第四章

第四章

何日か過ぎた。相変わらず、あかりちゃんと朋美ちゃんは、製鉄所に居座っていたままだったが、ブッチャーは、一寸心配なことがあって、花村家を訪れていた。

「すみません。ちょっと、相談に乗ってほしいことがありまして、どうしても我慢できなくて、相談に来ちゃいました。」

そういうブッチャーに、花村さんは、どうぞ、と言って、部屋の中へ入れた。

「どうしたんですか。急ぎの相談事って。」

とりあえず、花村さんは、ブッチャーにお茶を出した。

「い、いやあ、ちょっと困ったことがありまして。」

「何でしょう。」

ブッチャーは、まだこんなこと言っていいのかなあという顔をしていたが、花村さんにそういわれて、こういうしかないか、と、度胸を据えてこういった。

「いや、あの、あかりちゃんと、友美ちゃんの事なんですがね。」

「どうしたんですか。」

「はい。友美ちゃんが最近、お母さんが恋しいんですかねえ。よく、夜に泣くんですよ。ママ、ママって。あかりちゃんの方は今のところ大丈夫なんですが、彼女もいずれ泣き出すんじゃないかって、心配なんですよ。時折、水穂さんが、起きてきて、慰めてやっているんですけどね。俺、このままでは、水穂さんにも、負担がかかるんじゃないかって、心配でしょうがないんです。どうしてやったらいいんですかね。」

ブッチャーは、やっと胸に詰まっていたものを吐き出して、やっとよかったという顔をした。

「とりあえず、友美ちゃんが、お母ちゃんと言って泣きはらしたら、どうやってやったらいいですかね。俺、小さな子供さんって、扱ったことないから、よくわからないんですよね。」

「確かにそうですね。」

と、花村さんも言った。

「お箏を習いに来た、子どもさんとはわけが違いますからね。私は其れよりも、お母さんが彼女たちを製鉄所に置き去りにしたんではないかと、思うんですよね。そのほうが、より深刻ですよ。」

「そういえばそうだなあ。」

と、ブッチャーも言った。

「確かに、俺たちの下に、何も連絡も入ってきません。其れは事実です。しかしですよ、実の子であれば、どこかに置き去りにするという事は、ないんじゃないでしょうか。だって、そういうことは、出来ないと思うんですが、、、。」

「いや、どうでしょうか。むかしの親御さんだったら、そうかもしれません。昭和の初めのころまでは、子どもがいたら、なんとかして生かそうという姿勢が、文字にしなくても、どこの家でもありました。しかしですね、今の時代は、どうなんでしょうね。ニュースなんかでも報道されているけれど、子どもを殺してしまうという事件はいくらでもあるでしょう。」

花村さんは、耳の痛い話を始めた。

「ああ、そうですね。最近では、本当に残酷な殺し方をする事件も多いですよねえ。でもですね、俺は、あかりちゃんと友美ちゃんのお母さんが、そういうことをするとは思えないんですよ。まあ、確かに、大変なんだろうなという事は分かりましたよ。だけどねエ、子どもから、解放されて自由になりたいなんて、そんなことをするような、身分の女性でしょうか?其れよりも、一生懸命働いて、なんとかしようとしている女性のように見えましたけどね。」

ブッチャーが、そう反対すると、

「そうですね。でも、周りと比べたりして、自分がいかに惨めなのか、知ることができるのもまた、今の時代ですよね。」

と、花村さんは言った。

「そこに耐えていけるか、が、今の時代の一番の課題なのでは?気にしないっていう事は、出来そうでできない事ですから。」

「そうですなあ。でも、俺たちが、お母さんを呼び戻せるには、きっかけがなければできない事も又、事実ですよね。あかりちゃんたちを、お母さんの下へ戻す理由を作らなきゃ。」

ブッチャーは、もう一回、問題点を言った。

「今まで話したことは、俺たちが勝手に類推しているだけの事であって、お母さんが本当にそうなのか、がわかりません。」

「ええ、あかりちゃんたちが寂しがっているというだけでは、確かにお母さんを呼び戻す理由にはなりませんね。それだけでは、お母さんから、余計なことをするなと言って、余計に叱られるかもしれない。もっと決定的な事実、例えば、あかりちゃん達が甚大な迷惑をかけるなどの、大きな出来事があればいいんですけど。そういうことは、まだないですからね。昔とは違いますから、そんなに大きな出来事は、起こるわけじゃないし、なかなかきっかけができにくいのが、今ですよ。」

「そうですねえ、俺たちがここでああだこうだと予測しても、結局事実がつかめなければ、俺たちは何もできないのも事実だよなあ。あーあ、あかりちゃんたちは、本当にかわいそうだなあ。」

ブッチャーは、あーあ、とため息をついた。

「ええ、なにか事件が起きなければ、公的な機関というか、人間は動きませんよ。でも、ある意味、彼女たちは正常なのかもしれませんよ。そうやってお母さんが恋しいって、言えるんですからね。中には、それを表現することさえ、出来ない子供さんだっているんですから。」

花村さんは不意にそういうことを言い出した。

「そうですねえ。結局答えはないのかあ。お母さんが戻ってくるまで、待っててなと、何回も言い聞かせるしかないんですか。」

ブッチャーは、そう答える。

「ええ、周りの人間にできるのはそれだけでしょう。でも、彼女たちの年代で、お母さんがいなくても平気だって言えたら、それこそ大問題です。そうならないっていうのも、大切なことなんじゃないですか。」

「そうだなあ、逆にお母さんがいないほうがいいって言うんじゃ、確かに家庭がちゃんと機能してないっていうか、お母さんが相当問題がある事になるな。お母さんを恋しいって言えるんじゃ、まだ、お母さんらしいことをしっかりやっているという事になるな。」

花村さんに言われて、ブッチャーは、なるほどと思った。

「だから、私はそこを心配しているんですよ。お母さんがいないほうがいいって、彼女たちが学習してしまう前に、お母さんの、山口朱美さんが、かえって来てもらわないと。」

花村さんは、もう一回話を元に戻した。

「そ、そうだよなあ、、、。それを学習してしまう。うん、確かに大問題だ。」

「そうですよ。彼女たちは、まだ学校に行けるような年齢でもありません。その時に、お母さんが悪人だって学習させられるという事は、彼女たちには本来あってはいけないことなんですよ。彼女たちにとって、お母さんは絶対的な存在。本来其れで良いんですから。戦時中であったら、しょうがないのかも知れないですけどね。でも、今はそうじゃないですし、色々道具はあるはずなのに、なぜか、子供さんがおかしく成ってしまう、事件が後を絶ちませんね。」

「やっぱりさすが花村さんだ。俺の知らないことまでちゃんと知っている。」

ブッチャーは思わず感心してしまった。

「それにしても、彼女たち、ちゃんと食べているんでしょうかね。」

花村さんに心配そうに聞かれてブッチャーは、

「あ、あ、ああ、それなら大丈夫です。幸いうちで取っている宅配弁当会社に、子供向きのものがありましたんで。それに、女性の利用者で、料理学校に行っている子が一人いるんですが、彼女が、二人にうまいものを作ってくれています。だから食べ物には、二人とも不自由していません。」

と答えた。

「そうですか、優しいんですね。製鉄所の皆さんは。でも、そういう事ができるって、一寸異常を体験した人でないとできないのも、今の時代ですよね。」

花村さんは、にこやかに言ったが、それは重大な皮肉を含んでいるという事も、ブッチャーにはわかった。確かに、順風満帆な人生を送ってきた人には、あかりちゃんたちを慰めてやれるなんて、出来ないだろうなと思う。


同じころ、由紀子の家にも意外な訪問者がやってきていた。

「由紀子!」

やってきたのは朱美だ。

「今日は、いったいどうしたのよ。」

由紀子は玄関に立っているのは、間違いなく朱美であると確信したが、その顔はたいへん派手に化粧をしていて、派手な赤いワンピースを身に着けていて、以前会いに来た朱美とは、また違うような気がしてしまったのであった。

「いいえ、一寸旅行に行ってきたから、由紀子にも、お土産買ってきたのよ。」

と、朱美は持っていた大きなカバンをたたいた。

「とりあえず上がってよ。ここに居たら、変でしょう。」

由紀子は彼女を、部屋の中へ招き入れ、直ぐにお茶を出した。

「とにかく座って。」

朱美は、そういわれた通りに、テーブルの前に座る。何かお菓子でも出そうかな、と由紀子は思ったが、冷蔵庫を開けてみても、何もないのだった。とりあえず、お茶だけでごめんねと、朱美に断わりを入れておく。

「いいのよ、由紀子。あたし、おもてなしを期待してきたわけじゃないもの。それに由紀子は独り者だし、日ごろから、おもてなしする習慣もないものねエ。まあ、由紀子も彼氏ができたら変わるわよ。それまでの辛抱かなと思っておきなさいよ。」

と、朱美はにこやかに言うのだった。

「其れより朱美ちゃん、どこに旅行に行ってきたのよ。」

と、由紀子が聞くと、朱美はにこやかに笑って、

「ええ、ドバイ。日本は寒いけど、あっちは、真夏みたいで暑いくらいよ。」

と、言った。あれれ、海外へ旅行に行けるほど経済力が朱美にあっただろうか?

「どうやって行ったの?」

「決まってるじゃないの、飛行機よ。羽田からいったのよ。ほら、由紀子、これがドバイのお土産。」

朱美は、そういって、先ほどの紙袋を開けた。中にはアラビア文字でなにか書いてある箱が入っていた。

「はあ、何が入っているのよ。読めないわ。」

「開けてみなさいよ。絶対気に入ると思って買ってきたんだから!」

朱美にせがまれて由紀子は箱を開けた。開けると、一枚のストールのような布がはいっているのがわかった。その柄は、由紀子のすきな花柄ではなく、抽象柄を派手に入れた、ちょっと人前で着用するには、はばかれるような柄の布だった。

「まあ、ずいぶん派手だわ。」

「いいえ、由紀子くらいの年なら、このくらい派手にしてくれたっていいわよ。それに、あっちでは、女性は夫以外に顔を見せてはいけないって掟があるんですって。その代わり、こういう派手なスカーフをつけるのよ。由紀子も、こういうの付けたら、もうちょっと女性らしくなると思ったのよ。」

という朱美は、何だか、責任からやっと解放されたような、そんな顔をしているのだった。

「朱美ちゃん、女性らしくってどういう意味なの?」

由紀子が思わず聞くと、

「その通りじゃないの。女性は女性らしく、男を盗るのが仕事なのよ。でも、女性がそうなれるときって、結婚するまでよね。結婚したら、もう、だめになっちゃう。浦島女っていう言葉もあるじゃない。結婚という玉手箱を開けて、急に老け込む女よ。あたしは、そうはなりたくないし。」

と、朱美は言うのである。

「朱美ちゃん、そういうことは言うけれど、朱美ちゃんには、子供さんがいるのではなかったの?」

と、由紀子は思わず聞いた。

「ああ、あの子たち?」

朱美は急に不機嫌な顔になる。

「どうしたのよ。」

「あの子たちの事は、言わないでよ。もう思い出したくもない。」

と、朱美はそういうことを言い出す。

「ま、まさかと思うけど、施設にでも預けたの?それとも、公的な保育園とかそういうところに?」

「まあ、そんなところかな。それより由紀子。あたし、前の夫からやっと解放されたのよ。ほら見て、結構いい顔してるでしょ。」

由紀子が思わずそう聞くと、朱美は、手帳を開いた。その中に、朱美が写っている一枚の写真がある。その隣には、三十前後の若い男性が写っていた。確かに、今風の、少し生意気そうな顔をしているが、水穂さんのようなきれいな人ではないと、由紀子は思った。

「この人、どこで知り合ったのよ。」

「ええ、あたしがね、店で客引きをしていたときに知り合ったのよ。やっぱり、こういう仕事をしている同士って、気が合うのよね。」

つまり、ホストという事だろうか。

「でも、あたしもこの人と知り合えて、やっと、肩の荷が下りたわ。あの、立派な人の妻っていう肩書がやっと外れたのよ。これで菊代さんも文句言う事もないし、菊代さんから逃げるきっかけもできるし。」

それが、朱美ちゃんの望んでいることだろうか。

「だって、今まで本当に大変だったのよ。他人のために命落とした立派な夫の妻を演じるのは、もう大変。肩が凝って仕方ないわ。こうして、新しい恋人を作ることで、やっとそれから解放されたのよその、付き合い始めて一か月になった記念に、こうして彼とドバイ迄行ってくることができたってわけ。まあ、今回は記念旅行だわ。楽しくて本当に良かったわよ。」

そういう朱美だが、楽しいというのは、観光客であるからできる事であるという事を、由紀子は何となく感じ取った。朱美ちゃんは、そういうことをしているけれども、あの二人の事を、忘れてしまっているのではないか、と、由紀子は思う。

「朱美ちゃん。それができたら、あの二人の事を気にかけてやって。」

由紀子はせめてそれだけでもと思い、朱美にそういったのだが、

「由紀子!」

と、朱美は、そう強く言うのだった。

その顔は、なんだか強いというか、怖いという雰囲気があった。由紀子は、そういう事を言ってはいけないような気がしてしまった。

「まあ、これからも、旅行に行くことはあるでしょうから、その時は、由紀子にお土産買ってきてあげるからね。誰も、想い人のいない、寂しい由紀子に、少し幸せを分けてあげられるようになって、本当に良かったわ!」

そんなことをいう朱美に、由紀子は、どうかあの二人の子供さんたちの事を、気が付いてほしいと願ったが、それを口にする勇気は出なかった。

「じゃあ、あたし、仕事があるんで、ひとまず帰るけど、由紀子も早く恋人、作りなさいよ。やっぱり女は、恋をして、すきなひとを追っかけて生きるべきよね。そのほうが生活にも張りが出るし、毎日がうんと楽しくなるわ!」

そう言って朱美は、由紀子が出したお茶を飲んで、鞄を持ち、よいしょと立ち上がった。

「これは、大切に使ってね。また来るわ。」

そう言って、朱美は一礼して部屋を出て行った。由紀子は、さよならも何も言わずに、ただ朱美が帰っていくのを見つめているだけだった。


ところがその日の夕方の事である。

由紀子のスマートフォンが音を立ててなった。

「はい、もしもし。」

「あ、由紀子さん、ちょっと来てくれますか。」

電話の主は、ブッチャーだった。

「どうしたの?」

「あの、水穂さんがまた、発作を起こして大変なんです。今、花村先生も一緒ですけど、手伝ってもらえないでしょうか!」

由紀子は、わかったわ!とすぐに言って、製鉄所に向かって車を飛ばした。幸い、道路も何も渋滞してはおらず、製鉄所へはすぐに着いた。由紀子は、急いで建物の近くに車を止めて、製鉄所の正門をくぐって、四畳半に飛び込んだ。

「ブッチャーさん、水穂さんは!」

急いでふすまを開けると、水穂さんは、布団の上に座って咳き込んでいた。隣には、花村さんがいて、彼の口元にタオルをあてがい、その背中をそっとさすってやっている。

「あ、由紀子さんすみません。急に呼び出したりして。今さっきまで、あかりちゃんたちと一緒にピアノ弾いたりしていたんですけどね、突然くるしみだして、幸い花村先生が近くで見ていてくれたからよかったようなもので。」

ブッチャーが、薬の入った吸い飲みをもって走ってきた。確かにその通りだったのだろう。ピアノのふたが開いているので。

「大丈夫ですよ。もう吐き出したから、落ち着けば何とかなると思います。」

そう冷静な顔をして、背中をさすってくれている花村さんがありがたかった。確かに花村さんが、持っていたタオルを動かすと、タオルの一部が赤く染まっているのが見えた。でも、着ている着物の上前の襟も、赤く染まっているのも見える。

「水穂さん、薬飲んで休みましょうか。連日連演で大変でしたものね。ほら、どうぞ。」

ブッチャーは、水穂さんの口元に、無理やり吸い飲みを突っ込んで中身を飲ませた。この時ばかりは、中身を飲んでくれたらしい。そうすると、やっと咳は治まり、しずかになって、水穂さんは、布団に倒れるように横になった。

「良かったよかった。幸い、さほど重い発作ではなかったみたいですね。それにしても、花村先生が、落ち着いていてくださって、本当に良かったです。俺一人だったら、どうしようと思いましたよ。ああやっぱり、人間、一人ではだめなんですねえ。」

ブッチャーは大きなため息をついて、頭をかじった。

「いいえ、私も、内心は驚きでしたけど、幼いころの記憶を思い出して対処しました。其れより、汚れたままの着物で寝かせるのもかわいそうですから、新しいのに変えてあげたほうがいいでしょう。」

と、花村さんが言った。確かにそれはそうだと、ブッチャーは、タンスを開けて、一枚の着物を取り出した。この着物は銘仙であるが、花村さんは何も言わないで、ブッチャーと二人で着物を取り換えた。幸い、長襦袢までは汚れていなかった。由紀子はその間に汚れてしまったタオルを、洗濯室へもっていく。

由紀子が、汚れたタオルをもって、四畳半を出て、廊下を歩いていくと、あの、と小さい声で幼い女の子の声が聞こえた。由紀子は思わず足を止める。

「今日はごめんなさい。」

縁側で、あかりちゃんと、友美ちゃんが小さくなって座っていたのだ。

「ごめんさい。おじさんに、ひどいことをして。」

と、小さな声であかりちゃんが言った。という事は、自分たちのせいで、水穂さんが発作を起こしたことは分かってくれているのだろうか。

「あかりちゃんも、友美ちゃんも、こういうことはしょうがないことだから、気にしないでいてね。」

由紀子は、もし、二人の顔を、朱美が見ていたら、どういうことを言うんだろうかと思いながら、二人に優しく言った。いや、言ったつもりだった。

あかりちゃん達は、子どもながらに心配そうな顔で、ふすまを見つめていた。


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