兄姉弟妹!

三久田ウドン

第1話「兄姉弟妹の冬」

 冬は苦手だ。水道の水は冷たくなるし、寒さのあまり、朝起きてもなかなか布団から出れない。おまけに我が家には床暖も無いため、余計に出るのが億劫になる。

 まさに、今そうなっているように。

 普段ならば、嫌でも身体を布団から引っ剥がして出ていたところだが、幸いにも今日は冬休みの真っ只中。学校もないし、心置きなく布団の温もりを堪能してから出るとしよう。

 そう思った僕。八栄 三峰やさかみつみは、再び布団の奥へと潜っていった。


 少し堪能するつもりが、気がつけば1時間も経っていたことは言うまい。

 若干残っている眠気を欠伸で発散しつつ、僕は部屋を出た。

 廊下の冷たさに顔を思いっきりしかめていると、ふと違和感を覚えた。

 リビングの方から、芳ばしい香りがしてきたのだ。

 一秒もかからず状況を理解した僕は、急ぎめにリビングのドアを開け、キッチンへと向かう。

「おはよう、三峰」と、こちらに春の陽気の如く温かい笑みを向けたのは、僕より9歳年上の兄。優真ゆうまだ。

「ごめん兄さん……寝坊してしまった」

 僕が欠伸を噛みしめてそう言うと、兄さんは「気にしなくていいよ」と首を横に振る。

 両親が不在気味の我が家では、家計と家事を僕が担当している。しかし、冬休みだからといって少しのんびりし過ぎたようだ。

「そろそろ出来上がるから、座ってて」

 僕は「はーい」と返事をし、ダイニングから兄さんのモジャモジャ頭が揺れるのを眺めた。

 黙っていればイケメンなのだが……

 自慢じゃないが、兄さんは顔で食べて行けるくらい非常に整った容姿をしている。おまけにハイカラなカフェの経営者だなんて、世の女性たちからしたら、とんでもない優良物件だろう。

 しかし彼には、そんな美点を跡形もなく焼却してしまうほどの欠点があるのだ。

「お待たせ〜」

 兄さんがそう言ってテーブルに置いたのは、こんがりと焼き目のついたフレンチトーストだった。

「いただきます」

 僕は手を合わせてから、トーストにシロップをかけた。湯気が立つ狐色のトーストに、琥珀色の半透明がトロリと乗っかる。

 ナイフの重みだけで切れるほどの柔らかさに少し幸福を感じつつ、それを口に運ぶ。

 次の瞬間、下に電撃が走ったような錯覚に見舞われ、僕は危うく椅子から転げ落ちそうになった。

「だ、大丈夫!?」

 心配そうに兄さんが駆け寄ってきて、僕を助け起こす。

 ……不味い。食感や見た目はこれでもかと言うくらい完璧なのに、いやむしろ、見た目が完璧すぎた分、絶望的な不味さをより引き立てている。

 僕は、かすれ声で兄さんに呟いた。

「兄さん……これ、砂糖と塩を……間違えてる」

 そう。兄さんはドジなのだ。

「あ、ごめんっ!すぐ作り直すね」

 しかも、ただのドジではない。この男は、恐らく世界で最もドジな人間だ。

「いや、いいよ……」

 そう言いかけたところで、ガシャリ!と大きな音が響いた。

 キッチンに向かった兄さんが、転んだ拍子に皿を何枚か落としたらしい。

「兄さん……」

 そして、今度はより一層大きな音がして。

「うわぁっ!?」

「兄さんっ………」

 これで、この五年ほどで兄さんが家の皿を割った数はちょうど三百枚になってしまった。

 3歩歩けば何もないところで転び、キッチンに立とうものなら食器類を片っ端から粉々にしていく。もし、押したら世界が滅ぶボタンを渡そうものなら、2秒で"うっかり"押してしまうだろう。この男、八栄優真はそういう男だ。

 これが、我が家での食事を僕が作っている理由の一つであることは、言うまでもない。

 世界の前にキッチンを破壊されたら困るので、料理は結局、僕がかわりに作った。

 今度こそしっかり甘いフレンチトーストを口に含み、僕は安堵に口の端を緩めた。

 兄さんはというと、自らが失敗した分も涙目になりながら頬張っている。

「無理しなくていいのに」

「別に無理じゃないよ。でも食べなきゃ、せっかく作ったフレンチトーストたちが可愛そうだよ」

「お、おう……?」

 兄の擬人法的な返しに困惑していると、リビングのドアが開いた。

「おはよぅ〜……」

 欠伸の混じった声で入って来たのは、妹の小姫こひめだ。

「おはよう」

「おはよう、小姫ちゃん!」

 さっきまで兄の眉間に寄っていたシワが、一瞬で退散した。

「ゆう兄ちゃん……朝からうるさい……」

「うぐっ………」

 妹の口から飛び出した鋭利な言葉は、見事に兄さんの心を抉ったらしく、消え去った眉間のシワたちが、さっきの倍の数を率いて戻ってきた。

 いつものことながらも、妹の言葉の切れ味には一抹の恐怖を感じざるおえない。

 ドンマイ、兄さん。

 いろんな意味でしょっぱいフレンチトーストを嚥下する音が、悲しげに響いた。



 カフェへ出勤した兄さんと入れ替わるように、静けさがやって来た。

 しかし、気がかりなことが一つ。

 姉の茜が、いつになっても起きてこないのだ。朝食を作り終えてから早1時間。彼女が部屋から出てくる気配は一向にない。

 こういう時、姉さんを起こさなかったらどうなるか、僕は嫌というほど知っていた。自分からは絶対起きないくせに、起こさなければ腹を立て、起こしても腹を立てられる。

 もう意味不明だ。

 姉のだらしなさには慣れてしまった部分もあるが、こればっかりは面倒である。

 仕方がないか……と自分に言い聞かせて、僕は再び姉さんの部屋の前に立つ。すると、冬眠中のクマでもいるんじゃないかと思えるくらい、低いイビキが聞こえた。

「……はぁ」

 やっぱり、めんどくさい……。

 ためらいつつも、ドアノブをひねる。すると、なんとも形容しがたい独特の風が流れ出てきた。

 異臭はせずとも、確実にこちらの気分を害するそれは、恐らく塵や埃の類だろう。

 最後に掃除をしたのは3日前だが、この短期間で5年間掃除してないのと同じくらいの汚部屋になるとは……もはや才能の類だ。

 口元を押さえて、僕は姿の見えない姉さんに呼びかける。

「おい、朝だぞ! 起きろー!」

「ん、んぅ〜………」

 服の山の麓から、微かに唸り声らしき声が聞こえた。

「そんなところで寝てて、よく生きてるよな……」

 姉さんの生命力はゴキブリ並みかそれ以上らしい。実の弟でも、ちょっと引く。

 僕は一度部屋の外に出て、大きく深呼吸した。あんなところでまともに呼吸できるのは、部屋の主たる姉さんだけだ。

 深呼吸を終え、再び部屋に突入すると、声がした辺りの服を掘り返した。

 しわくちゃになった制服を剥いだところで、ようやく姉さんのものらしき髪が出てきた。

 本当に、どうやって呼吸してるのやら。

 僕はそこからさらに穴を広げ、未だ夢の中を旅している姉さんを引っ張り上げた。

「おーい、起きろー」

 引っ張り出した姉さんの頬をペチペチ叩くと、眉間にシワがよる。

「あと5分だけ……」

「その5分で満足して起きれた覚えがあるか?」

「……ない………」

「じゃあ今すぐ起きろよ」

 がしかし、ここで姉さんは電池が切れたように反応しなくなった。

 これがもしギャグアニメならば、僕の額に青筋が浮かんでいたことだろう。

 危うく、平手チョップを繰り出すところだった右腕を抑えていると、背後から小姫の声がした。

「みつ兄ちゃん。電話」

「わかった。今行く」

 もうダメだ、諦めよう……ていうか、起きない方が圧倒的に悪いじゃん。

 僕は、せめてもの情けとして目覚ましを今日一日、5分おきになるようセットして部屋を出た。

 電話は、兄さんからだった。

「もしもし、三峰?」

 兄さんの声はどこか慌てているようで、僕が「どうした?」と訊ねると、受話器の向こうから深刻そうな雰囲気が流れてきた。

「それが、卵切らしちゃって……お金は後で出すから、買ってきてくれないかな?」

「えぇぇぇぇ〜……」

 何でよりにもよって、天気の悪い今日なのだろう。

 僕の心底嫌そうな声に、兄さんは泣きそうな声で懇願した。

「頼むよぅ……」

 今朝に続き2度までも彼のドジに振り回されるとは、やはり寝坊したのがいけなかったのか?

 今にも雨が降り出しそうな空を一瞥し、僕は固定電話のダイヤルに向き直った。

 さて、面倒なことになったぞ……この季節の外出は死ぬほど面倒だが、卵を買わなければお小遣いの出元であるカフェの売り上げにも、影響が出てしまう。

 するとそこで、自身の思考が半分くらい姉さんに似てることに気がつきハッとした。

 いやダメだ。面倒でも行かなければならない。あのダメ姉のようになっては、世を渡り歩くことは愚か、この家族をまとめることはできん。それにお小遣いも欲しい。

 僕は一つため息をつくと、受話器に向かって言葉を吐き出した。

「わかった。それで、何個買えば良いの?」





 目的地であるスーパーは、家の近くに伸びた旧商店街というアーケード街にある。新商店街なる通りもすぐ隣にあるが、新と書いてあるぶん、あちらは人も多い。

 僕はリビングに朝食と書き置きを残し、小姫を連れてそこへ向かった。

 裏地がモコモコしたパーカーに厚いコートと、しっかり着込んでいるがまだ寒い。

 首をすぼめてカタカタ震えている僕とは対照的に、前を歩く小姫は楽しそうだ。

 子供は風の子って本当らしい。

 そんなことをしみじみ思っていると、右腕に柔らかく温かいものが触れた。

「えへへ……みつ兄ちゃんあったかい」

 驚いて右下を向くと、小姫が腕にくっついているではないか。

「こら小姫、歩きにくいだろ」

 軽く窘めるが、小姫は聞く耳を持たない。

 ……まぁ、可愛いからいいが。

 僕はあとどれくらい、この無邪気な小姫を見られるのだろう……と頭の片隅に思い、また首をすぼめた。

 いかん……心の奥底に封じているシスコンが、うっかり出てしまうところだった。

 くっついて離れない小姫をそのままにして、歩みを進めた。

 目的地に着く頃には、寒さもだいぶ和らいだ。

 スーパー特有のいろんな食材を混ぜたような生臭さが、氷のように冷たい鼻先をやんわりと刺激する。

 蛍光灯に照らされた卵のパックたちをカゴに入れると、寒さで感覚の鈍った手に、その重さが伝わってきた。

 まるで重さだけが腕にまとわりつくような感覚に、改めて冬の訪れを感じる。

「……ゆう兄ちゃんは何個必要って言ったの?」

 ふと、小姫が訊ねた。

「1パックで良いとさ。今日はもう早めに閉めるらしい」

「ふぅん……」

 小姫の妙に含みを帯びた「ふぅん」に、足が止まる。

 なんだ……なんだ今の「ふぅん」は……。

 誤魔化しとも上の空とも違う。確実に裏があることを、あえてこちらに匂わせている「ふぅん」だ。

 妹の考えていることなど、今まで分かったことがない。何度か理解しようと試み(じっと見つめ)たが、そのたびに「じろじろ見ないでお兄ちゃん! 気持ち悪いよぅ……」とか言われて、呆気なく撃沈したのだ。

 過去の苦い記憶に顔をしかめていると、思案するように小姫がこちらを見上げた。

「でも念のために、もう2パックくらい買ったほうがいいと思うよ? ほら、ゆう兄ちゃんってどん臭いし」

 確かにそうだ。あの人のことだし、貰った直後に全部落として粉々にしかねない。

 そして妹よ。ゆう兄ちゃんが聞いたら、たぶん泣くぞ、それ……。

 だがしかし、兄さんが異常にどん臭いのも事実だ。ここは一つ、小姫の助言を受け入れるとしよう。

 と、僕たちはレジに向かい無事に卵を購入したのだが……。

「なぁ小姫……本当にさっきの助言は兄さんを思ってのことだったのか?」

 僕の問いに、"魔法少女☆プリキュート キャンペーングッズ"のステッキを嬉しそうに抱えた小姫は、勢いよく頷く。

「当たり前だよ!ぜんぶ八栄家のためを思ってのことなんだよ」

「そ、そうか……」

 しかし僕は、彼女のあまりに幸せそうな顔を見て「お前、絶対そのステッキが欲しかっただけだろう……」と確信した。

 アーケード街に出ると、先程よりも少し寒く感じられた。

 7歳にして兄姉をパシリに使ったりするような、ずる賢く恐ろしい妹だが、これはこれで悪い大人にも引っかかりにくいだろう。……そう安心することにしよう。

 そんな想いを吐き出すように深くついた溜息は、鉛色の空へ溶けていった。



 一度ルーティンがずれると、今までの同じような日々が、まるで違う日を過ごしているかのように感じることがある。

 しかしそれはあくまでも、自分の視点から見た世界であって、何か他人に影響が出るかと言われれば、あまりない。

 出てもせいぜい、この世界のどこかの誰かさんが欠伸をしたくらいの、心底どうでもいいレベルだろう。

 だが、僕の"いつもと違う"は、明らかに自分の世界からはみ出ていた。

 ただの寝坊がこんなことを引き起こしてしまったのか? それとも、ただの偶然か……。

 スーパーから兄の経営してるカフェに到着すると、思わず声を上げてしまいそうな行列が出来ていた。

 普段、カフェが混雑することなんてほとんどなく、多くても30人くらいなのだが、それがどうしたものやら。店の前には、ムカデの如く長い行列ができていた。しかも見た感じ、女性しかいない。

 小姫が呆けた声で言った。

「これどういうこと?」

「さぁ、僕にも分からないな……とりあえず、裏口から入店しよう」

 僕たちはこっそりと通りの裏へ周り、鉢の下の合鍵で鉄臭いドアを開けた。

 ホールに続く廊下の奥からは、食器の擦る音や楽しげな話し声が響いている。

「忙しそうだな……」

「だね」

 厨房の冷蔵庫に買ってきた卵を入れていると、兄さんがフラフラと落ち着かない足取りでやってきた。

「ちょ、大丈夫か!?」

 慌てて駆け寄ると、兄さんは僕にもたれるように倒れてきた。

「助けて三峰ぃ……お兄ちゃんもう働けないよぅ………」

 力なく覆いかぶさってきた巨体に、僕はなすすべなく押しつぶされ地面にへたりこむ。

「お、重い………」

「働いてもらわなきゃ、八栄家は保たないよ!兄姉弟妹の中じゃ、まともに養ってくれそうなのはゆう兄ちゃんだけなんだもん!」

 こんな時でも末妹は頼もしく、誰よりも図太い。そして妹の言葉に、高校生になったらバイト始めようかなとも思った。

「そうだぞ兄さん……あと、早く退いてくれ……あ、やばい折れるっ!」

 兄さんの体重を支えていた腰あたりの骨が、ビキビキと怪しげな音を立て始め、僕はいよいよ焦り出した。

「なんならあれだ! 今日くらい手伝うから!」

 焦った結果、全く思ってもいないことを口走ってしまった。

 しまった! と口を結んだが、時すでに遅し。

 兄さんの目は、まるで捨てられたところを助けられた子犬のように、ウルウルと輝いていた。

「ホント……?」

「………本当だよ」

 不本意だよ。

 けれど言ってしまったからには、やるしかないだろう。

 しかし仮に兄さんが料理、僕がオーダーと料理を運び、小姫はオーダーだけ受けるというふうに分担しても、まだ忙しい。

 店内にいる客だけならまだしも、続々と入店してくる客の相手や会計も含めたら、もう手が回らん。

 僕はそのことを兄さんに話した。

「たしかに……これでもまだ怪しいね」

 すると小姫が「心配ないよ!」と誇らしげに笑みを浮かべた。

「みつ兄ちゃん、ちょっと携帯貸して?」

「あ、うん……」

 僕から携帯を受け取った小姫は、慣れた手つきで電話をかけた。

 しばらくしたあと、相手が出たようで小姫の顔がパッと明るくなる。

「あ、もしもしお姉ちゃん?」

 どうやら、電話の相手は姉さんらしい。

 寝起きで、ご機嫌斜めな姉の様子が脳裏に浮かぶ。きっと、いくら兄たちを操作できる小姫でも、あのダメ人間の権化みたいな姉さんを手中に収めることは難しいだろう。

 ……そう思っていた。

 しばらくして、小姫が電話を切った。

「お姉ちゃん、5分で来るって!」

「えっ!?」と兄さんが素っ頓狂な声を出す。

 僕はしばらく黙ったあと訊ねた。

「………小姫、姉さんになんて言ったんだ?」

「え?お手伝いに来ないと、お姉ちゃんの家での生活態度をママに言いつけるよって、言っただけだよ?」

「なるほど……」

 その手があったか。これなら、毎朝自分で起きてもらえるかもしれないな。

 ひとまず小姫にお礼を言った後、僕はこのことをスマホにメモった。

 有事の際はこれで姉を脅せる……少々悪魔的であるが、これも姉の自立を促すためだ。心を悪魔にでもしない限り、きっと姉さんは永遠に自立しないだろう。

 予備のエプロンを被ると、不思議と力が湧いてくるような感じがした。

「さて!無事に姉さんも来てくれることになったし、早く仕事に取り掛かろう!」

「「おう!!」」

 こうして僕たちは、意気揚々とホールへと向かった。



 いつもは静謐な空気で満たされている店内だが、今日はまるで戦場のようだった。

 どこもかしこも人だらけ。良質な静けさの隠し味として流れているラジオも、今では食器の擦る音と喋り声で完全に塗り潰されてしまっている。

「お待たせしました!ご注文のカルボナーラです!」

 僕は完成した料理を持って、さほど広くないが人でギッチギチの店内を慌ただしく駆け回っていた。

 小姫も、喧騒から必死に注文を聞き分けているようだ。そして「小さいのに頑張るね」と褒められて、少し誇らしげに笑顔を見せていた。

 しかし、こんな状況でもなんとかなっているのは、あのあと本当に5分で来た姉さんのおかげだろう。

 姉さんは異様なまでのレジ打ちスピード(しまいには計算速度がレジを超越した)と、絶対的なバランス感覚で料理を運びまくり、持ち前の愛想の良さで客をバッサバサ捌いている。

 その様子ときたら、今朝の起きるのを渋っていた人間とはまるで別人のようだった。

 兄さんはというと、料理を作ってはたまに落としかけ、作っては火傷をするなどと、まぁ彼らしく頑張っていた。

 それから客が引き始めると、今度は僕も厨房に篭るようになった。

 若干できた空き時間も皿洗いに費やし、感覚のなくなった手で料理を運んだ。

 とうとう客足が途絶えたのは、15時を過ぎた頃だった。

 客がすっかり消えた店内で、思わず僕は倒れ込んだ。

「お、終わったぁぁ………!」

 ため息と区別がつかないくらい力を抜いてそう言うと、それに共鳴するように皆んなも、譫言のように「疲れた〜」や、ため息を漏らした。

「もう、今日は閉店の看板だそう?」

「そ、そうだね……」

 姉の提案に、兄さんは力なくうなずいた。

 小姫は、虚無感が滲み出た顔でお冷の結露を眺めている。

 今日は少し無理をさせてしまった。あとで労ってあげよう。そう言う僕も、今は誰かに労ってもらいたいが……。

「よし、僕たちもお昼ご飯だ」

 しばし時間が経過したあと、兄さんがそう立ち上がった。

「手伝う」

 僕も立ち上がったが、兄さんは

「いいよ。今日は手伝ってくれたんだし、ゆっくりして」

「そうしたいけど……今朝みたいに砂糖と塩を間違えられちゃ困る」

 完全に気が緩みきった今なら、普段の兄よりもはるかにドジなはずだ。ひょっとしたら、店ごと吹き飛ばすかもしれない。

 しかし兄さんは「大丈夫だよ」と疲れ切った笑みで答えた。

 かなり不安だったが、こちらの体も限界なようで、吸い込まれるようにカウンター席に腰を下ろした。

 小姫と姉さんも同様に、ノソノソと席に座った。

 それから何度か、お皿が割れる音がしたけれど、今日くらい何も聞こえないフリをしたっていいだろう。

「お疲れ様、今日はほんとに助かったよ」

 そう言って兄さんが置いたのは、モクモクと湯気が揺蕩うハッシュドビーフだった。

「余り物なんだけどね」

 兄さんは自嘲っぽく言うが、余り物でもありがたい。

 何も言わずにスプーンを掴み、茶色と白の境目をすくい取る。

「いただき、ます……」

 ただ空腹のみ込められた言葉を呟いて、スプーンを口に運んだ。

 濃厚な旨味が痛いくらい、疲れた体に染みる。

「はぁぁ〜………」

 横の姉さんと小姫が、疲れをギュッと凝縮したようなため息を漏らした。

「はひぃ〜……」

 兄さんに至っては、もはや、ため息になっていない。

 ひとまず落ち着いたという安心感があるものの、今日はこれ以上動きたくない。

「バイト雇おうかな……」

 兄さんがポツリと呟いた。

「うん、絶対そうしたほうがいい。というか、言わなくてもそうさせる」

 姉さんは決意のこもった声でそう言い、残りのハッシュドビーフをかきこんだ。

 姉さんの言うことにはもっともである。僕も首を力強く縦に振って同感の意を示した。

「それにしても、どうして今日はこんなに混んでたの?」

 ふと思い出したように顔を上げた小姫が尋ねた。

「言われてみればたしかに……」と僕は唸った。

 客を捌くことに必死になり過ぎて、肝心な原因については全く考えていなかった。

「あぁ….それならたぶん、雑誌載ったからじゃないかな?」

「「雑誌!?」」

 僕と姉さんと小姫が、一斉に声を上げた。

 突然の初耳情報に、危うくお冷やを倒しかける。

「え……言ってなかったっけ?」

 キョトンとした兄さんに、「言ってないわ!」と姉さんが呆れて返す。

「あーあ……もしゆう兄ちゃんが早めにそれを言ってたら、何か対策を打てたかもしれないのに………」

 小姫はそう言い切ると、盛大にため息をついた。

「あーあ……なぁんだ、僕たち大損してるじゃないか」

 それらに便乗して、僕も眉間にシワを寄せる。

 すると、

「ご、ごめんってば!! 次はちゃんと報告するから!」

「長男の上に成人でしょ? ホウレンソウくらいしっかりしてよ」

 姉さんの言い分に、兄さんは「はて?」と言った具合に首を傾げた。

「報告・連絡・相談のこと! "いい加減しっかりしてよね"!」

「ご、ごめんなさい………」

 兄さんは、姉さんの容赦ない言葉の猛撃になす術なく縮こまった。

 それを言うなら、あんたも自分で起きろよ、と言いたかったが……ここはじっと堪えよう。

 そんな僕の心中を察したかのように、小姫がつぶやいた。

「それを言うなら、お姉ちゃんも自分で起きようね?」

 ……ナイスだ小姫!

 僕は心の中でそっと親指を立てた。それに反応するように、小姫はニコッとこちらに笑顔を見せた。

 割と大きめのブーメランを受けた姉さんは、シュンとした様子でお冷やをちびちび舐めていた。



 その後、仕事を終えた後の達成感と食後の心地よい倦怠感によって、僕たちは店内でしばらくだらけていた。

 時刻は午後4時を回ろうとしている。

 兄さんの入れてくれたコーヒーの香りが、微睡から僕を引っ張り上げた。

「あ、起きちゃった?」

 周りを見ると、小姫と姉さんは気持ちよさそうに目を閉じて寝息を立てている。

「今日は無理させちゃってごめんね」

 兄さんはそう言うと、コーヒーの入ったマグカップを出した。

「いいや、店が繁盛することはいいことだし。別に迷惑じゃないよ」

「そっか」

 兄さんはホッとしたように笑みを見せ、自分で入れたコーヒーを啜った。

「にしても、疲れたなぁ〜……」

「だねぇ……」

 僕も、今日を反芻するようにコーヒーを飲む。

「そういえば、雑誌ってどんなの?」

 今日の事件の元となったとは言え、やはり気になる。

「それなら……」

 兄さんが雑誌置き場から取り出したのは、"日本カフェ街道"という題の物だった。

「へぇー……これか」

 表紙には、日本全国を回って撮ったらしいカフェの内装が、コラージュのように載っている。本屋でもちょくちょく見たことがあったし、何より今日の売り上げから見れば、かなり人気なのだろう。

「どれどれうちのカフェは………これ、か……ん!?」

 そこに載っていたのは、ややダサいポーズを決めた優真だった。

 いや、店主の写真があるのは普通だ。しかし、おかしいのはその枚数である。もはや90%彼の写真と言っていい。

 カフェよりも、店主が目立ち過ぎている……。

 僕は思わず目を覆った。

 雑誌の知名度うんぬんというより、これは兄さんを目当てに来たのがほとんどだったのでは?

 道理で、女性しかいなかったわけだ。

 呆然としながらも雑誌を片付けに席を立つと、兄さんの上擦った声が聞こえた。

「わぁ……見て見て! 雪だよ!」

 雑誌を置いたついでに窓の外を見ると、白い綿菓子のような雪が、チラホラと降り始めていた。

「おぉ、ほんとだ」

 幸いにも降り始めなので、今すぐ帰れば問題ないだろう。

「積もらないうちに早く帰ろう」

 僕がそう言うと、兄さんはうん!と頷いた。

 僕が姉さんたちを起こしている間に、兄さんは食器を片付けたり、シャッターを閉めたりと店内を忙しなくうろついた。

 また今回も、今朝と同様に姉さんの寝起きはすこぶる悪かった。

 掃除などがあらかた終わる頃、針はすでに午後5時を指そうとしていた。

 外も薄暗さを増してきている。

「よし、無事に傘も見つけたし! 今日はもう帰ろう」

 昼食で元気を取り戻した兄さんは、先ほど見つけた不思議なほどでかい傘を掲げる。

 小姫は「はーい!」と手を挙げているが、姉さんはまだ眠そうだ。

「ああ」と僕も返事をした。

 しんしんと雪が降り注ぐ暗闇を、兄姉弟妹ぼくたちは身を寄せ合って帰った。

「ちょ、みつ!もう少し寄りなさい。肩濡れてるわよ?」

「別に僕はいいよ。それより小姫をもっと真ん中にだな……」

「ゆう兄ちゃん、もっと歩くスピード緩めて?」

「ご、ごめん!」

 一つの傘の下には、四人が鱒寿司みたいにくっついている。

 なんか色々あって大変な今日だったけど、こうやって家族の温もりを感じられるなら悪くない。

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