影と光
僕がこの世界に来てしまってからもうすぐ二週間が経とうとしていた。それはあの本の男の人が大きな選択をした日が近づいているということだ。僕は怖さと同時にこの世界から消えてしまうかもしれないという寂しさを感じていた。その日が来るまでに現代に戻れるのならばありがたいかもしれないが、本を読んでしまった以上それだけは避けたいとも思ってしまう。
この日僕は今までの様々な謎に近づいて、夢の旅の終わりのカウントダウンを歩き始めてしまった。
僕は昨日の話を聞いたからなのかいつもよりも早く目が覚めてしまった。朝日を見ようと窓を少し開けると早い朝にもかかわらず、たくさんの人が動き出していて変わらない朝に大きく伸びをした。
向かいの屋根から真っ白な猫がこちらを見ていた。ぼくは小さな声で「おはよう」と言った。当然帰ってこないはずの言葉を待っていると
「おはよう」と声が聞こえてあたりを見ると小さな笑い声が聞こえてきて横の窓に目をやると、照れながら華さんがこちらを見ていた。
「おはようございます。起きてたんですか」
「うん。なんだか早く目が覚めちゃって」
「ぼくもです」
「猫ちゃんとの朝の会話聞いちゃってごめんね」とからかうように言ってきた。
「今日はたまたまです」
僕は数秒前までの自分を責めた。
「そっか」
「はい……」
彼女は朝日のその向こうを見ているような気がして僕も見つめた。
「どこの世界に来ても朝日は綺麗ですね」
「私……颯太くんの世界に行ってみたいな……」
「え?」
「あ、いやー。私が見てきた世界を今颯太くんは見ていて、私も颯太くんが見てきた世界見てみたいなって……。変だよね、ごめんね。忘れて」
「……きっと驚いて立ち尽くしちゃいますよ」
「そんなに絶景なの?」
「……まぁ、ある意味」と言って笑うと華さんも笑った。そして伸びをすると華さんはまたあとでねと言って部屋に戻ってしまった。僕は一人でもう一度外の景色を眺める。外は少しずつ明るくなってきていて一日の始まりを告げているそんな様に見えた。僕は窓を閉めて本を開く。だけど何一つ書き足されていなかった。
お店の開店準備をしていると鳴るはずのないドアのベルが鳴った。僕は水を止めて入り口の方を見た。そこには見た事のある人が立っていた。その人は黒服を身にまとった男の人と店に入って来て、華さんの方に向かった。
「宗一郎さん。まだお店は空いてないんです」
「すまない。今日はこの前会った男の子に用があったんで開店前に立ち寄ったというわけなんだ」
僕は厨房からホールに向かおうとしたが、その途中で友子さんに止められた。
「ここで待ってな。あんたがいく必要はないよ」
「でも……」
僕が言葉をつづける前に友子さんが厨房から出ていった。僕は宗一郎さんにバレないように厨房からのぞいた。宗一郎さんは入り口付近にいたためしっかり会話が聞こえるわけではないが何となくは聞こえた。
「今日は休みの日なんでね。何か言伝なら私が預かるよ」
「友子さん、そんな。あなたの手を煩わすわけにはいきませんよ。それに今日お休みなのでしたらまたの機会に窺わさせていただきます」
そう言うと華さんに耳打ちして出て行ってしまった。僕はそれを見て厨房から顔を出す。
「あの、僕は会っても構わないんですが、何か事情があるんですか?」
友子さんと華さんはお互い見つめあって少しの間がありそのあと
「颯太くんにも関係のある話になると思うから今夜私の口から話すわね」
そう言うと華さんはさっきまでの作業に取りかかり、友子さんも厨房に戻っていった。僕はもう見えないはずの 出ていった宗一郎さんの姿を追う。宗一郎さんはこのお店に何度も来ているようで、華さんの言っていた常連と言うのは嘘ではないらしい。僕はこれから夜まで朝の出来事を引きずりながら仕事をすることになりそうで、大きな深呼吸をしてフッと一息吐いて厨房に戻った。
それからはいつも通りの喫茶店の姿だった。開店してから二時間後に新聞をもってコーヒーだけを頼む牛乳屋の吉英さん。その三十分後にスーツを着崩しながら入ってくるいいところの会社の社員の栄一さんと万夫さん。いつものランチメニューを頼んで二人の趣味の話で終わらない討論を始める。その一時間後ひっそりと身なりは高級感があるのに気取った感じがなく渋さが溢れる銀蔵さん。いつもの席に座って煙管を銜えて窓の外を眺めている。
僕が何度も通ってくれるこの人たちと話したのは働き出して六日後のことだった。その日は華さんが買い出しに出かけて僕が吉英さんを店でお迎えしてから、ほかの人達も何のためらいもなく話しかけてくれた。
「いらっしゃいませ」
「ありゃ、今日はお前さんが前に駆り出されてるってわけかい」
「すみません。華さんは買い出しに出ているので、帰ってきてから温かいコーヒーをいただいてください」
「お。一本取られたね。じゃあおとなしく待つことにするよ」
「いらっしゃいませ」
「今日もいつものやつ頼むよ……ってこれは申し訳ない。えっと……」
「ランチメニュー二つで片方にブラックをお付けして、もう一つはミルク入りでよろしかったでしょうか」
「あれ、よく知ってるね。それじゃ頼むよ、君名前は?」
「颯太です」
「そうか、じゃあこれから頼むね」
「はい」
「いらっしゃいませ」
「これはまた、若い男が出迎えてくれるなんてね」
「はい、銀蔵さんのお出迎えは僕がしますが、華さんの出迎えの方をお願いします」
「ほほ。これはまたよくできた子だ」
あの日は僕の中で最も充実した日だった。華さんが帰って来ていつもの会話を一通りした後みんなお馴染みの動作をすると思いきや
「華ちゃんは良い若者を見つけてきたもんだ」
「え?」
「颯太くんだろ。彼は素敵な男だよ、わしには敵わんがね」
「よしさんどうして彼の名前」
「聞こえたもんでね」
「彼僕らのことよく見ていたんだね。華ちゃんを見ているようだったよ」
「えいちゃんにみつさんまで」
「出迎えはわしのお役目だとさ。ほっほっほ」
「ぎんさんまで」
僕の方を見る華さんに軽く会釈をすると華さんは満開の笑顔を見せて
「私の教え方が良いからかな? 自慢できちゃうわ」
そう言うとみんな驚いた顔を見せてから一斉に笑い出した。その光景を見て僕も笑ってしまった。その空間が何より楽しくて時間が過ぎてしまうのをどれだけ防ごうと考えた事か。だけど時間は無情にもいつも通り過ぎていき、テーブルの上にあったコーヒーやランチの皿は空になり、空は青色から赤色になる頃だった。寂しさを感じていると
「おーい、わかもん」と声がして慌てて厨房から顔を出す。
「はい!」
「……またあした」と言って片手を軽く顔の横まで上げる。
僕にはそれが先の見えない状況に立っている不安や恐怖を払いのけてくれたそんな気持ちだった。
「はい、待ってます」
「いい笑顔持ってるじゃねえか」と言ってお店を出ていった。
あの日からいつも来てくれるお客さんと華さんほどではないが軽い挨拶や会話をするようにはなった。今日もいつも通り華さんとみんなが話して各々の時間を過ごしていく。朝の出来事がまるで嘘のように変わらない流れだった。だけどみんなが帰る時間になった頃僕は銀蔵さんに手でこっちにこいと言われた。友子さんに話すといいよと言われ銀蔵さんの座る席まで行った。座れ座れと促され座ったと同時ぐらいに
「朝何があったんだ」
「え?」
さすがとしか思えなかった。だけど素直に言うのは違うと思い
「朝少し明日の休みの話で……」と何となくそれ以上は聞けないような答えを出した。
「そうか。まあよくわからんがな、一時の感情に流されるなよ。感情は簡単に変えていけるが心は簡単には変わらないもんだ。焦るんじゃない」
「あ、はい……」
後半から何に対して言っているのかわからないが頷いた。
「華ちゃんはここの光だ。その光につられて出てくるものもいる。光は包まれれば一瞬で見えなくなってしまう。光を包むのは影だ」
「影ですか」
「そうだ、影は本来光があるところで初めて認識できるものだ。それを理解しているうちはいい、だが影が光と対等であろうと思ってしまうといとも簡単に光を飲み込んでしまう。そうなればそこ一帯が影の世界になる。影の世界になればそこから光を見つけるのは困難だ」
「……えっと」
正直もう何を言っているのかはわからなかった。だけど、華さんを包み込んでしまおうとしている何かがあるということを伝えたいのだけは分かった。
「今は分からんものだ。だがこの意味が分かった時お前は光を影から守るんだ。それは自分の意志で」
「自分の意志で守る……」
言葉にしてみるがやっぱり何一つピンとこない。僕は銀蔵さんに頑張りますと言った。銀蔵さんは忘れるなよと言って席を立ちあがり会計をしてお店を出ていった。
僕が銀蔵さんの言葉を理解する日は来るのだろうか。今の僕にはその先はまだ見えなかった。
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