下げた。ハチは、ちらりと春の横顔を覗いた。考え込むように右手で隠した口元が楽しそうに緩むのを見てしまった。

「あんた、牡丹が好きなんだねェ」

「……ああ、いっとう好きだ」

 必死に、でも幸せそうに呟く男を見て、青い着流しの肩口が小さく揺れた。息を抑えるように、喉元だけでくつくつ笑う。楽しくて仕方がないときの春の動作だ。ハチはただただ肩を落とした。

 まったく、療養がまたひとつ遠くなった。



 男が帰ってから、春は機嫌よさそうに小さく鼻歌を零しながらカンバスを選び始めた。手にもてる程度の小さなサイズのものをいくつか取り出し、こちらにしようか、あちらにしようかと持っては置いてはを繰り返す。

 日が落ちて冷えてきた風を案じて、ハチは開かれたままの縁側の扉を閉める。冷たい風は、春の身体に障る。

「春さん、なんで依頼を受けたんだ?」

「面白くなるからに決まっているだろう」

 にたり、春はそれはそれは楽しそうに笑った。

「何がそんなに面白いんだ。ただ花を描けと言われただけだろう」

「ハチは想像力が足りないねェ。とりあえず夕月を呼んでくれないか。ついでに牡丹の花を摘んできておくれ」

「夕月を?」

 ハチは小さく不満げに眉を寄せ、遅れて小さく頷いた。



 ***



 ハチに連れられて古ぼけた小さな家屋に入った夕月は、くるりと瞳をころがせた。縁側で、こんこん、と空咳を繰り返す春の元へ着物を引きずりながら近づく。普段着には鮮やかすぎる美しい橙色の着物を引き寄せながら、それより鮮やかに染まった真っ赤な唇を彼の頬に寄せた。

 春はその唇を避けもせず煩わしそうに受け取ると、手元にあった煙草にまた火を着ける。そんなそっけない態度に、夕月は唇を微かに尖らせた。

「あらまぁ春さん。私のことはそこらの虫と同じ扱いかいな」

「まさか。あんたはおれの知っている女の中で、一等別嬪だ」

 ケタ、と笑いながら春は口にした煙草の煙を吐き出した。夕月はその言葉を不満げに受け取ると、こてん、と春の青地の着流しに頭を預けた。

 それを横で見ていたハチが、諦めたようなため息を零す。腕を組みながら、しな垂れた夕月の横に座って睨むようにその様子を眺めた。ハチの両手に美しい牡丹の花束が包まれている。

「春さん、ご依頼の夕月と牡丹だ」

 美しい薄紅の花弁が揺れる。ふわり、と甘い香りがハチの鼻先を揺らした。花を依頼した男から香ったのはこの匂いだった。春が花束を受け取り、指先で労わるように花弁に触れる。

「ありがとうな、ハチ」

 はは、と楽しげに笑いながら春は煙草の煙を吐き出すと、再び、こんこん、と小さく空咳を吐き出した。夜の冷たい空気に晒された肌はひんやりと冷たい。夕月は頭を通して感じる肩越しの暖かさと、その皮膚の冷たさのどちらも味わいながら目を細めた。

「春さんから呼び出されるなんて驚いた。嬉しいけれどなんなんだい?」

「聞きたいことがあったんだ。夕月にしか聞けないことでなァ」

 カラカラと楽しげに笑いながら、春は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。押し付ける部分すら見えなくなった灰皿を、ハチがするりと空の灰皿と取り換える。

「私に知っていることかしら。……まァ、知らぬことのが少ないけれど」

 くつくつ、と喉の奥で夕月が笑う。見上げる視線に、春もにやりとした笑みを返した。話が早くて助かる。この女のいいところの一番はそこだ。


 春は縁側から暖かい部屋の中に身体を滑り込ませると、夕月は何も言わずに襖を閉じた。気が付けば席を離れていたハチが、白い陶器の花受けに眩いほど花弁を紅色に染めた美しい牡丹を活けて、部屋の中心へと置く。

 見事な牡丹に、夕月の瞳が柔らかく緩んだ。

「俺に、美しい牡丹を描け、なんて珍しい依頼が風に流されて飛び込んできたンよ」

 こんこん、と小さく咳混じりに春が呟く。何も言わずにハチがその背中を軽く撫ぜた。夕月はその言葉に、小さく鼻で笑いながら艶やかな笑みを浮かべた。

「そんな依頼に、私が必要なんです?」

「ああ、必要だ。お前は向こう端の長屋に住んでる大家と懇意にしているね」

 夕月は何も言わず、その真っ赤な紅を浮かべる口元を弧に歪めた。橙の着物と揃いの紅は、漆黒の瞳と対比するように小さく瞬いている。

「依頼人もそこに住んでるっつーわけなンよ。お前さん、そいつを知っているだろう?」

「それならあの男だねェ。ああ、知ってるよ」

「なら、牡丹の秘密も知っているんじゃあないかとね」

 それを教えてくれ。

 夕月は一瞬悩むように視線を春から揺らしたが、ゆっくり、なまめかしい動きでその瞳を春へと戻した。

 するり、と夕月が自分の首元にその細く白い指先を持っていく。一つ一つの動作は、女性らしいというよりは、どこか情愛を感じさせる色香がする。


「春さんの頼みとあっちゃ断れないねェ。いいよ、教えてあげる」


 くつくつ。

 嬉しそうに、夕月は笑った。



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