第2話 三峰編「はじめまして」

プロローグ


 かの有名な枕草子ではないが、春の朝というのは趣があって良いものだ。

 寒過ぎず、暑過ぎない。風の中に微かにある花の香りには、心の内にある詩人的な思考が刺激される。たぶんこれで一筆したら、さぞ立派な黒歴史が生まれることだろう。

 カメラを抱えて満開の桜の下を歩く中、そんなことくだらないことを思ってみる。

 川に沿ってしばらく下っていくと、三角州に出た。休日は恋人や家族連れで賑わう、この街の住人たちの憩いの場だ。

 がしかし、春休みとはいえ一般的には今日は平日だからか、人は全く見当たらない。

 どれ、たまには飛び石で遊んでみるのも良いだろう。

 僕はそう思い立ち、川を切り裂くように作られた三角形の頂点へ向かった。

 しかし、その目論みは一瞬で砕け散ることになる。

 "それ"は、近所にある三角州の頂点にぶっ刺さる形で打ち上げられていた。

「なんだ、これ……」

 "それ"こと地面にた男は、長い白髪を砂利になびかせ、長い手足を大の字に広げて寝ていた。

 そっと乱れた前髪を除けると、少年のようなあどけない寝顔が見えた。しかも、なかなかに整った顔つきだ。

 僕はまず、死人でないことにホッと胸を撫で下ろし、その場にあぐらをかく。

「……うん、一旦落ち着こう」

 人は得体の知れないものに出会うと、逆に心が凪ぐようだ。自分でも、どうしてこんなに落ち着いているのかわからない。

 しかし、なぜこんなところに白髪イケメンが転がっているのだろうか?

 怪事件じみた事柄に首を突っ込む気は毛頭ないのだが、ひとまず起こしてやらねば。

 と、手を男の肩に伸ばした途端。

「うはぁっ!?」と頓狂な声を上げながら、男が勢いよく上半身を起こした。

 それにつられて、驚いた僕も後ろに飛び去る。

「……だ、大丈夫ですか?」

 僕が訊ねると、男は苦笑して

「いや、ビビられながら言われても……」と砂利のついた頭を掻いた。

「まぁでも、特に気分も悪くないし痛いとこもないから、大丈夫っしょ」

 思ったよりも軽い彼の受け答えに、僕は少し唖然とする。

 なんだこの人……。

「それより、君がボクを助けてくれたのかい?」

「え、いや ーー」

「ありがとう!!いやぁ、春とはいえどまだ寒いし、ここで助けてもらえなかったら死んでたよ!あはは!」

 僕は何もしてないんだが……と言う隙を与えられず、ただマシンガンのように言葉が射出されてくる。

「だ、大事ないなら、何よりです……」

 とりあえず、なんかヤバそうだなこの人。早めに話を切り上げて、ここから退散しよう。

「じ、じゃあ僕はここで……」

 そう言い残し立ち上がった瞬間、手首を掴まれ重心がぶれる。

「ちょっと待って!」

 僕は男の声を聞かず、全体重を前にかける……がしかし、ビクともしない。

 ゆっくり後ろを振り向くと、男は獲物を捕まえた肉食動物のような笑みを浮かべた。

「ボクの拘束からは逃れられまい、八栄三峰くん」

「なっ!?」

 こいつ、どうして僕の名前を!?

 知り合いでもなければ、教えたわけでもないのに名前を呼ばれると、ここまでドキリとするのか……。

「ふふっ。信じられないって顔をしているね」

 男はヨイショと立ち上がり、こびりついた砂を払うと、爽やかな笑みを作り出した。

「もしよければ、この後ボクとお茶しないか?いい店を知っているんだ。なんならケーキを奢ってあげよう」



 程なくして、僕たちは駅中の喫茶店に到着した。断じて、ケーキにつられて来たわけじゃない。

 店内には数えるほどしか客がおらず、BGMとしてかかっているジャズがしっかりと耳に入ってきた。

 先ほどから、やけに人と会わないと思っていたが、近くで催し物でもあるのだろうか?

 周囲を気にしている僕をよそに、向かい側に座った男は、注文したケーキセットを撮影している。

「で、誰なんですかあなた。なんで僕の名前を知ってるんですか?」

 そもそも、あの河原に寝そべってた時点でおかしかったのだ。

 僕は警戒心剥き出しで訊ねた。

「まぁまぁ、そう急がなくていいじゃない」

 と軽くあしらわれ、僕の腹の底に赤々しい何かが溜まる。

「人を勝手に連れてきてなんですかそれ?」

「ついてきたのは君だろう?」

「それはアンタに手を掴まれてからだろう……!」

「あはは!そういえばそうだったね」

「チッ……」

 ここぞとばかりに舌打ちをして睨むと、男は戯けたように肩をすくめた。

「ごめんごめん。ジョークだよ、ほらケーキあげるから」

 小皿に乗せられたショートケーキを眺め、僕はしぶしぶ機嫌を治した。

「それで、本当に何者ですかあなた」

「ふふん……聞いて驚くことなかれ」

 僕がケーキをフォークで刺し訊ねると、男は得意げな様子で口角を上げる。

「ボクはアメノ。この町の神様さ」

 想定外すぎるセリフに、目測誤ってケーキが鼻の下にくっついた。

「………は?」

「驚くなっていったのに……ぷっ、クリームが髭みたいだ」

 いや、これは驚きというより、呆れだ。

 僕は口の周りのクリームをティッシュで拭き取ると、笑いを堪えているアメノに向き直った。

 シンプルな白いシャツに、ややダメージの入ったジーンズ。神様のイメージとはかけ離れたラフな格好に、僕の口からポツリと本音が溢れる。

「………いや、全然見えない」

「えぇぇぇぇ〜!?どこがぁ!?」

「騒ぐな、うるさい」

 第一、こんなのが神様だったら日本終わってるだろう……。

 そんな胸中を垣間見たように、アメノはムッと眉間にシワを寄せる。

「あ、君……今失礼なこと思ったろ」

「いいえ、思ってませんよ〜」

 面倒くさい。なんだこの人。突然お茶に誘った上に、自分は神様だとほざくなんて。

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。

「……まぁいいさ。自分に神様っぽさがないのは重々承知だし」

 あ、自覚はしてるんだ……。

 僕は真っ先に思いついた疑問を突きつける。

「もし仮にあなたが神様だったとして、どうして僕にそれを言うんですか?」

 アメノは鼻を鳴らすと、人差し指をピンと立てた。

「君がボクを信じるなら答えよう」

 なんだそれ……。

 あからさまに嫌な顔をする僕に、彼は余裕と優しさを感じる笑みをうっすら浮かべる。それが余計にうっとうしい。

「……まぁ、急に信じろって言うのも無理な話だよね」

 僕はしかめっ面のまま、勢いよく首を縦に振った。

「でも心配はいらないよ。君はすぐにボクのことを信用するさ」

「それはどう言う……」

 戸惑う僕を置いて、アメノは声のトーンを落とし語り始める。

「これは占じみているんだけど、ボクはその人の過去と未来を見ることができる」

「……へぇ」

 この上なく胡散臭いな。

「まず、あそこの老人客」

 アメノがそっと目線で示したのは、優雅にお茶を飲むなんの変哲もないちょび髭のお爺さんだ。

「普段はあんな感じだけど、実はボディービルダーの大会で優勝しまくってる」

 いや、うん……それもう知ってる。

 彼はこの町のメインストリートに店を構えている、カフェのマスターだ。実際、彼の店にはムキムキの男をかたどったトロフィーがいくつもある。

 おまけに、同じくカフェの経営者である僕の兄とよく話しているため、まぁまぁ顔見知りなのだ。

 僕のすっかり冷めた目を気にも留めず、アメノは話を続ける。

「次はあの店員の女性」

 今度は、食器を運ぶショートヘアの女性に視線を移した。

「彼女はあんなに可愛らしい見た目だけど、3日前に上司にブチ切れて机や椅子をひっくり返し、思いっきりその上司を殴った……あれは恐ろしかっ……」

 そこまで言うと、先程のショートヘアの女性店員がこちらの席へ歩いてくるのが見えた。

「お客様」

 凛としつつも可愛げのある声だが、その中には、腹の底が冷えるような恐ろしさをはらんでいるように聞こえた。

 その声にアメノは肩をビクッと震わせ、恐る恐るといった感じで店員に顔を向ける。

「な、なんでしょうか……」

「あまり、他のお客様の情報を漏らさないでくれますか?迷惑ですので」

 声には凄まじい覇気があるというのに、笑顔は完璧なのがまた不気味だ。

「す、すみません……」

「もし次そんなことがあったら……今度こそ、その首をねじ切りますから」

 なんて大胆かつ物騒なことを言う人なんだろう。と、他人事ながら思った。

 すっかり萎縮したアメノが「すみません……」とかすかに答えると、女性店員はとびきり可愛らしい笑顔をこちらに見せて、厨房へと歩いていった。

 心なしかその後ろ姿は、どこかスッキリしたように見えた。

「知り合いですか?今の人」

「………いや、知らない……知りたくない」

 もう完全にダメだな、この人。

 机や椅子ごとガタガタ震えるアメノには、ため息すら出ないくらいの呆れを感じる。

「とりあえず、落ち着きましょう。あんまりガタガタ言うと、またさっきの人に文句言われますよ?」

 僕の一言に素早く反応したアメノは、そうだね……と呼吸を整えた。

 しばらくすると、体の震えも止まり顔色も元に戻った。

「さて。落ち着いたところで本題に戻るとしよう」

 戻るのか……。

 僕の様子を見て、アメノは苦笑する。

「あはは……全く信用されてないね」

「さっきのやり取りを見て、信用する方がおかしいですよ」

「それはごもっともです……」

 アメノは、痛いところを突かれたと言わんばかりに口をギュッと結ぶ。

 ……はぁ、帰りたい。

 そう思い、僕はふと窓の外に目を向けた。

 今朝から少し怪しげだったが、本格的に蒼鉛色に濁ってきている。

 これは一雨来るかもしれない。

「仕方ない。ここは最終兵器を出そうじゃないか」

 覚悟のこもった声に目線を戻すと、手を口の前で組んだアメノがひどく真面目な表情を浮かべていた。

「また何かするんですか?別にやるのは良いですけど、他の人に迷惑かけないようにしてくださいよ」

 実際良くないが、こっちは早く帰りたいのだ。もう面倒だし、適当に聞き流しておけば良いだろう。

「心して聞くがよい。今から君に起こる出来事を予言して進ぜよう」

 おぉ、口調はそれっぽくなった。

 内心そんなどうでもいいことに感心していると、アメノは僕に耳打ちする形で顔を近づける。

 言い終わると、僕の口から一拍遅れて「はい?」とこぼれ落ちた。

 次の瞬間。厨房からの冷たい視線を感じ取ったアメノが、ひどく慌てた様子で席を立つ。

「じ、じゃあ、ボクそろそろ行かないと!あ……あと当たったら神社に来てくれ!」

 そう言い、彼は小走りでレジに向かった。

 そこには、さっきの女性店員が笑顔で待っており、会計を済ませたアメノに何か耳打ちをした。

 たぶん、「あとで覚悟しておけよ?」とでも言われているのだろう。

 まるで嵐のような人だった……と、僕は安堵と疲労の混じったため息をつく。

 窓の外には、混沌としていた空気をあらわすかの如く、どんよりとした雲が広がっていた。



『帰れない』

 店を出ると、まとわりつく大気の寒さに驚かされた。

 あの後すぐに降り始めた雨の影響か、冬ほどではないものの少し肌寒い。

 僕は上着のチャックを閉めつつ、先程の予言について思い出した。

「まず一つ、今から雨が降る。そして二つ、君はこれから、ある女の子と仲良くなる。最後に三つ、君は恋をする」

 彼の言葉を反芻し、あらためて困惑する。

 誰にでも当てはまるようなことをそれっぽく言って信用を得る……なんだっけ、バーなんとか現象?彼の言動を鑑みるに、もうそれにしか聞こえない。

 天気予報でも雨は降ると言っていたし、高校生になれば女の友達とかもできるだろう。それに、恋だってするかもしれない………するつもりはないけれど。

「もしこれが当たったら神社へ来い、か……」

 彼が先ほど去り際に言っていたことを、ため息まじりに僕は呟いた。

 面倒なことに巻き込まれてしまった。

 自称神のイケメンに、三つの予言……そして今何よりも困っているもの。

 それはーー。

「傘、忘れてきたんだよなぁ……」

 あいつに出会ってなければ巻き込まれていなかっただろうこの雨に、少し苛立ちがこみ上げてくる。あとアメノにもイラッとする。

 これ、絶対はめられてるよなぁ……。

 出会った時に腕を掴まれた瞬間、こうなることは確定してたんだろうか?

 もしそうなら、呆れ果てると同時に次会ったとき、アメノに何するかわからん。

 よし。再会するようなことがあったら、あの女性店員さんに殴ってもらおう。

 僕は一度思考に区切りをつけ、この状況を打開すべくスマートフォンを取り出した。

「残念だったなぁアメノ!!これさえあれば、誰かしら傘持って助けに来てくれるし?ざまあないね!」

 と、心の中で盛大に高笑いした後、僕は姉さんに電話をかけた。

 コールサインが、雨音に紛れ響く。

 四回目、五回目、六回目、七回目………。

 しかし、なかなか電話に出ない。

 どうせ家でダラダラしてるんだろうと思っていたが、何か用事でもあったのか?

 一度電話を切り、再び掛け直す。

 しかし今度も、十回近くコールサインが鳴れど、出る気配は全くなかった。

 おかしい。姉さんのことだ。休日はろくに動きもせず、ナマケモノのようにダラダラしているはず。

 それなのに何故……!?

 険しい表情で再び掛ける。

 すると。

「もしもし……何回もしつこいんだけど」

 聞こえてきたのは、ひどく不機嫌そうな姉の声だった。

「それが傘忘れちゃって……」

「……で?」

「でって……?」

「質問に質問で返すなよ….だからどうしたの?ってこと」

「いや、傘持ってきて欲しいんですが……」

「嫌。めんどい」

 その言葉を最後に、電話は無慈悲にも途切れてしまった。

「うそだろ……」

 いや、まだだ……他にも頼れる友達がいる!

 その数分後。みんなにチラチラと視線を向けられる中、地面にひざまづいてる少年が一人。

「ダメだった……だとっ!?」

 よりにもよってみんな用事でいなかったり来れなかったり、どうなってるんだ?二人も電話したのに通話料の無駄だったなんて。

 ……いや、違う。二人は悪くないし、というかよくよく考えれば、たったの二人しか電話していない。己の友人の少なさと、こんなことに巻き込んだアメノのせいだ。

 一応、あとは頼れそうな人で兄さんがいるが、彼は仕事中。あの人が店を空けて来れるはずがない。

 完全に詰んだ状態だな……と、ため息をつく。

 雨というだけで徒歩20分弱が遠くに思える。実際遠いけど……。

 すると、少し離れた広場から楽しげな笑い声がした。

「おい、早くしろよー!」

「ちょ、待ってよ〜!」

 目を向けると、若い男女のカップルが楽しげに目の前を通過して行った。

 ………なにこれ、追い討ち?

 鉛のような色の雲を見上げ、ため息をつこうと息を吸う。

 するとそこで、天から糸をスッと落とされたような感覚が走った。

「あ……そうだ」

 思いついた案に、僕は声を漏らす。

 喫茶店だ……!兄さんの喫茶店なら、多少濡れるだけで着くし、そこで傘を借りればいい!

 あの絶望から脱した勢いで、思わず笑みが浮かび上がる。事情を知らない人が見たら、さぞかし気持ち悪かろう。

 しかし活路は見えた。あとは実行に移すのみ。

 入念に足のストレッチをしつつ、道のりをイメージする。

「これで、帰れる……!」

 僕は希望で満ちた顔でそう呟くと、思いっきり地面を蹴った。



『再びの絶望』


 ーー5分後。

 工事のおじさんの看板の前に、呆然と立つ少年がいた。

「うそ、だろ……」

 最短ルートが工事中って……!?

 最も雨に濡れる被害が少なく、唯一の近道が潰れ、失意のあまり膝をつく。

 絶望しても一度は希望を持ち直し、だが最終的にドン底に叩き落とされた。

 冷たい雨が、嘲笑うかのように僕の肩を濡らす。春なのに、僕の心身は全裸で南極に放置されたように寒い。

 しばらく震えていると、心の中の何かがプツリと切れた。

 ……なんかもう、全部どうでもよくなってきた。別にずぶ濡れになってもいいじゃん。綿菓子みたく溶けるわけじゃあるまいし、せいぜい風邪を引くだけだ。

 居座り強盗の如くすっかり開き直って、来た道を引き返そうと立ち上がる。

 その時、背後から近づいてきたらしい誰かにぶつかった。

 慌てて振り向きざまに謝罪する。

「あ……す、すみません!」

 落ち込むと周りが見えなくなるのが自分の悪い癖だ……。反省しなければ。

 すると、ぶつかった相手の少女が片手を上げて笑みを浮かべる。

「いえ! こちらこそ、前を見ていなかったので……」

 僕は改めて彼女の姿を見て、驚きのあまり口を開ける。

 少女のココアブラウンの髪は肩にかかり、雨に濡れてツヤツヤと輝いている。瞳は青くパッチリとしていて、清らかかつ活発な印象を受ける。

 そしてなにより彼女は、傘を持っていなかった。

「あの……どうかなさいましたか?」

 同い年くらいの見た目にしては妙に丁寧な言葉にたじろぎつつ、僕は疑問を指摘した。

「いや、傘は……?」

「お家に忘れてきてしまいました」

 テヘヘと笑う彼女に、思わずツッコミそうになるがここはグッと堪える。

「もしかして……いやもしかしなくても、あなたも傘を忘れたんですか?」

 僕は戸惑い気味に「ええ……」と返す。

 すると、彼女はパァっと笑顔を浮かべて言った。

「じゃあ、私と仲間ですね!」

「ええ、見れば分かりますけど……」

 なんだろう……もう既にこの人のペースについて行けないのがわかる。

「ところで、いつまでもこんなところで濡れてるのはアレなので、どこか避難しませんか?」

「そ、そうですね」

 ものすごく今更感はあるが、僕は少女の謎テンションに連れて行かれるがまま、歩みを進めた。

「さ、行きましょう! レッツゴー傘忘れ隊!」

 なんだそれ……。

 ひとまず僕たちが立ち寄ったのは、旧商店街こと寺町アーケードだった。

「さて、どうにか屋根のある場所を見つけたは良いのですが……」

 彼女は服の裾を絞りながら、真剣な表情で言う。

「とりあえず、寒いです……」

「たしかに、少し寒いですね……」

 このままカフェへ直行したいところだが、少し時間がかかる。それまで、この人が寒さに耐えられるかわからない。あと、僕も耐えられる自信がない。

「へくしゅぶるぃっ!」

 まるで中年のおっさんがしたような、とてつもなく大きなくしゃみに、僕の足が数センチ宙に浮いた。

「あ、これは失礼……」

 僕のリアクションを見た少女が、恥ずかしそうに頭を掻いた。

 人は見かけによらないとは、まさにこのことだな……。

「……はっ!!!」

 と、鼻をすすっていた少女が一際大きな声を響かせた。

「……ど、どうかしましたか?」

 まるで、会話のキャッチボールで大砲でも持ってこられたような気分だ。

 さっきから、ろくに話を聞かれてない気がする。

「見てください!あれ!」

 彼女が指さした方向には、湯気の紋章が描かれた暖簾が揺れていた。

 実際は渋い緑色なのだが、この時の僕たちには、まるで美しいと桃源郷の入り口のように輝いて見えていた。

「あの……一緒に入りませんか?」

 思考が一瞬フリーズしたが、これは店内にという意味だ。何を期待してるんだこの変態め。

 僕はぎこちなく笑みを浮かべて言った。

「そうですね。寒いですし、ここなら服を乾かせるかもしれません」

 歴史の重みを感じる引き戸を開ける。すると、湯の香りに混じって、かすかに木材の香りが鼻をくすぐった。

 いわゆる、昔ながらの銭湯だ。小さい頃に父に一度連れてこられただけだが、その内装はあまり変わっていない。

 冷え切った心身をやっと温められたためか、隣の少女は表情を極限まで緩めていた。

「ふはぁ〜……あったかいです」

 そんな彼女につられ、僕もホッと息を漏らす。

 当初の予定よりだいぶズレたけど、これはこれで良い。

 靴とぐっしょり重くなった靴下を脱ぎ、少し黒っぽいフローリングを歩く。

 ほぼ人がいない店内に、ペタペタと足音が二人分響いた。

 カウンターに来ると、白髪の番頭さんがいじらしい笑みを浮かべていた。

「あらあら、お若いですねぇ……二人でお風呂ですかい?」

 断じて違うぞ、ご老体。

「えへ?そう見えますか?」

 何故か肯定的な少女に、僕は目を見開いた。

「いや、そこは否定しましょうよ!なんで照れてるんですか?」

「えへ」

「えへじゃなくて……」

 呆れと困惑の目線を送ると、番頭さんがわざとらしく舌打ちをした。

「なぁんだ、カップルじゃねえんかつまんねぇの……」

「えぇ〜……」

 困惑の果てに思わず声が出る。

「カップルじゃねぇなら、一人500円な?」

 30円値上がりしたし……。

 ここまで露骨に嫌な態度を取られると、すこしカチンとくる。

 というか、なんで怒ってるんだこの人?

「どうしましょう……」

 番頭さんを睨んでいると、少女の震えた声が聞こえた。

「ど、どうかしましたか?」

 血の気の引いたその顔に、こちらも不安になってくる。

「お金、忘れてました……」

「え……」

 この人、自分がお金持ってきてないことを忘れて、あんなこと言ったのか……。

 呆れて物も言えずにいると

「あぁぁぁァァァっ!!」

 彼女は頭を抱えて、悲痛な叫び声を上げた。

 周囲の視線が、一気に少女へと集まる。

「お兄さん、あんた男だろう?」

「ぐっ……」

 番頭さんと、周囲からの視線が痛い。

「僕が出します……」

 大丈夫だ。今日は幸いにも、多めにお金を持っている。本当は帰りに本屋で使うつもりだったけど……。

「いいん、ですか?」

「ええ、良いですよ」

 僕は涼しげな笑みを浮かべる裏で、この代金は後で絶対アメノに請求してやろう……と決意した。

「二人分で940円になります」

 番頭さんが満面の笑みを浮かべるなか、僕は財布の口を開いた。

 その口がいつもよりいくらか重かったのは、言うまでもない。


「今日はなんだか、いろいろなことがあったな……」

 貸し与えられた浴衣に身を包んだ僕は、椅子にもたれて呟いた。

 服はまだ乾いておらず、脱衣所の片隅に鎮座したヒーターので干している。

 自称神のイケメン不審者に、彼の怪しげな予言。そしてあの少女との遭遇。

 普通の休日になるはずが、こうも振り回される日になるなんて……なんだか幸先が悪い。

 そんな事をぼやいていると、女湯の暖簾が揺れ、満足げな表情の少女が出てくる。

「はぁ、良いお湯でした。おや、先に上がられてたのですね」

 彼女の方も服がまだ乾いていないのか、可愛らしい矢絣(やがすり)模様の浴衣をまとっていた。

 僕の隣に腰を下ろすと、少女は「あ!」と声を上げた。

「そういえば、まだ名前言ってませんでしたね」

「ああ……」

 寒さに気を取られてすっかり忘れていた。

 少女は深々と頭を下げると、力の入った声で言った。

「私は篠崎律と申します!本日は温泉代を立て替えていただき、誠にありがとうございます!」

 お、おおう……ずいぶんと迫力ある自己紹介だな。

 あまり人がいなくて良かった……と、内心ホッとする。

 この人といると、注目されてしかたがない。

「ど、どういたしまして……僕は八栄三峰です」

 苦笑を浮かべつつ挨拶を返すと、篠崎は嬉しそうに「はい!」と答えた。

「それにしても、こんなところに銭湯があったなんて……いやはや、地元でもまだまだ探索のしようがあります!」

「地元って、ここら辺に住んでるんですか?」

 僕が訊ねると、篠崎は自慢げに胸に手を当てた。

「ええ! 昨日から住人になりした!」

 そりゃ知らんでしょうよ。まだなりたてじゃないか。

「八栄くんは、地元の方なのですか?」

「ええ」

 篠崎は「ほぇ〜!」と感嘆の声を漏らす。

「こんな町に住めるなんて羨ましいです!」

「あ、あなたもここの住人になったんでしょう……?」

 僕の指摘に、篠崎は顔をポッと赤く染め上げた。

「は! そうでした!」

 やっぱり、お馬鹿なのかな。この人……。

「それにしても、寺町ここは本当にいい町ですね」

「そうですね」と、僕は相槌を打つ。

 すると、篠崎がロビーのある一点をボーッと見つめたまま固まった。

「どうかしましたか?」

 目線を辿ると、自販機の前で豪快に瓶牛乳をあおる女性がいた。妙に既視感があると思ったら、その女性は先ほどのカフェの店員さんだった。

 なぜバットを片手に持っているのか謎だが、とりあえず仕事終わりらしい。

「ジュルリ……」

「………飲みたいんですか?」

 そこでやっと我に返った篠崎だが。

「え!? あ、いや全然!」と言いつつ、目線は自販機に吸い込まれたままだ。

 カウンターから、憶えのある視線を感じる。

 またか……あの人、本当に謎だな。

「誤魔化し切れてませんよ。何が良いですか?」

 僕は席を立ち、財布を取り出した。

「かたじけない……じゃあ、ミックスジュースで………」

 ポンッと瓶の蓋を開ける音が二つ響いた。

 一気に半分くらい飲み干した篠崎が、おっさんのように「ぷはぁー!」と笑顔になる。

 そんな彼女を横目に冷たい瓶に口をつけると、さまざまなフルーツの香りが鼻を抜けた。

 牛乳と果物を混ぜるなんて奇行を誰が思いついたのか知らないが、きっとその人は天才に違いない。

「うん、美味い」

「ですね!私、ミックスジュースを考えた人は天才だと思います!」

 妙なところで気が合ってしまったが、この人と思ってることが同じだとは、正直言いたくない。

「あ!ジョセフィーヌ!」

 篠崎が指さした方に目を向けると、見覚えのあるキャラクターの描かれたポスターがあった。

 台形の白い綿埃わたほこりにギョロ目と猫耳をつけたような生物。最近巷で流行っている、『ジョセフィーヌ森』という漫画のメインキャラクターだ。

 作者が寺町出身ということもあり、町おこしの一環として、町中にこのようなポスターが貼られまくっている。

 電柱という電柱にいるため、おかげで夜道がいつもより怖い。

「好きなんですか?」

「ええ!最近では、家の埃にジョセフィーヌって名前付けてます」

「それはどうなんだろう……」

 ジュースを飲み終え、時針が12を過ぎ始めた頃、篠崎が思い出したように言った。

「そろそろ乾いた頃でしょうか?」

「見てきましょうか」

「はい、乾いてたら着替えてきますね」

 僕たちは再び、それぞれの暖簾をくぐった。

 閑散とした脱衣所の隅にかがむ。

 ハンガーにかけた服に手を触れると、先程の湿り気は消え失せていた。

「うん、乾いてる」

 すると、衣服の隙間から便箋が一枚落ちた。

「ん……なんだろう、これ?」

 白地にカラフルな花のベクター飾りが施された、なんとも乙女チックなデザインだ。

 全く心当たりのないまま著名を見て、危うく便箋を落としかける。


 『神社で待ってる。アメノより♡』


「ば、バカな……」

 しかもハート付きなところが、より気色悪い。

 これがあるということは、アメノがここに来ていたということになる。

 いつのまにロビーを通ってたんだ?

 あの存在するだけで喧しそうなあいつがいたら、気付かないはずがない。

 しかもさっきの女性。あの人は確か、アメノとは知り合いのはず。

 その時、引き戸の向こうから嫌に美しい鼻歌が聞こえてきた。

「……っ!?」

 まさか、風呂に入ってるのか……!?

 確認すべきか……いや、行ったら確実に絡まれる。ならば、ここで僕がすべき行動は一つ。

 僕はそっと、音を立てずに着替えを済ませ、手紙をその場に置き直した。

「僕は何も見なかった」

 胸中でそう呟き、そのまま忍び足で脱衣所を後にした。

 

 

 アメノからの手紙を見なかったことにし、僕は篠崎と共に銭湯を出た。

 温泉で火照った気分と身体を、薄ら寒い風がそっと撫でる。

「雨、止んだみたいですね」

 篠崎の言う通り、雨がアーケード街の屋根を叩く音はしない。

 しかし、空の色は依然どんよりしたままだ。

「帰るなら今のうちですね、急ぎましょう」

 アメノのこともあるし、急いで帰ろう。

 商店街を途中で抜けると、三角州の近くに出た。

 篠崎の家は三角州の奥にあるらしく、途中まで帰り道が一緒だったのだ。

 川沿いに歩いていると、篠崎が言った。

「今日は本当にありがとうございました」

「お礼ならさっきも聞きましたよ」

「いえ……お金の件もそうなのですが、私今日とっても楽しかったんです」

 篠崎は懐かしむように川面を眺める。

「あんまり覚えてないんですけど、小さい頃はここに住んでたんです。恥ずかしながら、この町のことを知った気でいたんです」

 篠崎は、「へぇ……」と相槌を打つ僕を追い越し、こちらに向き直る。

 そして。

「だから。今日こうして、私の知らない町の部分を知れて……そして、それを教えてくれた八栄くんと出会えて、本当に良かったです」

 彼女は、とびっきりの笑顔で言った。

「僕も楽しかったです」

 ボケをかまされてばかりだったが、そう悪い時間じゃなかった。

 実際もしあの時声をかけられてなかったら、僕は放心状態のままカフェに行って、風邪をひいていただろう。

 ある意味、僕にだって彼女に恩があるじゃないか。

 僕はパッと脳に浮かんだ言葉を、声にして紡いだ。

「……また会えたら、今度はちゃんと町のこと紹介します」

 一瞬驚いたように固まったが、篠崎は再びあの笑顔に戻る。

「はい!」

 彼女越しに見えた雲の切れ間からは、ごく僅かにだが、光がさしていた。

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