義娘に言われて

神﨑公威

第1話

「お義父さん、散歩にでも行ってください」

 この家の主である耕司、その義娘である真由美の小言であった。同じ家に住むことになり、一年が経つ。彼女は、退職後の、家に籠りっきりの義父を心配し始めたのだ。

 聞こえているにも関わらず、耕司は動く素振りすら見せない。炬燵で横になり好物のクッキーに唾液を吸わせながら、テレビ画面を眺めるばかりで、動く気配を微塵も感じさせないのであった。


  ◇

「テレビばかり観ていると、お体に悪いですよ」

「そうだよ、おやじ。真由美の言う通りだ」

 一月二十八日、息子の正和までもが耕司に言い始めたのであった。妙にふざけた調子で耕司は返答する。

「お前まで言い出すか。偉くなりましたね、邪魔者扱いですか」

「そうじゃないよ」

「ならどうしてですか?」

「運動不足、このままじゃ孫の顔もみれやしないよ」

「それは誰かが、なかなか産まないからだろう。もう一年は経ったはずだが……」

 耕司は依然として、テレビを向いたままである。真由美は静かに、正和の腕を掴む。

「おやじ、真由美のことを悪く言うな。邪魔者だよ、あんたは!」

「邪魔者ですか、ああ。分かりましたよ。出ていきますよ」

 耕司は寝間着にダウンジャケットを羽織って、家を威勢よく出ていった。

「あなた、ありがとう。私が悪いばかりに」

「真由美は悪くない、これから二人で頑張るんだ。おやじに外出するよう言ってくれてありがとうな」

「だって、私のお義父さんですもの」


 冬の真昼は快晴でも寒く、最初は堂々と胸を張って歩いていた耕司も、すぐに丸くなった。住宅街の、車一台通るのがやっとの道で彼は小さくなっている。

「どうして家の主である俺が家を出ろ出ろと言われるのだ。アイツは後から入ってきたのに」

 といった具合の独り言をしながら路地を少しずつ歩いていく。この愚痴が、彼から若干の寒さを忘れさせていた。また、愚痴や鬱憤はなかなか止まることを知らない。

 曲がり角に差し掛かった。ちょうどその時、バイクが飛び出してきたのである。幸いにも全く触れず、彼もこけず、無事であった。バイクに乗った男は速度を緩めることなく、どこかへ行ってしまった。

「危ない運転をしやがって、あとちょっとで健康に関わらず、即死してしまうところだ。あの女め」

 などと、愚痴を溢してバイクの去った跡を振り返る。視野の中に「犬のフン禁止」を掲げた看板がある。耕司は気にして、足元を見やった。

黄土色をした糞が佇んでいる。冬の酷い乾燥のために干からびたのであろう、と彼は思いながら、避けて歩いた。強い北風が吹けば、その度に崩れてしまいそうなほどに、その糞はひび割れていた。

「自分のペットの世話ぐらい、真面目にやれないものか。糞野郎め……。踏んでしまったら、どうしてくれる」

 何かを思い出したかのように、耕司は立ち止まる。

「踏んでしまったら――靴に糞を付けて帰れば。もしかして、外出を禁止されるのではないだろうか。いやしかし、糞を踏むだなんて」

 そこにまたバイクが迫ってきた。狭い路地にどうしてこうも通るのであろうか、と咄嗟に耕司は背を塀に付けた。バイクが過ぎると共に、彼の脳裏には、クッキーが砕ける様子が流れた。

 足元を見ても、糞が見えない。それもそのはずで、靴の下にあるからだ。そして、このことは耕司自身が一番よく知っている。しかし、「しまった!」と思ったのも束の間で、糞を踏む感触が良いことに気がまわったのである。

「案外、愉快じゃないか」

 そう一言呟くと、足元を見まわしながら歩き始めた。しかし犬の糞は、探してみるとなかなか無いもので、耕司は少し疲れてしまった。落胆しながら顔をあげると、看板があった。先ほど見た看板と同じで「犬のフン禁止」と書かれていた。

「しめた!」

 耕司は糞の希望が見えたことで喜んだ。そして、看板に迫ると、そこには黒光りする糞があった。未だに水分を多く含んでいそうな艶。最初のものとは異なり、遥かに太くて長い。力のある大型犬を彷彿とさせる糞が落ちている。

 駆け足で近づいたためか、興奮のためか、耕司の息は荒い。周囲を見回し、人がいないのを確認すると、すぐさま、彼は潰した。

 圧倒的な糞の存在感に、彼の足は打ちひしがれた。ねっとりと、柔らかい油粘土を潰すようで、冷えた足裏にわずかな温もりを与える。肉まんの餡のように、内部が冷えにくくなっていたのであろう。

 彼は糞に大変、満足して立ち去ろうとした。しかし、糞は彼を離さない、離れない。靴の底に張り付き、歩く度、新鮮な粘着質の感覚が味わえるのである。彼は、一歩一歩を噛みしめるように家へと帰った。


「ただいま。真由美さん、散歩、案外楽しかったです」

「おかえりなさい、あら、本当ですか? よかったです」

「ほんとほんと。」

「よかったですわ、お義父さん。もう夕飯できましたから、冷めないうちにどうぞ」

「冷めないうちに、か」

「どうかしました?」

「いや、何でもないですよ。真由美さん、明日も散歩行きますね」

「はい、わかりました」

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