赤銅色の月

 能見はお酒を持ったまま、しばらく固まっていた左手をぎこちなく口元へ運び、最後の一口を一気に飲み干した。そして、空になった紙パックをおもむろに潰し始めた。その仕草は必要以上に丁寧で、まるで繊細な折り紙でも折るかのようであり、かつ、無性に込み上げる苛立ちをなんとか抑えようと、強引に無心になろうとしているかのようにも見えた。


 しかし急に気が変わったのか、無造作に紙パックを鞄にしまい込むと、立ち上がって一階の玄関に降りていった。真っ暗な玄関を人感センサーの薄明かりが細々と照らしたが、その青白い微かな光は、かえって暗闇を際立たせているようでもあった。


 能見はサンダルを引っかけ外へ出た。外の気温は室内とそれほど変わらなかったが、狭く建て込んだ家々間を吹き抜ける冷たい風が、素足の裾や首元から入り込み、俄かに体温を奪っていった。彼は上着のジッパーを顎まで引き上げ、寒さに震えながらポケットから煙草を取り出して火をつけた。


 煙がゆっくりと立ち昇ると、その先にはぽっかりと丸い、赤銅色の月が浮かんでいた。


「今日は皆既月食か」


 その時ふと、彼の脳裏には昔の思い出が浮かんだ。それは、ある女性と一夜を共にした記憶だった。まだ能見が社会人になりたての若い頃のことだった。


 *


 密かに思いを寄せていた女性と初めてデートをした。それまでも彼女とは何度も友人仲間とみんなで遊びに出かけたことはあったが、二人で会うのは初めてだった。能見は、誘いを快諾してくれた彼女との関係に一歩踏み出す覚悟を決めていた。いや、そうしなければならない、と考えていた。そして自己暗示でもかけるかのように、自分にこう言い聞かせた。


「彼女も同じ気持ちでいるに違いない」


 最初はぎこちない雰囲気もあったが、流行りの映画を観て、小洒落たお店でお酒を呑みながら食事をし、会話も弾み、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。


 夜も更け、一つの境い目のような時間帯を迎えた。しかしお互いにもどかしさを残したまま、別れの挨拶をした。


 結局最後まで、友達以上の関係にはなれなかった。


 もし能見が一言でも、彼女に誘いの言葉を投げかけていたら、彼女ももしかしたら首を縦に振る心構えだったのかもしれない。


 しかし、それは実現しなかった。──言えなかった言葉。


 能見はそういう時の、自分の心を隠し通す、やけに徹底した強情さを、自分自身でも感じとっていた。そんな自分に辟易しながらも、駅前で去っていく彼女の後ろ姿をただ見送るだけだった。


 後悔と未練と情け無い思い、そして無力感。


 しかし同時に、奇妙なことだが、どこかホッとした気持ちでもあった。


「自分は本当に何かを成し遂げなければならなかったのか。ただ『何かをしなければならない』という義務感に囚われていただけではなかったのか。本当に彼女を愛しているのだろうか」


 能見は複雑な思いが入り混じったまま立ち尽くしていた。そして、肩を落としつつも、それを振り切るように彼女とは反対の方向に振り向いた時だった。


──そこには一人の見知らぬ女性が立っていた。


 淡いオレンジ色のザラザラしたカーペットのような生地のロングコートに、黄土色のコーデュロイ生地の襟。背丈は比較的高く、それを気にしてか、控えめな踵の低い靴。髪は肩くらいの長さで、襟の色と似たような薄い茶色をしていた。


 その女性はただひたすら能見を一点に見つめながら立っていた。彼女と能見の周りには、そこだけ何か目に見えない力が作用しているかのように、人の流れが迂回して、一つの楕円形の空間を形成していた。


 彼女は全てを見通している──彼の置かれた立場、果たせない想い。それらをすべて受け入れ、包み込み、そして慰める。彼女はそんなそんな存在だと、無言で主張しているかのようだ。能見は無意識にそう思った。


「はい、受け取って!」


 彼女は唐突にそう言って、何かを握りしめた手を差し出していた。そして、開いたその掌にあったのは一枚の500円玉だった。


「これが欲しいんでしょ!受け取りなさいよ!」


 能見にはまったく状況が理解できなかった。ただ言葉を失ったまま立ち尽くしていた。


「…え?」


 やっとふり絞った声はそれだけだった。


「私、酔ってなんかいないわよ!やけになんてなっていないわよ!」


「そ、そうなんですね…わかりました…でもそう言われると逆にそう見えますけど…」


 能見は、自分が発した言葉のあまりの覚束なさに、相当酔いが回っていることを初めて実感した。だからきっと、目の前にいるこの女性も幻覚かもしれない、悪い幻想に取り憑かれているのかもしれない、と彼はなんとか自制を取り戻そうとした。しかし彼女はそんな猶予は与えてくれなかった。


「いいから早く受け取りなさいよ!私だって頑張ってるのよ。いろんなことがあるんだから」


「はい?いや…あの…大丈夫です。そこまでお金に困っているわけではないので…」


 しかし能見は戸惑いながらも、どこかしら彼女に可愛らしさを感じ始めたことに気がついた。


 しばらく無言だった女性は、次の瞬間、急に泣き崩れて能見に倒れ掛かってきた。彼はとっさに彼女を受け止めたが、その吐息から、彼女も相当お酒が入っていることがわかった。


 それから後のことは、能見もあまりはっきりとは覚えていない。


 しかし、気がつけば二人は近くのホテルの一室で夜を共にしていた。お互い多くの言葉は交わさず、ただひたすら無心にお互いを求め合った。


 その断片的な記憶と感覚が、彼の脳裏に──人知れぬ地下水脈のように、意識の奥底に流れていた。


 そして忘れもしない。その夜、空には今日と同じ赤銅色の月が浮かんでいた。


 *

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