第三章
第三章
「今日はお客さんが来るからな。礼儀を守って、いい子にしているんだぞ。」
と、ブッチャーは、あかりちゃんと、友美ちゃんの頭をなでながら言った。
「お客さんって誰?」
と、あかりちゃんが聞くと、
「偉いお箏の演奏家の、花村義久先生だよ。」
と、ブッチャーは答えた。
「だから、先生が見えている間は、良い子で静かにしてようね。」
「はあい!」
二人の女の子たちは、そういうことを言っているが、多分そうはならないなあというのが小さな子供である。
まあ、それも小さな子供の事なので、ブッチャーは、許してやろうと考えなおした。子どもというものはそういうモノだ。いくら言い聞かせても、その通りにはならない。
ブッチャーが、お客さんにお茶を用意していると、玄関の戸が、ガラガラと開いた。直ぐ、ブッチャーは、急いで応対に行く。
「こんにちは。」
と、花村さんはにこやかに挨拶する。
「どうもありがとうございます。こうやって、何回も来てくださって。水穂さんも、喜んでくれていると思います。」
ブッチャーが言うと、
「いいえ、お礼をいうのはこっちの方です。外へ出るきっかけを作って下さった方が、私もかえって、リハビリになりますので。」
と、花村も、そういいながら、草履を脱いで、お邪魔します、と言いながら、製鉄所の中に入って行った。
「で、水穂さんの具合はいかがですか?」
廊下を歩きながら、花村はブッチャーに聞く。
「そうですねえ。少しもよくなる気配がありません、日ごろから、ますます弱っていくようです。」
ブッチャーが答えると、そうですか、と花村さんは言った。ちょっとがっかりしたようであったが、直ぐににこやかな顔に戻る技術も心得ていた。
「そうなっても仕方ありませんね。」
花村さんはちょっとため息をついた。
「あら、なんの声でしょうか。」
不意に花村さんが言う。
二人が中庭に行ってみると、あかりちゃんと、友美ちゃんが、縁側でおはじきをして遊んでいた。
「こらこら、水穂さん寝ているだろうが。キャーキャー騒いじゃだめだぞ。それにお客さんだって来たんだから、一寸静かにしろ。」
ブッチャーは、予測通り、子どもの約束はあてにならないなと思いながら、そんなことを言った。
「いいじゃありませんか。子供さんが、元気に遊んでいない国家は、そのうち潰れますよ。」
と、花村さんがにこやかに言った。
「こんにちは。ちょっと水穂さんに用があってきたんですが、もし二人とも、文字が読めれば、これでも読んでくださいませ。」
そう言って花村さんは風呂敷包みを解いて、一枚の新聞を取り出した。
「なあに?」
と、あかりちゃんが聞くと、
「ええ、先日、私のところに、お箏を習いに来たお子さんが、忘れていったものなんですけどね、そこに書いてある、小説が面白くって、子供さんのために定期購読するようになったんですよ。」
と、花村さんは言った。その新聞は、普通の新聞と同じ大きさだったが、文字はすべて平仮名で書いてあり、
「こどものしんぶん、ですか。」
ブッチャーは、その見出しを読んでみる。
「ええ、ここに書かれている小説が面白いんです。子供だけではなく大人も楽しめて、やっぱり小説を書く方は、すごいなあと思って感激して読んでいるんですよ。」
と、花村は、そのページを開いた。
「えーとここですね。漢字は一切使ってませんから、小さな方でも読めるんじゃないですか。一話完結ですし、すぐに読めてしまうと思いますよ。」
「ああ、しあわせをはこぶあおいいぬ、あれれ、青い犬が主人公の物語って、テレビアニメになってますよね。」
ブッチャーがそういうと、ちょっとおませなあかりちゃんが、
「うん、青い犬のお話は、名犬ゴローだよ。」
といった。
「ああ、アニメを見たことがあるんですか?」
花村さんが聞くと、
「うん、あるよ、あたしも、よくテレビで見てた。」
と、あかりちゃんが言った。つまり、名犬ゴローの原作が幸せを運ぶ青い犬だったのか。
「そうですね、藍染の甕に落ちて、青い毛になってしまったゴローちゃんが、動物虐待をする悪い人をやっつける話ですね。」
花村がそういうと、
「そうそう。でも、ゴローは、アニメでは、ペンキがかかって、青い毛になったんだよ。」
と、妹の友美ちゃんが、そういうことを言った。なるほど、アニメでは、そういう風に設定を変えてしまったのか。現代の子供にわかるように、設定を変えてしまったんだろう。
「そうですか。そうなると、原作では昭和のはじめという設定でしたが、それも変えてあるのかも知れませんね。なんだか、矢鱈に映像化してしまうと、原作ならではの良さが、なくなってしまうような気がしてしまうんですよね。」
「そうですねえ。俺もそう思いますよ。映像とか漫画では、答えが一つだけでしょ。原作小説というのは、文字だけだから、答えが人によって違う。其れでいいんですよね。」
ブッチャーも、花村さんに言った。あかりちゃんと朋美ちゃんは、花村から渡された子供の新聞を、代わり番子に読んでいる。
その間に、花村さんは、四畳半のふすまを開けた。
「今日は、具合、いかがですか。」
水穂さんは、うっすらと目を開ける。ゆっくりと花村さんの方を向いた。
「ええ、変わりありません。」
水穂さんが、静かにそういうと、花村は、
「それでは、一寸遺憾ですね。もうちょっと、意欲的になってもらわないと。」
と、にこやかに言った。
「おじさん。新聞有難うございました。」
あかりちゃんが、新聞をもってやってきた。
「はい、面白かったですか。」
花村が聞くと、
「なんか、名犬ゴローが、悲しすぎる話だったのは知らなかった。テレビでの名犬ゴローは、ずっこけているけど、大活躍するはずだったのに。」
と、あかりちゃんは答えた。
「ええ、そうでしょうね。原作は一貫して、動物虐待の恐ろしさも伝えていますが、アニメはそれを排除したただのギャグアニメですものね。まあ、それが視聴率獲得のための、テレビの作戦でしょうけど、肝心なところまで消さないでほしいものですよね。」
「何ですか、名犬ゴローって。」
水穂が、そう聞くとブッチャーが、今大流行しているテレビアニメで、青い毛の犬が、悪い人間を成敗する、面白いアニメだと説明した。キャラクター商品の売り上げも好調で、様々なものが売り出されている、という事も説明した。
「そうですか。そんなアニメが流行っているんですか。」
「ええ、でも、原作を読むと、なんだかゴローが人間に利用されたりして、かえって悲しい思いをしてしまう事も多いんですよ。ただの勧善懲悪アニメではなく、原作小説は、動物虐待の悲しさを訴える、れっきとした文學だったんですね。」
「でも、おじさん。あたし、テレビより、この新聞に書いてある方が、面白かったよ。」
不意にあかりちゃんがそういうことを言った。ブッチャーは、え、どういうことだと身構える。
「そんな、考慮する必要なんかありませんよ。テレビのほうが面白いと言ってくれた方が、子どもらしくて、安心します。」
花村さんが優しくそういうと、あかりちゃんは、首を横に振った。
「でも、ゴローが、一生懸命訴えても、飼い主さん何も通じないところが、面白かったよ。」
と、あかりちゃんは言うのである。
「それ、どういう事かな?」
水穂さんがそう聞くと、
「だって、あたしたちもそうだもん。うちのママに、食べたいものを言っても、食べさせてもらったことがない。」
と、あかりちゃんは答えた。その言いかたが、いかにも意味の深そうな発言だったので、ブッチャーも、水穂も、花村も、顔の表情を変える。
「あかりちゃん、それ、もうちょっと詳しくいってみてくれるかな。なんで、ママに食べたいものを言っても食べさせてもらえないのかな?」
水穂がそう聞くと、あかりちゃんは、
「うん、お昼に何を食べたいかと聞かれて、オムライスと答えても、いつも白いご飯なんだもの。」
と答えた。
「その白いご飯を食べたとき、ママは、今日はごめんねとか、そういうことを言うの?」
「言わない。」
今度は友美ちゃんが答えた。
「じゃあ、パパは?」
水穂が聞くと、
「パパは居ないの。誰かにあげちゃったんです。」
と、無邪気に言う友美ちゃん。
「はあ、なるほど、、、。」
「つまり、お母さん一人で育てているという事ですか。」
水穂も、花村もそういうことを言った。
「あかりちゃんも友美ちゃんも、毎回ご飯をそうやって変更するの?それに、酷く怖い顔をして、怒ったりする?」
水穂が改めてそういうと、
「ううん、何もしない。ただご飯だけ出してくれるだけ。」
と、あかりちゃんは答える。
「じゃあ、あかりちゃんたちに新しい服を買ったり、新しい本とかおもちゃとか、そういうことをしてくれたことはあるんですか?」
と、花村が聞くと、友美ちゃんがはっきりと
「ない!」
と答えた。
「と、いう事はつまりですよ。あかりちゃんたちは、いわゆるネグレクトというものに当たるかも知れませんね。状況証拠がそろえば、刑事事件として立件される可能性もあります。あかりちゃんたちには、まだそういう力もないですけれども、こういう時は、周りの人間が何とかしてやらなくちゃいけない。」
と、花村さんがそう言うと、ほかの人たちもその通りしなきゃいけないと気が付いた。
「もしかしたらですよ。あかりちゃんたちを置いて、お母さんは帰ってこないつもりなんじゃないかな。」
ブッチャーも、そういうことを言った。実はブッチャー、あかりちゃんたちをここに預けたのは、そういう事だったんじゃないかと心配していたのである。
「ええ、でも、立件することは、あかりちゃんの前ではしないほうがいいでしょう。二人にとって、唯一のお母さんが、悪人になってしまう様を見せてしまったら、その時の心の傷は相当なものになるかもしれない。まず、彼女たちに、大人は悪いものではないという、そういう姿を見せておくことが一番でしょう。そのほうが、彼女たちの、成長の妨げにもならないと思うから。」
花村さんが静かな声で、そういうことをいう。あかりちゃんたちは、この言葉を理解しているかどうか、不詳であるが、相変わらず楽しそうに、新聞を読んでいた。
「とりあえず、このお話は、終わりにしておいた方が、いいですね。」
と、ブッチャーも言った。
「ねえ、おじさん。」
と、あかりちゃんが、ふいにそんなことを言いだした。
「おじさんの後ろにある、黒い大きなトドみたいなものはなに?」
子どもというものは急に発想を変えてしまうものである。そういう所には、困ってしまうのであるが、それが子供ならではの、魅力なのでもある。
「あかりちゃんは、ピアノ、」
ブッチャーがそう言いかけたが、花村さんがそれを止めた。そういうことを言って、あかりちゃんが劣等感を持ってしまったら、いけないという。
「ええ、これはね。おじさんが、仕事として使っている、ピアノという楽器なんですよ。」
水穂が静かに答えると、
「どんな音がするのか、聞いてみてもいい?」
と、あかりちゃんが言った。水穂さんも、それを見て、何か感じ取ってくれたようで、ヨイショと何とかして布団のうえに起き上がり、よろよろと立ち上がった。ブッチャーが、水穂さん大丈夫ですか、といいながら、その手を支える。
「簡単なノクターン程度であれば、弾いてあげられるよ。」
水穂は、ピアノの椅子に座って、ショパンのノクターンを弾いた。あかりちゃんは、嬉しそうな顔をして、それを聞いている。
「つまんない。」
友美ちゃんは、ノリのいい曲のほうが好きだったのだろうか。あかりちゃんは、真剣に聞いているが、友美ちゃんは、一寸、つまらなそうな様子だ。
「なんでつまらないんですか?」
と、花村さんが聞くと、
「ゆっくり過ぎる。」
と、言う友美ちゃん。花村さんは、じゃあ、こっちにおいで、と言って、友美ちゃんを縁側に連れて行った。縁側には、お箏が一面たてかけられて置いてあった。製鉄所を利用している男性が、趣味的に習っていたものである。彼の居室がものだらけで、置くところがないので、ここに置いてあるのだ。丁度、庭掃除をしていた彼に、ちょっとお箏を貸してくれと花村さんは頼んだ。このとき、なんで何も断らずにというか、何も障害もなく、お箏を借りることができたのか、が不思議だったが、とにかくお箏を貸してもらう事は出来た。手早く琴柱を動かして、花村さんは箏を調弦した。
「じゃあ、おじさんがもっとノリのいい音楽を聞かせてあげます。曲のタイトルは、花という曲です。」
そう言って花村さんは、しずかにその曲を弾き始めた。正確に言うと、宮下秀冽という人が作曲した短い箏曲である。初めは、ゆったりした重々しいメロディであるが、続いてさくらさくらを変形させたようなメロディとなり、そのあとは、大変華やかな曲に変わっていく。
「おじさんすごいすごい。もう一回やってよ。」
幼い友美ちゃんは、花村さんに何回もせがんだ。花村さんがちょっと疲れた顔をするまで、花の演奏は続けられた。
「おじさん、どうもありがとう。本当に楽しかった!」
無邪気な顔をしてそういうことをいう友美ちゃんは、やっぱり子供らしいなと花村さんも思うのだった。
ふすまの向こうでは、あかりちゃんが、水穂さんの弾いているノクターンを真剣にというか、気持ちよさそうに聞いていた。もし、彼女が大人の言葉を知っていたら、こういう時は癒されたというに違いない。友美ちゃんの方は、音楽を聴いて元気になったという印象があるが、あかりちゃんは、音楽を聴いて癒してもらっている、という意味が強かった。
「二人とも、いい音楽を聞かせてもらってよかったなあ。俺も何かしてやりたかったけど、なにもできなかったよ。」
と、ブッチャーが、ちょっと羨ましそうに言った。
「いいんですよ。ブッチャーさんは、ブッチャーさんに出来る事をやればそれでいいんです。」
水穂さんが、再び布団のうえに座ってそういうことを言った。なんだかピアノを弾いて、水穂さんも、元気になってくれたのかなあと、一寸ほっとしたブッチャーだった。
「おじさん、あしたも、ピアノを聞かせてくれる?」
と、あかりちゃんが水穂さんに言った。それを聞いてブッチャーは、水穂さんの体調が心配になったが、水穂さんは明るい声で、
「ええ、わかったよ。次は、もうちょっと明るい曲にするね。」
というので、あまり体調面では心配ないのかな、とブッチャーは、考え直した。
「まさかと思うけど、あのノクターン遺作は弾かないでくださいね。俺、あの曲だけはどうも苦手で。」
ブッチャーは、冗談を言った。というか、その曲はブッチャーも大の苦手だったのである。
「わかりました。確かに子供さん向きでないですからね。」
にこやかに言う、水穂さん。少し顔色もよくなってくれたかなとブッチャーは思った。
その翌日も花村さんがやってきて、また利用者の箏を借りて、宮下秀冽の花を、友美ちゃんに弾いて聞かせる。水穂さんは、四畳半で、ピアノを弾いて聞かせるのだった。聞かせる曲は、ショパンのノクターンとか、フォーレのノクターンのような癒し系の曲。それを、あかりちゃんは、うっとりした顔で聞いている。
「あかりちゃんは、そんなにピアノを聞きたがるなら、自分で習ってみればいいじゃない。最近では、安い電子ピアノだって、インターネットを使えば買えるでしょう。お母さんに、ピアノを習いたいと言ってみれば?」
水穂は思わずそういうことを言った。すると、あかりちゃんは、悲しそうな顔をして、
「ううん、だって、オムライスさえまともに食べたことがないのに、ほしいものを買ってくれるとは、思わない。」
という。
「でも、お母さんも、あかりちゃんが何かしたいと言い出すのを待っているのかもしれないよ。」
と、水穂はそう言ってみるが、あかりちゃんは、
「ううん、ママは、そういうことは出来ないと思う。だって、ずうっと、仕事ばっかりしているもん。」
と、言うのだった。其れはもしかして、仕事ばっかりしているのではないのではないかと、水穂は、一寸疑いの目で、あかりちゃんを見た。
「ほんとは、あかりちゃんのママは、仕事で遅いのではないのかもしれないよ。」
と、あかりちゃんにそういってみるが、
「ううん、ママは仕事が忙しいの。だって、あかりたちにご飯を食べさせる前に、いつも仕事の支度支度で、てんてこまいだもん。」
とあかりちゃんは答えた。どうやら、仕事で遅いのだと信じ切っているようだ。
「あかりちゃん、ママは仕事に行く前にいつもどんなことやっているの?あかりちゃんがわかる範囲でいいよ。おしえてくれないかな?」
と、水穂はちょっと聞いてみた。あかりちゃんは、にこやかに笑って、
「いつも、念入りにお顔を、パフでパンパンとたたいて、赤い口紅をつけて、派手なワンピースに着替えてる。」
と、答えた。
「そう、、それがお仕事なの?何時から何時まで仕事しているの?」
と、水穂が聞くと、
「うん、午後に出かけて、帰って来る時は、もうとっくに、テレビアニメの名犬ゴローは終わっているよ。」
と、あかりちゃんは答えた。テレビアニメの名犬ゴローは、花村の話によると、放送時間は夜の七時だ。普通の家庭なら、そのくらいの時間、母親はそばにいていいはずだ。父親であれば、遅くまで働くという事はあり得るかもしれないが、母親がそのくらいの時間まで働くという家庭は、なかなか珍しい。
「つまり、あかりちゃんのママは遅くまで仕事をしているんだね。」
「そう。朝起きると、出来合いのハンバーグとかが、テーブルに乗ってて、ママは寝ている。」
あかりちゃんの生活ぶりが、何だかわかったような気がした。水穂はそれを聞くと、一回ため息をついて、またピアノを弾き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます