第3話
暗闇のせいで見えないのか、白光に眩んでいるのか。
浮かんでいるにしては安定しており、立っているにしては足底の感触が鈍い。揺れているような、静止しているような。上下、左右、前後の方向感覚もつかめないこの場所は、『場所』であるのかすらも判断できない。
「え……なにこれ、どういうこと?」
「誰かいるのか?」
独り言のつもりで放った言葉に、返事があったからだ。
「お……おう、いるいる、めっちゃいるから!つか、お前誰?」
どこからともなく聞こえる声に、篤志は必死に縋るように言葉を返した。返しながら、何か触れるものはないか、感じるものはないかと体を動かそうとした。
「私は……、アンリ」
「あ、あんり?」
「ああ。アンリ・ヴェレーヌと申す」
「なんだ、哀れなキラキラネームの主かと思いきや外国人っスか」
「外国人? そなたはガルシアナ王国の者ではないのか」
「が、がるしあなって……そんな国あったかな、聞いたことねーけど」
「かのガルシアナ王国を知らんとは。それではお主は、遥か異邦から参られたのだな」
「いや、俺そんなに遠いとこに行った覚えはないんですけど……」
そう答えながらも、気はそぞろだった。
覚えがないのはその国のことだけではなく、実は自分の最後の行動すらまだよく思い出せていなかった篤志は、とりあえず自分の今の状況をちゃんと把握したかった。
このまま自分はどうなってしまうのか、漠然と押し迫る恐れと焦りを払ってしまいたかったのだ。
「お主、名は?」
「あっ、俺ね。俺は
「……」
「……」
「うむ……」
とっさに出た軽口はアンリにはあまり受けが良くなかったが、そのお陰か頭が冷えたようで、篤史は少し落ち着きを取り戻した。
「あ……、えー、えーと」
「?」
「あ、アンリさん、日本語お上手ですね」
「ニホンゴ? それは何だ」
「何だ、って……今お宅がしゃべってる言語ですけど」
「私の言葉はラノーマ語だ」
「らのーま? 何それ?」
「えっ」
「えっ」
二人の間に、しばしの沈黙が横たわる。
「……んじゃ、何で俺ら通じ合ってるの……?」
「分からぬ。私はてっきり、タチバナアツシが同じ言葉を話していると思っていたのだが」
「アツシだけでいいっスよ。タチバナは苗字だから」
「そうなのか、分かった」
「とにかく俺は日本語で話して……つか、俺ら話してる?」
「うん?」
「話すとか以前に、口とか舌の感覚が、なんていうか」
「……言われてみれば、そうだな。声は聞こえているが、聞こえる、という感覚もまた違う」
「ねっ、そうっスよね!?」
それではどうやってお互いが意志疎通しているのか。
視覚が遮られたこの状況、言葉以外で通じ合う手段があるとすれば、それはテレパシーの類しかない。そんな魔法のような能力など持ち合わせていないことは各々承知の上だが、それ以外は何も思い浮かばなかった。
「アツシ、お主はどうしてこんな所に?」
「や、それが全然分かんなくて。何か心当たりあります?」
「ああ……。まあ、ない事もない」
「えっ」
言ってから、アンリはそんな返答をしたことに後悔した。
アンリは篤史との会話中、ここに来る直前の行動を思い出していた。
恐らくそれがきっかけとなったのだと思い至ってはいたが、初対面で何の事情も知らず、しかも理解など到底できそうにない相手に心の黒い
しかし。
「えー……っと、それは、心当たり『ある』ってことです、よね?」
そんなアンリの心情など知る由もなく、続きを促すように篤史が問い掛ける。
「いや、その……そこまではっきり自信があるわけでもないのだが」
「まあまあ、とりあえず言ってみてくださいよ。もしかしたらそれがここから出るヒントになるかもしれないし」
アンリは少し迷ったが、言いかけておいてそれを引っ込めるのは男らしくないし、篤史の言うことも尤もだと思い、腹を決めた。
「私は、死ぬつもりだったのだ」
一拍の呼吸ののち、ぽつりと呟くアンリ。
本当はそこから話す必要はなかったのかもしれないが、アンリは、そういう目的があったことが今の状況を引き起こしているのではないか、と漠然と考えていた。
一方、突然の重い告白を受けた篤史は言葉を失い、相槌も打てずに押し黙った。しかし『死ぬつもりだった』という境遇には覚えがあったためか、心の奥がずきりとした。
「私は自分に絶望していた。18年間、いったい何をやってきたのだろうと」
「18年…18!?えっ何お前今18歳!?」
「そうだ」
「なーんだ。俺、おじいちゃんかと思ってちょっぴり敬語使ってたわ。言葉づかいとかもろサムライなんだもん」
「サムライ?」
「あー、なんて言うんだろ……外国なら、騎士みたいな存在かな」
「騎士……。……そうか」
「……」
「……」
「……? ご、ごめん。なんか気に障った?」
「いや、いい。実際、私は従騎士だったから」
「今でも騎士っているんだ? すげー、若いのに偉いな!」
「偉くなどない!」
突然のアンリの激昂に、篤史は驚き黙り込んだ。
「私は、偉くなどない」
「あ、あの……ごめん、俺」
「愚かだった、それ故全て放り出して死のうとしたのだ。しかし、叶ったのかどうか、分からない」
「え、分からないって……なんで?」
「見張りの塔で普段飲み付けない酒を飲み、幾ばくか残った生への執着、死への恐怖を拭った。窓に体を乗り出し、そのまま飛び降りるつもりが、その、厩が目に入ってな」
「うまや? あー、馬がいる小屋みたいなやつか」
「これで最後、冥土の土産にと、領内を馬で駆けて景色を目に焼き付けようとしたのだが」
「うん、うん」
言い淀むアンリ。
篤史は少し焦れたが、また怒られるのも嫌だと思い、黙って言葉を待った。
「落ちたのだ」
「落ちた? 何が?」
「私が、馬から」
「えっ、マジで」
「急に前足を跳ね上げてな。乗馬を拒否された」
「あー……」
「慌てて首にしがみつこうとしたのだが、振り落とされて」
「……」
「気付いたら、ここにいた」
再び沈黙が流れる。
この時篤史は、アンリに心地よい安心感というか、親近感のようなものを覚えていた。
生まれも育ちも違う、姿すらも見えていない。
たった数分の間言葉をかわしただけだ。
だけど、最後の瞬間だけは自分のそれと似通っていて。
「思い出したわ、俺」
「うん?」
「俺もさ、アンリと同じだよ」
「同じ、と言うと……」
「死のうとしてたんだ。俺みたいな空っぽ人間、生きてても迷惑掛けるだけだって思って」
「そう、だったのか」
「飛び降りがいいかなーと思って、で、なんとなく練習のつもりで花壇からジャンプしたのね」
「ああ……」
「じゃあ次はもうちょっと高いところから、って、ベンチに登って今度はちょっとカッコつけ気味に飛ぼうとしたんだ」
「ふむ」
「でも、酔ってたせいで足がうまく動かなくて。もつれてそのままうわぁーって落ちて」
「おお。それで?」
「それだけ。その後どうなったか、俺にも分かんない!」
篤史は生まれて初めてのてへぺろをやってみたが、何しろ全身の感覚が定かではない。ちゃんとできているのかどうか判断できないし、そもそも相手に見えているかも分からなかった。
しかし、アンリはくっくっ、と笑いをこらえるような声を上げたのだ。
「あれっ、俺の渾身のてへぺろ見えた?」
「はっ? ……いや、すまん。テフェペローが何かは分からぬが、お主からは何か楽しげな雰囲気が伝わってな。思わず笑ってしまった」
「なーんだ、アンリからは俺が見えてるのかと思った」
「何も見えてはいない。だが」
「?」
「お主がそこにいるのは分かる」
「……」
ただの何気ない会話のひとことに、篤史は、自分の存在を認められた、と感じた。こんな風に誰かと真っ直ぐ向き合ったのは、本当に、本当に久しぶりの事だったのだ。
アンリの方も、篤史が暗く沈みかけた空気を好転させようとしてくれた事に気付いていた。人の好意に素直に笑うことができ、アンリも久しぶりに心が穏やかに凪いでいくのを感じられた。
「我々は、どこか似ているな」
「そーだな。なんか、自分の事あんまり好きじゃないとことか」
「ああ。近くにいれば、もしかすれば良き友になれたのやもしれぬ」
「いやー、それは無理でしょ。だって俺もう28歳だし」
「28!?」
「えへへ、もっと若いと思った?」
「い、いや……これは、大変失礼仕った。てっきり同じ歳か、それより下だろうと」
「ああ、もういいってタメ口で。ところで今の、誉めてんの? 貶してんの?」
「え、ええっと……天真爛漫で結構だが、よくその歳まで無事に生きてこられたなと感心した」
「苦しいフォローをありがとう! つか無事ってなんだよ、無事って」
ひとしきり笑って、一息ついて、そして改めて思い返す。
「でもなー」
「どうした?」
「死んでるのと変わらない生き方だったなって、今となっては思うよ」
「……後悔、しているのか」
「後悔って、死のうとしたこと?」
「生を実感するような生き方が出来なかったことを、だ」
篤史は答えられなかった。
確かに、後悔している。
だが、元の生活に戻ってやり直そうとも思わない。
こんなよく分からない状況になってしまっても、篤史は自分の欲する道が分からず、情けなく思った。
「私は、己の人生を後悔している」
「……」
「先人の教えなど欠片も理解していなかった。本当に浅はかで矮小な生き様だった」
「そっ、か」
「だからと言って、やり直したいとは思わない」
アンリも迷っていた。
この場には、恐らくだがいつまでもはいられない。
もし戻ったとして、自分はどうやって進むべき道を拓けばいいのか。
二人は終わらせようとしていたのだ。その為の覚悟も決めたはずだった。しかしこうして出会ったことで、その覚悟が揺らいでしまった。
死を決めた時のすさんだ心は、ここでの少しばかりの交流で安寧を得ており、すっかり静まり返ってしまったのだ。
もうあそこへは戻りたくない。
二人のそんな思いが重なった、その瞬間。
何かもやもやした陽炎のような、水面のようなものが見えた。それが何かは分からないし、見えている、というよりも感じた、といった方が正しいかもしれない。
少しずつ広がり、色味を帯び、形を成していく。
気付けば、感覚的にはすぐ足もとにまで広々と侵食してきており、二人は高所にいる時のような不安感を覚えた。
「なあ……アンリ、見えてる?」
「ああ。何だろう、あれは」
「分かんない。でもさ、なんか」
篤志はそれ以上話を続けられなかった。
急激に、その”何か”が自分たちの体を包み込むように伸び上がって――否、自分がそちらに引っ張られていったのだ。
「あ、あれっ!?」
「アツシ!」
「ちょっ、なんか体が持ってかれて……! うわぁっ!」
「大丈夫か! こちらに手を……くっ」
「アンリ!」
”何か”に取り込まれるその刹那、篤史はアンリの、アンリには篤史の姿が見えた気がした。
アンリが篤史に手を伸ばしていて、篤史も同じようにアンリに掌を向けていて。
その事に不思議な安堵をおぼえた直後、二人の意識は強制的に遮断された。
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